世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
悪魔は人間に情など抱かない。
それは、疑いようのない"摂理"である。
悪魔は徹底して人間を下等な存在と見下し、価値あるものとして認識することすらない。せいぜいが玩具、もしくは糧。弄び、壊し、捨て去る――それが"人間"という存在に対する、悪魔たちの普遍的な態度だ。
ごく稀に、利害の一致から一時的に手を組むこともあるが、それも所詮は"裏切る前提の関係"に過ぎない。
"悪魔にとっての友情"とは、欺き合い、利用し尽くすための手段でしかない。
――だが、何事にも例外はあるものだ。
原作において、"たった1匹"だけ、人間に情を抱いた悪魔がいた。
その名を――
モルヴェリア。
またの名を、"死王女"。
悪魔の中でも上澄みの上澄み――
最上位の実力者である『四騎士』の一角にして、"災厄"そのものと恐れられる存在。
彼女は単独で世界を滅ぼせる力を持ち、四騎士の中でも純粋な戦闘能力だけなら上位三位以内に確実に食い込む。
条件次第では、最強の座すら奪い取ることができる、本物の"異次元生命体"だ。
だが、そんなモルヴェリアはとあるエクソシストに敗れ、瀕死の重傷を負うことになる。
悪魔は人間に情を抱かないが、悪魔に対しても情を抱くことはない。
隙を見せればすぐに食われる下剋上の世界の中に留まれば呆気なく消滅させられることは必至。
モルヴェリアは魔界からまだ使える部下を何人か連れて現世に逃亡した。
嘗ては取るに足らない存在だったエクソシストたちから必死に身を隠し、逃げ回る日々。日に日に力は弱まり、嘗ての面影をなくしたモルヴェリアは疲弊しきっていた。
自身に傷を負わせたエクソシストを憎み、思い通りにならない世界を憎み、人間も悪魔も全てを憎み――憎み疲れて絶望していたモルヴェリアは運命と出会った。
十六夜唯である。
彼女は、モルヴェリアにとって"最高の依り代"だった。
――いや、"最悪"の依り代だったのかもしれない。
身に宿す、常軌を逸した魔力。
生まれつき発現した、異端の能力――「受容」。
通常、悪魔が人間に憑依することは長くは続かない。
悪魔の魔力は、人間にとって"毒"でしかないからだ。
魂は蝕まれ、肉体は崩れ落ち、やがて器は砕け散る。
だが、十六夜唯だけは違った。
彼女の能力「受容」は、その名の通り――あらゆるものを受け入れる。
悪魔の魔力すらも、彼女の身体は拒まなかった。
"あまりにも都合が良すぎる"。
まるで、最初からモルヴェリアのために用意された器のように。
それも、そのはずだった。
十六夜唯は、悪魔をその身に宿すために生まれてきた。十六夜家が生み出した、"最高傑作"。
そのために、命を与えられた少女だった。
「悪魔が強大ならば、こちらも悪魔になればいい」
エクソシストと悪魔の戦いに終止符を打つため、退魔師の名門、十六夜家の当主はそう考えた。
"毒を以て毒を制す"――悪魔を討つために、悪魔と同化する人間を作り出す。
その狂気じみた理論の果てに生み出されたのが、唯だった。
だが――その反動は、あまりにも大きすぎた。
"受容する"という力は、"純粋な人間"としての肉体を保つことを許さなかった。
"人間"でありながら、"人間"の理から外れた存在。
生まれた時から、壊れることが前提の器。
産声をあげた瞬間から、"薄幸"であることを定められた少女。
彼女は、然るべき日が訪れるまで病院という名の檻に幽閉され続ける運命にあった。
"ただ、悪魔を宿すその時まで"。
――たとえ、十六夜家の当主が事故で死に、彼女の"存在意義"が消えたとしても。
そのことすら知らぬまま、彼女はただ独りで、閉ざされた空間の中にいた。
『ユ、イ……』
悪魔は人間に情など抱かない。
だから、その時のモルヴェリアは悪魔として
瀕死の重傷を負い、機能が低下していたのだろう。
