サインも書き疲れたファッジは、ペン立てに羽根ペンを挿して軽く息を吐き、肩を回した。
これが作家の人気取りならいくらでもばらまいてやるのだが、魔法大臣のサインはロックハートのそれほど軽くはない。予算の決裁から死刑の執行まで、ファッジのもとには魔法界の重要案件が毎秒転がり込んでくる。
時刻は19時半。そろそろ夕食にしたほうがいいだろうか。
「ミス・メリフルア。忙しいところすまないが、デリバリーを頼めるかな。中華の気分だ」
「承知しました。オレンジチキンとチャーハンでよろしいでしょうか」
「シードルもつけてくれ。ああ、いつもの店だ。ではよろしく」
控えていた大臣室付の魔女に指示を出し、彼女が退室したのを確認してから、ファッジは椅子をリクライニングさせた。
最悪の気分だった。
シリウス・ブラックは見つからず、ウィゼンガモットは強硬策として捜索に吸魂鬼の投入を要請してきた。かの脱獄囚の気配を12年間感じ続けた看守たちなら、闇祓いが見つけられない痕跡を見て取るだろうというのが彼らの主張だ。
理解はできる。ゆえに承認した。
脱獄した彼の目的であろうと思われるハリーを守るという口実のもとに、ウィゼンガモットはホグワーツの統治に介入したという実績を作ろうとしている。これでシリウスが目論見通り逮捕されれば、今後ウィゼンガモットはホグワーツの運営にも口出しをするだろう。
棒付きキャンディーを取り出そうとして、震えたファッジの指が引き出しの取っ手を弾いた。
執務室は多少暑いくらいなのに、ファッジの身体は冷え切っていた。
脳裏に狂笑がこだまする。12年前、魔法事故惨事部の副長として現場に急行したあの日、ファッジは狂気を目撃した。その狂気が、今どこかに潜んでいる。あの窓に、あの影に、あの隙間に。
「はあ……。ミス・メリフルア、コーヒーを……いないんだったな」
このノイローゼを追いやるには、ファイア・ウィスキーをたっぷり垂らしたアイリッシュコーヒーしかなさそうだった。
ファッジは立ち上がり、コーヒーメーカーに向かった。友好の証としてマグル界の首相に選んでもらった高級品で、使いこなすのに随分時間がかかった。
「……フリーモントに似てきたな」
思い出すのはハリーの姿だ。
略式の礼装ではあったが、その気安さがかえって若々しさを際立たせていて好印象だった。学生時代に可愛がってもらったフリーモント・ポッターの面影を感じて、思わず私人としてコメントしてしまったほどだ。
ハリーには同情していた。ファッジには計り知れないダンブルドアの遠大な計画によって守られているとはいっても、マグルの家で暮らすのにはさぞ苦痛が伴うことだろう。
だからこそ、ハリーには平和に生きてほしかった。
正気を失った死喰い人であるシリウスはおそらくハリーの殺害とヴォルデモートの復活を目論んでいる。これまでファッジが狩り出してきた残党どもと同様に、彼はヴォルデモートを信奉し続けているのだ。
「例のあの人、か。……アルバスは警戒せよと言うが、どうしたものか」
お湯が注がれることを示すランプがつき、ファッジはマグカップをコーヒーメーカーにセットした。
世間の印象に反して、ファッジはヴォルデモートが死んだとは考えていない。もちろん、市民感情を逆撫でしないためにも「悪は去った」というアピールはしてきた。しかし、そこまで楽観視できるほどファッジの精神は豪胆ではなかった。
12年間、何の音沙汰もなかった。これはつまり、手下さえいなければヴォルデモートは何もできない状態になっているということを意味する。そうであればそれは死んだも同然だ。
だからこそ、ファッジは恐怖していた。忠実な信奉者が世に放たれた。もしシリウスがヴォルデモートを見つければ、ヴォルデモートはたちまちのうちに蘇るのではないか。
魔法大臣になって以来、ファッジは積極的に「闇の支配から帰ってきた人々」と交流を図った。ファッジの仕事は戦争に勝つことではなく、次の戦争を起こさないことだ。多少疑わしく思おうとも、闇の陣営に戻らない理由を与えようとしてきた。
それでも時折、夢に見るのだ。
クレーターの中心で立ち尽くし、天を見上げて笑うシリウス。周囲にはマグルだった肉片が無数に飛び散り、瓦礫と混ざって異臭を立てている。ファッジが彼に手錠をかけた。抵抗はなかった。
