ヘスティア・カローは歯噛みしていた。
このニューイヤーパーティーは勝負の日になる予定だった。なんとしてでもルシウス・マルフォイに渡りをつけ、目的を果たすはずだったのだ。
それなのに、ルシウスのテーブルに空きができない。
「姉上……」
「大丈夫、大丈夫だから……」
妹のフローラに言い聞かせつつも、グラスを持つ手の震えが止まらない。
ホグワーツ入学までに話をまとめなければ。そう決めて動きはじめたはいいものの、子どもに過ぎないヘスティアにできることなどたかが知れていた。
ルシウスに宛てた手紙は無視され、直接の訪問は屋敷しもべ妖精に追い払われ、そして今日に至る。
「今話している人との話が終わったら無理矢理にでも割り込むわ」
「でも、姉上」
「いいから、私に任せなさい。……グラスをお願い」
フローラにグラスを押し付ける。
その背に声がかけられた。
「――テーブルは空きませんわ。ルシウスおじさまはパーキンソン様とは旧知の仲です。しばらくはご子息たちの話をされると思いますわよ」
驚いて振り返ると、そこには微笑んでいる小柄な少女がいた。
齢はヘスティアたちと同じか、それより下だろうか。艶のあるブルネットを編み込んで垂らしている。ドレスは鮮やかな若葉色で、そこに銀製のチェーンを合わせた姿は気品があった。
ドレスの若葉色よりも幾分深いグリーンの瞳が、試すようにカロー姉妹を見ていた。
「ごきげんよう、ヘスティア様、フローラ様」
「えっと……話したこと、あったかしら」
「初めてですわ。去年のニューイヤーパーティーにはいらっしゃらなかった、そうでしょう? だから、お話する機会をずっとお待ちしていましたのよ」
一方的に知られているというのはあまり愉快ではない。
しかし、ヘスティアが同じパーティーの出席者の名前を把握していないという無礼を働いたのも事実だ。
目の前の少女は柔らかく微笑んで、グラスをこちらに近づけた。
「ダフネ・グリーングラスですわ。私とも乾杯してくださるかしら?」
「……悪いけど、今忙しいの」
「ルシウスおじさまはしばらく空きませんわよ?」
「あんたには関係ないでしょう。……どいて」
ダフネは微笑んだまま、しかし道を譲ろうとはしなかった。
「お急ぎのご様子ですわね。私、お力になって差し上げられるかもしれません」
「あんたが私の役に立てるとしたら、それは今すぐそこをどくことよ」
「本当にそれだけ?」
後ろでフローラが小さく息を呑んだ。
「姉上……グリーングラスです」
「……グリーングラス、そうか、あんたね。最近あちこちで名前を聞くのは」
ダフネ・グリーングラス。
その名前は英国魔法界に少しずつ広がりつつあった。好奇心の対象として、また憐憫の対象として、あるいは警戒の対象として。
血の呪いの噂はヘスティアも耳にしている。同情はする。しかし、彼女が治療の協力者を求めてあちこちで助力を求めているという噂は、ヘスティアを嫉妬に駆り立てた。
噂になっているということは、少なくない手が彼女に差し伸べられたということだ。
「いいわ、聞かせてもらおうじゃない。あんたに何ができるのか」
「一番簡単なのは、私がルシウスおじさまに口利きすることでしょうね。でも、あなたたちはルシウスおじさまに拒まれている。誰の口利きがあろうと、あなたたちが彼の手によって救われることはない」
「ッ、何を根拠に」
声を荒げそうになったヘスティアの肩を、ダフネがそっと抱いた。
摘みたてのベリーのような甘さの中に青々しさが残った香水が、ヘスティアの苛立ちをじわりと包みこんでいく。
肩を抱いたまま、ダフネがヘスティアの耳許で囁いた。
「落ち着いて。
はっと周囲を見渡すと、少し離れたテーブルに見知った影があった。
アミカス・カローがこちらを見ている。嫌な笑みを浮かべながら、じっとりと舐め回すように。
「場所を移しませんこと? 妹君もご一緒に」
返事を待たず、ダフネは屋敷しもべ妖精を呼びつけた。
「少し疲れてしまって。こちらのおふたりとチェスを指したいの。部屋を用意してもらえるかしら?」
「もちろんでございます! お嬢様方のためにミシーがただちにお部屋へご案内なさいます!」
ダフネはグラスを持った片腕をしもべに預けて、もう片方の手をヘスティアとフローラに差し伸べた。