病院という箱庭で一人、兄の来訪だけを心待ちにする彼女。
何も悪くないのに、自罰的な彼女。
禁じられた想いに葛藤する彼女。
通常の悪魔であれば、笑って眺めるだけの"茶番"。
泣き叫ぶ人間を、痛めつけ、弄び、壊していく――それこそが悪魔の本性。
だが、モルヴェリアは違った。
あろうことか、彼女は共感してしまった。
――情を抱いてしまった。
それが親心に似た親愛だったのか。
境遇に共鳴した友愛だったのか。
あるいは、恋愛感情だったのか。
原作では、最後まで明かされることはなかった。
彼女の胸の内に灯ったその感情が、どんな名を持つものだったのか――
ここまでなら、悪魔と人間の心温まる純粋な愛の物語に聞こえるかもしれない。
だが――この世界は、そんな美談を許すほど優しくはなかった。
悲劇だったのは、モルヴェリアが
彼女は、人の愛し方を知らなかった。
人との接し方を知らなかった。
"愛する"とは何か。
"大切にする"とは何か。
それを彼女は学ぶことなく、ただの悪魔として生まれ、戦ってきた。
だから――彼女は、"愛する者を守る"という行為すら、"悪魔の理"でしか成し得なかった。
故に、モルヴェリアは――その凶悪すぎる力でもって、十六夜唯の願いをすべて叶えようとする。
唯が邪魔だと思う者を殺した。
唯を傷つけようとする者を殺した。
唯の思い通りにならない世界を殺した。
そして――更地になった世界の中、モルヴェリアは歓喜の涙を流しながら十六夜蓮とキスをする唯を見て己が正しかったと確信するのだった。
これがルート②の正体。
ルート②は十六夜蓮と十六夜唯の兄妹の物語であると同時に、哀れな少女と悪魔の愛の物語でもあったのだ。
しかし、幸いにもというべきか――モルヴェリアが唯への憑依が成功するのはこのルート②だけであり、後は各種ルートのBADENDに何度か出現していたくらいである。
ちょっと出番が少なめな彼女は、メタ的な意味で言えば
他のルートでも強力な悪魔たちは登場するが、明らかに強さが頭一つ飛び抜けているのだ。
上位の悪魔になればなるほど単純な力勝負というよりも、権能の相性によるじゃんけんバトルみたいになるのだが、彼女はグーを出されたらナイフで相手の手首をチョキするというか――そういう奴なのだ。
これもまたメタ的な発言になるが、正直、モルヴェリアが出てくると他の敵役が霞んでしまうというか……作った制作陣も取り扱いに苦労してんだろうな、と思っていた。
そんなわけで、彼女は他のルートではチラチラとその影は見えるものの、唯への憑依は悉く邪魔され、気が付けば現世から消滅していることが殆どだ。
それだけ唯への憑依が条件的に難しいということでもあるのだが、逆に言えば彼女が唯への憑依に成功する=この世の終わりということでもある。
明らかに序盤にいて良い存在ではないし、兎にも角にも強すぎる。
だから――
バキンッ
「うえェっ?」
十六夜唯に渡した十字架と共鳴している僕の手持ちの十字架が割れた瞬間、僕は今世で一番変な声を上げてしまった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
『おぉ……おぉ!……おぉ! 成功した! 成功したぞ! ハハハ! やるではないか! ワシも捨てたものではないなッ!』
ハハハ! と心底嬉しそうに笑う少女。
嬉しさを全身で表現するように、黒いドレスを身に纏いながらクルクルと両腕を広げて廊下を回っている。
その姿は、純粋で無垢な少女にしか見えない。
だが、全身から発せられている桁違いの魔力が彼女の正体を否が応でも突きつけてくる。
文字通り次元が違う。
生まれ持った能力にあまりにも差があり過ぎる。
蟻が象を見上げるような――そんな絶望感に襲われる。
天羽は震えていた。
勇猛果敢。加えて、どこか歪んでいる彼女は戦いに対してシビアで、己の心をコントロール術を十分に身に着けているはずだが……今は子供のようにただ震えていた。
