世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
悪魔王ベルファルド。
“十六夜のエクソシスト”においてラスボスを務める悪魔たちの王。
凡百の悪魔はもちろん、四騎士たちのさらに上に立つ存在であり、異様なほど軽いフットワークと、先を見通す聡明さ、そして狡猾さを併せ持つ超常の怪物だ。
そして、メフィラと死王女モルヴェリアの父親でもある。
あの強烈な姉妹の父親というだけで十分だが、ベルファルドは“災厄”そのもののような存在だ。一度襲来すれば最後、何が起きたのか理解する暇もなく蹂躙される。
だからこそ、璃奈と契約した存在が悪魔王だと確信した瞬間から、僕はずっと危惧し続けてきた。
心の底から、悪魔王ではないことを祈っていた。
だが、その祈りが無駄だったことは、今、目の前に立つ黒い影が雄弁に物語っている。
「へェ? 俺様のことを知ってんのか?」
軽妙な口調とは裏腹に、尋常ではない存在感を放つ黒い影が、意外そうに呟く。
僕は肩を竦めて答えた。
「メフィラの権能と、原種の吸血鬼の力を完璧に封じられる存在として、真っ先にアンタが浮かんだんだよ」
「なるほどなァ。噂通り、なかなか賢いじゃねェか」
感心したように呟く黒い影。
しかし次の瞬間、その圧が一段階増した。
「――だが、俺様の正体を知りながら、ずいぶん生意気な口を聞くじゃねェか。不敬だぜ」
ここだ。
ここが正念場だ。
僕は腹に力を込め、物理的な圧力すら生じさせている黒い影を真正面から睨み返した。
「……へりくだる奴の方が嫌いなくせに」
「ハッ」
乾いた音が響き、黒い影は身体を揺らして笑い声を上げた。
「ハハハハ! 俺様のことをよく分かってるじゃねェか! いいぜ、気に入った!」
上機嫌に笑う黒い影の塊。
僕は悟られないように、そっと安堵の息を吐いた。
どうやら選択肢を間違えずに済んだらしい。
先ほども言ったように、コイツは僕より遥かに格上の“王”だ。
だが、決してへりくだってはいけない。
そんな態度を取れば、逆に機嫌を損ねるだけだ。
邪悪で、天邪鬼で、気まぐれで、尊大。
ベルファルドの性格を思い出しながら、僕は慎重に口を開いた。
「それで、天下の悪魔王様が僕に何の用だい? 帰ってくれないなら、さっさと要件を話してくれ。僕は忙しいんだ」
「オイオイ、会話ってもんを心得てねェな。そんな急に本題に入るんじゃなくて、まずはアイスブレイクと洒落こもうじゃねェか」
「アイスブレイク……?」
「例えばそうだなァ、いつも世話になってるうちのドラ娘のこととか」
「うげっ」
コイツの“ドラ娘”は二人いるが、どちらのことを言っているのかは明白だ。
僕は全力で嫌な顔をしながら答えた。
「断る」
「まぁ、聞けや」
お前が聞けや。
「父親として、まずは礼を言いてェのさ。あの嵐みてェに気まぐれな娘の注意を一手に引き受けてくれて助かってるぜェ。――いや、ほんと、マジで」
黒い影に覆われて顔は見えないし、声には妙なエコーがかかっているのに、なぜかガチの響きが感じられた。
どうやら悪魔王といえど、あの滅茶苦茶な娘には手を焼いているらしい。
ご愁傷様。
……あっ、僕もか。
「……礼を言うくらいなら、娘を引き取って魔界に帰って欲しいんだけどね」
「はっ、嫌に決まってんだろ」
できない、ではなく“嫌だ”。
