世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第80話:鉄の要塞

 

「鉄の大公だって……⁉」

 

 黒い鎧を身に纏った痩身の悪魔が名乗りを上げた瞬間、エクソシストたちの間に大きな動揺が走った。

 大公――それは悪魔王と四騎士に次ぐ地位を持つ、上級悪魔の中でもさらに上澄みの存在である。

 理不尽そのものの権能を備えた怪物。

 その容量の大きさから現世に降臨するにはそれ相応の準備が必要になる超級の悪魔ではあるが――

 

「どうして大公がこんなところに……!」

 

 かつて血の大公と死闘を繰り広げたレイはその記憶が脳裏に蘇るのを感じながら、全身に緊張を漲らせて刀を構えた。

 あの時は天羽璃奈、地藤優斗、十六夜蓮、十六夜唯、そしてメフィラ――全員の力を結集してようやく打倒できた相手である。

 今回もユリウスや鍛え上げられた十六夜兄妹が味方にいるとはいえ、一筋縄ではいかない相手であることは間違いない。

 

 疑問と恐怖が入り混じる中、鉄の大公は右手に持つ鉄の棒を、まるで儀式の始まりを告げるかのように静かに地面へ突き立てた。

 そして――

 

「鉄杭」

 

 処刑宣告のように短く、冷たく告げる。

 

 軽く突き立てただけのはずなのに、次の瞬間、地面全体が低く唸りを上げ、海浜公園の大地が波打つように震え始めた。

 地震にも匹敵する揺れが続き、やがて地面が裂け――

 

「ッ! 全員回避しろ!」

 

 長谷川の鋭い声が響く。

 反射的にその場から飛び退く面々。

 その判断は正しかった。

 裂けた地面の隙間から、杭のように尖った鉄の棒が次々と突き出してきたのだ。

 もし元の位置に留まっていたなら、確実に串刺しにされていただろう。

 

 海浜公園は一瞬にして、無数の鉄杭が林立する異様な光景へと変貌した。

 まるで罪人を捌く地獄の処刑場のようであり――或いは吸血鬼伝承に名高いドラキュラ伯爵が敵を串刺しにして並べ立てたという、血塗られた逸話を思わせる光景だった。

 

 ルーマニアに出自を持つ吸血鬼の霧島レイは無意識のうちに表情を歪め、霧となってその場を離脱し、安全な位置で再び実体化した。

 

「全員無事ですか⁉」

 

 辺りを見渡しながら大声で呼びかける。

 幸いにも各所から返事があり、全員が何とか危機を逃れたことが確認できた。

 ホッと一息つきたいところではあるが、生憎と気を緩めている暇はなかった。

 

「追撃」

 

 鉄の大公が再び鉄の棒で地面を打ち鳴らした瞬間、地面から生えた無数の杭が、まるで意思を持つ生き物のように蠢き、方々へ散っていたエクソシストたちを狙って一斉に動き出した。

 どんな理屈で動いているのか皆目見当もつかないが、鉄杭の大きさも、強度も、速度も、先程までとは比べ物にならないほど跳ね上がっており、まともに食らえば命はないと誰もが理解できるほどの殺意が宿っていた。

 エクソシストたちは必死に回避し、鉄杭が地面を穿つたびに大地が悲鳴を上げるような振動が走る。

 

 そんな中、十六夜蓮は被弾を覚悟で巨剣を振り翳し――

 

巨いなる銀の剣(クラレント・ソレス)――!」

 

 青の光に満ちた救済の一撃を放った。

 奔流のような霊力が巨剣から解き放たれ、迫り来る鉄杭をまとめてへし折り、宙へと吹き飛ばす。

 だが――

 

「蓮! 下がって!」

 

 ユリウスの叫びが飛ぶ。

 蓮は本能的に後ろへ跳び退き、同時にユリウスが前へ飛び出す。

 次の瞬間、蓮がいた場所へ折れたはずの鉄杭が空中で再び伸縮し、無数の槍となって殺到した。

 

「折れた先からも伸縮するのかよ……!」

 

 蓮が斬撃で吹き飛ばし、ガラクタと化したはずの鉄杭がまるで生きているかのように空中で形を変え、再び襲い掛かってきたのだ。

 幸いにもユリウスが咄嗟に槍を回転させて弾き飛ばしたため、蓮は辛うじて難を逃れたが、あのままなら確実に串刺しにされていた。

 

