世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃった」
超大作RPGに没頭し、ファンタジーの世界へ飛び立っていた僕の脳みそが、ようやく現実へ帰還する。
顔を上げると、いつもより少し疲れた表情の璃奈が檻の中へ入ってきていた。
「おかえりー」
データをセーブし、メインメニューまで戻してから声を掛ける。
璃奈は僕の座るソファへ歩み寄り、そのまま空いたスペースに腰を下ろすと、流れるような動作で僕の膝に頭を預けてきた。
「どうしたの? 今日は随分と甘えん坊じゃない」
「ちょっと、ね……」
そう言って、璃奈はゴロンと寝返りを打つ。
艶やかな黒髪がシャンプーのCMのようにサラリと波打った。
その髪を指で梳きながら、僕は彼女の様子を確認する。
どうやら、昼間の僕の奇行には気づいていないらしい。
考え込んでいる気配もあるし、もしかすると監視カメラを確認する暇もないほど忙しかったのかもしれない。
だとしたら、僕としては僥倖だ。
奇行を誤魔化すための言い訳を百通り用意していたが、理路整然とした璃奈を納得させられるような代物は一つもなかったのだから。
内心で胸を撫で下ろしつつ、僕は声を掛けた。
「疲れてるみたいだね。何かあったの?」
「うん……」
おや、これは珍しい。
基本的に弱みを見せない璃奈らしくない。
まあ、僕が相手だから気を抜いているだけかもしれないけれど。
「帰る途中、なんだか胡散臭い人に話しかけられたの」
「胡散臭い人……?」
誰だろう。
きっと僕の正反対みたいな奴に違いない。
「ナンパとかされたの?」
「ナンパじゃなくて、エクソシストの関係者だったの。“教会”……って言っても優斗君は知らないよね。えっと、エクソシストがたくさん所属している大きな組織があってね、そこの名前が“教会”っていうんだけど、そこから派遣されてきたんだって」
「……男?」
「うん。男の人だったけど」
途端に、胸の奥で嫌な予感が膨れ上がる。
脳裏にいくつもの候補が浮かび――そして一つに収束した。
“教会”所属のエクソシストで、男。
この時期に接触してくる奴。
……………………アイツかぁ。
「え、えっと……どんな人だった?」
「外国の人だったよ。金髪碧眼で、綺麗な顔をしていたかな」
「へ、へぇ……」
「優斗君、どうしたの? 顔が引き攣ってるよ?」
「いや、実は――ッ!」
僕は慌てて説明しようとして――口がまったく動かないことに気づいた。
アイツのことを事細かに璃奈へ説明したいのに、何故か言葉が出てこない。
脳裏に浮かぶ言葉は片っ端から消えていき、喉は開かず、口だけが餌を求める金魚のようにパクパクと動く。
首を傾げた瞬間、ようやく思い出した。
あのクソ悪魔と強引に結ばされた“契約”のことを。
『僕、如月メフィラはこの心臓を今日から1年後まで決して傷つけることはしない。その代わり、地藤優斗は如月メフィラと契約前に話した内容と、それに紐づく秘密を如月メフィラ以外に伝えてはならない。どんな媒体であってもね』
最近忘れかけていたが、あの悪魔は僕に“原作知識の開示”を封じていた。
自分だけが知識を独占するために。
クソ……! 本当にアイツは余計なことしかしないな……!
