その血は呪われている   作:海野波香

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 壇上に立つ前に、ダフネはゴブレットに注がれた冷たい水で喉を開いた。

 蒼の貴血(ブルーブラッド)の勉強会に参加しているメンバーを中心に、多くのリクエストが集まっていた。もはやその声は無視できない規模だった。3年生には少し荷が重い話だったが、ダフネにとってはさしたる難題ではなかった。

 そして、これは好機でもある。

 

「大丈夫?」

「ええ、ありがとうヘスティア。フローラも、書記をよろしくね」

「無論です」

 

 カロー姉妹の応援を背に受けて、ダフネは大教室の壇上に立った。

 わっと歓声が上がる。歓迎する視線もあれば、噂を聞いて立ち寄っただけの好奇の視線もある。ちらほらと見受けられる陶酔した目は、おそらくファンクラブのメンバーだろう。

 悪くない温まり方だ。

 ダフネは手を振って、それから杖を取り出し投影機を起動させた。

 

「皆様がここに集まっているということは、少なからず不安を抱いていたということになるのでしょう。ホグワーツの盤石な守りがあると言えど、彼ら――吸魂鬼の存在は、決して歓迎できるものではありませんものね」

 

 スクリーンに投影された吸魂鬼の姿は、観衆を静まらせるのに十分なおどろおどろしさがあった。

 映像越しにも伝わってくるような冷気。湖の底で長く恨みを抱えて眠っていた水死体のような、触れれば崩れそうな指。それを覆う襤褸布は死者の衣のように薄汚れていて、この世のものとは思えない。

 ダフネはもう一度投影機を杖で叩き、映像を切り替えた。

 

「だからこそ、我々蒼の貴血は皆様に知る機会を用意すべきだと考え、情報を集めました。万が一にも吸魂鬼に襲われた際、身を守るたった一つの手段。そう、守護霊の呪文ですわ」

 

 今度はスクリーンに白い光でできた動物たちが現れた。

 クィディッチ競技場で撮影されたそのスライドには、ネコの守護霊がローブの裾にじゃれつき、ダックスフンドの守護霊が行儀よく伏せて指示を待つ姿が現れていた。

 

「守護霊の呪文。守備と防護の呪文として最も古くから伝わる呪文のひとつですわね。この呪文は吸魂鬼に対抗するたったひとつの手段であるとして今日に至るまで知られています」

 

 守護霊の主が命じると、ネコの守護霊とダックスフンドの守護霊は吸魂鬼へと飛びかかった。

 スクリーンの外まで追いやられた吸魂鬼の姿に、おお、と小さく歓声が上がった。

 

「今日はこの呪文について、皆さんと一緒に学んでいきたいと思っています。司会を務めますのは私、ダフネ・グリーングラスですわ。どうぞよろしく」

 

 拍手に交じっていくつかの囁きがダフネの耳に届いた。

 なぜ3年生のダフネがこの会を主催しているのか。今日の講義は勉強会の参加者以外にも開放している。そのためか、こういった疑問の声がちらほらと聞き取れた。

 守護霊の呪文は7年生の学力試験であるNEWTでも出題されない極めて高度な防御呪文だ。3年生のダフネでは使いこなせるはずがないという疑問は当然のことだろう。だからこそ、今日の講義は勉強会の存在を知らしめる好機になる。

 

「皆さんの中には疑問をお抱えの方もいらっしゃることでしょう。守護霊の呪文なんて高度な呪文を、使いこなせるのか? ……恥ずかしながら、非才の身である私に今できるのはこの程度ですわ。守護霊よ、来たれ(エクスペクト・パトローナム)!」

 

 ダフネが呪文を唱えると、白い光の盾がダフネの前に広がった。

 まだ有形ではないが、守護霊の呪文自体は安定してきた。迫りくる吸魂鬼を阻む程度なら十分に役立つだろう。

 そして、この段階に到達するだけでも途方もなく難しいという事実を理解している者たちから感嘆の声が漏れ出た。

 説得力としては十分だ。次のステップに進む。

 

