世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
鉄の大公が展開した空間――鉄の要塞。
まるで中世西洋の戦乱期に築かれた石造りの城塞を、すべて鉄で再現したような異様な建造物が、海浜公園一帯を完全に飲み込んでいた。
自然豊かで穏やかだった海浜公園の姿は、跡形もない。
芝生も木々も遊歩道も、すべてが冷たい鉄板と鋼鉄の壁に塗りつぶされている。
四方を囲む壁はまるで山脈のように高く、レイたちの正面には巨大な鉄の要塞がそびえ立っていた。
見上げても頂上が見えないほどの高さの要塞。
壁面には血のように赤黒い錆が滲み、風が吹くたびに血と鉄の匂いが鼻を刺す。
「皆さん、集まってください。散り散りになってはいけません」
内部に囚われたエクソシストたちは動揺を隠せずにいたが、霧島レイは血の迷宮での経験を思い出し、すぐに冷静さを取り戻した。
彼女の声に従い、仲間たちは鉄の床に靴音を響かせながら一か所に集まる。
「霧島さん、これは一体……」
「恐らく、大公クラス特有の空間浸食能力でしょう。以前に戦った血の大公が同じような現象を引き起こしていました」
レイの説明を聞きながら、エクソシストたちは改めて周囲を見渡す。
彼らを取り囲む鉄の要塞は海浜公園の面影を覆い隠し、重苦しく武骨な雰囲気を放っている。
確かに以前の空間は完全に侵食されてしまっていた。
「ッ! 全員構えて! 何か来ます!」
周囲の様子を観察していたレイの真紅の瞳が、要塞の巨大な門が開く瞬間を捉えた。
ギギギ……と、鉄が擦れ合う不快な音が空間に響く。
重厚な鉄扉がゆっくりと開いてく。
そして、今度は別の音が響き始めた。
カン……カン……カン……
金属が金属を叩いているような音。
それは、足音だった。
規則正しい足音が列をなし、行進している音だった。
やがて、暗闇の中から姿を現したのは――
「鉄の兵士たち……?」
全身を鉄で覆われた兵士たち。
兜も鎧も皮膚も顔も、すべてが鉄でできている。
まるで中世の騎士像がそのまま歩き出したような異様な存在だ。
彼らは言葉を発することなく、ただ重々しい足音だけを響かせながらレイたちへ行進してくる。
加えて、今回はその数が尋常ではなかった。
「ッ! こっちからも⁉」
右方向から迫ってきた軍勢を目にし、八馬継メイが叫ぶ。
「こっちからもだ……!」
左方向からも向かってくる軍勢を前に、獅子頭は歯噛みした。
「……八方塞がり、か」
長谷川はいつもの冷静な声をわずかに震わせながら、絶望的な状況をあえて口にした。
正面の要塞、右方、左方、後方――
ありとあらゆる方角から押し寄せる鋼鉄の軍勢。
いかに強力なエクソシストを二名有しているとはいえ、十名にも満たない戦力で埋められる差ではなかった。
「――でも、やるしかないでしょう」
若く、未熟で、エクソシストとして目覚めたばかり。
だが血の迷宮という絶望的な試練を乗り越えた黄金の精神の持ち主――十六夜蓮は、静かに巨剣を構えた。
彼は信じている。
自分と、仲間たちの力を。
自分たちであれば、きっとこの逆境を乗り越えられることを。
「……確かに、諦めるにはまだ体力が有り余っているところでした」
ユリウスは槍をくるりと回しながら軽口を叩く。
