屋敷しもべ妖精の淹れた紅茶が湯気を立ち上らせていた。しかし、部屋の空気はその柔らかさよりは幾分張り詰めていた。
バーテミウス・クラウチ。
戦時中の魔法法執行部で大権を振るい、市民生活を崩壊の一歩手前で食い止め、戦時体制を敷いて国民を守った英雄である。
そして、猛威を振るう死喰い人とそのおこぼれに預かる悪党たちを阻むために苛烈な手段を選び、ついには許されざる呪文の解禁を選んだ大罪人でもある。
「お忙しい中お時間をいただけたこと、感謝申しあげますわ」
「構わない。……いずれ、話さねばならないと思っていた」
上品に整えられた眉をぴくりとも動かさず、クラウチは答えた。
クラウチは能吏だ。更迭されてなお外務を司る国際魔法協力部を預けられているのは、それだけ官僚たちやウィゼンガモット評議員たちからの信任が厚いことを意味する。
市民の多くには左遷されたと思われている彼こそ、魔法省攻略の要と言っていい。ファッジが魔法省の頂点なら、クラウチは官僚の頂点に限りなく近い存在だ。たとえ、その地位を本人たちが望んでいないとしても。
だから、ダフネはずっとクラウチを狙っていた。
戦争の重みと純血の価値を知る者。ルシウスに汚い手を使わせてでも、彼をテーブルに着かせる必要があった。
「君の名前はルシウス・マルフォイから聞かされている。……君が魔法界の未来を憂いていることについても」
「まあ、おじさまったらそんな言い方をなさったのね。ええ、でも事実ですわ」
しばらく、クラウチは黙っていた。
その瞳からは様々な色が見て取れた。疑念、心配、侮り。わずかに交ざる侮蔑は、ルシウスと手を組んで彼を追い込んだことによるものか。
やがて、クラウチはゆっくりと口を開いた。
「聞かせてみなさい。君がどのような未来を描いているのか」
「では、お言葉に甘えて。私は、魔法界に議会を作りたいと考えていますの」
クラウチの反応は薄かった。
「今までもそういった主張をした者はいた。純血の若者からその主張を聞くのは初めてかもしれないが」
「ええ、そうでしょう。議会とは英国の伝統にして誇り。かつては英国魔法界の賢人会議――ウィゼンガモットもまた、そうした議会のひとつでしたわね」
ウィゼンガモットの起源は、アングロ・サクソン期英国の
そう、現代では司法機関として機能しているウィゼンガモットは本来議会として機能していた。賢者たちの合議組織というわけだ。小規模なコミュニティゆえに議会が司法を兼ねていたのが、現代の司法機関としてのウィゼンガモットにつながる。
歴史を遡れば、英国魔法界はそもそもの成り立ちが民主制だったのだ。
「なぜウィゼンガモットは司法機関になったのか。いえ、そもそもの話、なぜ魔法界では三権分立が果たされなかったのか。答えはシンプルです。権力を分散させて抑止するような強大な存在――王権が及ばないから」
「そのとおりだ」
司法・立法・行政。その三権を分立せよという考えは、王権が強大だったこの英国やその周辺から生まれたものだ。しかし、魔法族はその考えについぞ辿り着かなかった。彼らは魔法を有するゆえに、王権の強大さを肌で感じたことがないからだ。
だから、議会は生まれなかった。
全権を担うウィゼンガモット賢人会議から独立する形で、国際魔法使い機密保持法以降、マグル界から独立した後の行政を担う機関として魔法省が誕生した。両者は漠然と立法権を共有し、司法による立法も行政による立法も罷り通ることとなった。
こうして議会第一主義たる英国の内側に議会不在の行政区画が誕生したのだ。
「ええ、認めましょう。司法や行政が必要に応じて立法することは、この世界を円滑に運営していくうえで極めて効率的です。……しかし、それは賢人会議が賢人たり、官僚組織が官僚たる場合においてのみですわ」
「……魔法省やウィゼンガモットが腐敗していると言いたいのかね」
「あなたが一番ご承知のことでしょう、ミスター・クラウチ」
クラウチはダフネの指摘に眉一つ上げず、当たり前のようにティーカップを持ち上げた。
英国魔法界は腐敗している。
魔法大臣とウィゼンガモットに権力が集中するあまり、実権が大臣室に集中している。もはや大臣室が事実上の立法府として機能し、時の大臣にとって都合のいいように法が成立する構造が生み出されてしまった。
アンブリッジは悪辣な政治家として振る舞っていたが、その振る舞いを許していたのは他ならないこの構造である。彼女は横暴に振る舞ったわけではない。既存の構造を最大限
そして、その構造上の欠陥をクラウチはよく知っている。許されざる呪文の解禁をバグノールド前大臣統治下で押し通したのは他ならぬ彼なのだから。
「言いたいことはわかる。魔法省とウィゼンガモットの距離は近すぎる。そのことは私も議長時代に強く感じたところだ。しかし、議会があってもそれは同じではないかね」
