世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
光が満ち、そして静かに消えた。
紅蓮の甲冑を纏った男の姿は完全に消滅し、代わりに不安定だった少女の輝きが増していく。
一人残された少女は、ゆっくりと己の掌を見つめ――そして、ほんの少しだけ、己に全てを託して消え去ったオリジナルへ思いを馳せた。
少女へ歩み寄った地藤が声を掛ける。
「調子はどうだい?」
「……悪くはないな」
少女の外見に大きな変化はない。
だが、その存在感は誰の目にも明らかだった。
紅蓮の甲冑を纏い、災厄そのもののような力を振るっていたバルナハルト本人とほとんど変わらないほどの重さが、少女の周囲に満ちている。
消滅しかけのオリジナルと、反転と矛盾だらけの虚像による融合――前代未聞の儀式ではあったが、根本は同じ人物であるがゆえに、驚くほど上手くいったらしい。
「それは良かった。ところで、君のことはこれからなんて呼べばいいかな?」
「……バルナハルト」
特殊な経緯で新生した少女は、改めて己の名を口にした。
「私のことは、バルナハルトと呼んでくれ」
“鏡の”でもなく。
“紅の戦君”でもなく。
自分は、ただのバルナハルトなのだと少女は宣言した。
地藤はその想いを汲み、力強く頷く。
「分かった。改めてよろしくね、バルナハルト」
「……あぁ」
少し頬を赤く染めながら頷く少女。
二人の間に穏やかな空気が流れる。
――と、その時。
不意に、ビシッと何かが割れるような音が響いた。
慌てて辺りを見渡した地藤は、空を見上げて驚愕の声を上げる。
鉄の大公が展開したこの世界の空に、罅が入っていた。
『いよいよこの世界も限界が来たようじゃのぉ。早く脱出せんと消滅に巻き込まれるぞ』
険しい表情で告げたモルヴェリアは目を閉じる。
次にその黄金と紅蓮の瞳が開かれた時、そこには勝気な少女――十六夜唯の意思が宿っていた。
「――ここへ私たちを連れてきたのは先輩なんですから、何とかできますよね?」
人格をチェンジした唯の問いに、地藤は力強く頷いた。
「もちろん。責任をもって、皆を送り届けるよ。……下にいる君のお兄さんも含めてね」
「あっ」
思い出したような声を上げた唯が下へ視線を向けると、肩を貸し合いながら事の推移を見守っていたエクソシストたちが、自分たちの存在をアピールするように大きく手を振っていた。
「そ、そうですね! 決して忘れていたわけではありませんが、兄さんたちも連れて帰ってもらわないと困りますね!」
顔を赤くしながら言い訳のようにまくしたてる唯。
そんな彼女に生暖かい視線を送りながら、地藤は一応地上に向かって手を振り返しておいた。
唯ちゃんと違って君たちのことは忘れていないよ、というアピールである。
「――っと、のんびり話している時間はなさそうだ。もう、いよいよだね」
バルナハルトが自壊を躊躇わず全力で暴れていたこともあり、この空間はとっくに限界を迎えていた。
「さっさとお暇しましょうか」
地藤は左手を持ち上げ、指を擦り合わせる。
そして、不意に思い出した。
この動作を好んでしていた人物のことを。
「……そういえば、メフィラの奴は何をしているんだ……?」
血の迷宮。
鏡の世界。
これまで迷い込んできた摩訶不思議な世界において、常に帰路への道を提示し続けていたのはメフィラだった。
本来ならば、この左腕を持ち上げ、今にも指を鳴らそうとしているのは地藤ではなくメフィラの役目――のはずだ。
だというのに、奴は姿を現さない。
最終決戦の際にも、まったく姿を見せなかった。
バルナハルトに対する隔意があるのかもしれないと一瞬思ったが、すぐに否定した。
奴は気に食わないものは自らの手で排除しようとするはずだ。
もしくは、その最期を直接眺めて悦に浸るだろう。
それすらしないということは――残酷な話だが、バルナハルトへの興味関心自体が薄かったのだろう。
自分で創り出した鏡の方には愛着らしきものを抱いているように見えるが、消滅したオリジナルの拗らせ具合からしても、本当に関心を抱いていなかったに違いない。
では、興味がない戦いが繰り広げられているその最中、奴はどこで、何をしているのか。
「優斗君……?」
左手を持ち上げたまま固まった地藤へ、天羽が心配そうに声を掛ける。
その声を聞いて現実へ回帰した地藤は、一旦思考を断ち切り、笑みを浮かべた。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事しちゃってた。もう余裕もないし、さっさと帰ろうか」
胸の奥に不気味な予感を覚えながら、地藤はこの世界に巻き込まれた全員を元の世界へ帰還させるべく、指を鳴らした。
パチンッ!