他の面々も十六夜蓮の静かな戦意に触発されたように、各々の武器を構え始めた。
まだ、諦めるには早い。
皆が来るべき衝突の瞬間に備えて臨戦態勢を整える中――霧島レイは、強烈な違和感に襲われていた。
(なんだ、この違和感は……)
すでに十分すぎる窮地に立たされているにもかかわらず、これはまだ序章にすぎないと本能が告げているような――
(……なにかが、おかしい)
深淵を覗き込んだつもりが、実は浅瀬だったと気付いた時のような――
恐怖と不快感がごちゃ混ぜになった感覚。
彼女は原種の吸血鬼である。
故に、その直感は決して侮れない。
事実、彼女の直感は正しかった。
誤りなど微塵もなかった。
……もっとも、ここまで引きずり込まれた時点で、彼女にどうこうできるレベルなどとうに過ぎ去っていたのだが。
「停止」
要塞の頂に立つ鉄の大公が、錆びついた鐘のような声で命じると、鉄の兵士たちは主君の命に従い、一斉に行進を止めた。
海浜公園を呑み込み、さらに拡張されたこの異界の敷地には数千どころか数万の鉄の軍勢が整列しており、その光景を見下ろす鉄の大公は、ただ使命だけを宿した無表情で最後の命令を下した。
「
その言葉と同時に、鉄の大公は己の胸へ鉄棒を突き立てた。
そして――兵士たちもまた、迷いなく主君に倣い、己の武具で己の胸を貫いた。
「「「ッ⁉」」」
悪魔の大公が自害し、その軍勢までもが一斉に命を絶つという異常事態に、空間そのものが沈黙する。
「い、一体、何が起きて……」
ユリウスの声は震えていたが、答えられる者は誰もいない。
ただ一人――鉄の大公だけが、理解していた。
「歓、喜……!」
胸を貫かれ、血と鉄屑を吐きながらも、鉄の大公は笑っていた。
苦痛に歪みながら、それでも確かに歓喜していた。
彼は己の役割を果たすのだ。
ただ一人の主君のため。
偉大なる、あのお方のために。
鉄の要塞の中で生み出された、数多の兵士たちの命。
そして――強大な力を持つ悪魔大公そのものの命。
彼らの命が、魔力が、魂が、吸われていく。
天に座す“門”へと吸収されていく。
それは正しく魂の帰還のような光景だった。
雨が降る――いや、昇っていくような光景。
「開、け……!」
全身の魔力を吸収され、命を貪られながらも、鉄の大公は笑っていた。
笑いながら、祈りを込めて“門”へと訴えかける。
膝を折り、己自身を捧げるその献身的な行為。
それはまるで、天へと近づいていく信者のような光景だった。
――その実体が悪魔であり、その“門”の正体が地獄そのものだとしても。
十分な魔力。
十分な魂。
それらを貪り尽くした今――
「“門”が……」
――遂に開いた。
魔界に通ずる“門”の奥から、一つの影が歩いてくる。
数千――数万の悪魔が押し寄せるはずの“門”は、しかしその男のためだけに開かれていた。
その男だけが空間を占領し、その男だけが歩いていた。
一歩踏み出すたびに、鉄の要塞が軋む。
空気が震え、世界がわずかに沈む。
桁違いの魔力と圧力が、存在そのものから滲み出ていた。
やがて、“門”から歩み出た男は軽い動作で空中へ一歩を踏み出し――その軽さに反して、鉄塊が落ちたかのような轟音を響かせながら鉄の要塞の地面に着地した。
(なんだ、これは……!)