恐ろしい。恐ろしい。
あの笑っている少女が、ただただ恐ろしい。
エクソシストとして確かな実力を持っているが故に、天羽は分かっていた。
測ることさえ許されない力の差があるのだと。
「……蓮君」
「……」
「蓮君!」
「ッ! あ、あぁ……なんだ?」
先程まで心臓を押さえて苦しんでいた蓮だが、今は奈落の底を見つめる囚人のような目でボーッと悪魔に憑依された唯を見つめていた。
天羽の鋭い声を受けてどうにか正気を取り戻したようだが、魔力にあてられて正気を失いつつあるのは一目瞭然だ。
天羽は膝が笑いそうになるのを必死に堪え、血の気が引いて真っ白になった指先で愛銃をギュッと握り締める。汗が滲んだ手のひらに、冷たい金属の感触がじわりと食い込んだ。
――怖い。全身が震えている。心臓が張り裂けそうなほど激しく鼓動を打っている。
それでも、声を振り絞る。
「……逃げて」
喉がひりつく。声が掠れる。
恐怖で言葉すら詰まりそうになるが、必死に紡ぐ。
背後で風が鳴った。
禍々しい気配が空気を揺らす。
天羽は唇を噛みしめ、青ざめた顔で蓮を振り返った。
「あの悪魔は、あれでも本調子じゃないわ」
悪寒が背筋を駆け上がる。
今の時点でも異常なほどの魔力を感じる。それでも、まだ"未完全"だというのか――?
「だけど、ここから先、魔力のエネルギー源となる霊力を手に入れたら話は変わってくる」
地面が軋み、黒い霧が周囲を侵食し始める。
「あれが本当の意味で覚醒したら――この世界は滅ぶわ」
「ッ⁉」
蓮が息を呑む音が聞こえた。
天羽はそれでも、しっかりとそう言い切った。
――この世界が、滅ぶ。
誇張ではない。現実だ。
何を馬鹿な、と一蹴するには、天羽の瞳が真剣すぎた。
強がりも、はったりもない。
それが「確定された未来」であるかのように、静かに、しかし確信を持って告げられた言葉だった。
「今ならまだ……私の命を使えば、抑え込めるかもしれない」
そう言いながら、天羽の指が震える。
愛銃を握る力が強くなりすぎて、指先が白くなる。
"命を使えば"――。
その言葉の意味を理解した瞬間、蓮が息を詰まらせたのがわかった。
「だったら、俺も――!」
「貴方に何ができるの⁉」
天羽らしからぬ怒声。ビリビリと空気が振動し、蓮は言葉を詰まらせた。
「……今の貴方は、ただの養分よ。ここに居ても、真っ先に狙われるだけだわ。だから、逃げて」
「ッ!」
蓮は悔しさで唇を噛んだ。
天羽の言うことは何も間違っていない。初級悪魔にも勝てない自分に何が出来るというのか。
でも、だからって――
「俺に、唯と璃奈を見捨てて逃げろって言うのか⁉」
「そうよ」
蓮の魂の叫びを天羽は冷たい声で切って捨てた。
「ッ! でも――!」
「いいから行きなさい! 悪魔の養分にされる前に私に殺されたいの⁉」
叫ぶ。
必死で蓮を突き放すように、怒鳴りつける。
『五月蠅い小娘じゃな』
「ッ⁉」
刹那――悪魔の気配が、さらに強まった。
空気がねじ曲がる。空間そのものが歪む。
目の端に映るその存在は、まるでこの世界の理から逸脱した、"災厄"そのものだった。
『そこの男はワシの獲物じゃ。貴様に殺させるわけないじゃろう。思い上がるな、下郎』
物理的な圧力を伴う言霊を浴びせられ、天羽の手が震えた。
しかし、彼女は決して銃を下ろさない。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、彼女は立ち向かうことを選んだ。
「そう。じゃあ、彼にはこの場から退場してもらってもいいわけね?」
『だから、そう言っているじゃろうが。――十六夜蓮。貴様は唯の為に生かしてやる。さっさとこの場から去ね』
悪魔の眼中にもない。そのことを悟った十六夜蓮は――安堵してしまった。
安堵し、そのことに気が付いた自分に激怒した。
ふざけるな! 璃奈は怖くて仕方ないのに、歯を食いしばって立っているんだ! 俺の心が先に折れてどうするんだ――!