乾いた音が響き、崩壊する世界から少年少女たちは退去した。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
崩壊する世界からの脱出は上手くいった。
目を開いた次の瞬間、全員が海浜公園に戻っており、悪魔の気配はなく、あの巨大な“門”も跡形もなく消え去っていた。
空間転移の際に丸ごと削り取られた海浜公園の惨状は見るに堪えなかったが……その辺は教会のエクソシストたちが何とかしてくれると信じたい。
当初の目的であった悪魔の“門”を破壊できたのだから、僕としても、教会としても任務は成功と言っていいだろう。
しかし、「終わり良ければ総て良し。めでたし、めでたし」――そんな甘い話にはならないのが現実だ。
なにせ、客観的に見れば、この空間には悪魔四騎士が三名もいるのだ。
……まぁ、僕は悪魔の屁理屈で無理やり四騎士になっているだけなので、仮部員みたいなものだが、死王女は現役の四騎士だし、バルナハルトに至っては倒したはずだったのに少女と融合して復活している。
教会のエクソシストたちが警戒するのも当然だった。
一触即発の空気が流れる中、僕は間に割り込んであれやこれやと口から出まかせで説得を開始。
璃奈と霧島先輩、そして敵であったはずのユリウスの援護も受け、なんとか教会勢を引かせることに成功した。
とはいえ、これはあくまでもその場凌ぎに過ぎない。
「後日、また詳しい話を聞かせていただきます」
そう言い残し、教会勢は引き上げていった。
これから先のことを考えると、胃が痛くてしょうがない。
もういっそのこと、日本から離れてしまいたいくらいだ。
……まぁ、教会の本部はヨーロッパにあり、さらに世界中に支部があるので、日本から逃げたところで意味はないのだろうけれど。
教会勢を見送ってから、僕たちは疎らに帰路につき始めた。
霧島先輩を見送り、十六夜兄妹も見送り、そして――
「君はどうするんだい?」
「……取り敢えず、借りてる家に帰る」
バルナハルトはいつもの眠そうな無表情でそう言った。
聞けば、メフィラ名義で家を借りており、そこを拠点としてこれまで動いていたらしい。
考えてみれば当然だ。
彼女の容姿は少女そのものであり、加えてオリジナルと融合するまでは本来の力を発揮できない状況が続いていた。
どこかに拠点がなければ、とても活動などできなかっただろう。
「後のことは……これから考える」
ただの少女として生きるのか、あるいは悪魔として戦うのか。
メフィラに縛られなくなった以上、後者の可能性は低いように思えるが――まぁ、敵対した時はその時だ。
僕は笑顔で頷いた。
「分かった。思う存分、悩むといいさ」
「……あぁ」
ぶっきらぼうに答えてから、少女はその身を翻した。
暗闇に赤髪が揺れる。
「……おい」
「ん?」
帰路につくべく、璃奈と手を繋いで少女に背を向けたその時、声を掛けられた。
振り向くと、褐色の頬を赤く染めた少女が、睨むように僕を見つめている。
バルナハルトは短く息を吸い込み――
「……ありがとな」
きっと、彼女なりの精いっぱいの感謝の言葉なのだろう。
不器用な笑みを浮かべるその姿に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
正直、今回の事件で僕が得たものはそこまで多くない。
璃奈と本気の喧嘩をして、互いの想いをぶつけ合えたことは大きな収穫だったが、そんな喧嘩は日常の中でやっておくものであって、悪魔王に先導されてやるようなものではなかったと思っている。
だから、僕としては何とも言えない思いを抱えていたわけだが――
彼女の笑顔は、報酬として受け取るに相応しいものだと、僕には思えた。
「終わり良ければ総て良し、か……」
「優斗君?」