正面に着地した男を見て咄嗟に刀を構えたレイは、自分の手を見て驚いた。
(なんなんだ、これは……⁉)
大公たちにも臆することなく立ち向かう彼女の手が、震えていた。
彼女は気づかない。気づく余裕もない。
それが原種の吸血鬼の優れた直感が発している警告であることに。
――絶対に勝てない相手を前にした、生命の防衛反応であることに。
「なんだ、こいつは――」
一方、あまりにも力の差があり過ぎるためか、その脅威に気づききれていない獅子頭は首を傾げた。
「――赤い、騎士……?」
彼がそう表現したのも無理はない。
“門”より現れたその男は、異様な出で立ちをしていた。
全身を隈なく覆う豪華絢爛な紅蓮の甲冑。
その上からさらに濃い色合いのマントが重く垂れ下がり、まるで炎の影が揺れているように見える。
甲冑は巨大で、普通なら動きを阻害するはずの重量と構造をしている。
だが男は、まるで自分の皮膚のように自然に、滑らかに動いていた。
騎士甲冑にも似た鎧の表面は焼けた鉄のように赤黒く光り、戦場の熱と血をそのまま固めたかのような質感をしている。
顔にはフルフェイスの兜が被られ、その顔立ちも表情も丸ごと覆い隠されていた。
徒手空拳であり、武器は所持していない。
だが、その姿はまさしく紅蓮の騎士のようだった。
――もっとも、その実体は騎士から程遠いのだが。
着地した紅蓮の男はゆっくりと顔と身体を上げていく。
まるで、この世界に自分を馴染ませるかのように。
完全に直立した男は、身長180㎝ほどに見えた。
確かに長身ではあるが、超巨大な悪魔のような巨体ではなく、あくまでも人間の中でそこそこ背が高い部類に入る。
正確な体躯は甲冑のせいで分からないが、少なくともあの鎧を身に纏ってスムーズに動けるだけの筋肉質な体躯であることは間違いない。
男はゆっくりと首を回し――不意に、兜の中から不躾な視線をレイたちに送った。
「「「「ッ――⁉」」」」
少し睨まれただけである。
だが、その一瞬でようやく皆が理解した。
――いや、
これは、絶対に勝てないものだ。
戦いという概念そのもの。
あまりにも巨大で、あまりにも圧倒的な戦の化身。
何が現れたのかを悟ったレイたちは、絶望した。
彼女たちが相対しているのは、悪魔たちの頂点である。
その悪魔を知らぬ者はいない。
その名に恐怖しない者はいない。
その悪魔の名は――
「紅の戦君バルナハルト……!」
霧島レイが震える声でその正体を告げる。
『……』
紅蓮の甲冑に身を包んだ紅の戦君バルナハルトは、何も答えなかった。
ただ、沈黙したまま――最初の一歩を踏み出した。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「おうおう、やーっと来やがったかァ。ったく、手間取らせやがって……俺様がサポートしなきゃ現世に出現もできないとは、我が部下ながら要領悪くて情けねェぜ。――なァ、お嬢ちゃんもそう思うだろォ?」
「……」
現世でも魔界でもない、世界の狭間。
どこでもない場所で事の推移を見守っていた黒い影――悪魔王ベルファルドは、片膝をついて頭を垂れる少女へと語り掛けた。
返事はない。
彼女――天羽璃奈の自我は剥奪されており、答える術を持たない。
分かっていながら問い掛けたベルファルドは、つまらなそうに溜息をついた。
「一人で喋ってんのも退屈だねェ。ま、ここから先はバルナハルトが大暴れして人間どもを皆殺しにして終わりだろうし、ゆっくりのんびり観戦と洒落こむかァ……」
悪魔王は一仕事終えたような雰囲気を漂わせながら、どこからともなく豪奢な玉座を出現させ、片膝を立てた行儀の悪い姿勢で腰掛けた。
「ったく、悪魔の王も楽じゃないねェ……お気楽なモルちゃんが羨ましいぜ」
ベルファルドが愚痴を零す視線の先には、何らかの原理で現世の様子が映し出されていた。
雲よりさらに上の超高度で、黒いドレスを纏った少女が顔を赤くしながら癇癪を起こしている。
彼の娘モルヴェリアと、その宿主である十六夜唯だ。
そして、その隣には――
不意に。
物言わぬ人形のように鎖に拘束されていた天羽璃奈の顔が、ゆっくりと持ち上がった。
「あァ?」