「優斗君」
「な、なに?」
悶々とした思いを抱えていた僕に、璃奈がそっとすり寄ってくる。
紫の中に黄金の残滓が揺れる瞳。
猫のように大きな目を細め、璃奈は小首を傾げながら悪戯っぽく微笑んだ。
「嫉妬してるの?」
――嫉妬して欲しい、と言っているように聞こえた。
なるほど、璃奈は僕の反応を見てそう勘違いしたのか。
いや、あながち間違いでもない。
原作でも奴は相当な美形設定だったし、そんな男が自分の彼女に近づいていたら嫌な気持ちになるのは当然だ。
……あっ、考えただけでイライラしてきた。
僕は素直に頷いた。
「もちろん、嫉妬してるよ」
「……フフッ」
璃奈は美しく微笑んだ。
きっと、楽しくて仕方がないのだろう。
父を亡くしてからというもの、愛情のない環境で育ってきた人だから。
「心配しなくても大丈夫だよ。私には、優斗君しかいないから」
璃奈はそっと右手で僕の頬に触れた。
その指に嵌められた銀色のカップルリングが、光を反射してキラリと輝いた。
「あの胡散臭い人――アーデルハイトさんっていうんだけど、彼とは仕事の話をしていただけだから、安心して」
「仕事の話? それってエクソシストとしての話ってことだよね? どんな話をしていたの……?」
チャンスだ。僕は何も知らない体を装って尋ねた。
璃奈はどこか嬉しそうに微笑む。
恐らく、嫉妬している僕が金髪碧眼の美少年について根掘り葉掘り聞いていると思っているのだろう。
なんだか騙しているようで申し訳ないが……今はこの状況にあやかるしかない。
璃奈は心なしか楽しげに口を開いた。
「えっとね、一緒に戦って欲しいって言われたの。どうもこの間の血の大公の降臨が原因で空間に歪みが生じているらしくて、そこを利用して悪魔たちが上級悪魔を召喚するための“門”を創り出しているんだって。だから、皆で協力してその“門”を破壊しようっていう話」
「……」
やっぱりか。僕は思わず苦い顔をしてしまう。
この“門”は、原作中盤最大のビッグイベントだ。
何としても阻止しなければならない。
「それで、璃奈はそれに参加するの……?」
「うん。面倒だけど、放置するわけにもいかないからね」
原作通りの流れだ。
エクソシストとしての正義感を持つ璃奈が、この話を断るはずがない。
おそらく霧島先輩にも話が行っている。
そして最後には十六夜蓮にも声が掛かる。
……唯ちゃんは特大のイレギュラーなので、そもそも“教会”側がその存在を認知できているかも怪しいのでスルーするとして、とにかく僕の友人たちにはほぼほぼ声が掛けられているとみて間違いないだろう。
このままだと始まってしまう。
原作中盤最大のビッグイベントが。
絶対に阻止しなければならない、最悪の祭りが。
「ねぇ、璃奈」
「なに?」
「その戦い、僕も一緒に行きたい」
僕は璃奈の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
彼女の紫の瞳がわずかに見開かれる。
「璃奈を一人でそんな危険な戦いに行かせるなんて、僕には出来ないよ」
「優斗君……」
「その金髪イケメン野郎と一緒っていうのも気になるしね」
さり気なく嫉妬を織り交ぜながら訴える。
璃奈はクスリと笑った。
「そんなに心配しなくても、私は絶対に浮気なんてしないよ?」
「もちろん浮気の心配はしてないさ。だけど、向こう側が襲い掛かってくる可能性はあるでしょ?」
「心配しなくても大丈夫。私、結構強いんだよ? 返り討ちで殺しておくね。優斗君が心配しなくて済むように、丁寧に」
怖っ。
「そ、それは心強いけれど、やっぱり僕は璃奈が心配だよ。その“門”の話も何だかきな臭いし、アイツには近づかないで欲しいな」
「アイツ?」
「
「……あぁ」
納得したように頷く璃奈。
だが、すぐに不思議そうな表情を浮かべ、小首を傾げた。
「でも優斗君、会ったことないんだよね? 私の話を聞いただけなのに、そんなにアーデルハイトさんのことが苦手なの?」
「うん。苦手だね」
「顔も知らないのに?」
「知らないけど、璃奈に近づく男は須らく嫌いだよ」
――ただし、十六夜蓮を除く。
璃奈は少し引いたような、それでいて嬉しそうな顔をしている。
これは、もう少し押せばいけるかもしれない。
紫の瞳を見つめながら、真摯に伝える。