父親としての威厳ゼロである。
僕は深い溜息をついた。
「じゃあ、娘を引き取って帰るつもりなんて毛頭ないし、今後も僕に押し付ける気満々だけど、とりあえずお礼だけ言うってこと……?」
「そういうこった。労働には対価が必要だろう? 俺様から礼を受けるなんて、最上級の誉れだぜェ。感涙し、俺様の靴を舐めろ」
「うわー、うれしいー」(棒)
この悪魔が対価を重視するのは知っているが、流石にこれは釣り合っていない。
文句は山ほどあったが、無礼を許すとはいえ、どこに地雷があるのか分からないのがこの男だ。
余計なことを言って怒らせたくなかったので、僕は口を噤んだ。
「実際、お前はよくうちのドラ娘を手懐けてると思うぜェ。アイツがあんなに執着してるところは久々に見たからなァ。その調子で仲良くやってくれや」
「……うい」
「なんなら、結婚してくれや」
「あぁ……嫌っすね」
「そんなこと言うなよォ。アイツにも結構いいところあんだぜ?」
「例えば?」
「そうだなァ……」
悪魔王は顎らしき部分に手を当て、数十秒ほど考え込んだ。
そして――
「……顔?」
親としてアウトな答えを捻り出した。
っていうか、そんなに考えて出てくるのがそれだけかい。
「いや、確かに顔はいいけど……」
「だろ? アイツは俺によく似たからなァ。顔に関しては一級品だぜェ」
「……顔以外にないの?」
「あるわけねェだろうが」
きっぱりと断言された。
いや、他にも(あんな奴だけど)いいところはあると思うんだけどな……。
意外に義理堅いところとか、寛大なところとか。
「そんなわけで、お前には期待してるんだぜ。特別出血サービスで俺様のことをお義父さんと呼んでもいい。パパでも可だ」
「あっ、いや、結構です」
「急に距離を取るじゃねェか」
元から距離は取っている。
悪魔王と仲良くなりたいなんて、露ほども思わない。
「ま、うちの娘のことはまたおいおい話をするとして――」
おいおいでも話す気は欠片もない。
「――今回はお前さんに忠告に来たのさ」
「忠告?」
「余計なことすんじゃねェよ、小僧」
黒い影から発せられる圧力が、さらに二段階増した。
膝が折れそうになるほどの重力。
先ほどまでの気さくな雰囲気は跡形もなく消え、揺れ動く影の合間から覗く黄金の瞳が、冷たく僕を見下ろしている。
「そこのお嬢ちゃんが大事なのは分かるけどよォ、鬱陶しいぜ、お前」
そう言って、悪魔王は静止した時間の中で、僕へ手を伸ばした姿勢のまま固まっている璃奈を見やった。
「せっかくお嬢ちゃんがお前と仲良く過ごしたいって言ってんのに、あれやこれやと理由をつけて拒絶してよォ。お嬢ちゃんが可哀想で仕方がねェよ。だから、お前はもう余計なこと言わないで、大人しくしてな。これから厄介ごとが起きるし、ここに居る間は俺様が守ってやるからよ」
「余計なこと、だって……?」
今の僕には“悪魔の屁理屈”も“原種の吸血鬼”の力もない。
ただの無力な、小賢しい人間の小僧に過ぎない。
以前の僕なら、この圧力に耐えきれず、頭を地面に擦りつけていたに違いない。
重力に逆らうことなく、全てを諦めていたはずだ。
――だけど、今は違う。
そういうわけにはいかないんだ。
僕は腹に力を込め、重力に抗い、真正面から悪魔王を睨みつけた。
「余計なことをしたのはお前の方だろうが……! 璃奈に余計なことを吹き込んで、妙な契約を結ばせやがって! これだから悪魔は嫌いなんだッ!」