顔を上げろと指示した覚えはない。
ベルファルドは眉をひそめる。
自我を剥奪されたはずの天羽璃奈は、ここではないどこかをぼんやりと見つめていた。
光を失った瞳で、一心不乱に。
「なんだァ? 故障かァ? まだまだお嬢ちゃんには働いてもらわなきゃいけないってのに、それは困る――」
そこで、ベルファルドはようやく気づいた。
少女の視線の先にあるものに。
さらりと見逃していた少年の姿に。
「……おいおい、なんであの兄ちゃんがあそこにいるんだァ?」
悪魔王ベルファルドは、悪魔たちの頂点に君臨する王だ。
四騎士の圧倒的な武力に加え、メフィラのような狡猾さと万能さを併せ持つ、悪魔の中の悪魔。
故に――彼が直々に創り出し、閉じ込めたはずの少年が、何事もないような顔で宙を漂っているのは、想定外もいいところだった。
「つーか、よく見たら契約破られてるじゃねェか……あの小僧、何しやがった?」
天羽璃奈との契約を確認し、それが完全に破られていることを知ったベルファルドは、低い声で呟く。
契約の相手である天羽璃奈は目の前で人形のように沈黙している。
つまり、あの少年は独力で檻を突破したということになるが――そんなことはあり得ない。あってはならない。
ベルファルドは黄金の瞳を細め、地藤優斗を観察する。
「――っていうか、あの餓鬼、なんだァ……?」
地藤優斗が腕に抱いている赤毛の少女。
その姿に見覚えがなかったベルファルドは首を傾げる。
しかし、彼は聡明で、察しのいい悪魔である。
「あァ、そういうことね」
すぐにその正体を看破した彼は納得したように頷き、犬歯を剥き出しにして笑いながら――青筋を立てた。
「ハハハハハッ! なるほどなァ、こいつは一本取られたぜェ……メフィラか」
ついでに裏にいる仕掛け人まで看破した悪魔王は、深い溜息をついた。
脳裏に浮かぶ、不敵な笑みの少女。
彼の子供たちの中で最も濃くベルファルドの血を引いた逸材。
悪辣なる悪魔姫。
十中八九、彼女の介入によって悪魔王と天羽璃奈との契約は破られたのだろう。
しかし。
彼女がエクソシストたちの“主”を裏切り、ベルファルドと契約を結んだ事実は消えない。
つまり、彼女を傀儡にしている悪魔王の力が弱まったわけではない。
……にもかかわらず。
「――で、お嬢ちゃんはどうして動けるのかねェ……?」
ベルファルドはゆっくりと視線を戻す。
天羽璃奈は、動いていた。
拘束の鎖に囚われながら、それでも少しずつ身体を震わせ、動いていた。
――景色の中に映る最愛の少年へ、ほんのわずかでも近づくために。
「愛の力……なんてチープで反吐が出る答えはやめてくれよ。俺様、自分が情けなくなっちまうからよォ……」
ガッと天羽璃奈の小さな顔を右手で鷲掴みにし、紫の瞳を覗き込む悪魔王。
口調こそ軽妙だが、声音は低く、黄金の瞳は瞳孔が開ききっており、彼が苛立っていることは明白だった。
天羽璃奈は何も答えない。答える術を持たない。
だが、それでも彼女の身体は動き続けていた。
わずかずつだが、地藤優斗を目指して、悪魔王の呪縛に必死に抗っている。
「ったく、どいつもこいつも勝手しやがって、言うこと聞きやがらねェ……俺様、これでも悪魔王なんだぜェ……? プライドが傷つくじゃねェか」
深いため息をつきながら、ベルファルドは璃奈の顔から手を離し、再び投影された画面へ視線を戻した。
視線の先では、死王女と合流した地藤優斗が空中で何やら話している。
何をするつもりなのかは分からない。
だが、メフィラの力と原種の吸血鬼の力を取り戻した、あのハチャメチャな少年が何をやらかすのか――少なくとも、ベルファルドにとって碌な結果にならないことだけは容易に想像できた。
「今、お嬢ちゃんを投入してもアイツらにボコボコにされるだけだろうしなァ……おまけに、お嬢ちゃんは謎の力で自我を取り戻しかけているしよォ――」
と、独り言を漏らしていた悪魔王は、ふと動きを止めた。
画面の中の地藤優斗と、必死に人形から人間へ戻ろうとしている天羽璃奈を見比べる。
そして、
「――あァ、そうだ。いいこと思いついたぜェ」
ベルファルドの口元に、ニヤァ、と邪悪な笑みが浮かぶ。
それはメフィラが浮かべる笑みとよく似ていた。