「璃奈にはこの黒い檻の加護はないんでしょう? だったら、不死身の僕が隣で璃奈のことを守るよ。僕たちは二人で一つ、でしょ?」
「優斗君……」
璃奈はじっと僕を見つめ、何かを考えている。
どれほど見つめ合っていただろうか。
不意に、璃奈は小さく溜息をついた。
「嬉しいよ、優斗君。そんなに私のことを思ってくれるなんて。確かにアーデルハイトは少し怪しいし、優斗君の力が必要かもしれない」
「うん。絶対に役に立てるよ」
「でも、ごめんね。やっぱり、一緒に行くことは出来ない」
璃奈は柔らかい口調で、しかし断固とした瞳でそう言った。
僕は知っている。
こうなった時の彼女はとても頑固で――梃子でも動かないことを。
「な、なんで……?」
「優斗君の力を“教会”のエクソシストの前で使わせるわけにはいかないからだよ」
「……あっ」
「“悪魔の屁理屈”に加えて“原種の吸血鬼”の力なんて……目撃されただけでも一大事になるよ」
「うっ……」
そういえば、そうだった。
しばらく戦っていなかったので忘れていたが、僕の能力はどちらもエクソシストにとって特大の地雷である。
見つかれば即座に滅殺されるか、最悪、拘束されて永遠に人体実験コース確定だ。
「だからね、優斗君を“教会”と合同の戦いに連れていくわけにはいかないの。それから――」
「り、璃奈……?」
ずいっと璃奈が距離を詰めてくる。
彼女は僕の頬に手を当て――そして、凍てつくような氷の眼差しで告げた。
「――なんで“ユリウス”って名前を知ってるの?」
「えっ?」
言われてようやく気がついた。
慌てるあまり、自分がとんでもないミスをしていたことに。
璃奈は一貫してユリウスのことを“アーデルハイト”と呼んでいた。
決してファーストネームを口にしようとはしていなかった。
それは璃奈なりの距離感であり、配慮であり、線引きだったのだろう。
だが、僕は――口にしてしまった。
檻の中にいたら絶対に知り得ないはずの“ユリウス”という名前を。
「え、えっと、これは……」
慌てて言い訳を探すが、璃奈はソファの上で膝立ちになると、ドンと僕の肩を押し倒した。
今の僕は霊力も魔力も使えない、ただの貧弱な一般人。
一方の璃奈は、感情が高まるだけで霊力が溢れ出す超人だ。
力の差は歴然で、僕はあっさりとソファに仰向けにされてしまった。
「……前から、不思議ではあったの」
起き上がろうとする僕を押しとどめるように、璃奈が上にのしかかり、肩に両手を置く。
サラリと艶やかな黒髪が肩から滑り落ち、僕の顔にかかる。
場違いだけど――いい匂いがした。
「優斗君、色んなことを知っているよね? ただの一般人だったら知らないはずのことを、いっぱい知っている」
「……物知りなクソ悪魔と知り合いなせいかな」
「そのクソ悪魔とはどこで出会ったの? どうして契約するに至ったの? どうして、知らないはずのことを知っているの? どうして――」
璃奈の顔が、泣きそうにくしゃりと歪んだ。
「どうして……世界よりも大切なのに、私と別れようと思ったの……?」
「それは……」
「優斗君には、秘密がある。たくさんの、秘密がある。私に教えてくれていない秘密がある」
フッと、璃奈の口元が寂しそうに歪む。
「知りたい……っていうのは、贅沢なお願いかな?」
「そんなことはないよ。僕だって、全部璃奈に教えたい。だけど――」
「……言えないんだよね。分かってる。でも、気になるの。気になって、気が狂いそうになるの」
ギリッと歯を食いしばりながら、璃奈は僕を睨みつける。
いや、正確には――僕の口を縛っている、あの悪魔を。
「――やっぱりアイツ、要らないね。この檻の力も破れないようなら力の幅もたかが知れているし、優斗君を守ることなんてできないよ。殺そう」
「ッ!」
ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。
璃奈の神秘的な紫の瞳の中心で、人ならざる魔性の黄金がギラギラと輝いている。
彼女はなんてことのない口調で、メフィラを殺すと宣言した。
前からそういう傾向はあったが、今回は以前よりも酷い。
利用価値がなくなったから、ゴミのように始末しようというのだ。
鬼のように歪んでいた表情は、今は能面のようにまっさらで、何も浮かんでいない。
それがかえって恐ろしかった。
「り、璃奈……」
「あぁ、ごめんね。怖い顔しちゃってた? 大丈夫だよ。優斗君には怒ってないから」