「……ユリウス殿、私が突撃します。皆さんをお願いします」

「無茶を言いますね……ですが、分かりました。ご武運を」

 

 このままでは埒が明かない。

 そう判断したレイはユリウスに短く耳打ちし、次の瞬間、銀色の霧へと転じた。

 

 物理干渉を無効化する銀霧が鉄杭地獄をすり抜け、戦場を疾風のように駆け抜ける。

 一陣の風となったレイはそのまま鉄の大公の懐へと肉薄し、即座に実体化した。

 

 爬虫類のような黄金の眼がギョロリと動き、レイを見下ろす。

 まさかここまで接近されるとは思っていなかったのか、鉄の大公は一瞬だけ動きを止めた。

 

 レイは深く腰を屈め、鞘に収めた刀の柄へと静かに手を添える。

 そして――

 

「斬霞刀・一の型『霧散残月』」

 

 放たれたのは、渾身の抜刀術。

 超速で鞘から解き放たれた刃が、破魔の力を帯びた巨大な斬撃となって大公へ叩きつけられる。

 

 大公が如何に強大な存在であろうとも、油断したところに一級のエクソシストの一撃を受ければ無事では済まない。少なくとも体勢は崩れるはずだ。

 レイはそう確信していた。

 血の大公がそうだったから。

 

「なッ―――」

 

 故に、その光景はレイにとって予想外もいいところだった。

 鉄の大公へ叩き込まれるはずだった渾身の一撃は、まるで底なしの沼に吸い込まれるように巨大な肉塊へと呑み込まれていたのである。

 

 その肉塊は――“手”だった。

 

 五本の指を持つ、鉛色の巨大な手。

 その手は鉄の大公の背後に口を開けていた巨大な“門”の奥から伸び出し、まるで大公を守護するかのように包み込み、レイの斬撃を完全に受け止めていた。

 

「門が……」

 

 先程よりも、明らかに開いている。

 

 つまり――

 

「ッ!」

 

 レイは咄嗟に刀を構え、防御態勢を取った。

 次の瞬間、冗談のように巨大な手は中指をグッと折り曲げ、まるで軽い悪戯でもするかのようにその指を弾いた。

 軽快な動作だが、レイにとっては自分の身長を軽く上回る巨大な質量を持つ指弾に他ならない。

 風圧だけで地面がめくれ上がり、衝撃音が空気の壁を粉々に砕き散らす。

 霧へと変じる暇すらなく、レイの身体は巨大な人差し指によって遥か彼方へと吹き飛ばされた。

 

「Ms.レイ!」

「霧島先輩!」

 

 ユリウスと蓮の悲痛な声が響く。

 あの霧島レイがあっさりと、まるで紙切れのように吹き飛ばされたのだ。

 

 何百メートルか、いや、何キロかすら分からない。

 視認することすら困難な速度で、彼女は戦場から強制的に排除されていた。

 

「まずいですね、これは……!」

 

 普段は冷静なユリウスの額にも汗が滲む。

 霧島レイの強さは、彼自身がよく知っている。

 彼女のことだから、いずれ戻ってくるだろうが、そのわずかな間であっても、戦力が大幅に低下することは避けられない。

 

(どうする……もう、やってしまうか……?)

 

 ユリウスは自問自答しながら、首から下げている十字架へそっと触れた。

 槍で迫り来る鉄杭を弾き返しつつ、戦場全体を冷静に観察する。

 エクソシストたちはよく戦っていた。

 歯を食いしばり、鉄杭を弾き、あるいは逃げ回りながら、それでも必死に生き延びようとしている。

 

 だが一方で、“門”は明らかにまずい状況へと進行していた。

 先程よりも大きく開いた扉の隙間から、霧島レイを吹き飛ばしたあの冗談のように巨大な腕――悪魔の手が、現世へと侵食するように姿を現している。

 

(大公クラスの出現に加えて、大公を援護する巨大悪魔まで……状況は既に教会の想定を超えている。ここで食い止めなければ……世界が、終わる)

 

 ユリウスの推測では、あの“門”には現世へ出現させられる悪魔の“容量”が存在し、その限界値が徐々に上昇しているのだと考えられた。

 だからこそ悪魔側は、まず大公を一体だけ召喚し、門が完全に開くまでの守護を任せたのだろう。

 

 実際、鉄の大公はその役割を完璧に果たしていた。

 エクソシストたちを寄せ付けず、瘴気と鉄杭で戦場を支配し、“門”に傷一つつけさせていない。

 そうして時間を稼ぎ――ついには援軍まで呼び込める段階に達してしまった。

 