重圧がさらに増す。
影の奥で揺らめく黄金の瞳が細められた。
「ほォ? 虫けら風情がこの俺様に楯突くのか?」
ベルファルドに気さくな一面があるとはいえ、本質的には“悪魔たちの王”だ。
人間を下に見ているのは当然で、真正面から反抗されるのは気に障るらしい。
僕は心臓を掴まれたような圧迫感に耐えながら、それでもあえて挑発するように、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、楯突くね。楯突きまくりだ。ムカつくかい?」
「あァ、ムカつくね。捻り潰してやりてェ」
「でも、
ピクリ、と悪魔王の影が揺らいだ。
「……テメェ」
「どうせそんなことだろうと思ったよ。璃奈のことだ。こんな怪しい奴と契約するにあたって、保険を掛けないはずがない。……自分のことはともかく、僕のことに関しては」
璃奈は賢い。
そして、自分以外に優しい。
いや――僕にだけ、優しい。
それは、悪魔と契約するほど追い詰められ、堕ちてしまっても変わらない、彼女の“芯”だ。
だからこそ、僕はこうして悪魔王を挑発しても、何一つ危害を加えられていない。
「ほらほら、格下に煽られてるのに何も出来ないなんて、情けないでちゅね〜? 悪魔王が形無しだよ。あぁ、ダサい、ダサい」
「……それくらいにしておけよ、小僧。あまり俺様を怒らせると――」
「どうなるのさ。さっきも言ったけど、契約に縛られて僕を攻撃できないんだろ?」
「……」
悪魔王は黙り込んだ。
その沈黙が、逆に圧力となって空気を押し潰す。
僕はその隙を逃さず、囁くように告げた。
「そんな悪魔王様に提案があるんだ」
「なんだ?」
「璃奈との契約、
「――――」
悪魔王の影が、ピタリと静止した。
静止した時間の中に、さらに深い沈黙が落ちる。
やがて、黒い影が折れ曲がり、くつくつと笑い声が漏れ始めた。
その笑いは徐々に大きくなり、影の奥で大口を開けているのが分かるほどの豪快さに変わる。
「ハハハハハ! なるほどなァ。無意味に俺様を挑発し続ける理由が分からなかったが……自分をダシにしてお嬢ちゃんとの契約を解除させるのが目的かァ。小賢しいが、悪くねェ手だ。俺様の正体だけじゃなく、性格まで把握してるあたり、普通じゃねェな、小僧。お前、何を隠してる?」
「……」
「沈黙、か。いいぜ、それもまた正解だ。口を開く時は考えないとな」
一頻り笑った後、悪魔王は背筋を正し、先ほどまでの軽さを完全に消した声で、低く告げた。
「提案そのものは面白かったが……残念ながら、お嬢ちゃんとの契約解除はできねェなァ」
「……なぜ?」
「このお嬢ちゃんが必要だからさ」
璃奈が必要――
悪魔王は、迷いなくそう言い切った。
「璃奈が必要って、どうして――」
「それはテメェが知る必要はねェよ。まァ、いずれ分かる話だ。だいたい、俺様とお嬢ちゃんは互いに必要なものがあり、利害の一致を認めて契約を結んだんだぜェ? お前に煽られてムカついたからって、契約解除なんざできるわけねェだろ」
「ッ……!」
悪魔とは欲望のままに動く生き物だ。
だが、ベルファルドは違う。
欲望のままに動きながら、同時に理性と計算を捨てない。
「目論見が外れて残念だったなァ、兄ちゃん」
「あぁ、全くだよ」
