「それでは、融資は……」
「もちろんだとも、ジガー先生。竜痘の根絶は魔法族の悲願だ! そこに投資しないわけにはいかない、そうだろう? 金の心配はなさるな!」
利息が払える間は夢を見させてやろう。
安心した様子の客が出されたウィスキーを呷るのを見ながら、ヤックスリーは内心でそうこぼした。アージニウス・ジガーは教科書の執筆者としても知られる魔法薬の大家だが、近年は研究資金の不足に苦しむようになり、ついにこうしてヤックスリーを訪ねた。
ジガーは竜痘の予防薬という計画を持ち込んできたが、実態は生活費を求めての訪問であることはヤックスリーにはお見通しだった。老いた彼には妻がなく、養ってくれる我が子もいない。昔のように薬を煎じていれば日銭が稼げる時代でもない。
利息が払えなくなった時、ジガーの開発した魔法薬の権利はヤックスリーのものになる。中にはいささかお行儀の悪い薬もあるが、債務者たちに利息代わりに売人をやらせるという手もあるだろう。
「ありがとう、ミスター・ヤックスリー……」
「明日の朝には先生の金庫はガリオン金貨で満たされている。安心してくれ、俺はあんたの味方だ!」
金の続く限りは。
ヤックスリーは軽く酩酊したジガーを表通りまで送り、しもべにグラスと灰皿を片付けさせて、それから小さく息を吐いた。
富は権力を、権力は富を生む。
これまで、コーバン・ヤックスリーという男は一端の勝負師としてそれなりにやってきたはずだった。先物から始め、不動産に手を出し、土地と事業を転がし、今や裏のグリンゴッツと噂されるだけの存在にまで至った。
それはいいのだ。
「ちとまずいな」
呟いて、ヤックスリーはソファにどっかりと腰かけた。
昨晩のパーティーが全ての状況を変えた。これから魔法界は激動の時代に突入する。ヤックスリーは賭けるべき相手を見極めなければならない。売り抜いて、勝ち抜けて、そうすれば次の時代の覇者はヤックスリーだ。
そのはずだった。
「ダフネ・グリーングラス、か」
集めさせた資料を思い出す。すでに燃やしたが、内容は全て頭に入っている。
名声ではブラック家やマルフォイ家にこそ及ばないものの、多くの純血が大陸から渡来する以前の旧き魔法族の末裔。女系に血の呪いを遺伝するという陰りを純血主義者たちとの交流によって補ってきた、投資に値しない骨董品。
しかし、ダフネ・グリーングラスはそうではない。
多くの魔法族が家格と呪いから侮っている間に、ダフネは牙を磨き、機会を逃さず、そして少しずつ育っていった。そしてついに、彼女は地位を得た。
ハリー・ポッターのパートナー。
これからハリーは巨大な勢力の首魁になるだろう。今の状況でハリー・ポッターを支持しないとは、つまりヴォルデモートを支持することを意味する。誰が消え去った敗軍の将を支持したがるだろうか。そんな馬鹿はもうアズカバンにしかいない。
しかし、都合が悪いのは、
ヤックスリーはハリーに選ばれなかった。ダフネがそうさせなかった。パーティーの間、ダフネは一度たりともハリーをヤックスリーに近づかせなかった。ダフネはハリーを守り、ハリーはダフネを信じている。
見た目通りの小娘と侮れば大火傷を負っただろう。
「一抜けってところか、ルシウス。裏切りと寝返りにかけちゃ、マルフォイ家に勝てるやつはいねえわな」
背もたれに体重を預け、杖で葉巻に火を付ける。
ルシウスはホストとしてハリーを招待し、ハリーはそれに応えた。この段階ではまだ、マルフォイ家がハリーの陣営についたことを意味するわけではない。しかし、両者の距離が近いことをアピールすることはできた。
何がしたかったのか、ヤックスリーにはおおよその見当がついている。ヴォルデモートがいないこの平和な時代で勢力を拡大しつつ、いざというときにどちらの陣営についても不都合がないようにバランスゲームをしているのだ。
その証拠に、ルシウスはヤックスリーをハリーに紹介しなかった。三大派閥と噂されるほどの対等な存在であるにもかかわらず、だ。
ヤックスリーを紹介せず、デメテルを招待せず、ルシウスは三大派閥の長としてでなく同級生の父親としてハリーに接した。それでいて、パーティーでは明確にブラック家とポッター家の再生を祝う空気を醸し出していた。