「蓮君」
「璃奈! 俺は逃げないぞ! 俺は――」
天羽は彼を怒鳴りつける――のではなく、小さく、掠れた声で呟いた。
「……助けを呼んできて」
弱音ではない。
これは、"希望"だ。
彼女は、まだ完全に絶望しているわけではない。
だからこそ、蓮に託した。
天羽の決意が、銃口の先に込められる。
蓮はようやく理解した。
彼がここに残れば、無意味に死ぬだけだ。
今できる唯一の"勝ち筋"は――逃げること。
「璃奈……必ず助けを呼んでくる。だから――」
「死なないわ」
天羽は決意を込めて宣言する。
「私は、死なない」
「……すぐに戻る」
そう言い残し、後ろ髪を引かれる思いで蓮は駆け出した。
「……さて、邪魔者はいなくなったわね」
『そうじゃのう。……しかし、酷い小娘じゃ』
「何がかしら?」
『助かる見込みなどないというのに、あのような嘘をつくとはのぉ』
けらけらと、十六夜唯の顔で悪魔は嗤う。
天羽はそんな悪魔を鼻で笑った。
「助かる? 何を言っているのかしら。――助けを請うのは貴女よ」
『――良く言った小娘! 少し、遊んでやろう!』
純白の天使と黒衣の悪魔が衝突する。
現世から隔離された世界が悲鳴を上げた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
ゲーマー根性を発揮し、どうせなら全部の選択肢を見てやると意気込み、敢えて誤った選択肢を選んでみた時のことを思い出す。
ルート①において【悪魔を撃つ】を選択した時のことだ。
メタ的に考えれば絶対に選ぶはずがないその選択肢を選んだ瞬間、画面が真っ暗になった。おや、おじいちゃんPCが遂に引退の時を迎えたのかと呑気に考えていたが、すぐにPCは正常だったことを知ることになる。
声が聞こえてきたのだ。
それもただの声ではない。どこかくぐもったような、苦しそうな声。
い、いきなりそういう展開か⁉ と椅子から立ち上がったのも束の間。
次に聞こえてきたのは耳を塞ぎたくなるような天羽璃奈の絶叫だった。
続いて、真っ暗なPC画面に浮かび上がる赤い文字。
――こうして、世界は滅びた。
「――って、なんじゃそりゃあッ!」
思わず手に持っていたマウスを画面に叩きつけた僕は悪くないと思う。
後に色々な攻略サイトを見漁って知ったのだが、あれはモルヴェリア降臨イベントだったらしい。
いきなり世界崩壊ENDになったのはルート②がモルヴェリアメイン回であり、色々なネタバレを防ぐためのやむを得ない措置であったとのこと。
あとは、天羽璃奈を信じ抜け!という開発側からのメッセージでもあったらしい。
……いや、もうちょっとやりようはあるだろうと思ったが、今にしてみればあれはあれでこのゲームらしいというか、選択肢を間違えれば簡単に世界が滅びることを僕たちに教えてくれるいい教材だった……のかも、しれない。
これがルート①における最悪のBADENDの一つ。
通称、「ブツ切りEND」である。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「よりによって、それはないだろ――!」
僕は今、病院内を全力疾走していた。
すれ違う先生や看護師さんから叱責を受けるが、その全てを無視してとにかく走る。確かに危険な行為だが、世界の危機が迫っているのだ。少し多めに見て欲しい。
階段を猛スピードで駆け下りながら、砕けた銀色の十字架を握り締める。