「随分と殊勝な態度だなァ……あァ、なるほど。俺様の説得は諦めて、さっきみてェにお嬢ちゃんの方を説得するつもりか。全く、油断も隙もねェ奴だなァ」
「……」
表情には出さなかったが、内心では歯を噛み締めていた。
この男は、こちらの思考を読み切っている。
見下しているくせに、決して油断しない。
狡猾で、冷徹で、底が見えない。
――これが、悪魔の王か。
「しかし、このまま忠告だけで帰っても兄ちゃんはお嬢ちゃんを説得しきるだろうし、俺様としては困ったことになるなァ……こうなりゃ、仕方がねェか」
ベルファルドが右手を持ち上げた。
その動作を、僕は知っている。
何度も見てきた。
嫌な予感が、背骨を氷のように冷やした。
「ちょっと待て! 何をするつもりだッ⁉」
「――仕切り直しだ。まァ、暫く一人で頭を冷やしてな」
「ッ! まさか……!」
「そう心配そうな顔をするなよ。俺様はこう見えても紳士でな。契約者のことは丁寧に扱うんだぜ?」
「ふざけんなッ!」
奴の意図を悟った瞬間、思考より先に身体が動いた。
今の僕には力なんてない。それでも、殴らずにはいられなかった。
静止した世界の中、僕は影のように揺らめく悪魔王の顔面へ拳を叩き込んで――
「威勢のいいこって。若いねェ……」
「ッ!」
右腕が、氷のような力で掴まれた。
逃げられない。動けない。
まるで時間そのものに拘束されたようだった。
「このっ! 離せッ!」
「ハハハハハ、離すわけがねェだろうが。離したら俺様を殴るつもりだろォ? 流石にそれは不敬罪にあたるから、お前さんを殺さなきゃならなくなる。俺様はお前さんを殺したくねェんだ。気に入っちまったからなァ。だから――」
「ぐっ⁉」
「――俺様にお前を殺させるな、地藤優斗」
右腕に掛かる力は、骨が粉々に砕けるほど強烈だった。
身体が勝手に悲鳴を上げる。
悪魔王の力は絶対的だ。
今の僕はただの人間で――象に立ち向かう蟻よりも、さらに無力だった。
「……そうやって粋がってるけど、結局僕のことを殺せやしないんだろ……!」
「こらこら、むやみやたらに俺様を挑発するんじゃ――あァ、そういうことか。自分を傷つけさせることでお嬢ちゃんとの契約違反を狙ってんのか。やれやれ、つくづく油断ならねェ奴だぜ。姑息で、狡猾で、巧妙……昔の俺様みたいだなァ」
「ッ!」
黒い影が、僕の視界いっぱいに迫る。
そして――影の顔にあたる部分が、霧が晴れるように一瞬だけ形を持った。
銀色の髪。
黄金の瞳。
ゾッとするほど整った、美貌の青年。
メフィラによく似た容姿の悪魔王ベルファルドが、不敵な笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。
「――本当はもっとお前さんと話してみたかったが、生憎と俺様も色々と無理を通してここに来ていてなァ。悪いが、もうタイムリミットなんだわ」
妙なエコーが消え、澄んだ美声が檻の中に響く。
その美しさと、言葉の粗暴さのギャップが、逆に恐ろしい。
ベルファルドは再び右手を持ち上げた。
「そんなわけで、今日のところは引かせてもらうぜェ。まァ、なんだ。生きていたら、また会おうぜェ」
形のいい唇が、邪悪な笑みに歪む。
そして――
「――お嬢ちゃんはその時に返してやるよ」
「ッ!」
僕は左腕を振り抜いた。
コイツの基準では、僕が傷をつければ処刑になる。
処刑になれば、璃奈との契約は破棄される。
せめて、それだけでも――!