「今日お話することは、私よりも守護霊の呪文についてお詳しい皆様からお知恵をお借りしたものの集大成ですわ。上級生の皆様も安心して聞いていただける内容になっているかと」

 

 第一段階。箔付け。

 

「皆様もお馴染みのフリットウィック先生、呪文学の教科書を書かれてらっしゃるミランダ・ゴズホーク女史、そしてウィゼンガモット評議員で試験局にお勤めのマダム・マーチバンクス。こちらの皆様が今回ご協力下さいました」

 

 大教室の雰囲気が変わった。

 今日の講義はいつもの遊び気分で互助をする勉強会から一歩踏み込んでいる。ダフネだから集められる人脈を駆使した、蒼の貴血が目指すべき次のステップを示すための講義だ。

 ダフネは善意や功名心からこの会を主催したのではない。そんな暇はダフネにありはしない。この瞬間、瞬間すべてに価値がある。

 

「守護霊の呪文について語るとき、いくつものテーマが設定できますわね。守護霊はどこから来たのか。守護霊は何者か。守護霊はどこへ行くのか……」

 

 クスリと笑った聴衆は、おそらくマグルの血を引いているかマグル文化への関心が高い者だ。つまり、将来的にはダフネにとって()()()()の候補者ということになる。

 反応を見せた聴衆の顔を脳裏に刻みつつ、ダフネは話を続けた。

 

「守護霊の呪文の起源やその変遷についても興味深い話ができるかと思いますが、私たちが求めているのは今、そう、今の話です」

 

 投影機を杖で叩くと、守護霊を呼び戻したふたりの教師が映し出される。マクゴナガルとスプラウトだ。守護霊の呪文についての勉強会のために映像を提供してほしいと相談したところ、快く応じてくれた。

 

「まず、フリットウィック先生からの警告を皆さんにお伝えしておきましょう。守護霊の呪文は極めて高度な呪文です。卓越した魔法使いや魔女ですら、吸魂鬼を前にして冷静に守護霊の呪文を唱えることは難しいとされています」

 

 困惑の表情がちらほらと見て取れる。

 若い魔術師の中には魔法という力の全能感に支配されて物事を楽観視する者が少なくない。どんな困難も呪文を唱えればたちまち解決、という思い込みは、もちろんあながち間違いではない。

 しかし、守護霊の呪文に関して言えば、そう簡単に解決する問題ではないのだ。

 

「なぜ困難なのか説明しましょう。守護霊の呪文を唱える際に必要とされるものを、どなたか教えてくださるかしら」

 

 すぐに会場の奥の方で手が挙がった。高身長の赤毛、パーシー・ウィーズリーだ。

 当然来ているだろうとダフネは確信していた。律儀で義務感の塊のような彼がこのイベントを見逃すはずがない。

 しかも、おそらく彼は守護霊の呪文を使えない。ハーマイオニーが躓いたことからもわかるように、あれこれ考えを巡らせるタイプの魔術師ほどこの呪文に手こずるからだ。

 

「幸福な記憶だ。混じり気のない純粋な幸福であるほど守護霊は強まると言われているね」

「ありがとう、パーシー。さて、そこで皆さんに考えていただきたいのですわ。吸魂鬼がすぐそばにいます。あれらが纏う冷気は底なしの絶望を呼び起こします。その絶望が迫る中、心を幸福で満たさなければならない……」

 

 聡い生徒たちは理解した様子で、はっと息を呑んだ。

 吸魂鬼対策として考えたとき、守護霊の呪文には根本的な欠陥がある。火の近くでは噴射しにくくなる消火器のようなものだ。

 

「私たちを水瓶としましょう。吸魂鬼は底に罅を入れ、中に溜まった幸せを奪います。私たちがあれらを撃退するには、幸せが漏れ出ている最中に自らを幸せで満たさなければならないのですわ」

 

 会場がざわついた。

 そう、守護霊の呪文が困難とされているのはただ呪文そのものが難しいからではない。適性があるとはいえ、3年生のハリーでも努力を重ねれば習得できる程度の呪文だ。

 しかし、吸魂鬼に襲われながら守護霊の呪文を成功させるのは極めて困難だ。

 