息を切らして走りながら考える。
どうしてこうなったのか――と。
全ては上手くいくはずった。
十六夜蓮は運命の夜に覚醒し、天羽璃奈と出会い、十六夜唯は悪魔に連れ去らわれた。
確実に天羽璃奈ルートを歩んでもらうため、十六夜唯ルートに派生しないよう、小細工を施した。
「なんで、どうしてっ――!」
意味も分からず泣きそうになりながら、がむしゃらに脚を動かす。
僕と天羽璃奈が関わったことによる大きな変化点がないか最大限、注意を払っていた。
……天羽は明らかに悲しんでいたし、やつれてしまっていた。そのことに胸は痛んだがしかし、何も問題はないように思えた。
寧ろ、どこか切なさを抱えた彼女の色香は凄まじく、十六夜蓮は原作よりも早い段階で彼女のことを意識しているように見えた。
何も、問題はないはずだった。
天羽も人間だ。確かに今は悲しい想いをさせてしまったかもしれないが、彼女と十六夜蓮の相性は抜群だ。すぐに僕のことなんか忘れて、彼に惹かれていくはずだ。
眩しい黄金の精神を持つ主人公は、悲劇のヒロインを救ってくれる――そう思っていた。
何を間違えた?
神様がいるなら、「最初からだ」と言ってくれるのだろうか。
でも、そうであるなら僕も問いたい。
どうして、どうしようもない状態になってから僕に全てを思い出させたのか、と。
こんな……こんなに無力な僕に何をさせたいというのか。
僕には何もない。
力も強くないし、足も速くない。頭も良くないし、霊力もないし、誰かを惹きつけるカリスマ性もない。
友達も殆どいないし、お金もないし、夢もないし、根性もない。
運も良くないし、優しくもないし、プライドもない。
ないない尽くしだ。
御覧の通り、自己肯定感もない。
だからせめて、天羽の邪魔だけはしたくなかった。
天羽は凄い人だ。
この腐った世界の中でも光を見失わない――いや、光そのもののような人。
彼女には全部がある。
力は強いし、足は速いし、頭は良い。霊力はあるし、誰かを惹きつけるカリスマ性もある。
友達もたくさんいるし、お金も持っているし、綺麗な夢を持っているし、根性もある。
運は……あまり良くないかもしれないが、それでも彼女はとても優しいし、いい意味でプライドを持っている。
何も知らない時は良かった。
不釣り合いで申し訳ないとは常々思っていたが、それでもただの恋人同士だと思えたから。
だけど、彼女がこの世界の中で最も価値ある存在だと気が付いた時、僕は急に自分が立っている場所が分からなくなった。
奈落の底に落ちていくような心地だった。
自分が何者か分からなくなって、何をすればいいのか分からなくなって、何をしていても死ぬ未来しか見えなくて――
だから、僕は自分の役割を勝手に決めた。
天羽に最も相応しく、そしてこの世界が救われる道だけを残すために尽力すると。
人の気持ちは揺れ動きやすい。
それは、黄金の精神を持つ十六夜蓮とて例外ではない。
天羽を幸せにしてくれる彼が横道に逸れて他のヒロインに目移りしないとどうして断言できるのか。
彼が歩む道は一つだけでいい。
他のヒロインには申し訳ないが、不確定要素は全て潰す。
そう決意してから行動し、その行動が間接的に世界を救うことにも繋がっているのだと妙な高揚感も味わって――今になって全てが間違っていたことを知った。
「……僕は馬鹿だ。いつも、気が付くのが遅い」
人の気持ちは揺れ動きやすい。