だが、僕の拳が届くより先に、世界の中心で乾いた音が弾けた。
パチンッ
瞬間、静止していた世界に音が流れ込む。
エアコンの駆動音。ゲーム機の待機音。空気の震え。
すべてが戻ってきた。
だが――
肝心のものが、戻っていない。
「璃奈……」
僕の声は震えていた。
「璃奈……!」
そこにいたはずの少女は、もういなかった。
世界から切り取られたように消えていた。
悪魔王と共に、煙のように。
檻の中には、惨めで無力な僕だけが取り残されていた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「いやー、いい勝負でしたね。やはり悪魔狩りは良い運動になります」
「……」
夜の道を、二人の男女が並んで歩いていた。
一人は金髪碧眼の美しい少年。
スキップでもしそうなほど上機嫌で、頬を緩ませながら弾むように歩いている。
その隣を歩く銀髪赤目の少女は、対照的に険しい表情を浮かべていた。
「くっ……! あそこで討ち漏らしさえしなければ……!」
「二十五体目の時のことですか? 確かに、あそこからは僕が一気に畳みかけましたからね」
「刀と槍のリーチ差を、あんなに痛感したのは初めてです……」
「まぁまぁ、落ち込まないでください。むしろ、僕と競争を始める前から相当数を相手にしていたのに、それでも張り合っていたMs.レイの方がおかしいんですよ」
心底悔しそうに自分のミスを噛みしめる少女――霧島レイ。
そんな彼女を慰めながら、少年――ユリウスは上機嫌に歩みを進める。
「とはいえ、勝負は勝負です。約束通り、落ち着いたカフェで地藤優斗さんについて色々とお話を聞かせてもらいますからね」
「はぁ……分かりました。約束は守ります」
律儀なレイは、不承不承ながらも頷き、俯いていた顔を上げて背筋を伸ばした。
「――それにしても、先程の悪魔の数は尋常ではありませんでしたね」
「えぇ。どうやら、こちらの予想よりも早く“門”の制作が進んでいるのかもしれません。取り急ぎ、“教会”の人間に調査を進めるよう連絡しておきました」
ユリウスは手元で弄んでいた携帯の画面を落とし、ポケットにしまう。
レイは目を丸くし、内心で感心していた。
飄々として掴みどころのない少年だが、肝心なところはきっちり押さえている。
随分と要領が良い。
「しかし、この調子だと“門”破壊作戦の開始はもっと早まるかもしれませんね」
「“教会”の応援部隊は順調に集まっているのでしょうか?」
「一応、日本中から搔き集められるだけ集めてもらっています。もちろん海外支部からも、手の空いている人員は派遣してもらっていますから、今頃この街のホテルは急な予約でパンパンでしょうね」
朗らかに笑いながら状況を伝えるユリウス。
レイは頷き、夜空を見上げた。
「……これほど大掛かりな作戦は初めて経験します」
「僕もです」
レイの歩幅に合わせながら、ユリウスは静かに呟いた。
「“教会”としても、ここまでの規模の作戦は相当に久しぶりみたいですね。記録によれば数十年ぶりらしいですから、僕たちが生まれる前にあった戦いが最後のようです」
「何事もなく順調に終わればいいのですが……」
「そう甘くはいかないでしょう」
レイの切なる願いを、ユリウスは淡々とした声で切り捨てた。
「間違いなく、こちらからも死人は出ますよ。互いに死体の山を築いて……それでも“門”の完成を阻止できたら、こちらの勝ち。これから始まるのは、そういう戦いです」
「……」
レイは複雑そうに表情を歪めた。
彼女自身は死なないだろう。
この世界に二人しかいない原種の吸血鬼なのだから。
だが、エクソシストの仲間たちはそうはいかない。
ユリウスの言う通り、激戦の中で多くの仲間が命を落とすことになる。
「とはいえ、僕とMs.レイがいるのですから、案外あっさり決着がつくかもしれませんね」
暗くなった空気を払うように、ユリウスはわざと軽い調子で言った。
レイはその気遣いを受け取り、わずかに唇を持ち上げて笑みを浮かべる。
「どうせなら、また競争をしましょうか。今度はリーチ差も考慮した上で、私が圧勝してみせます」
