その血は呪われている   作:海野波香

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 グリフィンライダー連隊の新たな隊長となったエウニケ・ストラトスは、愛騎であるグリフィンのメラーキに跨ってアテナイの上空を旋回していた。これが初任務になるとは、なんともついていなかった。

 球状の闇がギリシャの大地を覆っている。

 当初、上はこれを単なる魔法事故として片付けようとし、大規模な気象崩しの呪いの一種であると発表し魔法事故処理隊を送り込んだ。

 しかし、その中央にグリンゴッツ魔法銀行ギリシャ支店があること、そしてどんな魔法でも闇を消し去ることができなかったことから、魔法省はこれがより大きな問題であることを認めざるをえなかった。

 マグル界の政府には異常気象として発表させたが、市民は不審がっている。早急に問題を解決する必要があった。

 そして、グリフィンライダー連隊に偵察の命が下った。

 

「嫌な気配。太陽を拒んでるみたい」

 

 同意するようにメラーキが鳴いた。

 グリンゴッツ魔法銀行を中心として広がる球状の闇は、触れても無害で出入りも拒まなかった。ただ、光だけは一切通さなかった。蝋燭の火を除いてどんな杖明かりも拒むその闇は混乱を招き、その混乱だけで死傷者が出た。

 もっと問題だったのはグリンゴッツ魔法銀行だ。

 イギリスの本店に並ぶか、あるいは規模だけで言えばそれを凌ぐ勢いだったグリンゴッツは崩壊していた。魔法事故処理部隊の報告によれば、中には無数の黄金像が並び、燭台の火に照らされて不気味に輝いたという。

 ゴブリン、トロール、ドラゴンなどの精緻な黄金像。調査の途中で判明したことだが、それらは純粋な黄金であるにもかかわらず内側から腐食して(腐って)いた。

 

「燭台よし。降下するよ、メラーキ」

 

 相棒が鳴いた。翼を畳み、ふたりはギリシャの青空を蹴って暗闇の中へと突入した。

 中は静かだった。魔法事故処理隊は撤退している。正気を失った隊員が呪いを放ち、負傷者が出たと聞いている。そうなるのも理解できる状態だった。

 グリフィンライダー連隊は少数精鋭だが、それでもそれなりの人数がいる。しかし、この闇を恐れなかったグリフィンはメラーキだけだった。本音を言えば、ストラトスも少しだけ怯えていた。

 着地。あたりは真っ暗だが、大地がそこにあることはわかる。燭台を持ち上げれば、かつて宿屋だった建物の前だった。

 杖を抜き、試しに唱えてみる。

 

光よ(ルーモス)。……うーん、やっぱりだめか」

 

 ここでは杖は役に立ちそうにない。

 それでも急な戦闘に備えて太もものホルスターに杖を収めたストラトスは、慎重に燭台を掲げながらメラーキに歩みを進めさせた。

 

「音声記録をつけるよ。……1993年10月30日。上空の天候は晴れだけど、この暗闇に日差しは通らない。呼吸は正常。温度に違和感もなし。少しだけ湿ったような気配がある。湿度が高いのかも」

 

 試しに手綱を握る手の指を擦り合わせてみるが、湿度が高いようには感じられない。では、肌を覆うようなこのじっとりとした気配はなんだろうか。

 

「訂正。湿度は高くなさそうだけど、肌に湿ったような気配を感じる。この暗闇そのものの魔法的性質なのかもしれない。調査が必要そうだ。事前報告の通り、杖明かりは通らない。ただの煙幕じゃないような気がする」

 

 しばらくメラーキを駆けさせ、ストラトスは問題となっているグリンゴッツ魔法銀行へ辿り着いた。

 黄金像が立っている。困惑したような表情のゴブリン。利用者だったのだろうアラブ風の魔法使い。足元に転がるのはネズミだろうか。どれも作り物であれば絶賛するほどよくできている。