信じていいのだろうか。
マルフォイ閥の末席として冷遇されながらも、自ら積極的に動いて助力を乞うているというダフネ・グリーングラス。その手腕に期待できるのだとしたら、あるいは。
ヘスティアはフローラを見て、それからダフネの手を取った。
「それでは、プライベート・ルームへ!」
ぱちり、と指が鳴らされる。
次の瞬間に三人は屋敷の奥、来賓用のプライベート・ルームに通されていた。暖炉にはすでに火が焚かれ、カウチソファの前にはフルーツウォーターとチョコレートボンボンが置かれていた。
ダフネはそこから大理石製のチェス盤の前に腰掛けて、対面を指し示した。
「どうぞ、ヘスティア様」
「……私はあんたの話を聞きに来た。遊んでる場合じゃないの」
「それはお家再興のため?」
ヘスティアは思わずダフネに掴みかかった。
銀の鎖に連なった、若葉を模ったエメラルドが揺れる。暖炉の火を浴びてちらちらと輝くそれは、まるでヘスティアの怒りを反射しているようだった。
「知ったような口を利くな!」
「お父上の薫陶を受けたヘスティア様が婿を迎え、フローラ様が嫁に行くことで他家とのつながりを強めるのがカロー家生存の道でした。アミカス・カローはその道を崩そうとしている。違いますかしら?」
どこまで知っているのか。
ヘスティアは思わず奥歯を食いしばった。
「アミカス様も随分と残酷なことをお考えになるのですね。嫁にと求められているのはヘスティア様ではなくフローラ様、そうでしょう?」
憎いアミカスの顔が浮かんで、ヘスティアのはらわたは煮えくり返るようだった。
まだ幼いカロー姉妹に、アミカス・カローは残酷な選択を突きつけた。生活の支援をするかわりに、ホグワーツ卒業後はフローラがアミカスと結婚する。そして、ヘスティアは他家に嫁に行く。
これによって、アミカスがカロー家唯一の当主となるわけだ。
「お前に、何が……!」
「わかりますわ。私も家族を愛していますもの」
愛。
そのなんとも薄っぺらな言葉に、しかしヘスティアは思わず気圧された。そこには言い知れない重圧のようなものが煮えたぎっていた。
ヘスティアが手を離すと、ダフネは手早くドレスの乱れを整えた。
暖炉の火の前で、ダフネは息ひとつ乱していなかった。
「……そうよ。父上は私にカロー家を任せると言ってくださった。分家であるアミカスとアレクトが闇の陣営に与したからこそ、本家としての矜持を捨ててはならないと」
「ところが、お父上がお亡くなりになった。お悔やみ申し上げますわ」
「……アレクト・カロー。奴さえいなければ父上は……!」
ヴォルデモート卿を前にして、カロー家はふたつに割れた。
本家のカロー家はどちらの陣営にもつかなかった。戦後を見据えて、旗色を鮮明にすべきではないという判断を下したのだ。
それに対し、アミカスを筆頭とする分家筋は死喰い人としてヴォルデモートの傘下に加わった。
そして、本家に養子に出されていたアレクトは実の兄であるアミカスの呼びかけに応じて本家を離反。本家当主であるヘスティアとフローラの父に呪いをかけた。この呪いに蝕まれ、昨年ついに父は他界した。
カローの本家は没落した。
今や、アミカスとアレクトのカロー家こそが本家かのように扱われているほどだ。今日のパーティーでも席次はアミカスとアレクトのほうが上だった。
「姉上……」
フローラがそっとヘスティアの手を握る。
この際、ヘスティアが苦しい目に遭うのはいい。社交界で冷遇されようとも、夫のなり手がいなくとも、研究や事業で見返してやればいいのだ。
しかし、フローラが苦しむことだけは避けねばならない。アミカスがよい夫であるはずがないのだ。きっと残酷な扱いを受け、希望を抱けない日々を過ごすことになるだろう。
「いい目をしていますわね、ヘスティア・カロー。家族を愛する者の目」
ふたりを、ダフネがじっと見つめていた。
その笑みはどこか興味深げだった。まるで鏡を初めて見た獣のような、好奇心と興奮を一緒くたにしたような熱を帯びた瞳だった。
「実利こそ最も重要なものである。なぜならば、法も愛欲も実利に基づいているからである」
「……は?」
「カウティリヤですわ。古代インドはお嫌いかしら」
ダフネはゆったりとチェス盤の前に腰掛けて、もう一度対面を指し示した。