「あぁ、いや、ごめん。なんか、そうでも呟いてないとやってられないなって思っただけ」
結局のところ、どんな苦難が待ち受けていようと、それを乗り越えることでしか生き残れない。
だからこうして、自分に言い聞かせるしかないのだろう。
「さて、帰ろうか。僕たちの家に」
「……うんっ!」
璃奈の手を握り、ゆっくりと屋敷へ歩き出す。
激闘を終え、火照った身体が冬の香りを残す夜気によって冷まされていく。
心地よい暗闇の中を歩いていると――
「……ねぇ、優斗君」
「なに?」
不意に、璃奈が口を開いた。
「――ごめんね」
「……それは、何に対してのごめんかな?」
「私が好き勝手に暴走して優斗君を傷つけたこと。今回の件、全部と……私自身のこと」
前半の意味はすぐに分かった。
僕を同意もなく家に監禁したこと。
僕の意思を聞かなかったこと。
精神的にも肉体的にも傷つけたこと。
既に謝罪は受け取っているし、僕としてはもう気にしていない。
ただ、すべてが終わった今、改めて口にしたのだろう。
けれど、後半の言葉は分からなかった。
「私自身のことって……どういう意味?」
璃奈の横顔を見ながら尋ねる。
その顔は相変わらず神がかった美しさで――ただ、苦しそうに歪んでいた。
「――私、自分で自分のこと、それなりに強いって思い込んでいたの。悪魔と戦えるし、命の危機も乗り越えてきたから、身体と一緒に心も鍛えられているんだろうって」
「……」
「だけどね、違ったの。私は……
苦悩に満ちたその言葉は重くて、
反射的に「そんなことない!」と否定しようとした僕の口を封じた。
「今回の件でようやく自覚したの。私は弱くて……脆い。芯にあるものがぐらぐら揺らいでいて、優斗君に縋ることでしか自分を保てなかった……」
「璃奈……」
「ごめんね、優斗君。私、あなたのことを失望させちゃった」
足を止めた璃奈が僕の方を向き、今にも泣き出しそうな顔で言った。
「優斗君が憧れてくれた私は、きっとこんな弱い女じゃなかったでしょう? だから……ごめん」
「……」
痛みを伴うその言葉は、罪を告解する修道女のような敬虔さに満ちていた。
けれど、僕はそんな彼女の姿勢が――気に食わなかった。
だから。
「えいっ」
「ッ⁉」
僕は人差し指で彼女の額を軽く小突いた。
シリアスな空気をぶち壊され、璃奈は目を白黒させる。
「ゆ、優斗君……?」
「あのさぁ、失望したとか言われても、
「えっ」
紫の瞳が見開かれる。
驚いた時の猫みたいだな、と少し思いながら言葉を続ける。
「確かに優等生だったころの璃奈に憧れていたのは事実だけれど……僕は、璃奈のことを完璧超人で、心も強い人だなんて思ったことはないよ」
言いながら、僕は自分にも呆れていた。
付き合って一年も経っていないとはいえ、互いへの理解にこんなにも誤解があったとは思わなかった。
「実際のところ、璃奈って思い込みが激しくて」
「うっ」
「完璧主義すぎるせいで融通が効かないところがあって」
「うぐっ!」
「なんだかんだ言って自分が頭いいのを自覚していて、全部を上手くコントロールしようとするところがあって――」
「ご、ごめん優斗君……一旦、その辺で止めてくれるとありがたい、かな……」
色々とクリティカルヒットだったのか、胸を押さえながら璃奈は白旗を上げる。
僕は笑いながら言った。
「僕は分かっていたよ。分かっていて、そんな君が好きなんだ」
「――――」
伏せていた璃奈の顔がゆっくりと上がる。
キラキラと輝く紫の瞳には、真っ直ぐに彼女を見つめる僕が映っていた。
天羽璃奈のことが好きだ。
それは前世から変わらない。
彼女の歪んだところが。
完璧ではないところが。
そして、それでも気高くあろうとする姿が――好きなのだ。
「ありがとう、優斗君。大好きだよ」
天使が満面の笑みを浮かべる。