(大公クラスをもう一体召喚されたら、流石に勝ち目がない。ここで終わらせるしかないんだ)

 

 ユリウスは十字架を強く握りしめ――その手が震えていることに気付いた。

 驚いたように目を瞬かせ、やがてその表情は苦笑へと変わる。

 

(驚いたな……僕の中にもまだ、生に執着する気持ちが残っていたのか)

 

 “教会”に拾われ、エクソシストとなった者の過去は、大抵が血塗られたものだ。

 

 ユリウスも例外ではなかった。

 幼い頃、悪魔に屈辱を受けたあの日から彼の人生は大きく狂い、取り返しのつかない傷を負った。

 その後に拾われ、訓練され、洗脳され、死ぬ覚悟などとうに決めたつもりでいた。

 

 自分の人生はとうに終わっている。

 そう思い込むことで、ようやく立っていられた。

 

 だから、いざその瞬間が訪れても、動揺などしないはずだった。

 少なくとも彼はそう信じていた。

 

 だが今、来たるべきその時を前にして、ユリウスの中に確かな躊躇が生まれていた。

 

 それは、覚悟を決めた者としてはあまりに中途半端で――捨てたはずの人間性にしては、あまりにも温かく、そして悪くないものだった。

 

「……Mr.蓮」

「ッ! はい、なんでしょうか?」

 

 巨剣を振り回し、必死に迫り来る鉄杭を打ち払っていた十六夜蓮がユリウスの声に反応して振り向く。

 ユリウスは、そんな彼に向けて、どこか悟ったような、それでいて穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「――すいませんが、後始末は頼みます」

「……はい?」

 

 言葉の意味を理解できず、蓮は首を傾げた。

 だが、次の瞬間、彼の顔色が変わる。

 優れた直感を持つ彼は、全てを理解できていなくとも何となく悟ったのだ。

 

 ユリウスから、明確に死の匂いがすることを。

 それは、かつて病院で、弱り切った妹が放っていた気配と同じだった。

 

「ま、待ってください――!」

 

 蓮は必死に手を伸ばす。

 だが、加速し始めたユリウスは止まらない。

 流麗な槍さばきで鉄杭を弾き飛ばしながら、ただひたすらに前へ、前へと進んでいく。

 

 突出したエクソシストの存在を感知した鉄の大公が鉄杭を集中して撃ち込んでくるが、それでもユリウスの足は止まらなかった。

 

(いける……! ここまで来れば……!)

 

 己の命を省みない無謀な突進。

 その先に“門”がある。

 ユリウスは、ついにその距離を詰め――

 

「ッ!」

 

 目の前に現れた光景に、思わず足を止めた。

 

 門から伸び出した巨大な二つの掌。

 レイの渾身の一撃を庇った、あの巨大な手の本体――門すら小さく見えるほどの巨人がついにその全身を現世へと降ろしていた。

 巨人は本能的にユリウスの危険性を察知し、まるで人間が蚊を潰すような無造作さで、彼を叩き潰そうと腕を振り上げる。

 

(まず、い――)

 

 咄嗟に十字架へ手を伸ばす。

 だが、“門”まではまだ距離がある。

 ここからでは――届かない。

 ユリウスは己の失態を悟り、静かに、悔恨と共に目を閉じた。

 

 その瞬間――

 

巨いなる銀の剣(クラレント・ソレス)――!」

 

 青い斬撃が後方から飛来し、巨人の分厚い皮膚を切り裂くには至らなかったものの、その巨体をわずかに止めることに成功した。

 さらに――

 

「引っ込んでろデカ野郎ッ! デカくて鬱陶しいのは獅子頭だけで十分なのよッ!」

「テメェ! どさくさに紛れて俺の悪口言ってんじゃねぇぞッ!」

 

 八馬継メイが三節棍に霊力を流し込み、蓮の斬撃が命中した箇所へ追撃を叩き込む。

 その横で獅子頭もまた、鬼の金棒のような祓器を振り下ろし、同じ一点へと力を集中させた。

 

 怒涛の連携攻撃が巨人の巨体を揺らし、その動きが明確に鈍る。

 

「みなさん……」

 

 生き残るだけで精一杯だったはずの仲間たちが、それでも己の危険を顧みず駆けつけてくれた――その事実に、ユリウスの目が大きく見開かれる。

 さらに。

 

「――さっきはよくもやってくれたな……!」

 