あの男が今、市街にいるかもしれない。
「……はあ。いっそ本当にマーリン勲章をもらえればよかったのだが」
ファッジは一度だけ、「魔法大臣が自分にマーリン勲章を授与することはできないのか」とウィゼンガモットに問い合わせてみたことがある。
マーリン勲章には少ないものの恩賞としての年金が付随している。それをもらって引退しようか、という邪な考えがよぎったのだ。もちろん、この案は即座に却下され、それどころか報道各社に漏れて散々な非難を浴びる羽目になった。
とはいえ、ファッジはやめられるものならいつでもやめたいと思っていた。
魔法大臣の席はファッジのものではない。まず第一にアルバス・ダンブルドアのものだ。そうでないなら、バーテミウス・クラウチのものだ。間違っても魔法事故惨事部の副長などという小物の席ではないはずなのだ。
結局、ファッジは内務においてはダンブルドアの力を、外務においてはクラウチの力を借り続けている。一度たりとも自分の力で何かを成し遂げたことはない。
我がことながら情けない。
「――あら大臣、コーヒータイムですの? わたくしにも一杯いただけますかしら」
特に情けないのがこの女のことだ。
ファッジは目に悪いピンク色のローブで着飾ったその魔女――ドローレス・アンブリッジを見た。大臣室上級次官、つまり魔法大臣のファッジを除いた最上位者だが、実態は政治家として未熟なファッジのためにウィゼンガモットがつけたお目付け役だ。
最初は面食らったが、今は悪い関係ではない。
アンブリッジは結果を出す魔女だ。結果のために多少の
ファッジとアンブリッジはただの上司と部下ではない。大臣室においてはファッジが上位者だが、ウィゼンガモットにおいてはアンブリッジが上位者だ。彼女は評議員たちと極めて親しくしている。あるいは、評議員たちの弱みを握っていると言い換えてもいい。
だから、アンブリッジは今日のようにノックもなく大臣室にやってくるし、大臣にコーヒーを淹れさせて自分は呑気に鼻歌を奏でもする。
「大臣は随分とお上手にその箱をお使いになりますのね。わたくし、マグルの機械とやらにはどうも疎くて。尊敬してしまいますわ」
「向こうとの友好の証だからな、使えるようにならねば大臣として恥だ。私の後任者もこのコーヒーメーカーを使いこなせる者であることを期待しているよ」
「それはそれは……」
アンブリッジが目を細めたのが背中越しにもわかった。
きっと彼女はこの件をウィゼンガモットの「お友だち」に報告するのだろう。ウィゼンガモット評議会の席に関して少なくない割合を占めるマグル排外主義者たちは、たとえ形ばかりの友好でもマグル界との交流を容認したがらない。
ファッジとてマグルが好きなわけではない。純血の家に生まれ、純血の長男として育ったファッジにとって、マグルなど迷惑で愚鈍な存在でしかなかった。
しかし、魔法事故惨事部での長いキャリアがファッジの考えを少しずつ変えた。
マグルは恐ろしい。敵に回すべきではない。
この点に関してはダンブルドアも共感してくれている。マグルの首相とのちょうどよい関係性については度々ダンブルドアの助言を仰いでいるほどだ。
そのこともウィゼンガモット評議員たちは不満に思っている。魔法大臣が顧問として仰ぐべきは賢人会議たるウィゼンガモットであって、議長個人であるべきではないのだ。
「さ、コーヒーをどうぞ。それで、何の用件だね」
「ありがとうございます、いただきますわ。……そう、お話があったのでしたわ! いけませんわね、わたくし、うっかりしていました」
「何、そういうこともあるとも」
ファッジが座るよう促すと、アンブリッジは子どもがするような大袈裟な会釈を返して執務室に備え付けられている来客用のソファに腰掛けた。
二杯目のコーヒーを淹れている間に、アンブリッジはゆっくりと甘ったるい声で用件を語りはじめた。耳障りな声だったが、それでも不機嫌そうでないだけマシだった。
「ご存知かしら、今年はホグワーツで月に一度外部講師を招聘するそうなんですの」
「それはそれは。アルバスも人手不足に悩んでいると見えるな」
