「おいおい、そこで押さないのは嘘だろハリー! ううむ、もしかするとジェームズタイプというよりリーマスタイプなのか? クソ、私が獄中なんかにいたばかりに腐れマグルどものせいでハリーが
鏡を覗き込みながら、シリウスは叫んだ。
その様子を半しもべ妖精のベルーに呆れたような横目で見られていることにも気づかず、シリウスはその鏡にかぶりついていた。
ダフネの胸元に輝く鏡面加工のブローチと連動した一方通行の見守り鏡だ。昔はよく過保護な保護者が子どもにブローチを持たせ、社交の席で余計なことを言ったり言われたりしないか監視していたものだった。
ダフネはこれを使ってハリーの社交界デビューを見守る権利をシリウスに与えた。長く獄中にいたシリウスへのささやかな贈り物である。
「レギュラス坊やの衣装を仕立て直したと聞いた時はぞっとしたが、こうして見るとなかなか似合っている。緑というのがいいな。リリーの目の色だ。黒に金もジェームズらしくていい。ジェームズと言えばスニッチだからな」
「左様ですかな」
「そうとも! やはり着るべき者が着てこそだ」
そう言ってから、わずかにシリウスの良心が痛んだ。
あれほど嫌いあっていた兄弟だが、その末路をアークタルスから聞かされればその憎悪も緩んだ。両親の言いなりだったあのレギュラスが、自らの意志でヴォルデモートに反逆したのだ。
しかし、積年の恨みまで解消するわけではない。
いつも両親に愛されていたレギュラス。いつも大事にされていたレギュラス。いつもプレゼントに囲まれていたレギュラス。
羨ましいなどとは思わない。あの両親に甘やかされるくらいなら、孤児になったほうがマシだ。実際、シリウスの半分はフリーモント・ポッターに育てられたようなものだった。
それでも、幼い頃味わった怒りや苦しみが消えるわけではない。
あのダンスローブを着て兄弟でパーティーに行ったことは一度もない。仮に彼が生きていたとしても、その機会は訪れなかっただろう。
ただ、ついぞ日の目を見なかったダンスローブがこうして晴れの舞台で輝いたことだけは、喜んでやってもいいと思えた。
「あの金ボタンを仕上げるのには苦労させられました」
「あれはベルーの作だったか。両親のことだから、てっきりゴブリン製だとばかり」
「ダフネ様はゴブリンたちと親しくしてらっしゃいますからな、彼らの作品なら彼らにお返しになっていたことでしょう」
「……すごい子が現れたものだ」
ダフネには驚かされた。
グリーングラス家の呪いのことは知っていた。変身術クラブの先輩にあたるイオ・グリーングラスは気の強い、それはもう気の強い女子生徒だったが、それでも呪いのことを口にするときだけはその表情にかすかな影が差した。
いくらダフネが強い心を持った少女だと言っても、そのどこかには恐怖があるだろう。それなのに、ダフネは歩みを止めない。
そしてついに、ダフネはシリウスが不在のうちにブラック家を乗っ取ってしまった。
悪い気はしない。いっそ痛快だった。純血を道具としか思わない彼女のやり方がブラック家を覆い尽くしていく様をかつての両親が見れば、一体どんな顔をしただろうか。
「ブラック=グリーングラス、か」
「アステリア様は法的には貴方様の妹君にあたるのでしたな。いかがですか、初めて妹を持ったお気持ちは」
「悪くはない。戸惑いはあるがな」
鏡の向こうに、アステリアがドラコと踊っているのが垣間見えた。
シリウスからすれば、マルフォイ家など魔法族の風上にも置けない、邪悪な蝙蝠共だ。しかし、ダフネは彼らに利用価値を見いだしている。
ダフネのやり方はシリウスには合わない。
よくも悪くもダフネはスリザリンだ。正義を掲げ、正面から戦うことの意義を理解しない。価値は認めているのだろうが、自ら進んで選ぶことはしない。
アズカバンで過ごした長い年月の中で、いくつもの後悔と反省があった。もう少し賢く立ち回るべきだったと思う苦い記憶もひとつやふたつではない。
その最たるものがペティグリューの一件だ。