「守護霊の呪文を軽い気持ちで扱えば、必ず手痛いしっぺ返しを食らうことでしょう。それも、代償は魂で支払うことになります。一番大事なのは、吸魂鬼に近づかないことですわ」

 

 真面目そうな生徒たちが頷く一方で、不満げな表情を見せる者もいた。多くはグリフィンドール生だ。虎穴に入らずんば虎子を得ずを地で行く彼らにとって、吸魂鬼からは逃げざるを得ないというのは腹立たしいことだろう。

 しかし、この話をすることが今回の会を開くためにマクゴナガルから提示された条件だった。そうでなければ、好奇心旺盛なホグワーツ生たちは喜んでドラゴンの尾を踏みにいくことだろう。最終的には()()()()()()()を理由に会合を許可してもらえたが、今でなければ許可は出なかったに違いない。

 フラストレーションは十分にたまった。次のステップだ。

 

「……とはいえ、身を守る手段はあるに越したことはありませんわよね?」

 

 ダフネが悪戯げにウィンクすると、歓声が上がった。

 第二段階、興奮。

 

「先ほどパーシーが教えてくれた通り、守護霊の呪文はとてもシンプルな呪文ですわ。心を幸せで満たして、呪文を唱える。杖先は円を描くように。守護霊よ、来たれ(エクスペクト・パトローナム)

 

 ダフネが呪文を唱えると、白銀の円盾が敵を阻むように広がった。

 

「この呪文を練習する上で気をつけるべきことは何か、マダム・マーチバンクスに伺いました。まず何よりも、監督してくれる相手を見つけるべきとのことでしたわ。この呪文、見た目よりもすごく消耗しますの」

 

 教壇に近い席にいる生徒であれば、ダフネの額に汗がにじんだのを見て取ったかもしれない。守護霊の呪文は精神力を大きく消耗する。極度の集中が必要とされる呪文だからだ。

 ダフネは杖を払って呪文を解き、聴衆に向き合った。

 

「あとは正しく記憶を呼び起こし、正しく杖を振り、正しく唱えるだけ。記憶は強ければ強いほどよいと言われていますわ。吸魂鬼は幸せを奪いますが、幸せな記憶までは奪えませんから」

 

 幸せ。

 このシンプルな感情を自覚するのは難しい。幸せという感情はその瞬間に体感されることもあれば、10年後、20年後になって「あのときは幸せだった」と感じられることもある。暑い寒いとはわけが違うのだ。

 聡明で自らの思考に深く潜る癖がある魔術師ほどここで失敗しやすい。幸せとはなにか、その哲学的な問いに迷い込めばこの呪文は応えてくれない。

 

「誕生日パーティーの記憶、初デートの記憶、幸せは人それぞれです。自分自身とじっくり向き合ってくださいな」

 

 聴衆が軽くざわめいた。本当に幸せな記憶に辿り着くのは案外と難しい。ホグワーツ生は日々の幸せを自覚するにはまだ若すぎる。

 自分の一番幸せな記憶について囁きあう幾人かの生徒も、今この瞬間こそがいつか大人になってから守護霊に値するほどの幸せな記憶になるとは思ってもいないだろう。本心で語り合える友がいるということなのだから。

 ダフネもまた、まだ完璧な守護霊を呼び起こすだけの記憶には辿り着けていない。

 

「我々蒼の貴血は、専門家の指導の下で守護霊の呪文を練習する環境を提供しておりますわ。普段であれば完全会員制なのですけれど……強い要望がありまして、今日はこうして機会を設けましたの。せっかくですから、皆さんも練習していきますかしら?」

 

 第三段階、一体化。

 わっと歓声が上がった。

 ダフネが手を叩くといくつも並んでいた机が折りたたまれ、床から木製の人形がせり上がってきた。闇の魔術に対する防衛術で使われる的だ。

 聴衆は杖を取り出し、人形を囲むようにして向き合った。

 

「私たちが巡回いたしますわ。わからないこと、不安なことがあれば声をかけてくださいまし。もちろん、今日練習しない方のご相談もいつでも歓迎しておりますわよ!」

 