「良いですね。また勝負といきましょう。――ただ、リーチ差を考慮したとしても、僕に勝てると思うのはだいぶ見込みが甘いですよ」
互いに不敵な笑みを浮かべながら歩く美しい二人。
やがて、ユリウスはある店の前で足を止めた。
「甘いと言えば……ようやく到着しました。ここです。このお店に行きたかったんです」
「ここは……ケーキ屋さん、ですか?」
レイの言う通り、ユリウスが目指していたのは街で人気のケーキ屋だった。
ショーウィンドウには宝石のようなケーキが並び、近づくとバターの甘い香りが漂ってくる。
カフェでお茶をするとは聞いていたが、まさかケーキ屋を選ぶとは思っていなかったレイは、思わず瞬きをした。
「えぇ。同じクラスの女性陣から聞いたんです。このお店のケーキがとても美味しいと。……あっ、すみません。事前にお聞きしておくべきでしたね。Ms.レイ、甘いものはお好きですか?」
「えぇ、大丈夫です」
レイはニンニク以外に苦手なものはない。
ユリウスは満足げに微笑むと、店の扉を引いた。
「レディファーストです」
「ありがとうございます」
紳士的なエスコートに軽く会釈し、レイは店内へ入った。
思っていたよりも広く、奥にはテーブルと椅子が並んでいる。
そこでケーキや紅茶を楽しめるのだろう。
「さて、何にしようかな」
「私は紅茶だけで大丈夫です」
「そんなぁ、せっかくですから一緒に何か食べましょうよ。僕が奢りますから」
「いえ、勝負に敗北したのは私ですから、私が支払わせていただきます」
「律儀ですねぇ……」
ショーウィンドウのケーキを眺めながら談笑していると、
従業員用の扉が開き、一人の店員が姿を現した。
「あー、いらっしゃいま……」
出てきたのは若い女性店員だった。
鮮やかな赤髪を衛生用の白い帽子に押し込み、褐色の肌に黄金の瞳が特徴的だ。
整った顔立ちをしているのに、声にも表情にも覇気がなく、どこか眠たげでやる気のない雰囲気をまとっている。
だが――レイとユリウスの姿を目にした瞬間、彼女の瞳がギュッと見開かれた。
「げぇっ⁉」
反射的に一歩、いや二歩ほど後ずさる。
まるで“見てはいけないもの”を見たかのような反応だった。
明らかに二人を知っている。
そして、好意的ではない。
「あ、あの……僕たち、何かしちゃいましたか……?」
初対面の相手に露骨に距離を取られたユリウスは、周囲を見回しながら不安そうに問いかけた。
その表情は、普段の飄々とした態度からは想像できないほど困惑している。
「あっ、いや、別に、そういうわけじゃなくて……」
店員の少女は視線を泳がせ、落ち着きなく指先をいじり、明らかに挙動不審だった。
しかし、やがて何かを覚悟したように深く息を吸い――
「――注文、ナニニシマスカ?」
急に真顔に戻り、ショーウィンドウを指さした。
ただし、表情は取り繕えても言葉は間に合わなかったらしく、語尾が妙に訛っている。
「えっとぉ……」
レイとユリウスは互いに視線を交わす。
困惑が二人の顔に浮かんでいた。
だが、ここで騒ぎ立てるのも得策ではない。
ひとまず注文を済ませることにした。
「取り敢えず、僕はチョコレートケーキと……そうですね、アッサムティーで」
「私は……アールグレイをお願いします」
「ハイ、ショウショウオマチクダサイ」
店員はぎこちない発音でそう言うと、
再び従業員用の扉の向こうへと消えていった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「あの人、どうしたんでしょうか?」
「さぁ……」
店の奥の席に腰を下ろしたユリウスとレイは、互いに顔を見合わせながら小さく首をかしげた。
さっきの店員の反応は、どう考えても普通ではない。
「どこかで出会ったことがあるとか?」
「かなり派手な容姿をした女性ですし、一度見たら忘れることはないと思うんですけどねぇ……」
ユリウスは首を傾げながら入店時の出来事を思い返していた。
レイも腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込む。