 銀色の風が吹き荒れた。

 数キロに渡って吹き飛ばされたはずの霧島レイが霧化と超速再生を駆使して強引に戦場へと舞い戻り、自身を弾き飛ばした巨人の眼前へと実体化する。

 怒れる吸血鬼の少女は、己の刀を矢に見立てて空中で身体を弓のようにしならせ――

 

「倍返しだ……!」

 

 ――強靭な肉体と吸血鬼特有の魔力、そして霊力を限界まで充填した刀を解き放った。

 

 巨人が中指で空気の壁を砕いた時と同等、いや、それを上回る轟音が戦場に響き渡る。

 放たれた突きは矢のように一直線に巨人へ突き刺さり、その巨大な身体を丸ごと後方へと吹き飛ばした。

 

「ば、化け物じみてますね……」

 

 大怪獣バトルのような、常識を逸脱した光景を目の当たりにし、先程まで死を覚悟していたユリウスは頬を引き攣らせる。

 霧島レイを高く評価していた彼ではあるが、その評価はさらに上方修正せざるを得ない。

 今の彼女は、カテゴリー的には間違いなく“怪物枠”に入るだろう。

 

「ユリウス殿! 早くこちらへ!」

「Mr.長谷川……」

 

 茫然としていたユリウスの腕を、リーダーである長谷川が強く引いた。

 霧島レイと巨人による大怪獣合戦の余波が来ない場所まで一先ず退避し、長谷川はユリウスに向き直った。

 

「……何があるのかは知りませんが、今、貴方に死なれては困ります。我々だけでは、あの門を破壊できそうにありませんから」

「……すいません。軽率な行動でした」

 

 戦略的合理性を前面に押し出しながらも、その言葉の奥に確かな心配を滲ませる長谷川に、ユリウスは深く頭を下げた。

 胸の奥で、先ほどまでの焦燥と死への覚悟が、じわりと恥ずかしさへと変わっていく。

 

「ユリウスさん! 大丈夫ですか⁉」

「Mr.蓮……」

 

 さらに心配そうに駆け寄ってきた蓮の顔を見て、ユリウスは申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「すいません……少し、早まってしまったようです」

「何を言っているのかはよく分からないですが……間に合って良かったです」

 

 蓮は、自分の判断が正しかったことを悟り、安堵したように一息ついた。

 

 ユリウスの命は助かった。

 だが――戦況が厳しいことに変わりはない。

 

 鉄の大公は未だ健在で、さらに“門”の中からは巨人のような悪魔まで姿を現し、霧島レイが抑え込んでいるとはいえ、戦力的にはこちらが圧倒的に不利だ。

 

 もし“門”の開放範囲がさらに広がれば、大量の悪魔が現世へ雪崩れ込んでくる可能性が高い。

 そうなれば、全滅は避けられないだろう。

 

 絶体絶命の状況だが――同時に、ユリウスの胸には別の疑問も浮かんでいた。

 

「ユリウス殿、少しよろしいでしょうか」

「Mr.長谷川。どうかしましたか?」

 

 思考に冷静さを取り戻し、悪魔側の思惑を整理していたユリウスに、激戦の隙間を縫って長谷川が声をかけてきた。 

 

「悪魔たちの動きですが、少しおかしくないでしょうか……?」

「それは僕も考えていました」

 

 飛来する触手のような鉄杭を弾き飛ばしながら、ユリウスは短く答えた。

 

「あの“門”は恐らく、現時点では出現させられる悪魔のデータ量に限りがあるはずです。だというのに、鉄の大公というとんでもない質量の悪魔を一体だけ召喚させて“門”を守らせている……。確かに大公は強力ですが、現世に進行するつもりなら、その分、大量の悪魔を召喚された方が我々としては困ります」

 

 大公ほどの悪魔の魂であれば、何百――いや、何千規模の悪魔の軍勢を召喚することも可能なはずだ。

 そんな軍勢を市井に解き放たれてしまえば、どれほどの無辜の民が犠牲になるか想像もつかない。

 エクソシストたちも奮闘するだろうが、数には限りがある。

 弱い悪魔であっても、広範囲にばら撒かれれば対処しきれないのだ。

 

 悪魔側もそのことを理解していないはずがない。

 だというのに、彼らの前に立ち塞がっているのは、門番のように動かない鉄の大公と、巨人のような悪魔だけだった。

 

「何か、狙いがあるのかもしれませんね」

 