それだけで、僕は心が浄化されるような気がした。
頬を赤く染め、嬉しそうに、幸せそうに微笑む璃奈だったが――何故か、またすぐにその表情が曇る。
今度は何で悩んでいるのやら、と呆れていると、彼女は口を開いた。
「……優斗君はこういう状況になるたびに、強さを証明してくれるね。……私とは、正反対だ。そんな君が、眩しいよ」
「はい、ストップ」
「ッ⁉」
僕は再び彼女の額を小突いた。
「いや、それも幻想抱きすぎだから。僕は別に強くはないよ。手にしている能力だって、悪知恵と悪運でもらったおさがりみたいなものだしね」
「……自覚ないのは、優斗君も一緒じゃん」
「えっ? なんて言ったの?」
「なんでも――いえ、ちゃんと話し合わなきゃダメだよね」
何かを思い直したらしい璃奈は首を振り、決意を宿した瞳で顔を上げた。
「家に帰ったら、ちゃんと話し合おうね」
力強い声を受け、僕は頷いた。
「もちろん」
それから、再び二人で帰路につく。
離れていた間のことを埋めるように、色々な話をしながら夜の道をゆっくりと歩いていく。
そうしていると、段々と天羽邸が見えてきた。
「あ、あれ……? なに、あの穴……」
そこで璃奈が、自宅の二階に開いた巨大な穴を見て、目を丸くした。
僕は思わず頭を抱える。
そういえば忘れていた――死王女様が僕を助けるために、思い切り死のビームを撃ち込んだことを。
唖然と、無様な姿になった屋敷を見上げる璃奈の、珍しく間抜けな横顔を眺めながら、不意に一つの考えが浮かんだ。
「ねぇ、璃奈」
「な、なに?」
まだ動揺から抜けきっていない璃奈を、僕は突然抱き寄せた。
「きゃっ」と小さな悲鳴を上げながらも、彼女は一切抵抗しない。
そんな彼女を愛おしく思いながら、耳元で囁く。
「今回の件、璃奈は確かに謝罪こそしていたけれど――僕はちゃんと許したわけじゃないよ」
本当は、彼女に監禁されたことも、刺されたことも、自分に非があると分かっているから、償ってほしいなんて気持ちはない。
普通に、もう許している。
けれど、璃奈の心の底は違うのだろう。
彼女は、とても自罰的だから。
「だから、君に
「ッ……」
腕の中で璃奈が震えたのが分かった。
僕は笑い声が漏れそうになるのを堪えながら、罰の内容を告げる。
「家、片付けるの手伝って」
「……えっ」
「見ての通り、二階は死王女のビームでぐちゃぐちゃなんだよ。だから、片付けるのを手伝って」
「いや、えっと……」
「それから、それが終わったらお茶にしよう。クッキーと紅茶を用意して、それから話し合おう」
「――――」
紫の瞳が大きく見開かれる。
その端に浮かんだ雫を人差し指で掬い取りながら、僕は彼女に微笑みかけた。
「あの部屋を片付けるのは、きっと結構な重労働だよ。その後に紅茶を用意して、僕の長話に付き合うのもね。――覚悟はいい?」
「……もうっ、それじゃあ、罰じゃなくてただのご褒美だよ……」
璃奈は呆れたように笑う。
やがて、その笑みは、花が咲き開くような満面の笑みに変わった。
「――謹んで、お受けいたします。どこまでも付き合うから、優斗君の方こそ覚悟しててね」
「もちろん」
笑い掛けながら、僕は天羽邸の門を開けた。
二人で手を繋ぎながら、一緒に扉を押し開ける。
天羽家の屋敷へ足を踏み入れて――そこで、ふと大事なことを思い出した。
「あっ、璃奈」
「どうしたの?」
綺麗に靴を脱ぎ、きっちり揃える相変わらずの几帳面さを美しいと思いながら、僕は一番に言うべきだった一言を口にした。
「ただいま」
自分たちの家に帰ってきたのだから、まずそれを言うべきだった。
璃奈はきょとんとした顔をしたが、すぐに先程の満面の笑みに戻る。
「――おかえりなさい」
やっぱり、僕にとって一番の報酬は天羽璃奈なのだと、改めて思う。