パーティーの間、ダフネがずっとこちらに目を光らせていた。ヤックスリーがいつもの調子で割り込み、空気を乱し、そのまま自分のペースを作る、そのための隙がなかった。
歓迎されていない。
「おい、しもべ」
「はいでございます、旦那様」
「オグデンのファイア・ウィスキーを持ってこい。さっき出した安物じゃない、地下にしまってある1965年のボトルを」
「あれをお開けになさいますか!」
「俺が開けると言ったら開けるんだよ、そうだろうが。さっさと持ってこい」
屋敷しもべ妖精は怯えたように深々と頭を下げ、姿を消した。
次の瞬間にはテーブルに冷えたグラスとロックアイス、1965年のヴィンテージボトル、ミックスナッツとチーズが用意されていた。ヤックスリーがヴォルデモートの傘下に加わったその日に願掛けとして買ったボトルだ。
赤い蝋の封を切り、栓を抜いてグラスに注ぎ、ストレートのまま一気に呷った。戦争に負けて開けないまま寝かせていた酒を、味わいもせずに流し込んだ。
胃が焼けるようだ。
「……さあ、どうする」
ヤックスリーはハリーの側には付けない。
本質的にヤックスリーは金貸しだ。どんな人間も金貸しを拝むのは金を借りるときだけだ。それ以外の瞬間において金貸しとは厄介者の悪党でしかない。
どれだけ寄付をしようと、どれだけ慈善事業に投資しようと、ヤックスリーは元死喰い人で、金貸しである。この風評を覆そうとすればヤックスリーは商売の根幹を移し替えねばならないが、それだけはできない。
ましてや、ハリーのそばにはウィーズリー家がいる。彼は貧乏人の暮らしを知っている。ヤックスリーが貧乏人を食い物にしているとわかれば、彼は決してヤックスリーに近づかないだろう。
いや、ここまでの全ては言い訳に過ぎない。それはハリーとヤックスリーが相容れないことの本質ではない。
妻の趣味で買った真っ青なベルベットのソファに寝転んで、ヤックスリーは己の腕を撫でた。
かつて刻まれた印は、今日も疼かない。
「勝ったと思ったんだがなあ」
まだ内心で、ヤックスリーはヴォルデモートの敗北を疑っている。
最近の若者はヴォルデモートの恐ろしさを知らない。卓越したカリスマ。深淵を鷲掴みにしたかのような魔法の知識。躊躇うことなく死と絶望を振りまく恐ろしさ。そして、絶対的な自信。
ヴォルデモートは強大だった。マグルが語り継ぐ物語の魔王ですらひれ伏す、偉大な帝王だった。だからヤックスリーは彼に賭け、目一杯投資した。
勝ち筋は見えていたのだ。
ダンブルドアは老いた。あと一歩で魔法省を陥落させるところまでいっていた。魔法使いや魔女が無数に裏切り、ヴォルデモートの軍門に降った。その裏でヤックスリーはあらゆる手を駆使して経済を支配し、グリンゴッツに王手をかけた。
帝王ヴォルデモートが君臨し、宰相としてルシウスが、財務大臣としてヤックスリーが支配する帝国。その絵図はあと一歩で完成していたのだ。
そのタイミングでヴォルデモートが赤子に消し飛ばされるなど、誰が想像しただろう。
「そんな恐ろしいガキには見えなかったがなあ」
煙を吐き出す。
終始ダフネにリードされていたハリーは、ヤックスリーの目には普通の青年に映った。
少しひねたところはあるものの、一生懸命で可愛げのある若者だった。敵どうしでなければ単なる老人と若者として躊躇いなく交流することだってできたかもしれない。
あんな平凡そうな若造にヴォルデモートが負けたとは。
「……いいや、まだだ。まだ勝負はついちゃいない」
大赤字だった。
戦後、ヤックスリーは真っ当な金貸し、真っ当な投資家として身の潔白を主張した。汚い金を洗浄し、それでも都合が悪いものは寄付という形で処分した。
正気の人間はここで懲りる。ヴォルデモートに賭けたのが間違っていた。身の程を知った商売をして、額に汗をかいて、そうやって地道に生きていくのが正しいのだと自分に言い聞かせる。それが常道というものだ。
ヤックスリーもそうだった。必死に商売をして、一時は大きく目減りした金と信用を徹底的に取り返した。ある時には良心的な支援者として、またある時には冷徹な債権者として。
しかし、ヤックスリーは時折疑問に思うのだ。
果たして、己は正気なのか? この勝負は本当に終わったのか?