 嫌な予感を覚えながら、ユリウスはポツリと呟く。

 長谷川は同意するように頷き、周囲へ視線を巡らせた。

 

「もう一つ気掛かりなことがあります。戦闘を開始してそれなりに時間が経っているはずなのに、この街に集結した“教会”のエクソシストたちが見当たらないのです……」

 

 この街には、“門”の破壊のために世界中から選りすぐりのエクソシストたちが集められている。

 長谷川たちもその一員であり――彼らは早く到着しただけで、本来は百名近いエクソシストたちと共に戦う予定だった。

 

「寝坊でもしてんじゃないの?」

「お前じゃないんだから、それはないだろ」

「なんだとテメェ! あたしが寝坊したことあるかぁ⁉」

「ねェよ! 馬鹿!」

 

 こんな状況にも関わらず、八馬継メイと獅子頭はいつも通りのコントを繰り広げる。

 長谷川は騒がしい二人の頭を軽く叩いて黙らせると、結界の外――海浜公園の外周部へと視線を向けた。

 

「寝坊云々は置いておくとして……これだけの魔力が満ち、これだけの規模の戦闘を繰り広げておきながら救援者が現れないのは違和感があります。もしかすると、彼らの身に何かあったのかもしれません」

「それに関してですが、実は僕の方で推測があります。実は――」

 

 ユリウスが己の推測を口にしようとしたその時、大地そのものが悲鳴を上げるような強烈な地鳴りが、海浜公園一帯に響き渡った。

 

「なんだ⁉」

 

 動揺するエクソシストたち。

 そんな中、巨人の悪魔と熾烈な戦いを繰り広げていたレイが、空中からユリウスたちの元へ着地した。

 

「Ms.レイ、どうしたのですか?」

「……」

 

 レイは無言のまま刀を持ち上げ、その切っ先で“見ろ”と示した。

 

「あ、あれは――」

 

 その光景を目にしたユリウスの言葉が喉で止まる。

 他のエクソシストたちも同様だった。

 彼らの瞳に映っていたのは、常識の枠を完全に逸脱した前代未聞の光景。

 

 “門”の奥から、ついに本格的に姿を現した超巨大な悪魔。

 全長は軽く十メートルを超え、その存在だけで周囲の空気が震えるほどの圧を放つ、まさしく“巨人”と呼ぶに相応しい悪魔。

 

 霧島レイと激戦を繰り広げていたその巨人の胸部――心臓の位置に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――悪魔たちが、同士討ちしている……?」

 

 レイの脳が理解を拒む。

 悪魔同士が争うなど聞いたことがない。

 ましてや、門から出現したばかりの巨人が味方であるはずの鉄の大公の“武器”で貫かれているなど――

 

 巨人はぐらりと身体を揺らし、そのまま膝から崩れ落ちる。

 あまりの巨体が地面に倒れ込む衝撃で、海浜公園全体が再び大きく揺れた。

 砂煙が舞い上がり、不気味な沈黙が戦場を包み込む。

 

 砂塵の向こうに、瘦身のシルエットが揺らめいた。

 己の手で同胞を殺した鉄の大公は、その死骸に目を向けることすらせず、静かに鉄の棒で地面を鳴らした。

 

 その瞬間――

 世界が悲鳴を上げた。

 

 巨大な、惑星の引力にも似た桁違いの魔力が湧き上がり、誰もが身動きを取れないまま、周囲の景色が目まぐるしく変化していく。

 

 地面が唸りを上げながら裂け、そこから鉄の壁がせり上がる。

 無機質で冷たく、どこまでも高く伸びる鉄の壁が、まるで世界そのものを押し潰すように周囲を囲い込んでいく。

 

 空は閉ざされ、光は奪われ、鉄で構成された巨大な城塞のような構造物が瞬く間に海浜公園を飲み込んでいく。

 

 自分たちの世界が――

 悪魔の法則に書き換えられていく。

 

 霧島レイは気付いた。

 いや、()()()()()

 

「こ、これは――」

 

 忘れるはずがない。

 彼女の罪の証。

 熾烈な戦いと過去の清算が行われ、そして彼女が己の主に忠誠を誓った、あの場所へ引きずり込まれた時と同じ感覚。

 

「――血の迷宮の時と同じ」

 

 その言葉を口にした時には既に、彼女たちはその世界に引きずり込まれていた。

 

 無機質にして無慈悲なる、無人の世界。

 大公が創り出した異質なる理。

 

 鉄の大公は、端的にその世界の名を告げた。

 