終わり良ければ総て良し――なんて、相変わらず芸のない格言が頭に浮かぶ。
彼女の喜びに満ちた言葉を受け取りながら、僕は二階を片付けるために屋敷の中を歩き始めた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
影が蠢く。
闇よりも黒い、底なしの影が蠢く。
ここではないどこか。
人では感知できない、世界の裏側を通るようなルートを辿りながら、影は静かに、しかし確実に己の城へと帰還していく。
その歩みは音を持たない。
ただ、世界の裏側を削り取るように進むだけだ。
影が通った後には、空気がひび割れたような違和感が残る。
『ったく、とんだ餓鬼だったな。俺様の顔面を殴り飛ばすとは』
暗闇に男の声が響いた。
軽妙な口調だが、その声音には重い威厳が宿っている。
己が絶対者であるという畏怖を伴った声。
声の主である真っ黒な影は、やがて長いトンネルを抜け、ある場所へと辿り着いた。
華美な装飾で彩られた王城の一角。
彼の視線の先には、その権威を示す武骨な玉座が鎮座していた。
影が揺らぎ、男の身体から抜け落ちていく。
真っ黒なベールを脱ぎ捨てるように、白銀の髪と黄金の瞳を持つ美貌の男性が姿を現した。
悪魔王ベルファルド。
圧倒的な存在感を放つ男は、己の定位置である玉座へと歩みを進め――
「――こんばんは、父上」
『ッ!』
その歩みが、唐突に止まった。
ゆっくりと視線を下ろす。
胸のあたりに、異物感。
そこから――白く、艶めかしい女の腕が生えていた。
突き出された腕の先には、ベルファルドの心臓が握られている。
まだ温かい心臓が、女の細い指の中で脈打っていた。
『……相変わらず、テメェはクソったれだな。メフィラ』
己の心臓を掴まれているというのに、恐れも焦りもない。
その腕を握り潰さんばかりに掴み取りながら、悪魔王ベルファルドは背後にいる娘の名を呼んだ。
「愛しの娘が帰って来たのですから、そこは“おかえり”と言うべきではないのですか?」
『はっ! 絶縁中のどら娘に掛ける言葉じゃねェな。ましてや、父親を背後から刺すような奴にはな』
黄金の瞳に冷酷な光が宿る。
悪魔王ベルファルドは低く、世界を震わせる声で尋ねた。
『――それで? これは一体何の真似だ? テメェが現世でちょこまかと
「別に許していただくつもりなんてありませんよ。僕はただ、チャンスが巡って来たので、それを利用しただけです」
聞く者を呪い殺すような低い声を、メフィラは飄々と受け流す。
その態度は、まるで父親を殺すことすら日常の一部であるかのようだった。
「支配の力で時間をコントロールこそできるものの、能力を解除した数秒は生じたラグによって動きを封じられる。加えて、父上ほどの存在が“影”とはいえ現世に干渉するとなれば、それ相応の消耗を強いられる――」
悪魔王は超越的な力を持つ。
だが、それは絶対ではない。
世界に干渉するたびに、魂は摩耗し、力は削られる。
「――つまりは、“隙”というわけです。しかしながら、条件が揃っていたとはいえ、ここまで僕の接近を許すとは……父上も衰えたものですね」
『ハッ! ……悪魔も、歳を取んだよ』
それは事実だった。
あまりにも長い時を生きてきた悪魔王ベルファルドは、とうに魂が老化していた。
見た目も能力も衰え知らずなだけに、その内面とのギャップを知る者は少ない。
そして、その内情を察知していた数少ない一人が――彼の娘、メフィラだった。
『それで? 俺様が隙を晒したから後ろからぶっ刺して……で、どうするつもりなんだァ? 俺様がこの程度でくたばるとでも?』
「もちろん、そんなことは思っていませんよ」
背後から心臓を奪った程度で殺せるほど、悪魔王ベルファルドは甘い存在ではない。