悪魔王は、なおも抵抗を続ける天羽璃奈にすり寄り、そっと囁く。
「お嬢ちゃん、あの小僧に会いたいか?」
「……」
天羽璃奈は答えない。答えられない。
だが、彼女の身体は今もなお、最愛の人へ近づこうと藻掻いていた。
絶対のはずの悪魔王の力に、抗っていた。
その様子を見て、ベルファルドは鷹揚に頷いた。
「いいぜェ、会わせてやろう」
地藤優斗は先が読めない少年だが、天羽璃奈が絡むと途端に分かりやすくなる。
彼女を投入すれば何が起きるのか。
その先の展開を読みながら、悪魔王は悪辣に嗤う。
そして、彼の娘と同じように右手を持ち上げ――
「2人きりのデート、楽しんできなァ」
――軽快に、その指を鳴らした。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
消えた海浜公園と、“門”。
世界が揺れる感覚。
僕は知っている。この状況を知っている。
これは正しく、原作通りの展開に他ならない。
僕が危惧していて、絶対に回避したいと思っていた最悪の展開そのものだ。
そう、つまり――僕は失敗したのだ。
また、失敗したのだ。
絶対に防ぎたかった展開を防げず、みすみすと、易々と、奴の出現を許してしまった。
桁違いの力を持つ悪魔たちの頂点の一つ。
悪魔四騎士が一人。
紅の戦君バルナハルト。
どうやったって勝てるわけがない、最悪の――いや、災厄の悪魔の一体。
反則としか言いようがない権能と、馬鹿みたいな魔力量。
全盛期の死王女でしか互角に張り合える相手がいなかったともされる、超級の巨大戦力。
「クソ……」
思わず情けない声が漏れる。
今回こそは何とかしようと決意していたのに、このざまだ。
そして、その大元を辿れば、僕が璃奈とのコミュニケーションを怠っていたことが原因で――過去に戻って全部やり直したい気分だ。できれば、赤ん坊時代から。
というか、この世界に来てからというもの、僕の思い通りになった展開など一度もない気がする。
あれやこれやと手を尽くしても、結局思い通りにならず、なんなら状況を悪化させ続けてきた。
半端に知識を持っているせいで欲をかいてしまう。
半端に力を得てしまったせいで、調子に乗ってしまう。
――そんな有様だから、璃奈に大事なことを伝えきれていなかった。
もうここまできたら、僕は何もしない方が世界のためになる気がしてきた。
結局、こうしてまた四騎士を現世に出現させてしまったわけだし――
「あっ」
――いや、ちょっと待てよ。四騎士?
「あぁッ!」
いた!
「いた!
「……先輩、人を指さすのは失礼ですよ」
いや、君にだけは言われたくない。
人差し指で何でも殺してしまう君には――と、いつものように軽口を言おうとした僕だけど、流石に自重した。
ここで彼女を怒らせても話が長くなるだけだし、何より彼女は僕たちにとっての救世主だからだ。
というか、唯ちゃんを焚きつけて海浜公園に行かせていたのも、本来は四騎士の出現を阻止するためだったが、こうなった時に何とかしてもらうための最大の保険でもあった。
「唯ちゃん、今すぐに紅の戦君のところへ向かおう! じゃなきゃ、君のお兄さんも、霧島先輩も、ユリウスも、みんな死んでしまう……!」
「……先輩に言われなくたって、最初からそのつもりですよ。ただ、行き先が分からないならどうしようも――」
「大丈夫。道は僕が開くから」
「あれ、取っ掛かりがないと難しいって言っていませんでしたっけ?」
「うん。でも、今なら大丈夫」
僕はハッキリと断言した。
「今なら、開けるよ」
僕は腕の中にいる少女へチラリと視線を向ける。
猫のような少女は、相変わらず何事にも興味がなさそうな無表情で欠伸をしていた。
呑気なもんだね、全く。
「何のことだか分かりませんが……先輩が道を開いてくれるというなら、足を運ぶこともやぶさかではありません。さっさと行きましょう」
「分かった。ありがとう、唯ちゃん」
「べ、別にお礼を言われるようなことじゃ――」
頬を赤くして、いつものツンデレ発言が飛び出すかと思いきや、唯ちゃんは突如として表情を引き締めた。
尋常ではない魔力が発せられる。
どうして今、臨戦態勢に――?