ニコリと微笑んだ――が、次の瞬間、その表情が一変する。
「あっ、ごめん。やっぱりあった。私、優斗君に怒っていることがあったんだ」
ズイッと璃奈の顔が上から降ってくる。
キスができそうなほどの至近距離。
囁くような声が、耳元で落ちた。
「――優斗君、私から逃げようとしているでしょ?」
ドクン。
今回ばかりは、自分の心臓がここにないことに心底感謝した。
璃奈の聴力なら、動揺の鼓動を確実に拾われていたに違いない。
僕は平静を装いながら答える。
「なんのこと?」
「とぼけちゃダメだよ」
覚えの悪い生徒を優しく諭す教師のような口調。
そして、璃奈は言った。
「優斗君、アーデルハイトを利用して私から逃げようとしているでしょ?」
……また心臓がここにないことに感謝する羽目になった。
璃奈の聴力であれば、僕が心の底から安堵したことを感知していただろうから。
どうやら、まだあのミステリアスな褐色少女のことは知らないらしい。
僕はあえて動揺したような声色で答えた。
「ち、違うよ! 僕はただ、璃奈のことが心配だっただけさ!」
「私のことを心配してくれるのは嬉しいけれど、それだけじゃないでしょう? ――優斗君は、ここが嫌なの?」
「嫌ってわけじゃ……」
「正直に言って。前にも言ったけど、私、優斗君と喧嘩したくないの。きっと、嫌な女になっちゃうから。だから、不満があるなら全部言って欲しいな。私は、優斗君が望む完璧な世界をここに創ってみせるから」
「僕が、望む世界……」
言われて、僕は思わず黙り込んだ。
そんなこと、考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
僕が望む世界――
まずは、璃奈がいる世界だ。
それは間違いない。
それから、ゲームもあると嬉しいんだが――もうここには腐るほどあった。
漫画もある。
大きなテレビも、柔らかいソファもある。
外の危険から守られていて、戦わなくていい。
……正直、僕みたいな臆病者には天国みたいな場所だ。
じゃあ、何が不満なんだ?
何を望むんだ?
僕は――何が欲しい?
胸の奥に、ずっと引っかかっていたものがあった。
この生活が始まってから、ずっと思っていたこと。
それが、ふと口から零れ落ちた。
「……璃奈が、笑っていられる世界」
「えっ?」
自分でも驚くほど静かな声だった。
でも、それが本音だった。
璃奈の唖然とした声が聞こえる。
僕は視線を上げ、彼女の瞳を真正面から見つめた。
「――僕は、璃奈が笑っていられる世界が欲しい」
「……なら、もう叶っているじゃない。私は、笑っている」
「いいや、笑ってないよ」
紫の瞳がわずかに揺れる。
そうだ。
璃奈は笑ってなんかいない。
楽しそうに見えても、幸せそうに微笑んでいても、テレビを見て笑い声を上げていても――あの時の笑顔じゃない。
僕と付き合い始めた頃に見せてくれた、あの無防備で、心からの笑顔じゃない。
「璃奈、不安なんでしょ」
その言葉に、璃奈の肩がピクリと震えた。
「僕がいなくなるんじゃないかって、不安で」
だから檻に閉じ込めた。
「でも、この檻のことを信じ切れないから、一人にするのも不安なんだ」
だから監視カメラをつけた。
「だから、心の底から安心して笑えていないんだ」
「……」
「エクソシストとして“門”を破壊しに行こうとしているのだって、そういうことでしょう?」
璃奈は顔を顰めた。
図星を突かれた時の反応だ。
「……ただの保険だよ」
「違うよ。璃奈は、この檻を信じ切れていないんだ。――この檻を与えた奴のことを、信じ切れていないんだ」
結局のところ、それが真実だ。
天羽璃奈という少女は、根っこの部分ではずっと正義のエクソシストで――悪魔を、信じられるはずがなかったのだ。
それが悪魔王であっても――いや、悪魔王だからこそ、なおさら彼女は警戒心を捨てきれていないかもしれない。
狂うには、理性を手放すには、彼女はあまりにも賢すぎた。
「……」
璃奈は俯き、逃げるように僕の上から退いた。
檻の中を落ち着きなく歩き回り、顎に手を当てて考え込んでいる。
僕はソファの上でゆっくりと上体を起こし、胸の奥に溜まっていた言葉を押し出すように言った。
「璃奈……こんなことをしていても、君の不安は消えないよ。永遠に」
「……」