 もっとよく探せば、この黄金像の群れの中に行方不明になっているグリフィンライダー隊の前隊長がいるはずだ。しかし、ストラトスにそれを探す勇気はなかった。

 

「ちょっと気が咎めるけど……ごめんね」

 

 ストラトスは指先でアラブ風の魔法使いの黄金像から髪の毛を折り取り、その内側に燭台の光を当てた。事前の報告通り、中は腐食して緑青のような結晶ができている。

 

「外側は黄金、内側は腐っている。……これをやったやつは相当な皮肉屋か、さもなければこの世に絶望しているんだろうね」

 

 メラーキが嘶いた。

 ストラトスは黄金の髪を調査バッグの試験管に放り込んでベルトに差し込み、それからポーチに入れていた兎を取り出してメラーキに与えた。

 

「ここからは大変だよ。お前にはトロッコの線路を走ってもらわなきゃいけないんだから」

 

 ゴブリンが走行させているトロッコはもう動いていない。動かすゴブリンがひとりも残っていないからだ。国外からの派遣も要請したが、今のところ交渉が難航しているらしい。

 燭台の光は頼りなく、自分の影が怪物のようにちらついた。

 それでも、任務は果たさねばならない。

 魔法省上層部はストラトスにたったひとつの任務を命じた。地下深くに存在する7番金庫。グリンゴッツ魔法銀行ができるよりはるか昔からあるとされるその金庫の状態を確認せよとのことだ。

 

「行こう、メラーキ」

 

 ストラトスはメラーキに跨ったまま、グリンゴッツに入店した。いつもであればゴブリンたちが抜け目のない目を隠しもせずに駆け寄ってきて用件を尋ねるところだが、今はこの見事な大理石の建物は廃墟になっている。

 燭台を掲げると、メラーキの影が店内に大きく広がった。

 普段はゴブリンの案内がなければ通れないゲートを魔法で無理やり開き、侵入する。どうやら警報装置の類は機能していないようだ。

 鍾乳洞に出たストラトスは、メラーキの手綱を引いて慎重に線路を進んだ。

 静かだった。メラーキの爪が金属を打つ音が響いた。無数に伸びる鍾乳石と石筍が光を受けて伸び縮みして見えた。

 

「長いな」

 

 思わず独り言がこぼれた。

 事前に渡された資料によれば、魔法的拡張によってどこまでも広げられた底に7番金庫はあるとのことだ。その金庫はグリンゴッツ魔法銀行が誕生するより前、古代ギリシャの英雄が友である名もなき魔女とともに封印した災いの金庫なのだとされる。

 ストラトスはギリシャ市民として育ったが、そんなことを知らされたのは初めてだった。

 あるいは祖母がホグワーツ生だったからなのかもしれない。他の隊員たちが「悪いことをするとハーポが来るよ」と聞かされて育ったように、ストラトスは「悪いことをするとグリンデルバルドが来るよ」と聞かされたものだ。

 他の隊員たちはグリンゴッツに封印された古の災いと聞かされただけで震え上がっていた。

 

「……線路が途絶えた。ここ?」

 

 ストラトスはメラーキを陸地に寄せ、そして異常に気がついた。

 床が濡れている。

 咄嗟にストラトスは杖を抜き、床を覆う謎の水分を追いやった。ただの水だったのか、その液体はすぐに押し流されたが、それでも奥からさらに溢れてくるような様子があった。

 ストラトスは慎重にメラーキから降り、ブーツが浸水しないことを確認してから試験管をもう一本取り出した。そして、その液体を試験管に汲み取り、しっかりと栓をした。

 どうやら液体は金庫のほうから流れてきているようだ。

 

「……メラーキ、待て」

 