「あなたが勝ったら、私があなたをマルフォイ閥に引き込んで差し上げます」
「……私が負けたら?」
「そうですわね……お友達になっていただきますわ」
あっけらかんとそう言い放つ姿は、つい先程までヘスティアを追い込んでいた魔女と同一人物とは思えないほどあどけなかった。
虚を突かれて、ヘスティアは目を瞬かせた。
「……姉上、乗ってみては」
「でも、フローラ」
「私たちがルシウス・マルフォイに相手にされていないのは事実です。……手は、多いに越したことはありません」
少し悩んで、結局ヘスティアはダフネの対面に座った。
「よろしくお願いしますわ」
「……よろしく」
チェスは父に叩き込まれた。ヘスティアにはそれなりの自信があった。
「先手をいただきますわ。ナイトをFの3へ」
「ポーンをDの5へ」
しかし、対局を始めると、その自信は次第に崩れはじめた。
ダフネの指し筋は決して奇抜というわけではない。新手が多いわけでもない。しかし、迷いがないのだ。その手を指すことが最初からわかっていたかのように駒を動かす。
全てダフネの思い通りのような気すらしてくる。こうなるともう、自分の指し筋が信じられない。
「時に、フローラ様」
「……私に、何か」
「ルシウスおじさまがあなたがたを拒んでいる理由にはお気づきかしら」
「それがわかっていれば、どれだけ楽だったか」
「お気づきでない? 本当に?」
会話が思考を乱す。ナイトでポーンを取りながら、ヘスティアは薄っすらと汗をかきはじめていた。
「ルシウスおじさまは純血への愛が深いお方。同時に、誰よりも実利を尊ばれるお方でもあります」
「……自慢ですか。あなたは末席とは言え、ルシウス・マルフォイに近しい」
「いいえ? しかし、そうですわね……実のところ、どう紹介すればよいか悩んでいますの。アミカス・カローよりも実利を生まない限り、ルシウスおじさまがあなたたちを見ることはないのだから」
指す手が止まった。
「ナイトをCの6へ。あなたのナイトをいただきますわね」
「それ……どういう意味。実利を生むって……ルシウス・マルフォイは純血派でしょう? 純血なら、誰だって」
「誰だって引き立ててくれるはず。そう思ってらっしゃったのなら、少しだけ分析が甘かったですわね」
ヘスティアの計画、それはルシウス・マルフォイに引き立ててもらうことでカロー家を再興することだった。
今のカローの本家には何もない。事業を興すほどの見識もないし、グリンゴッツのガリオン金貨もたかが知れているし、官職の伝手もない。
しかし、純血という価値だけは残っている。
その価値を使ってルシウスに引き立ててもらえれば、アミカスとアレクトのような犯罪者崩れに脅される日々からも解放される。そう思っていたのだ。
「確かにルシウスおじさまは純血至上主義者ですわ。しかし、こうは思いませんこと? クラッブ、ゴイル、パーキンソン、マクネア……ルシウス閥にはもう十分、純血が集まっていると」
「そんな……じゃ、じゃあ、どうしろって言うのよ」
「どうすべきだと思いますかしら?」
「わからないわよ! ねえ、どうすればいいの?」
思わず、ヘスティアは縋るようにその言葉を吐き出した。
それはきっと絶望だった。一生をアミカスとアレクトに弄ばれるのだ、妹を幸せにしてやれないのだという悲嘆がヘスティアの全身を支配して、血管を逆流するように寒気が全身を包んでいた。
そして。
「……ふふ。初めて私を頼ってくださいましたね、ヘスティア様」
ダフネが砕かれた駒の破片を指先で弄んだ。
黒い破片の中に騎馬の首が転がっている。つい先程砕かれた、ヘスティアの駒だ。
「そう、それが正解です。私と手を組みましょう、ヘスティア様」
「……あんたみたいな小娘に何ができるのさ」
「いい質問ですわね」
白く細い指先が、騎馬の首を弾いた。
「生存戦略には二種類あるのです。ハト派と、タカ派」
「何を言って」
「潰してしまいましょうか、カローの分家」
浮かべた笑みは静かで、だからこそヘスティアはダフネが恐ろしかった。
そして、その恐ろしさは美しくもあった。
青々と茂る枝の中に輝く禁忌の果実を目にしたような、そんなぞっとする気配。神々しさとおぞましさを煮詰めたような