もっとうまく戦っていれば。味方を募り、追い詰めてから戦えば。そうすれば犠牲を減らし、ペティグリューを逮捕することだってできたはずだ。
「……まあ、何度やりなおしても同じだろう」
「何か?」
「いや、なんでもない。お、またペアを変えるな。ハリーが少し遠いが……相手は誰だ? 見覚えがあるような」
誤魔化すように鏡を覗き込んだ。
結局、ひとりでペティグリューに挑んだのはシリウスの精神がそれを求めたからだ。
生き残っていた騎士団のメンバーに頼ることもできたのだろう。リーマスと手を組むべきだったのかもしれない。ダンブルドアに助けを求めることだって不可能ではなかった。
しかし、シリウスはひとりで挑み、ひとりで負けた。
戦後まもなくで、ペティグリュー以外に裏切り者がいる可能性を排除できなかったこともある。しかし、それ以上に、ジェームズがいないことがシリウスに孤独な戦いを強いた。
シリウスにとって、戦いとはジェームズに背中を預けるものだった。ジェームズがいない今、シリウスの背中は無防備で、冷たい風に吹かれるままになっていた。
「ふむ……お相手はレディ・ガンプのようですな」
「ガンプ! あの偏屈なレイブンクロー生がなんと、随分な貴婦人ぶりじゃないか。覚えているぞ、ジェームズに匿名でラブレターを送ってきたのに、彼女が愛用していたインクのせいですぐに誰だかわかったんだ。それを恥ずかしく思ったのか、結局付き合いはしなかったが」
思わず頬が緩んだ。
アズカバンにいたころ、ペティグリューへの憎悪を除けばシリウスにとっての命綱は学生時代の思い出だった。憎悪が正気を保ち、幸福が心を支えた。幸福な記憶を辿れば辿るほど、ペティグリューへの怒りは高まった。
そして脱獄した今、シリウスは柔らかな寝床と温かな食事を得て、少しずつ理性を取り戻しつつあった。復讐心は微塵も陰りを見せない一方で、そのやり方について考える余裕ができた。
「……私が殺人を犯せば、ハリーの進む道に傷がつく、か」
アークタルスから受けた忠告だ。
裏切り者のペティグリューを殺すつもりで脱獄した。しかし、ハリーの後見人であるシリウスが殺人を犯せば、ハリーは犯罪者を保護者に持つことになる。
鏡の中で、ハリーは緊張に表情を強張らせながらもなんとかにこやかに、丁寧に周囲とやり取りをしていた。その姿は、認めたくはないが、かつての自分よりずっと忍耐強く、立派だった。
ハリーの邪魔をしたくはない。
しかし、復讐を諦めることは考えていなかった。そうしなければ、全てが終わってしまう気がした。ジェームズとリリーは何のために死んだのだ。自分は何のためにアズカバンにいたのだ。怨嗟の声が脳裏にこだまして止まない。
椅子の上でシリウスが持ち込んだゴブリン銀のナイフを磨いていたベルーが、ふと思い出したような様子で小さくこぼした。
「大旦那様は旦那様の社交嫌いをお許しになる寛大な方でしたな」
「……そうだな。フリーモントじいさんはジェームズがパーティーを蹴っても声を荒げすらしなかった。そういうところが居心地良く感じられて、私も彼の厚意に甘え続けてしまった」
ポッター家は古い純血の家だ。
フリーモントは飾らない老人だったが、友人は多かった。その交友の幅は純血社会に限った話ではなかった。パーティーにもそれなりに出向いていたし、海外に滞在していることもあった。
シリウスは一度、そんなことをして何になるのかと問いかけたことがある。
フリーモントは柔らかに笑って答えた。普段から顔を合わせておいたほうが、困ったときに頼る相手として思い出してくれやすいだろうから、と。
派閥に入るでもなく、自ら派閥を興すでもなく、ただ友人たちの顔を見るため、困ったことはないかと聞くためだけに、フリーモントは社交界に出入りしていた。
ジェームズが「年寄りの日向ぼっこ」と呼んで退屈がっていたそれを、まさかハリーが受け継ごうとは思いもよらなかった。
「そういった気質は遺伝するものです。旦那様は社交がお嫌いでしたが、人嫌いではなかった。若様とて、社交の世界そのものにそこまで大きな魅力を感じているわけではないでしょう」