分かっていたつもりで、何も分かっていなかった。
消去法で他の道を消したからと言って、道が一本になるわけではない。
そして、天羽も――彼女はキャラクターじゃない。
傷つきやすい、ただ一人の女性だったのだ。
僕はいつも通り自分の愚かさに絶望し、後悔した。
残したかった道は消え、後に残るのは滅びへの一本道だけ。
だから、僕が今足を動かしているのは、惰性のようなものなのだろう。
せめて、僕は僕にできることをしたい。
もう、全部が手遅れだとしても――
「はぁ、はぁ、はぁ……これが、結界の起点……」
荒い息が喉を焼く。
ようやく辿り着いた病院の外――そこに張り巡らされていたのは、見えざる壁だった。まるで空間そのものがねじ曲がったように、空気の質すら違って見える。
僕の目から見ても異質な空間の中に、赤い印が浮かんでいた。
これこそが結界の起点。
この病院をモルヴェリア降臨の祭祀場とするために用意された特殊な力場である。
今、モルヴェリアは病院内で猛威を振るっているのだろうが――完全に覚醒する前であれば、この結界を破壊してしまえばその力は幾分か弱まるはずだ。
「痛ッ――!」
思わず手を引っ込める。指先が痺れ、爪の奥まで焼けるような痛みが走る。まるで触れただけで魂が削り取られるかのような、異質な拒絶。
僕には霊力がない。だからこそ、無理にこの結界を破ろうとすれば、反動はそのまま自分に返ってくる。
それなら――。
震える手でポケットから銀色の十字架を取り出す。僅かでも結界に干渉できればと願いながら、慎重に近づける。
「……ッ!」
だが、次の瞬間。
十字架が結界に触れた瞬間、まるで何かに弾かれたかのようにバチンッ!と強烈な音を立てて弾き飛ばされた。
何の手応えもない。微動だにしない。結界はただそこにあるだけで、僕の存在など蚊ほどにも意に介していない。
「クソッ!!」
思い切り拳を叩きつけた。
――焼ける。
肉の焦げる臭いが鼻をつく。手の甲に黒い火傷が広がり、皮膚が裂ける。痛みで顔を歪めながらも、もう一度拳を振り上げる。
何度殴っても、何も変わらない。自分の拳が潰れようと、結界はまるで冷たい石のようにそこにある。
膝が震え、崩れ落ちそうになる。
結界の向こうでは、きっと天羽が絶望的な戦いに身を投じている。
なのに――僕には、何もできない。
「クソ……ッ!」
嗚咽が喉の奥からこみ上げる。
握った拳は、ただの肉の塊。歯を食いしばったところで、何も変えられない。
結界は、あまりにも強大だった。
僕は、あまりにも無力だった。
どうすればいい?
どうすればいいんだ?
僕は、どうすれば――
「――お困りのようだね。手を貸してあげようか?」
「ッ!」
艶やかな低いアルトの声。
聞き覚えのある甘い声に脳が警鐘を鳴らす。
咄嗟に振り向いた先には、この場にいるはずがない麗人がいた。
「やぁ、思っていたより早く再会できたね」
気さくに片手を上げる麗人――如月メフィラが。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「お前は……!」
「お前、とは失礼な。この間、ちゃんと名前は名乗ったはずだけどね?」
「……如月メフィラ」
「その通り。君は地藤優斗君だね」
覚えているよ。悪魔はニコニコと楽しそうに笑いながら僕の名を口にする。
僕は警戒心を全開にしながら考える。
この悪魔、どうしてここにいる?