こうしている今も、メフィラが“悪魔の屁理屈”を最大限に発動し、彼の動きを封じているからこそ、辛うじて均衡が保たれているに過ぎない。
だが、メフィラは何の勝算もなく動く女ではない。
彼女は既に、すべての仕込みを終えていた。
「おいで、
『ッ!』
メフィラが虚空に呼びかけた瞬間、空間がねじ曲がった。
世界の皮膚が裂けるように、白い体毛が覗く。
次の瞬間――
【飢狼フェンラヴァ】
悪魔四騎士の一体。
「飢餓」を司る、決して満たされることのない孤高の捕食者。
悪魔でありながら、知性ではなく“暴”をもって他を制する、純粋な獣。
『テメェ……コイツは……!』
白狼を見た悪魔王の顔に、初めて動揺が浮かんだ。
メフィラは邪悪な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷く。
「えぇ、もちろん知っていますよ。
飢狼フェンラヴァ。
その悪魔を御しきるためには、悪魔王の支配の力をもってしても不十分だった。
だからこそ、ベルファルドは強力な鎖でフェンラヴァを繋ぎ止めていたわけだが――その鎖は、メフィラによって破壊された。
さらに、普段であれば無理やりにでも飢狼を抑え込めたであろう悪魔王は今、娘の奇襲と現世での騒ぎによって魂を摩耗し、力を削られている。
『なるほどなァ……本気で俺の首を獲りに来やがったか……!』
「貴方を相手に本気を出さないわけにはいきませんよ。――これで、チェックメイトですね」
『……あァ、これは確かに、テメェの勝ちだ』
ベルファルドが支配の力で飢狼フェンラヴァを封じようとした瞬間――白狼は空間ごと悪魔王の右腕を食いちぎった。
背後から心臓を奪われ、今も“悪魔の屁理屈”で動きを封じられ、さらに飢狼まで相手取るなど、悪魔王でも不可能だ。
ベルファルドはここに至り、己の娘の反逆と、そして己の敗北を認めた。
これは
ベルファルドの数少ない弱点をすべて突いた、完璧な奇襲だった。
『――で? 俺様を殺して、テメェは何をするつもりだァ?』
「これから死ぬ父上に教える意味がありますか?」
『意味なんざ欠片もねェが……ま、何となく検討はついているんでなァ。一応、親として忠告しておこうと思ってよ』
親として。
そして悪魔王としての確かな威厳を身に纏い、ベルファルドは告げた。
『――
「忠告痛み入ります。気が向いたら覚えておくことにしますよ」
長く生き、そして多くを見てきた悪魔王ベルファルドの忠告は、しかしメフィラの耳を素通りする。
どこまでも乾いた、親子の会話。
これがこの二人の距離感だった。
だからこそ、その終わりは呆気なく、冷徹に訪れる。
「さようなら、父上」
『あぁ……地獄で待ってるぜェ』
メフィラは手に持つ心臓を握り潰した。
肉が裂け、血が滴り、悪魔王の身体が痙攣する。
黄金の瞳から光が消え、メフィラが腕を引き抜いた瞬間――その身体は床へと崩れ落ちた。
王が死んだ。
「……」
メフィラは潰れた心臓をしばし眺め――それを口へと含んだ。
咀嚼し、肉親の心臓を呑み込む。
その力が体内へと浸透していく感覚を確かめると、無言で歩みを進めた。
空位となった玉座へと。
優雅な足取りで近づき、ゆっくりと腰を下ろす。
長い脚を組み、頬杖をつき、玉座の重みを確かめるように一言。
「……うん。思っていたより、悪くない座り心地だ」
そんな所感を口にした。
玉座の座り心地を確かめる貴人に対し、獲物を見失った狼の視線が向く。
黄金の瞳を原始的な飢えでギラギラと輝かせながら、飢狼フェンラヴァは彼女へと襲い掛かった。
「
冷徹な声が響き渡る。
次の瞬間、二メートルを超える巨狼の身体が、地面へと叩きつけられた。
見れば、その首には首輪が嵌められており、そして首輪からは極太の鎖が伸びている。
鎖をくるくると手元で弄びながら、メフィラは呆れたように溜息をついた。