「ええ、同じかもしれません」
「ならば」
「私が思う、統御すべき存在はもうひとつ存在するのです」
ダフネはティーカップを指先で持ち上げ、紅茶を口に含んだ。
これからする話は劇薬だ。決して表に出してはならない。そして、クラウチは秘密を守れる人間だとダフネは確信していた。そうでなければ、彼は魔法法執行部の長たりえない。
「市民」
「市民? 君は……市民の思想を統制しようと言うのかね」
「いいえ。市民に怒りを発露させる正しいやり方を教えるのです。すなわち、民主的な怒りというものを。怒りを正しく声とし、自らの代表を選出し、自らの声を政治の現場に送り込むという人間社会が生み出した貴重な叡智のひとつを」
ダフネはずっと考えていた。
歴代魔法大臣の中には様々なキャンペーンを展開した者がいる。
マグル生まれの弾圧、アズカバンの拡張などその幅は広いが、一つ言えるのはそれがあくまで魔法大臣によるものだということだ。
魔法大臣にならなければ、自らの政治思想を社会に投影することができない。
この点は間違いなく英国魔法界という社会を抑圧的にしていた。健全ではなかった。
魔法界に王はいない。王権は魔法界に及ばない。それはそうだ。
しかし、今や主権者は王ではなく、市民だ。そしてその市民は政治に対する正しい怒り方を知らないまま規模を拡大しつつある。誰も自分自身の手綱の握り方を知らないまま。
「呪文に正しい唱え方が存在し、杖に正しい振り方が存在するように……市民が市民自身を統御し、社会が社会自身を統御するためには、現代の市民生活に沿った現代的な政体が必要なのです」
クラウチは静かにダフネを見つめた。
「……君の言う政体は長続きしない。正しい怒りは間違った怒りを、間違った怒りは間違った争いを生む。やがてその流れは感情に任せた暴力的な革命に至るだろう」
明示されずともダフネは察することができた。クラウチはフランス革命のことを言っている。
純血であるクラウチから見て、間違いなくフランス革命とは間違った革命だっただろう。貴族階級を排斥し、根絶し、虐殺したあの革命は、夥しい数の死傷者を生んだ。それも、革命賛同者たちは競うようにして人を殺した。
欧米全土に広がった革命の流れが残酷な形で花開いたそれを、クラウチは危惧している。
「ええ、私はまさにそれを期待しているのです」
これはさすがに予想外の返答だったのか、クラウチはわずかに目を見開いた。
「とはいっても、多くの死は私も望むところではありません。暴動と衝突。その程度で十分です」
「何が言いたいのだね」
「魔法族はあまりにも早くマグルから独立してしまった。すなわち、魔法族は自らの手で権利を勝ち取った経験、そう、歴史がないのです。こと政治において言えば、市民としての魔法族はあまりにも無垢で、未熟で、幼い」
「革命を起こす呼び水として議会を作ると? 血が流れるぞ!」
「その痛みが教訓となり、魔法族に自らの政体について考える機会を与えるのです。不思議には思いませんでしたかしら、ミスター・クラウチ。過激な純血至上主義を唱えるテロリストに与する死喰い人たちの中には、半純血もいたのですよ」
死喰い人のすべてがヴォルデモートの主張に賛同していたわけではない。
ヴォルデモート――トム・リドルという男はカリスマだった。そう、民衆を惹きつけ心酔させる者だった。きっと古代ギリシャに生まれていれば一角の政治家になっただろう。ローマであれば一代で新貴族の仲間入りをしていたかもしれない。
しかし、死喰い人が彼に心酔した最大の理由は、政治的な免疫がなかったからだ。
はしかのようなものだ。誰もが一度は過激な主張に酔う。それを唱えている人物が魅力的であればなおのこと泥酔する。そこに普段発散できない欲をぶつける場所が用意される。そして気づけば支持者として囲い込まれ、後戻りできないところまで進んでいる。
レギュラス・ブラックもそのような若者のひとりだった。そしてあるいは、セブルス・スネイプも。
現代的な政治運動の文化が魔法界に根付いていれば、そういった経験が彼らにとっての発散の場となりえたかもしれない。革命を経験したことのない魔法族は、自分の意見を主張するやり方というものを知らない。
「……君についての情報はそれなりに集めている。君は純血のために動いているのではなかったか」
「仰るとおりですわ。私は純血魔法族を貴族に至らしめることを目指しています。すなわち、貴族院の設立を」
「であれば、矛盾している。その貴族制度はやがて革命によって焼かれるぞ。100年ともつまい」
「ミスター・クラウチ。果たして、100年もった政体がどれだけあったでしょう。私は純血の千年帝国を築きたいわけではないのです。その100年の間に純血がマグル生まれたちにとって尊敬できる先達になれれば、それで十分ではありませんか」