原作において、如月メフィラは殆どのパートを傍観者として過ごしている。
愉快犯にしかみえない行動に反し、合理的な思考回路を持つ彼女は自分が絶対に勝てる盤上が整った時にしか動かない。
故にルート④では全ての条件が彼女に味方をしたことでようやく重い腰を上げ、世界を崩壊まで導いたのだ。
と、そこまで考えて思い出した。
そういえば、この悪魔が
あれは確か、そう――ルート②でモルヴェリアが唯への憑依に成功した時のことだ。
「どうしてここにいるんだい? っていうのは野暮な質問だよね。――天羽璃奈は元気かい?」
「ッ!」
「そう睨むなよ。ただ揶揄ってるだけ。挨拶みたいなものだよ」
そんな嫌味な挨拶は悪魔とイギリス人だけで十分だ。
「フフフ、君は元気がなさそうだね。何か嫌なことでもあったのかい? 例えば――
「ッ! 全部見ていたのか!」
「まぁね。なかなか良い線いっていたと思うよ。ストレスを減らして、十字架で防御。対悪魔術の基礎だけど、定番故に盤石。十六夜蓮が間違えなかったらそのまま上手くいっていただろうね」
「……」
ペラペラと聞いてもないのに好き勝手に喋る悪魔を睨みつける。
コイツ、本当に全部を見ていたのか……!
「君に興味が湧いて軽くストーキングしていたんだが、存外に良いものが見れた。これは礼を言わなければならないかな」
「いらないよ。……冷やかしなら帰ってくれ」
「十六夜唯には随分と親切だったのに、僕には冷たいんだねぇ。彼女のことが気に入ったの? それとも――君が見た未来に僕はいないのかな?」
「はっ?」
悪魔は嗤った。
愚かな人間を嘲笑うように。
「いや、未来視にしては行き当たりばったりが過ぎるね。差し詰め――並行世界の覗き見、といったところかな?」
「ッ!」
「お、やった。当たっていたみたいだね」
ゾワッと全身の鳥肌が立つ。
この悪魔に心を読む能力はない。
だが、この悪魔に隠し事は出来ない。
そうだ。殆どのルートに絡んでこないから半ば忘れていた。
如月メフィラは武力ではなくその特異な能力と頭脳で世界を滅ぼした稀代のペテン師であるということを――。
「フフフ、並行世界の観測者か。興味深いね。聞きたいことはたくさんあるんだけど……今は一つだけにしておこう」
楽しそうに笑いながら……しかし、急に真剣な眼差しになった悪魔は僕に問い掛けた。
「君の見た未来で、
「……」
姉上――モルヴェリアのことである。
いまいち信じられないが、公式設定で如月メフィラとモルヴェリアは姉妹ということになっているのだ。
あまり仲はよろしくなかった記憶があるのだが、それを知ってどうするつもりなのか。
「おいおい、躊躇する理由はないだろう。だいたい予想はついているし、このままいけばその通りになるだけだよ」
「……まぁ、それもそうか」
如月メフィラの言うことは正しい。このままいけば悪魔も人間もいない更地が生まれるだけだ。
僕は端的に答えた。
「滅んだよ。誰も彼女に勝てないままに、世界は滅んだ」
「やっぱりか。はぁ……父上も、姉上には甘いからね……」
呆れた、と肩を竦めながら如月メフィラはかぶりを振った。
「まぁ、いいや。取り敢えず、姉上は止めないといけないね」
「えっ」
「えっ、ってなにさ。地藤君、世界が滅んでもいいのかい?」
「いや、いいわけないけど……」
悪魔に世界を救わなければ、みたいなことを言われて固まってしまった。
これでは立場があべこべだ。
しかし、思えばこれは好機だ。もう打つ手はないと半ば絶望していたが、作中でもトップクラスに厄介な彼女が味方になってくれるのであれば、まだ逆転のチャンスはある。
「OK。じゃあ地藤君、頑張ってきて」
「――って、僕⁉」
「うん。君」
ニコリと笑って僕を指さす如月メフィラ。
「お前――」
「如月メフィラ」
「……如月が戦うわけじゃないの……?」
名前で呼べという圧力を受け、慌てて苗字で呼ぶ。何故か不満げな表情をしていたが、如月メフィラは「まぁ、いっか」と呟くと両手を挙げた。
それは、降参のポーズであった。
「いや、流石に姉上が相手では僕も成すすべがない。戦いたいのは山々だけど、役には立てそうにないなァ」
「……本当に言ってるの?」
「うん。本当だよ」
キラキラ、と効果音が付きそうなくらいに眩しい笑みを浮かべて僕の言葉を肯定する如月メフィラ。
胡散臭いことこの上ないが、しかしすぐに嘘ではないだろうと思い直した。
如月メフィラは強いが……強さのベクトルがモルヴェリアとは少し違う。
真正面からの戦いで勝つのは間違いなくモルヴェリアだろう。
「分かってくれて嬉しいよ」
……コイツ、本当に読心術持ってないんだよね?