「ええ、ええ。それはもう大変なのでしょうね。ですから、魔法省としてもサポートすべきだと考えましたの」
考えた。
それはつまり、ウィゼンガモット評議員たちの一部がそのような主張を大臣に飲ませてこいとアンブリッジに指示したということだ。彼女は同調しているだけで、彼女自身が考えたわけではない。
しかし、これは同時に「これは自分の提案だ」と主張することでアンブリッジに何かしらのメリットがあるということでもある。平時においてアンブリッジが自ら責任を負うことはない。失敗のリスクを鑑みて、それでもなお自分の提案であるとするだけの価値があるのだろう。
ファッジは注がれるコーヒーを眺めながら、曖昧に返事を返した。
「つまり、魔法省からも講師をお送りするのはいかがかしら。経験の豊富な官僚たちの話を聞けば、優秀な子どもたちが将来魔法省に務めることを目指すかもしれないでしょう?」
「なるほど。すでに決まっている外部講師は誰なんだね」
「それは……ミリセント・バグノールド前大臣ですわ。でも、彼女はもうお年を召してらっしゃるでしょう? 月に一度だなんて苦労をかけるべきではないと思いませんかしら?」
ファッジはしばし沈黙し、コーヒーの雫を見守った。
あのバグノールドに限って歳を言い訳にすることはない。彼女が外部講師なら魔法省としてホグワーツの教育に十分貢献したと言えるだろう。
しかし、アンブリッジはそれでは満足しない。バグノールドはあくまで前大臣、善意で魔法省に協力している民間人であって、魔法省官僚でもウィゼンガモット評議員でもないのだから。
自分の息がかかった人間を送り込みたいというわけだ。
そして、あわよくばダンブルドアの引退後に理事会と結託してその者をホグワーツの校長に据え、ホグワーツ全体をウィゼンガモットの影響下に置こうというところまで考えているのだろう。
ファッジにその企みを阻む力はない。理由もない。
「ふむ。ところで、吸魂鬼の件はどうなっていたかな」
「順調ですわ。明日からの新学期ではホグワーツ特急の捜査も行う予定です」
「結構。あの男は一筋縄ではいかない。そういう意味では、今年のホグワーツは講師を送るには危険すぎる。どのみち来年度は
来年度にはこの国でクィディッチワールドカップと三大魔法学校対抗試合が執り行われることになっている。つまり、国際交流が盛んになるということだ。
海外とのコネクションをも得られるであろうことを示唆すると、アンブリッジはマグカップを持ったまま曖昧に笑った。どうやらお気に召さなかったらしい。
「まさに今年だからこそ、魔法省の手を入れるべきだとわたくしは考えておりますの。可愛い子どもたちが凶悪な殺人犯に襲われたら大変でしょう? 先生は生徒を守るものですわ」
なるほど、そこか。
ファッジは納得しながら自分のコーヒーが注がれたマグカップを手に取った。
つまり、アンブリッジはシリウス・ブラック逮捕の手柄を自分のものにしたいのだ。このヒト至上主義者は当然吸魂鬼のことなど信じていない。自分の手駒を送り込み、脱獄囚を捕らえさせた魔法戦士あたりを魔法法執行部のマネージャーに据える魂胆だろう。
ファッジとしてはシリウスの逮捕に力を入れてくれるのは好都合だ。そのまま最近様子のおかしいクラウチと繋がりの薄い人間を魔法法執行部のマネージャーに据えてくれれば言うことはない。
「吸魂鬼が生徒たちに手を出さないとも限らんからな。いいだろう、直前のことになってしまったがアルバスに話してみよう」
「ありがたいお言葉ですわ、ファッジ大臣」
コーヒーを啜る。
ホグワーツの統治に干渉できるかはわからない。尊敬すべきダンブルドアに任せておけばよいという気持ちもある。
その一方で、自分が逮捕したシリウスのことを何もせずに見ているだけというのはさすがのファッジでもプライドが傷つく。世論が言う通り、魔法省は責任ある行動をすべきだ。
アンブリッジの提案にそのまま乗るというのは癪な話だが、それでも手を打たないよりはマシだろう。この一杯を飲み終わったらすぐにダンブルドアにあてて手紙を書くつもりで、ファッジは熱いコーヒーをぐっと呷った。
窓を打つ雨は次第に強まり、明日の天気が荒れることを示しつつあった。
お待たせしました。次回から新学期です。