「鉄の要塞」

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 空を飛び回る華麗な鳥。

 白と黒。

 天使の翼に、悪魔の黒衣。

 翡翠色の光と、漆黒の闇。

 

 彼女たちは互いに相反する存在であった。

 互いに認め合うことができない存在であった。

 それは、彼女たちが出会った瞬間から変わらない関係性。

 

 結局のところ、十六夜唯と天羽璃奈は――戦う宿命にあったのかもしれない。

 

 十六夜唯は、馬鹿げた量の魔力に物を言わせて圧倒的な弾幕を張り、優雅に空を舞う天羽璃奈を狙い撃つ。

 一方、唯ほどの魔力を持たない天羽璃奈は、最小限の動きで弾幕を掻い潜りながら、時折鋭い反撃の射撃を放ち、狡猾に隙を狙い続けていた。

 

 一見すれば対等に渡り合っているように見える空中戦だが、その実態はまるで違う。

 

『ユイ!』

 

 十六夜唯の中に留まる死王女が、苛立ちを隠さない声を上げた。

 

『どうしてさっさとあの娘を撃ち落とさぬのじゃ⁉ お主であれば簡単であろう⁉』

「っ……!」

 

 唯は、天羽璃奈から放たれた翡翠色の光を片手で弾き飛ばしながら、悔しげに唇を噛んだ。

 モルヴェリアに言われるまでもなく、そんなことは唯自身がとっくに悟っていた。

 

 今、彼女の目の前で飛んでいる天羽璃奈は唯から見れば、不完全もいいところだった。

 

 速度とパワーは確かに増している。

 だが、行動が一直線で、あまりにも読みやすい。

 どれほど速度とパワーが増しても、死王女の自力に追いつけるはずもない。

 これでは勝ち目などあるはずもない。

 

 そもそも天羽璃奈の最大の長所は、その聡明な頭脳だ。

 病院で死王女と戦った時も彼女は己の知略を駆使して、どうにか渡り合っていた。

 

 しかし今の彼女には、あの時の戦闘IQがまるで見受けられない。

 何とか生き延びようという気概も、覇気も感じられない。

 

 だから唯は、その気になればいつでも天羽璃奈を落とせる状況にあった。

 ――彼女を、殺すことができた。

 

『あの女が死ねば、あの小賢しい小僧を主のものにできるではないか! さっさと殺してしまえばよかろうに……』

「だ、誰が先輩のことが欲しいと言いましたか⁉」

『わしは先輩とは一言も言っておらんがな』

「ッ!」

 

 上空で顔を真っ赤にしながら、唯はやけくそのように死の線を乱打した。

 圧倒的な弾幕が空を覆い、天羽璃奈は距離を取って回避するが――そのどれも、彼女に命中していない。

 

 いや、命中させようという意図が、唯の中に存在しなかった。

 モルヴェリアは、思わず深い溜息をついた。

 

『ユイよ……わしは万事お主の好きにすれば良いと思っているが、今のお主は何を考えているのかさっぱり分からんぞ? お主はいつもあの先輩が絡むとおかしくなるのォ』

「し、失礼なことを言わないでください! 私は変じゃありません! ずっと冷静です!」

『冷静ならさっさと片を付けていると思うのじゃがな。お主、人間への情は捨てたのだろう?』

「ッ!」

 

 手厳しい言葉を投げかけるモルヴェリアだが、彼女もまた、己の主が人間への情を完全に捨てきれていないことなど、とっくに見抜いていた。

 だが唯自身が「悪魔として生きる」と宣言した以上、甘やかしすぎるのも良くない――そんな親心……いや、悪魔心からの助言だった。

 

「……別に、天羽先輩を殺すのが嫌なわけじゃないですよ」

 

 唯は、彼女にとっては目くらましにもならない翡翠色の銃撃を黒衣で跳ね飛ばしながら、

 ぽつりと呟いた。

 

「私は、悪魔側につくって決めたんですから。エクソシストへの容赦なんてするつもりはありません。兄さんはともかくとして……それ以外の人は、どうでもいいと思ってます。本当ですよ?」

 

 十六夜唯という少女は純粋無垢だ。

 だが逆に言えばそれは、何にでも染まり得るということでもある。

 死王女モルヴェリアと同化した彼女は、自然と悪魔側の価値観に寄りつつあった。

 

 だからこそ、その言葉は強がりではない。

 彼女は殺すだろう。

 己とモルヴェリアの邪魔をするエクソシストが現れれば、指先ひとつで命を奪うことに躊躇などしない。

 