「――なあにダーリン、随分荒れてるじゃないの」
音もなく応接間の扉が開き、葉巻の煙に熟れた果実のような甘い香りが混ざった。
その白い手がヤックスリーの喉を撫で、そのまま胸板に伸びると、ヤックスリーは葉巻を灰皿に放り出して笑った。
「お前も飲むか、ハニー」
「やめとくわ、お酒飲んだらむくんじゃうでしょ。それより、見て! じゃーん!」
腕を引かれてヤックスリーが身を起こすと、そこには金糸と見紛うような艶のある金髪を大粒のサファイアが輝くバレッタでまとめた魔女がいた。
見た目は18歳ほどにしか見えないその彼女がヤックスリーに甘える様は、小遣いをねだる孫のようにしか見えないだろう。しかし、このリンジー・ヤックスリーという女は、彼よりも年上の妻なのだ。
「どう、似合う?」
「ハニー……そいつは俺の目利きが正しきゃ600ガリオンはすると思うが」
「ダーリンすごーい! これね、650ガリオンで買ったのよ! ね、似合ってるでしょ?」
「ああ、最高だ。今すぐこの世全てのお姫様にお前を見せたいね、きっと全員が絶望してお家は断絶だろうさ」
プラチナの地金に大粒のサファイアを5つ載せたバレッタは確かにリンジーの美貌を引き立てていた。我が妻ながら、世界一美しいと思うほどだった。
立ち上がったヤックスリーはリンジーを抱き寄せ、キスをして、それからポケットに入っていた小切手を取り出した。毎日服用する若返り薬の材料を含め、彼女の買い物はいつも全てがヤックスリーのツケになっている。
「今日はいくら使った?」
「ぴったり1000ガリオン! これってなかなかハッピーじゃない?」
「ああ、今日は俺のラッキーデーだ。さ、こいつで払っておいで、ハニー」
「ありがと、愛してるわダーリン!」
リンジーは爪先立ちでヤックスリーの老いて色褪せた唇に啄むようなキスを落とした。
料理もできない、片付けもしない、金遣いは荒い、自分の美しさにしか興味がない。それでもリンジーはヤックスリーにとってたったひとつだけの大事な存在、この世で唯一執着する対象だった。
どれだけガリオン金貨を失おうが、どれだけ世間から罵倒されようが、リンジーさえ笑顔でいてくれればヤックスリーは構いやしなかった。
「それで? 世界一クールなあたしのダーリンは何を悩んでるの?」
「そうだなあ……ちょいとな、俺の正気ってやつを疑ってたのさ」
「なにそれー、おもしろーい」
腕の中でヤックスリーを見上げる妻の柔らかな感触を楽しみながら、ヤックスリーは考えた。
まだ勝負は終わっていない。
ヴォルデモートが赤子程度に負ける、いいだろう、そこまでは認めよう。現実を受け入れられないのは三流だ。負けは負けとして扱うしかない。
しかし、ヴォルデモートがそこで死ぬ、それだけはありえない。
ヤックスリーはヴォルデモートが自らの不死に絶対の自信を持っていたことを知っている。そして、賢明な人間の自信というものは常に根拠から生じるということも当然知っている。そうでなければ投資家は務まらない。
だから、ヴォルデモートは生きている。
「……ハニー、お前、ギリシャは好きか」
「懐かしい! 地中海、卒業旅行で行ったわ。船が難破して
「ああ、その話は俺も好きだ。
ルシウスはギリシャで何かを知った。
そして、それはクラウチを脅せるだけの何かで、ブラック家を動かす価値があるだけの何かで、ハリー・ポッターを表舞台に引っ張り出す理由になるだけの何かだった。それはおそらく、ヴォルデモートに関する何かだ。
おそらくは、ヴォルデモートの生存を確信する何かを掴んだのだろう。
まだルシウスは旗色を鮮明にしていない。魔法省、ハリー・ポッターという「正義の陣営」に擦り寄りつつ、いつでもそれらを差し出して「闇の陣営」に戻ることができるようにしている。いつものやり方だ。
しかし、ルシウスが急いで動くだけの理由があるのは間違いない。
「戦争の時代が来るぞ、ハニー」
「また戦争が始まるの? じゃあ、ダーリンがいっぱい稼いでくれるのね!」
戦争は金になる。
愛する妻が望みを叶えて幸せに暮らすには金が必要だ。ヤックスリーは老いた。前の戦争よりさらに老いた。できるだけ多くの金を遺してやらねば、リンジーが可哀想ではないか。
だから、ヤックスリーはこの勝負に勝たなければならない。
不利なゲームだ。ハリーはヤックスリーに近寄らない。ダフネはヤックスリーを警戒している。ルシウスは一人勝ちを狙っている。肝心のヴォルデモートがどこにいるかもわからない。
しかし、それでも、ヤックスリーは勝つつもりでいた。
「ああ、たんまり稼ぐさ。そしたら老後は商売もやめて、ふたりで世界旅行だ」
「最高! あたしね、アメリカに行きたい! あと、日本でしょ、オランダでしょ、メキシコでしょ……」
「おいおい、ルートがジグザグすぎるぜ」
バレッタでまとめられた金髪にキスを落とすと、リンジーはおかしそうに笑って、ヤックスリーに力いっぱい抱きついた。ヤックスリーはそれを受け止めて、壊れ物を扱うように彼女の頭を撫でた。
次の戦争でブラック家とポッター家、そしてグリーングラス家は要になってくる。ダフネの警戒心を解こうとするのは無駄だろう。それならば、攻め落とすべきはどこなのか。
次の戦争に向けて、ヤックスリーの頭は唸りを上げはじめていた。必ず戦争はやってくる。嵐のような絶望がこの国を覆うだろう。そして、それでも最後に立っているのはヤックスリーだ。
幸せを享受しながら、それでもヤックスリーはどこかで飢えていた。