当初の目的――優斗の話を聞くこと――はすっかり忘れ、二人はあの挙動不審な少女について話し合っていた。
「不思議なこともあるものですね」
「……それだけで片付けられたらいいのですけどね。Ms.レイ、気が付きましたか?」
「彼女の瞳、ですか?」
「流石です」
ユリウスの声がわずかに低くなる。
普段の柔らかい雰囲気が消え、エクソシストとしての鋭さが滲み出た。
「あの黄金の瞳は……悪魔の瞳と特徴が一致します。断定は良くないですが、微かに魔力も感じましたし、関係者である可能性が極めて高いでしょう。僕たちを見て驚いたのも、エクソシストだと知っていたからかもしれません」
レイは息を呑んだ。
確かに、あの少女の反応は“ただの店員”のものではなかった。
「悪魔たちが動き出している今、市井に潜伏している個体がいても不思議ではありません」
「……尻尾を出すのを待ってから、捕えますか」
「それが賢明でしょう。取り敢えず今は……甘いものを楽しみましょう」
ユリウスはふっと表情を緩め、椅子の背にもたれた。
その切り替えの早さに、レイは内心で感心する。
ちょうどその時、カウンターの方から例の赤髪の少女が現れた。
お盆の上にはケーキと紅茶が二つ。
しかし、その運び方は見ているこちらが不安になるほど危なっかしい。
お盆が左右に揺れ、今にも落としそうだ。
「お待たせしました。チョコレートケーキと……紅茶二つです」
紅茶の種類を覚える気はないのか、ざっくりとした紹介だけして、やはり不安定な手つきでテーブルに置いていく。
少女はお盆を胸の前で抱え直し、やる気のなさそうな――しかしどこか角張った、妙に硬い表情で頭を下げた。
「どうぞ、ごゆっくり――」
その言葉が最後まで言い切られるより早く、店の入口で扉が開く音が響いた。
カラン、と軽やかなベルの音。
そして、鈴の鳴るような綺麗な声が店内に響いた。
「――ほう? ここが先日兄さんがケーキを買ってきてくれたお店ですか」
「あぁ。チョコレートケーキ、美味しかっただろう?」
「えぇ、大変美味でした。モルヴェリアさんも気に入っていたようです」
「それは何よりだ。さて、俺が奢るから食後のデザートといこうじゃないか」
「ありがとうございます。折角ですから、色々食べてみたいですね」
「……ホールケーキ丸ごととかは止めてくれよ?」
「人を何だと思っているんですか⁉」
入口で漫才のようなやり取りを繰り広げる若い男女。
赤髪の長髪を揺らす気の強そうな美少女と、茶髪に蒼い瞳の爽やかな美少年。
色彩も雰囲気もまるで違う二人は、ともすればカップルのようにも見えるが――醸し出されている雰囲気は、仲のいい兄妹そのものだ。
「おや、あれは――」
「Ms.レイのお知り合いですか?」
レイは目を丸くし、ユリウスは首を傾げる。
二人にとっては“知っている兄妹”と“知らない兄妹”の差がある。
だが、一番反応が激しかったのは、他でもない店員の赤髪少女だった。
「……ぴぎゅあ」
彼女は、顔面蒼白 → 震える → 白目を剥く
という三段階変化を一瞬で披露していた。
完全にキャパオーバーである。
「まぁ、何でも好きなものを頼みな。店員さんはどこに……ッ! あなたは⁉」
店内を見渡す中、お盆を手に白目を剥いている赤髪少女を目撃した十六夜蓮は驚きに目を見開き、声を裏返しながら少女を指さした。
「うん? どうしたんですか、兄さん。道端で狼に出会ったみたいな顔をして――あれ? どうしたんですか、モルヴェリアさん。ケーキはまだですよ。えっ? なんか見たことがある人がいる……?」
「どうしたんでしょうか、レイさん。あの二人、店員さんを指さしてめっちゃ驚いてますけど……」
「分からないが……この店員に話を聞くのが早そうだな」
レイが低く呟く。
そして次の瞬間、店内にいる全員計4名の視線が、赤髪の少女に一斉に突き刺さった。
「はぁ……」
赤髪の少女は、この世の終わりを悟ったように深く、深く溜息をついた。
肩が落ち、魂が抜けかけている。
そして――
「……もう、帰ってくれ」
店員として絶対に言ってはいけない一言を、心の底からの本音と共に吐き出した。