ダフネは夢を見ている。
しかし、その夢が妄想に終わらないための現実も理解している。
「ヴォルデモートは再び敗北しますわ」
「ッ! その名を」
「ええ、敗北するのです。そしてその時、純血至上主義によって抑圧されていたマグル生まれは躍進します。彼らが何を求めると思いますかしら? そう、自分たちの代弁者ですわ。すなわち、政界への進出。……今しかないのです、ミスター・クラウチ」
今純血主導で議会を作らなければ、マグル生まれ主導の議会が生まれる。
それは間違いなく現代的な議会になるだろう。システム的で、権力が程よく分散されていて、魔法省からもウィゼンガモットからも独立した、よく完成したものになる。そこに貴族院は存在しない。純血の居場所は今度こそなくなる。
「お伝えしておきましょう、ミスター・クラウチ。私は三段階の改革を志しています。まず第一に妹のため。第二に純血のため。第三に魔法族のため」
「……正直だな。普通、私を相手取ってプレゼンをしようという若者は何よりも魔法界全体への奉仕を強く主張するものだが」
「これからは市民の時代ですわよ、ミスター・クラウチ。あなたやダンブルドアのような強力な個人が社会を牽引するのではなく、ごく普通のどこにでもいる市民が悩みながら票を投じる時代なのです」
クラウチは小さく笑った。とても疲れたような、そんな笑いだった。
長く社会を牽引してきた。泥を被ったことも一度や二度ではない。許されざる呪文の解禁すらした。クラウチは魔法界のために生きてきた。だからこそ、有事を終え、平時への移行にあたって自らを引き下ろす声に素直に従った。
その彼を再び最前線に引きずり込むことに、罪悪感を覚えないわけではない。
しかし、人材を眠らせておく余裕はダフネにはない。大規模な改革を短期間で進めなければならないのだ。そのためには、まず改革の当事者である官僚を引き抜かねばならない。
「話はわかった。興味深いとも思う。少なくともこのテーマで主張を展開した者の中では限りなく現実を見ている。しかし、致命的な問題があると思うが」
「なんでしょう?」
「君の言う改革は必ず反発を生む。ダンブルドアを筆頭とするマグル生まれの擁護派、マグル融和派は君のような純血の派閥が台頭することを快く思わないだろう。……つまり、だ」
クラウチはカップを置き、ダフネを正面から見下ろした。
「その改革の半ばで反動的な革命が生じたら、君はどうする」
瞳が静かに問うていた。
革命が起きれば、貴族院は成立しない。改革を押し通せば、市民の時代はやってこない。
純血か、魔法界か。
ダフネは笑顔で答えた。
「わかりませんわ!」
「……ほう」
「いい答えが見つからないのです。理想的な着地点をどうにかして見つけねばなりませんわね」
「そうとも」
「そういうわけなので、とりあえずそれを考えられそうな人を呼んでみました」
クラウチはぽかんとして、目を瞬かせた。
改革はひとりで成し遂げるものではないし、ルシウスのように暗闘のみで進めるものでもない。表から正しい主張を唱えて正しい展開を広げられる人物が必要だ。
ダフネは小さく首を傾げて、クラウチに笑いかけた。
「ミスター・クラウチ。あなたにこの改革のアドバイザーになってほしいのです。純血が貴族らしく生き、そして魔法族が健全に成長できる次世代の魔法界を。私が目指す改革を、あなたの手で支えてくださらないかしら」
クラウチこそが、この改革を成功させる要だ。
ダフネはクラウチに改革を認めさせようと思っているのではない。クラウチに改革を共に進める同志になってもらいたいと思っているのだ。
ややあって、クラウチが小さく呟いた。
「……夢見たことがなかったわけではない。マグル界のような先進的で、現代的な政体をこの魔法界に取り入れることを」
「魔法界の未来を見据えた官僚ならきっと誰もが一度は考えることでしょう。その夢を果たすのは、今しかないと思っていますわ」
「今、か」
クラウチは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「ルシウス・マルフォイと手を組んでいる娘と聞いて、最初はどのような化け物が出てくるかと思っていたが。……なるほど、これが最後の機会なのだろう。私が魔法省官僚として魔法界にできる、最後の奉公というわけだ」
「お願いできますわね、ミスター・クラウチ」
「もとより拒否権はないのだろう? どうやら君には世界を動かす力があるようだ。であれば、その動きを正しい方向に向ける人間が必要だな」
帽子を手にとって立ち上がると、クラウチは静かにダフネを見下ろした。
その瞳は穏やかだった。この部屋にやってきたときよりもずっと表情は柔らかく、何かを思い出したかのように懐かしそうな笑みを浮かべていた。