 そう、いつでも。

 ()()()()()()()()()()()()()()蒼の貴血のメンバーが守護霊の呪文について相談に乗る。守護霊の呪文を使えるようになれば、必然的にその生徒は蒼の貴血に借りを作ることになる。

 守護霊の呪文は高度で、潔癖な呪文だ。

 魔法省の高官やウィゼンガモットの評議員の資質を測る手段として、しばしば守護霊の呪文はその人物の善性を担保する要素として見なされる。守護霊の呪文を使うことができる、それだけでその魔術師はある程度の社会的信用を得るのだ。

 守護霊の呪文を巧みに操る魔術師は実力があり、強い信念を持つとされる。

 原作のふくろう試験でハリーが有体守護霊を呼び寄せた時、試験官が感心したのは単にハリーの技量を評価してのことではない。ハリーの強固な信念、自らの正しさを信じる心の強さに感心したのだ。

 この会場の1割、いや、1%でもいつか有体守護霊を使いこなせるようになれば、それだけでこの会を開いた価値はある。

 シリウスはダフネに素晴らしい好機を提供してくれた。吸魂鬼が溢れかえっているおかげで、ダフネは安心して青田買いができる。

 そして、ダフネの意図を察しているであろうゲストがふたりいる。

 

「――いかがでしたかしら、ブルストロード監督官」

 

 壁際に立ってじっとダフネを見あげていたフラウィウスが、豊かな眉を上げて小さく頷いた。

 

「基本に忠実ないい講義だった。リスクを正しく認識していること、頼るべき大人に頼っていることは評価できる」

「お褒めにあずかり光栄ですわ」

「グリセルダ・マーチバンクスのコメントを求めたのは正しい。彼女はウィゼンガモット評議員として守護霊の価値を正しく理解している。……お前は賢い子供だ」

 

 フラウィウスはしばらくダフネを見下ろしていたが、腰を曲げてダフネに顔を近づけた。澄んだ濃いブルーの瞳がダフネを試すように見つめていた。

 

「賢いことと正しいことは別物だ。お前が賢いだけでないことを期待している」

「金言をありがとうございます、監督官」

 

 フラウィウスは再び小さく頷き、会場を出ていった。

 ダフネは会場をぐるりと回り、いくつかのアドバイスを求められ、時には一緒に呪文を唱えながらもうひとりのゲストのもとに辿り着いた。

 彼が今日この勉強会を見に来てくれたのは幸運だった。ダフネとしてもできるだけ早く彼と話したかったのだ。

 

「ごきげんよう、ミスター・クラウチ。ハリーが社交界デビューしたパーティー以来でしたわね?」

「……ダフネ・グリーングラス」

 

 クラウチは言葉に悩んでいるようだった。

 もしかすると、彼は若者と話すのが得意ではないのかもしれない。元からそうだったのか、それとも我が子の道を誤らせてからそうなったのかはわからないが。

 根っからの官僚であるクラウチにとって、子どもと話す能力というものはオミットしても差し支えないものだ。家庭人としての自分を犠牲にするうちに、そういった人間性まで喪失したのかもしれない。

 ダフネが微笑みかけると、クラウチは眉根に皺を寄せた。

 

「守護霊の呪文は……君のような学年にはまだ早いのではないかと思うが」

「転ばぬ先の杖と言いますでしょう?」

 

 マグル界でも魔法界でも通用するこの慣用句は、しばしば教養のある魔法族がジョークとして用いるものだ。しかし、クラウチはクスリとも笑わずにしばらく黙っていた。

 あちこちから守護霊の呪文を唱える声が聞こえる。その数だけ幸せがある。魔法界は幸せに満ちていて、しかし、ダフネが求める域には達していない。

 

「ミスター・クラウチ、この後のご予定はいかがかしら? 私たち、きっとお互いをもっと深く知る機会が必要だと思いますの」

「私は……いや、いいだろう。時間を作る。この会は何時に終わるのだね」

「あと10分もすれば皆さん疲れ果てますわ。15分後にまた」

 

 クラウチは懐中時計を取り出して時間を確認し、なにか躊躇うようにその針を見つめてから、やがて頷いた。

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