 愛騎に待機を命じ、ストラトスは奥に進んだ。

 かすかに悲鳴が聞こえる。生存者がいたのだろうか。

 金庫の扉はまるで内側から水圧に負けたかのようにひしゃげ、壊れきっていた。断面に見える精緻な歯車もすっかり歪んでいる。

 そして、金庫の内側を照らした時、思わずストラトスは息を呑んだ。

 

「そんな……!」

 

 悲鳴の主は部屋の中央にいた。

 金の鎖で椅子に縛り付けられたゴブリンが叫んでいた。ずっとそうしていたのだろうか。彼の口からはとめどなく水が流れ続け、金庫の床を満たしていた。

 そして、彼の心臓にあたるところは空洞になって、小さな金の像が収められていた。

 

「待って、今助ける!」

 

 ストラトスは金庫の中に入ろうとしたが、その瞬間にゴブリンは絶叫した。ゴポゴポと意味の聞き取れない悲鳴を上げている。

 ブーツの底に何かが当たった。

 床のあちこちに、彼が吐き出したと思われる内臓が転がっていた。それはまだ脈打っていた。ストラトスは自分の靴底からじわりと赤いものが滲んでいることに気がついた。

 まだ、この内臓は水を通して彼と繋がっているのだ。

 

「どうやって……くそっ」

 

 前に踏み出せば彼の血管を踏みちぎることになる。

 しかし、前に進まねば助けることはできない。

 次第に水勢は弱まり、ゴブリンは咳き込むように水を吐くのをやめた。絶命したのだと、ストラトスには一目でわかった。

 身体が力を失い、彼の心臓に収まっていた金の像が転げ落ちた。

 

「これは……」

 

 ストラトスは手袋に穴がないことを確認してから、慎重にその像を拾い上げた。

 2羽の仲睦まじいオオガラスの像だった。その2羽が鎖で縛られていることを除けば、よくできた工芸品と言っても差し支えなかった。

 何か証拠になるものがないか。

 ストラトスは底面を燭台で照らした。

 

「我が最新の教え子、ダフネ・グリーングラスに……ダフネ?」

 

 ごぽり、とゴブリンが最後の水を吐いた。

 

***

 

 彼女は漂っていた。

 果たして、一体何秒間、何日間、何年間こうしていただろう。

 風が吹いた。雨が降った。霜が降りた。日が射した。その全てが薄っすらと感じられる。あとどれくらい、この感覚は残っていてくれるだろうか。

 もはや何度月が上ったかも曖昧だった。大好きだった兄たちは元気にしているだろうか。自分がいなくなって悲しんでいやしないだろうか。あの日ひどく辛そうな顔をしていた兄の友達は、あれから元気になれただろうか。

 

「――これは面白い。はぐれ子か。今の言い方だとオブスキュラス、だったか?」

 

 巨大な力に満たされた小さな子どもが、彼女を見上げて呟いた。

 彼女は頷こうとして、もはや頷く身体がないのを思い出した。惜しいことをした。手がなければ編み物だってできやしない。兄たちの誕生日プレゼントすら用意できないとは、不便な身体になったものだ。

 

「言葉を理解しているのか。……なるほど、護られているのだな。愛か。素晴らしい。吾は愛という力について新しい実例を知ることができた。やはり世界は広い」

 

 そう、彼女は兄たちの愛に護られていた。

 傲慢だが優秀で聡明な長兄。ぶっきらぼうだが優しく辛抱強い次兄。ふたりはいつも反目しあっていたが、彼女に対してだけは力強くまっすぐに愛を向けてくれていた。

 だから、彼女は消え去らずに済んだ。あの日、魔法の衝突の中で感情を堪えきれなくなって消し飛んだ彼女は、それでもこの世に留まることができた。

 

「ふむ……どうやら、愛の主はまだ生きている。会いたいだろうな」

 

 彼女はもう一度頷こうとして、やはり身体がないことを不便だと思った。

 しかし、それで少年には伝わったようで、その少年はカラカラと笑って手を差し出した。白く細い、清らかな手だった。手首をよく見ると、わずかに縛られていたような跡があった。