「今すぐ、契約を結んだ悪魔と手を切るんだ。そうすれば、代償を払うことは――」
「じゃあ、どうすればいいの⁉」
雷のような声が檻の中に響いた。
滅多に上げない大声。
怒りと、恐怖と、焦りが混ざった表情で、璃奈は僕を睨みつける。
「私、分からないよ! どうすればいいのか分からないの! 悪魔がたくさんいて、邪悪な人間がたくさんいて……それからどうやって優斗君を守ればいいのか、分からないの……!」
涙が目尻に溜まり、震える声が胸に刺さる。
「……優斗君はとても強いよ。どんな時でも諦めず、いつだって勝機を手繰り寄せてきた。それは凄いことだけど……いつもいつも、そうなるとは限らないじゃないッ!」
胸が痛んだ。
これは、僕のせいだ。
僕が弱いから、璃奈はこんなにも怯えてしまった。
僕が圧倒的に強ければ――彼女に不安を抱かせないくらいに強ければ、こんなことにはならなかった。
「ここから逃がすことはしないよ。君は、ここで私と一緒に過ごすの。ここで、私と一緒に幸せになるの……!」
その言葉は、優しさの形をした悲鳴だった。
僕は目を閉じ、深く息を吸う。
数日前、豹変した璃奈を前に言えなかった言葉。
でも今なら――言える。
「……それは、ダメだよ」
璃奈は苦しそうに首を傾げる。
「どうして……?」
「それじゃあ、璃奈は幸せになれないから。それから……僕も」
「じゃあ、どうすれば――」
「僕が何とかするよ」
言ってから、自分でも驚いた。
でも、もう引き返せなかった。
ここ数日、僕は何も出来ずに待つだけだった。
不安に震える璃奈を前に、ただ従うしかなかった。
それが悔しくて、情けなくて、ずっと胸が痛かった。
「璃奈が不安に思うもの全部、僕が吹き飛ばしてみせる」
震える声だった。
でも、嘘じゃない。
「悪魔もエクソシストも知ったことか。僕が、何とかするよ」
「優斗君……」
「だから、僕を信じて」
僕は真っすぐに璃奈を見つめ、ゆっくりと右手を差し出した。
そうだ。
決めたじゃないか。
彼女を幸せにすると。
そのためなら、何だってすると誓った。
なら――
僕は必要なら、この世界の誰よりも強くならなければならない。
璃奈が不安を抱かないくらいに、強く。
「……」
璃奈の瞳が揺れる。
不安で、迷っていて、それでも僕を求めている。
その手が、震えながらも確かに僕へ伸びて――
「――よォ、兄ちゃん。ちょっと今、いいかァ?」
急に、耳鳴りがした。
いや、違う。
耳鳴り“だけ”ではなかった。
胸の奥がざわつき、背骨の内側を冷たい指でなぞられたような感覚が走る。
その違和感が何かを告げるより早く――
世界が、止まった。
空気が凍りつくように沈黙し、エアコンの駆動音も、ゲーム機の待機音も、僕自身の呼吸音すら、どこか遠くへ吸い込まれたように消えた。
音がない。
動きがない。
世界が、息を潜めている。
僕に手を伸ばそうとしていた璃奈は、その姿勢のまま――まるで時間から切り離された彫刻のように静止していた。
まばたきもない。
髪の揺れもない。
空気の流れすら、完全に凍りついている。
異常だ。
異常すぎる。
僕の心臓がここにあったら、きっと暴れ狂っていた。
その時――璃奈の足元の影が、ゆらりと揺れた。
風もないのに、影だけが波打つ。
黒い液体が滲み出すように、影が膨らみ、盛り上がり、やがて“何か”が這い出るように立ち上がった。
輪郭が曖昧なまま、黒い塊はゆっくりと形を得ていく。
「……良くないから帰ってくれって言ったら帰ってくれるのか?」
かろうじて声を絞り出すと、黒い影の男は肩を揺らして笑った。
「ザーんねん。生憎と、そういうわけにはいかねんだなァ、これが」
「じゃあ、最初から聞くなよ……」
「悪い、悪い。ま、様式美って奴だ。笑って流せ!」
ケラケラと嗤う声は軽い。
だが、その奥に潜む“底”が見えない。
黒い影の隙間から覗く黄金の瞳が、まるで僕の魂の奥底まで覗き込むように光った。
男はゆっくりと顎を上げ、名乗りを告げる。
「――さて、初めましてだな。ずっとお前に会いたかったぜェ、地藤優斗」
その声音は、世界の中心から響いてくるようだった。
僕は喉を震わせながら、なんとか言葉を返す。
「……初めまして、悪魔王ベルファルド。僕は会いたくなかったよ」
悪魔王は黄金の瞳を細め――
まるで玩具を見つけた子供のように愉快そうに笑った。