『……ならば、どうしてそれをしないのじゃ?』

「……私も、よく分からないですよ」

 

 飛来する翡翠色の光を弾きながら、唯は答えた。

 彼女が今やっていることは、非合理だ。

 決して快く思っていない相手から攻撃されていて、反撃する術を持っているにも関わらず、何故かその力を積極的に行使しようとしない――非合理の極みだ。

 わけがわからない。

 

「でも、確かなことが一つあります」

 

 赤と黄金の瞳が、夜空の中でキラリと輝く。

 牽制のためだけに死の線を放ちながら、唯は言った。

 

「私は、今の天羽先輩に勝っても、何も()()()()()()()()

 

 美しい紫の瞳を黄金に染められ、身体中に刺青を施され、表情を失くした操り人形のような天羽璃奈を見据える。

 

「私の知る天羽先輩はもっと賢くて、キビキビしてて、怖くて……先輩と背中を預け合っているのが絵になるような、そういう人なんです」

 

 唯の弾幕から逃れるため、天羽璃奈は人間の可動範囲を無視したような軌道で距離を詰めてくる。

 

「今の天羽先輩は……ただの操り人形です」

 

 数千を超える黒剣が唯の背後に展開される。

 唯は右手を振り上げ、剣群に指示を出した。

 矢のように解き放たれた死の黒剣が天羽璃奈へ襲い掛かる。

 

 だが、本来なら付与できる自動追尾機能はついていない。

 常人なら一瞬で塵になる攻撃――しかし天羽璃奈なら回避できる、そんな甘い攻撃だった。

 

「そんな貴女に勝つのは簡単なことですけど……でも、それってなんだか……卑怯じゃないですか」

 

 夜空を白い翼が駆ける。

 その軌跡を眺めながら、唯は声が届かないと知りつつも、胸の奥に溜め込んだ想いをそっと吐き出した。

 

「私は、そういう卑怯なのは、大っ嫌いなんです」

 

 卑怯は嫌い。

 大っ嫌い。

 

 理由なんて、そんなもの。

 十六夜唯は――誇り高い少女だった。

 気高い魂を持つ女性だった。

 たとえ悪魔の側につくと決めたとしても、その高潔さだけは、誰にも奪えない。

 奇しくも、その在り方は血の繋がりがないはずの兄とよく似ていた。

 

「あの意地悪で嘘つきで卑怯者の先輩と違って、私は全部真正面から打ち砕いて見せます。運命も、敵も、全部真正面から。欲しいものは自分で手に入れます。だから――」

 

 唯は薄くなった弾幕を抜け、一気に加速してきた天羽璃奈を睨みつけた。

 天羽璃奈は表情を失った人形のような顔で、銃剣を突き出してくる。

 唯が近接戦を苦手としていることを理解した上での、冷徹な刺突。

 

 モルヴェリアが咄嗟に死の線か盾を構えるよう忠告するが、唯はそれを無視した。

 

 突き出される銃剣。

 唯はその刃を――両手で掴み取った。

 

「ッ!」

『ユイ!』

 

 掌から血が溢れ出す。

 切り裂かれた手のひらが痛む。

 いかに死王女を宿していようとも、悪魔が祓器に素手で触れれば負傷は避けられない。

 

 それでも、唯は怯まなかった。

 

 キッと力強い目で天羽璃奈を睨みつけ、頭を振りかぶり――

 

「――こんなところで、眠ってるんじゃないですよ! いい加減、起きなさい!」

 

 渾身の頭突きを叩き込んだ。

 

 唯は()()である。

 比喩ではなく――いや、比喩も含めて、彼女は石頭である。

 

 大砲が岩を砕いたような衝撃音が夜空に響き、脳を揺らす一撃を受けた天羽璃奈は全身の力を失い、そのまま地上へと堕ちていった。

 

「モルヴェリアさん! 拘束用の技ってありませんか? できれば相手を傷つけないやつがいいです」

『やれやれ……とんだお人好しじゃのう、ユイは』

 

 内心でモルヴェリアが呆れた声を漏らしながら、力の使い方を伝授する。

 文字通り一心同体である唯は、すぐにその使い方を理解し――

 

「ありがとうございます! ちなみにお人好しじゃありませんから!」

『では、あの小僧のためか』

「だ、誰があの先輩のためなんかに働きますか! これは私のためです! 断じて先輩のためなんかじゃないんですから! 勘違いしないでくださいよね⁉」

 