「だが、ダフネはそうではない」
ダフネはハリーが社交の世界にいる価値を理解している。
腹立たしいが、ブラック家の人間として教育を叩き込まれたシリウスにはわかる。ハリーは象徴なのだ。勝利と平和の象徴。ハリーとつるんでいるというだけで、その人間は平和な時代に勝者の側で生きることを認められる。
そして、それはやがてハリーを紐帯とした陣営を構築することにつながる。ダンブルドアに傅く人々と重なりつつも異なる、緩やかで大きな陣営。平和な戦後を肯定し、それを揺るがす勢力に抵抗する市民の輪。
ヴォルデモートが復活した時、実際にハリーの味方になるのはその1割にも満たないかもしれない。しかし、その1割が重要なのだ。拠点と食事、情報を提供してくれる味方の有無は戦争の勝敗を決定すると言っても過言ではない。
ダフネは勝ちに行っている。
ダンブルドアのように魔法省から独立した勢力を築くのではなく、むしろ魔法省に浸透する形で勢力圏を拡大している。有事の際、少しでも多くの権力を動員できるように。
「末恐ろしい子だ。一体イオは彼女に何を食べさせて育てたんだ?」
「ダフネ様は昔から聡明な方でした。イオ様の葬儀をひとりで差配されたと伺っております」
「それは……そうか。そうだな、どんな葬式にも喪主がいる」
一瞬、会場の壁掛け鏡に映ったダフネがこちらを見たような気がした。
初めて会ったころのイオによく似ていた。
イオはいい先輩だった。シリウスが女子生徒を泣かせれば必ず駆けつけて叱りつけてくれる人だった。それでいて、最後にはブラック家に生まれたシリウスの宿命――子を授かれば、その子がブラック家の跡取りになるという絶望を理解してくれた。
まだどこかで、シリウスはイオが生きているような気がしていた。
戦争から彼女を守れたことはシリウスにとって数少ない誇りだった。その彼女が変身に失敗した挙げ句首を吊ったなどと聞かされても、まだ信じきれていなかった。
イオが遺した娘たちを、できれば愛してやりたい。
しかし、シリウスにはどうしてもダフネのやり方が受け入れきれなかった。純血の二文字を耳にするたび、忌むべき両親の記憶がちらついた。そして、彼女が提示した
「……ベルー。ペティグリューの母親を使う件、どう思う」
「珍しいですな。坊ちゃまがしもべに意見を求めるなど」
「お前はしもべと違って自分の頭で考えるだろう」
「そうですな、私は人間と違って自分の頭を他人のために使えるのです。さて、ミセス・ペティグリューのことですが……確かに、英雄として死んだはずの息子が裏切り者の悪党として生き続けていた事を知るのは衝撃でしょう」
ベルーはナイフを鞘に収め、静かに眼鏡を外した。
「しかし、母親という生き物は大抵の場合、どんな悪党になったとしても我が子が生きていることを喜ぶものです。ミセス・ペティグリューも嘆きはするでしょうが、我が子にもう一度だけ会えるというのは彼女の救いになりうるかと」
「私の母の肖像画に聞かせてやりたいものだ」
「ヴァルブルガ様も心配なさらなかったわけではないでしょう。坊ちゃまが望まれる形の心配でなかっただけです」
「……どうだかな」
シリウスは顔を上げ、肩を回した。
長い間アズカバンにいたおかげで、同じ姿勢を保ち続けることはもはや苦痛ではなくなったはずだった。しかし、快適な寝床を手に入れてしまったせいでかえって苦痛が際立ってしまった。
肩が重い。
ずっと鏡を覗き込んでいたせいか、それとも気持ちが重いせいか。
戦争が終わり、冤罪で投獄され、12年後に脱獄して帰ってきたかと思えばそこはもうシリウスの知る世界ではなかった。毎夜夢に見る戦争中の悲鳴と怒号のほうが、よほどシリウスにとっては現実のようだった。
それでも、時代は変わったのだ。
「……ジェームズが見たらなんと言うだろうな」
亡き親友にそっくりな青年が鏡の向こうで踊っている。
心はちっとも晴れやかではなかったが、それでも少しだけ、アズカバンにいたころには存在しえなかった感情――希望がシリウスの心に芽生えつつあった。