「――先輩、気を付けてください。何か来ます」
「何かって、何が――」
これ以上のトラブルなどごめん被りたいところなんだけれど――なんて甘いことを考えていた僕は、間違いなく甘ったれだった。
訪れたのは、考えうる限り最悪のトラブルだった。
災厄だった。
少なくとも、僕にとっては。
「……おい、上から来るぞ」
面倒くさそうな声で、腕の中の少女が忠告する。
僕はすぐに翼を広げ、その場から離脱した。
次の瞬間、僕たちがいた場所に翡翠色の雨が降り注いだ。
……翡翠色、だって?
エクソシストの霊力は、その純度が高いほど寒色に近づくとされている。
最も純度が高いのは透明で、その次は青系の色。
そういう意味でいけば、彼女の霊力は純度で言えば最上級とは言い難い。
けれど、僕はその光が好きだった。
儚くも美しい、その色合いが大好きだった。
オーロラのような霊光を持つ少女は、ただ一人――
「璃、奈……」
僕の目の前には、背中から翼を生やし、全身に醜悪な刺青を施された彼女がいた。
人形のように冷たい瞳で僕を見つめながら、銃の引き金を引いて――
「ばか、死にたいのか?」
僕に直撃するはずだった攻撃は、しかしいつの間にか全て消滅していた。
ゆっくりと視線を下に向ける。
面倒くさがり屋で無表情の少女が、その右手を虚空に突き出していた。
どうやら、彼女に助けられたらしい。
お礼を言わないと――
「あぁ、お前はもう死なないんだったな。助けて損した」
「……」
「……おい、なんか言えよ」
――でも、ダメだ。口が、動かない。
「はぁ……重症だな。このままじゃ、私の仕事にも支障が出るし、仕方がない」
いつもやる気がなさそうな少女は深いため息をついてから、
「面倒だが、あの女は私が――」
「
その言葉だけは、すんなりと口から出てきた。
それだけは、ダメ。
彼女が何をするつもりかは一目瞭然だ。
――そして、彼女であればそれも可能なことも。
それだけは、許すわけにはいかない。
僕は変わり果ててしまった璃奈を真っすぐに見つめながら、決意を口にする。
「璃奈は……僕が何とかする」
「何とかできそうには見えないが」
「僕が何とかするって言ったら、何とかするんだよ。信じろ」
「……はぁ」
バカでかい溜息をつかれてしまった。
気持ちは分かる。この少女とは数週間前から交流はあるものの、言葉を交わしたのはついさっきだし、どうやら謎に嫌われているらしいし、信じろも何もないだろう。
でも、何を言われたって、こればかりは譲れない。
だって――
「これが、僕の生きる意味なんだ。分かって欲しい」
「……」
少女は猫のような黄金の瞳でじっと僕を見つめてから――
「……好きにしろ」
吐き捨てるように、そう言ってくれた。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。単純に、あの女の相手をするのが面倒なだけだ」
「君は本当に面倒くさがりだねぇ……でも、今はそれがありがたい」
これは、僕と璃奈の問題だ。
他人を巻き込むわけにはいかない――いや、違う。
他人に居てほしくないんだ。
「唯ちゃん!」
僕は大声で後輩の名前を呼んだ。
「……なんですか? 今、忙しいんですが」
サボっている僕と少女の代わりに弾幕を張って璃奈を牽制していた唯ちゃんが、片手間に弾幕形成を続けながらこちらへ近づいてきた。
不機嫌そうな物言いだが、その顔はどこか気まずそうだ。
その表情を見て、僕は先ほど唯ちゃんが何を言おうとしていたのか悟った。
――彼女はきっと、璃奈と戦っていて、そのことを伝えようとしてくれていたのだろう。相変わらず、律儀な子だ。
「今から僕が道を開くから、この子と一緒に先に行っていてくれないかな? 必ず後から追いつくから」
「……」
唯ちゃんは無言で僕と少女を見比べ、呆れたように大きな溜息をついた。
なんか、さっきから溜息ばっかりつかれてるな……。
「全く……先輩は、いつも先輩ですね」