 ――と、今どき珍しいほどのコテコテなツンデレ弁をまくし立てながら、指揮者のように手を振るった。

 

死王女の鎖(モル・チェーン)――!」

 

 どこからともなく出現した黒色の鎖が天羽璃奈に絡みつく。

 捕縛者の力を抑制するその鎖は、抵抗する天羽璃奈の翼と身体をがっちりとホールドし、

 羽ばたこうとする動きを完全に封じた。

 

 やがて、超速で動き回っていた天羽璃奈は空中に固定される。

 

「ふふん、私とモルヴェリアさんに掛かればこれくらい余裕――」

 

 調子に乗った唯が腕を組み、渾身のドヤ顔を披露したその瞬間、地上から強烈な魔力反応が立ち上がり、唯は即座に表情を切り替えて赤と黄金の瞳を地上へ向けた。

 死王女の力で望遠鏡のように強化された視力が、地上の様子を鮮明に捉える。

 

「――えっ……」

 

 拘束した天羽璃奈に背を向けたまま、唯は唖然とした声を漏らした。

 拡大された視界に映っていたのは、あまりにも奇妙で、あまりにも異常な光景。

 先ほどまでそこにあったはずの海浜公園が――丸ごと消失していた。

 まるで、その空間ごと削り取られたかのように。

 

「モルヴェリアさん、皆さんはどこに行ってしまったのでしょうか……?」

 

 不安そうな表情で、内側の同居人へ問いかける。

 

『空間が切り取られておるな……恐らく大公クラスの悪魔が、無理やり自分の空間に引きずり込んだやもしれん』

 

 悪魔に関する豊富な知識を持つモルヴェリアは、唯を通して地上の様子を確認し、推察を口にした。

 二人の脳裏に同時に浮かぶのは、文化祭の時の事件――血の迷宮。

 苦い記憶がよぎり、二人とも表情を歪める。

 

「……皆さんが引きずり込まれた場所って分かりますか?」

『悪いが、わしはそういう作業が苦手なのじゃ。痕跡でも見つけられれば、すぐにでも小賢しい小世界ごと破壊できるのじゃがな……』

 

 苛立ち気な声で呟くモルヴェリア。

 血の迷宮でもそうだったが、唯とモルヴェリアは地藤優斗の“悪魔の屁理屈”による道案内を受けるまでメフィラの悪質な空間に閉じ込められ、自力で地藤たちの位置を特定することはできなかった。

 人に得意不得意があるように、悪魔にも得意不得意があるのだ。

 

「しかし、そうなると困りましたね……兄さんたちが心配です」

 

 ブラコン全開の発言をしながら、唯はあてもなく周囲を見渡した。

 その時、彼女の視界に、エクソシストらしき服装の人々が消失した海浜公園の周囲を巡回している姿が映り込む。

 急ぎ駆けつけたものの、味方のエクソシストどころか“門”ごと消えてしまっているため、状況が飲み込めず動揺しているのだろう。

 

「あぁっ‼」

 

 突如、唯は大きな声を上げた。

 

『どうしたのじゃ、ユイ』

「た、大変です! 大変ですよモルヴェリアさん!」

 

 唯は消失した海浜公園跡を指さしながら叫んだ。

 

()()()()()()()()()! 兄さんたちと一緒に消えちゃってます!」

 

 ある意味当然と言えば当然だが、海浜公園の中央に鎮座していた巨大な悪魔の“門”は抉り取られた空間と共に跡形もなく消え去っていた。

 

『……なるほど、“門”を起点にして己の世界を構築したというわけか』

 

 大公クラスが現世に出現し、なおかつその力を全力で振るうためには相応の準備が必要となる。

 血の大公がそうであったように、霧島レイを利用して念入りに準備を進め、ようやく悲願を果たそうとしていたのと同じ理屈だ。

 

『これは、かなりまずいやもしれんな……』

 

 悪魔四騎士、死王女モルヴェリアは静かに呟いた。

 

 唯たちが地上の異変に気を取られている、そのほんの一瞬の隙に――

 空中で拘束されていたはずの天羽璃奈の気配が、ふっと煙のように消えた。

 まるで、影が影の中へ溶けるように。

 超越者が玩具を己の懐に仕舞ったかのように。

 

 

 その異変に遅れて気付いた唯が、顔を真っ赤にしてぷんすか怒り出すまで、あと数秒――

 

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