「こらこら、主人に噛みつこうとするんじゃないよ。君の餌はこれからやって来るところさ。ちょうど――」
「ッ! ベルファルド様! これは一体何が……!」
「――ほら、来た」
片目を瞑りながら悪戯っぽく微笑むメフィラ。
彼女の視線の先には、騒ぎを聞きつけてやって来たベルファルドの側近の悪魔たちがいた。
「メフィラ様……?」
「やぁ、久しぶり」
玉座に腰かけたまま気さくに手を振り、メフィラは邪悪な笑みを浮かべた。
困惑する側近たち。
彼らの記憶によれば、彼女は父親によってこの悪魔界を追放されたはずだ。
その彼女が、悪魔王しか座れないはずの玉座に腰かけている。
おまけに、彼らが敬愛する悪魔王は血を流し、床に伏している。
状況を理解し、脳内でふつふつと怒りがこみ上げる中、メフィラは軽やかな声で告げた。
「見てわかる通り、父上は僕が殺した。つまりは、僕が今日から悪魔王……いや、女性なのだし、
「死ねッ!」
悪魔王の娘といえど、この狼藉者を生かしておく理由など欠片も存在しない。
大公に匹敵するほどの力を持つ側近たちは、己の権能を発動させながら、裏切り者の首を獲るべく一歩を踏み出して――
「――
父から簒奪した権能により、悪魔たちの動きが停止する。
いや、時間が停止した。
メフィラは邪悪な笑みを浮かべながら鎖を引っ張る。
この停止した世界への侵入を許された飢餓の狼がその巨大な顎を開き、メフィラへと向けられていた悪魔の攻撃を全て食いつくした。
時間が、元に戻る。
「ッ! こ、これは……! 悪魔王様の――」
自分たちの攻撃が瞬く間にかき消されたその現象の正体を悟った悪魔が動揺する。
全てを支配する最上級の権能。
悪魔王しか持ち得なかったはずの特権が、メフィラによって行使されている。
それはつまり――超常の力が、最も手渡してはいけない女の手に渡ってしまったことを意味していた。
「うん、玉座と同様に、悪くない感じだ。流石は悪魔王と言ったところかな」
新しい能力を試したメフィラは、行儀よく座ることに飽きたのか、行儀悪く片足を上げ、肘置きの上にその美脚を委ねた。
そしてだらけるように玉座の背もたれへともたれ掛かる。
何とも堕落した姿だが、そんな恰好であっても妙に様になり、かつ品を失わないのがメフィラという女であった。
女は告げる。
「諸君、祝福を」
誰もが驚愕と、そして憎悪で固まる中、相反する言葉を述べる。
「新たなる王――悪魔女王の誕生を祝福してくれたまえ」
傲岸不遜に言ってのけながら――
悪魔女王は不敵に微笑みながら左手を持ち上げた。
「メフィラ様、万歳……とね」
その指が、鳴らされる。
これにて第四章は終幕となります。
ここまで長らくお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
相変わらず章のボリュームが大きい作品で、自分でも「これ、本当に収拾つくの……?」と思いながら書いていました。
特に今章は、これまでで最も登場キャラクターが多かったこともあり、物語の展開に苦労した部分が多く、当初のプロット通りに全員へ十分に焦点を当てられなかった点については反省しています。
このあたりは今後も勉強しながら改善していければと思っています。
投稿は今後も週一ペースで続けていく予定ですが、第五章にすぐ突入できるかどうかはまだ不透明で、場合によっては幕間のような短い話を挟ませていただくかもしれません。
いよいよ物語も最終章が近づいてまいりました。
ぜひ最後までお付き合いいただけますと嬉しいです。
そして、いつも誤字をご指摘くださる皆さま、評価をくださる皆さま、感想や「ここ好き」を届けてくださる皆さまへ、心より感謝申し上げます。
今後とも拙作をどうぞよろしくお願いいたします。