「そりゃあ、どうあがいたって君の後輩になることはないだろうね」
「もうっ! そういうことじゃありませんッ!」
ぷんすか怒る唯ちゃん。もちろんそんなことは分かっている。
僕は怒る彼女が可愛くてやっているのだ。
ちなみに口にしたら殺されるだろうから、言うつもりはない。
「悪いね、唯ちゃん。いつもお願いごとばかりで」
「別に、いいですよ。……まぁ、たまにはご褒美があってもいいんじゃないかな~って思わなくもないですけど――」
「さーてと。道を開こうかぁ」
「話聞いてます⁉」
秘技、話聞いてないフリ。
こんなじゃじゃ馬の頼み事なんて聞いていたら、身体が何個あっても足りない。
聞き流すに限るね。
「
僕は取り戻した権能を発動させ、世界に対して屁理屈を捏ねる。
縁を辿り、妥当な言い訳を並べてやれば、ほら。
「これが道、ですか」
空間に亀裂が走る。
やがて亀裂は広がり――数人なら何とか通れそうな裂け目が空中に生まれた。
「狭くないですか?」
「狭いな。アイツの度量と同じく、狭苦しい」
せっかく道を開いたのに文句を連ねるガールズたち。
心が狭い男で悪かったね。
「ほらほら、文句を言ってないで、早く行ってくれ。開いていられる時間はそう長くないからさ。――あっ、そうだ、この子をお願い」
急かせば、ぶーたら文句を言いつつも、唯ちゃんは少女を空中で受け取り、抱えながら裂け目の中へと入っていく。
その背中に向かって、僕は祈りを込めながら声を掛けた。
「……唯ちゃん、それから君、よろしく頼むよ」
「頼まれるまでもありません」
「……」
唯ちゃんは毅然とした態度で言い切り、赤髪褐色肌の少女は無言で中指を立ててくる。
あまりにもらしい二人の様子に、妙な安心感が胸に湧いた。
裂け目の中へ入っていく背中を見送る。
そんな中、死王女の弾幕が途切れた瞬間を狙い、同じように裂け目へと突入しようとする影が――
「ごめんね、璃奈」
僕は裂け目の前へ移動し、刀を振り翳した。
裂け目へ急接近していた璃奈は、翼で急ブレーキをかけ、立ち塞がった僕へ銃剣を振りかぶる。
衝突する刃と刃。
絡み合う視線と視線。
「ここを通すわけにはいかないんだ」
彼女に言い聞かせるように。
そして何より、自分自身に言い聞かせるように宣言する。
やがて僕が開いた道は、空間に飲み込まれるようにして消滅し――目的が切り替わったのか、璃奈は鍔迫り合いを止め、後方へと下がった。
「……璃奈、怒ってる……?」
表情を失い、傀儡のようになってしまった彼女に声を掛ける。
彼女は何も答えない。
紫の瞳に怒りの色も見えない。
でも、僕は知っている。
彼女は怒っていた。
そして、悲しんでいた。
僕と一緒にいられないことに。
僕があまりにも厄介ごとに巻き込まれ過ぎていることに。
彼女の怒りはごもっともだ。
彼女の目線から見れば、僕は危なっかしい爆弾そのものだ。
謝るべきことは山ほどあるし、もっと考えて動くべきだった。
その点については反省しているし、申し訳なく思っている。
でも――
「でもね、
どうして僕に相談してくれなかったのか。
どうして僕と話し合ってくれなかったのか。
どうして――悪魔王なんかと手を組んだのか。
言いたいことは色々ある。
でも、それはお互い様だ。
お互いに、どちらも悪い。
だったら、もうやるしかない。
この際、全部ぶつけるしかない。
どのみち、話し合いができる状態じゃないんだから。
「……そういえば、付き合ってから初めてかもね」
静かに銃剣を構える璃奈に話しかける。
彼女は答えない。
ただ無言で漆黒に染まった羽を広げる。
それに合わせて、僕も銀と黒の翼を広げた。
「まぁ、偶にはこういうのもいいでしょ」
仲良しこよしも結構だが、長い間一緒にいて何もトラブルがないなんてことはあり得ない。
僕も璃奈も、人間なんだから。
「それじゃあ――」
堕天使のような姿でこちらへ突進してくる彼女を前に、僕は吠えた。
「――喧嘩、しようかッ!」
そうして、僕たちカップルの初めての喧嘩の幕が開いた。