「嘘をついても仕方ないだろう? 悲しいけれど、姉上には勝てる気がしないね」
それに、と如月メフィラは語る。
「僕は姉上に滅法嫌われていてねぇ、近づいただけでも殺されかねないんだよ。だから、あの中に行って姉上を止めてくれる人が欲しかったんだ」
「……それが僕だと?」
「そういうこと」
ようやく、如月メフィラが今になって僕に声を掛けてきたのかを理解できた。
飄々としているが、彼女もその実焦っているのだろう。
原作からして、彼女ではモルヴェリアに勝てないのは明白。
だからといって何もしなければ自分も世界ごと滅ぼされてしまう。だからルート②では例外的に出張ってきていたのだろう。
……もしかしたら、ルート①の「ブツ切りEND」でも一応出張ってきていたのかもしれない。ブツ切りのせいで影も形もなかったし、呆気なく世界が滅ぼされていることから多分簡単に負けたのだろうが……。
しかし、僕に声を掛けてどうしようというのか。
だって、僕には――
「なにもない」
「……」
「……僕だって止めたいさ。でも、僕には何の力も――」
「
「えっ」
「ここにいるじゃないか。力を授ける存在が、ね」
ニヤリ、と悪魔が笑う。
「……僕に、悪魔と契約しろと?」
「そう言っている」
悪魔と契約する。このゲームをプレイしたことがある人間であれば、声を大にして言うだろう。「絶対に止めろッ!」と。
悪魔は契約を破らない。それは事実だ。しかし、契約の内容には一切妥協しない。
原作だけでも数多くの理不尽な契約を見た。
一生悪魔の奴隷。両目の視力を失う。寿命を五十年捧げる。死後も永遠に魂を束縛される。愛する人に認知されなくなる。臓器を徐々に失っていく。狂っていく。悶え苦しんで死ぬ未来を確定させられる……等々。
莫大な力には代償がつきものだ。
悪魔はそれを身をもって教えてくれる。
さらに、悪魔と契約するということは――エクソシストの敵となるということだ。
……天羽に、銃を向けられるということだ。
それはとても辛いことだが……このままいけば、銃を向けてくれる天羽すら失ってしまう。
「……」
目を閉じ、考える。
正直、この悪魔が何を企んでいるのかは分からない。
原作でも、こいつはトリッキーすぎた。
最後まで、その思考を完全に読み解くことはできなかった。
だから、今こうして"気に入られている"っぽい理由も分からないし、契約を持ちかけられていることも予想外でしかなかった。
――だが、同時に理解していた。
これは、望外のチャンスだということも。
なにもない僕。
ないない尽くしの僕。
焦った。
なにもないことに、追い詰められた。
だから、バカなことをした。
だから、天羽を悲しませた。
それが"なにもない"僕の限界だった。
だが――。
なにもない僕にだって、意地がある。
なにもない僕だって――
痕も意味もないのは、耐えられない。
「答えは決まったかい? 少年」
閉じていた目を開く。
僕は悪魔の目を真っすぐに見つめ、答えを口にした。
「――僕と、契約してくれ」
如月メフィラは唇を吊り上げて笑った。
それは実に、悪魔的な笑みだった。