 彼もどこかに隠されていたのだろうか。だとすれば不憫なことだ。彼女がうっすらと見える世界ですら、少年は美しく、力に満ちて、輝いていた。

 

「そうとも、吾は長いこと箱の中に押し込められていたのだ。しかし、世界は面白いことに満ちている。我慢できなくなって飛び出してきてしまった」

 

 彼の言う通りだ。世界はとても面白い。

 彼女は世界をよく知らない。遠出をしたのはこの身体になって漂うようになってからが初めてだ。それでも、木の蜜が滴る様子や甲虫がそれを舐める様子、そしてその甲虫が死んでコバエや菌に分解されていく様子は見ていてワクワクさせられた。

 一体どれだけ長いことこの森にいただろうか。

 もう長兄に見せてもらった世界地図のことも薄っすらとしか覚えていないが、ここが故郷から遠く離れた地であることはわかった。彼女は今や崩れつつある力の塊であり、誰も傷つけないために遠い森へと流れてきたのだ。

 

「この森はいろいろなものが集う場所のようだ。力の流れがよい。あるいは運命の流れか。……ふむ。いいことを思いついたぞ。吾には会いたい教え子がいるのだ。彼女を驚かせてやりたい。付き合ってくれるのであれば、吾はお前に新しい身体をやろう」

 

 彼女はこの嬉しい誘いに心から喜んだ。足があったら飛び跳ねていたに違いなかった。

 身体を手に入れれば、きっとまた兄たちに会いに行ける。もう長いこと会っていない。もしかするとひげもじゃのおじいさんになっているかもしれない。そうしたら、思い切り笑ってやるのだ。それからたくさん抱きしめて、ありがとうとごめんねを伝えるのだ。

 そのためなら、少年が言うサプライズに付き合ってあげるのも大賛成だった。

 

「なかなか面白い実験になりそうだぞ。うむ、やはり出てきてよかった。何千年もあそこにいたのだ、オレステスも生きていればそろそろ出ていいと言っただろう。……ああ、オレステスというのは兄の息子だ。吾はあやつに負けて箱に放り込まれたのだ」

 

 よくわからないが、どうやらこの少年はずっとひとりだったらしい。それはなんとも可哀想なことだ。何千年も一人ぼっちだったら、きっとどうかしてしまうに違いない。終わりがないというのは存外に苦しく、残酷なのだということを彼女はよく知っていた。

 彼女が身体のない身体で抱きしめてやると、少年は愉快そうにまたカラカラと笑った。

 

「これほどの年月を持ってしてもお前の愛は摩耗しなかったのか。面白いな。吾は面白いことが好きだ。いいぞ、お前の新しい身体を用意しよう」

 

 少年が指先を軽く曲げると、それだけで彼女の崩壊は止まった。

 輪郭がはっきりしていく。人の形ではなかったが、少なくとも彼女は霞より確かな存在になることができた。少しずつ記憶も鮮明になっていく。

 あの日、いくつもの閃光が飛び交い、ついに彼女を貫いた。長兄は咄嗟に盾の呪文を唱えたが、それは手遅れだった。彼女は肉体を失い、屋根を吹き飛ばし、そして解放されたのだ。

 最初の数カ月は自由を満喫した。彼女はもはや人ではなく、力ある魔法だった。人を傷つけないように気をつけながら好きなようにあちこちを見て回り、この森に辿り着いた。

 そして長い年月を後悔と不安の中で過ごした。

 もう一度兄たちに会えるのならば。何度そう思ったことだろうか。その夢がついに叶うのだ。

 

「おいで」

 

 少年に招かれるまま、彼女――アリアナ・ダンブルドアだったオブスキュラスは、森の奥へと進んだ。ギリシャと隣りあい、地中海を挟んでイタリアと向き合うその地の名前を、アルバニアと言った。

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