幾度の寝返りを経て、寝付けないことを察したダフネは身を起こした。
手が震えている。
水が滴る音が脳の内側でこだましていた。あの貌を思い出すだけで気道を水がせり上がり、呼吸が苦しくなる。
「……腐ったハーポ、か」
なぜ自分はここまでハーポに恐怖しているのだろう。
殺されかけたからではない。それだけならトム・リドルとバジリスクのほうがもっと危険だった。ハリーとロックハートが来ていなければ、ダフネは今頃バジリスクの胃の中だっただろう。
力が強かったからでもない。その威圧感は筆舌に尽くしがたかったし、巧みに追い詰められた感覚はあったが、あの瞬間ダフネは彼を強力だとは感じていなかった。
では、ダフネがハーポの名を聞いた瞬間恐怖に襲われたのは、一体なぜなのか。
「ッ……してやられたわね」
震える片腕を抱きながら、ダフネは悪態をついた。
これは呪いだ。
ハーポはダフネに再会を予言した。おそらくはあの言葉こそが呪いだったのだ。恐怖とは堕落と腐敗につながる第一歩でもある。ダフネを腐らせるための足がかりはダフネの内側に残されていたのだ。
問題は、これが呪いであると気づいてなおダフネの恐怖は消えていないということだ。
どうすべきか。ダンブルドアの助力を乞うには時期尚早だろう。ウィゼンガモットの上級魔法使いであり欧米全土に強い影響力を持つ彼と政界でやりあうには、もっとしっかりとした支持基盤がほしい。まだダンブルドアに借りを作りたくはない。
しかし、このままではダフネは恐怖に溺れ、そしてそのまま腐敗する。その結果がどのようなものかはわからないが、いい形に着地するとは思えない。
その時だった。
「――やっと気付いたか。もう少し鋭くあってほしいもんだ」
ダフネは杖を手に取った。
大人の女性の声が聞こえる。成熟した、自信と経験に満ちた魔女の声だ。ちらりと周囲を見渡したが、それらしい人影はない。誰も起きていないようだ。
ゆっくりとベッドを降り、スリッパを履く。
「どこを見てるんだ。こっちだ、こっち」
こん、とノックするような音がした。
そして気付いた。月光を背にして、一羽の立派なオオガラスが窓の向こうに止まっていた。艶のある羽根は夜霧に濡れ、いっそ赤を感じるほどに輝いていた。
もしや、とダフネはゆっくり杖を下ろした。
アステリアが人狼に襲われた晩、彼女を助けてくれたオオガラスがいた。あれをアステリアは先祖だと思ったそうだが、もしかするとこのオオガラスがそうなのだろうか。
「結構、礼儀を弁えているのはいいことだぜ」
「あなたは? ご先祖様なのですか?」
「ある意味ではそうだ。少なくともこの身体を貸してくれたマレディクタスはお前の先祖だよ。お前の曾祖母にあたる」
「では、その身体を借りているあなたは」
「ヒントは出してやったつもりだぞ? お前は答えを出したつもりになっているようだがな」
オオガラスの瞳が煌めいた。
「まったく、妙なところで抜けているもんだ。せっかくお膳立てしてやったのに、俺のことを調べようとすらしやがらない。ずっと待ってたんだぞ?」
「お膳立て? 何のことです」
「
思わず一歩退いた。
ダフネを取り巻く噂の中に、一際異様だったものがある。ブレーズ・ザビニを慕う少女たちがダフネを追放するために吹聴したその噂は、どれだけ時間が立っても不思議と消えなかった。
「まさか……」
「この程度は魔法とも呼ばないちょっとした手品だ。お前を取り巻く噂にちょっと方向性を与えてやるだけでいい。人は物語を信じたがるだろ?」
オオガラスが月光を背に嘴を開いた。それは嘲笑に違いなかった。
自らオオガラスに変じ、オオガラスを使役する者。
このブリテンに伝わる旧き魔女。マグル界にも伝わる神話にその名を語られ、物語の中では戦の勝敗を左右する予知の女神とも語られる神性。
サラザール・スリザリンの愛弟子にして英国魔法界の秩序を創立した偉大な魔術師マーリンに敗れ、封印された闇の中の闇。
イギリス魔法史に残る最古の悪。
「では、あなたは……」
「そうとも。俺が、俺こそがモリガンだ。生きた支配にして三位一体の神、殺戮、破壊、そして勝利を授けるものだ。若きカラスよ、頭が高いぞ」
オオガラスが翼を広げた。
一瞬、風が吹き抜けたような錯覚に陥った。ないはずの羽根が総毛立ち、今すぐその場で跪きたいという衝動に襲われた。
足が震える。背筋を汗が伝う。膝を折りそうになる。
しかし、ダフネはそうしなかった。
「……ほう、やるじゃねえの」
「どうして、こう……あなたたち旧き魔術師は人の心を好き勝手踏み荒らすのかしら。ここは、私だけの場所ですわ!」
ダフネは窓の向こうで嘴を上げて嗤うオオガラスに杖を向けた。
本当に相手がモリガンなら、ダフネなど歯牙にもかけないだろう。マグルの神話に神として名を残す旧き魔女だ。その強大さは推し量れるものではない。
それでも、ダフネの荒ぶる感情は抗うことを選んだ。それがダフネの誇りであり、踏みにじられてはならないものだった。
オオガラスは興味深そうに首を傾けた。
「面白え。やる気なら軽く揉んでやったっていい。……とはいっても、俺がいるのは
汚い言葉で悪態をついたあと、モリガンを名乗るオオガラスは嘴で窓をつついた。
「安心しろ。ハーポはこの城の護りを破れない。この城にいる限りお前は安全だ」
「……信じろと?」
「まさかと思うが、打って出る気じゃないだろうな? そこまで愚かじゃないと思っていたんだが」
「いずれ、ハーポは私の前に現れるのでしょう?」
「そのつもりらしいな。まあ、俺がそうさせないが」
「あなたが?」
モリガンは首を小さく振った。
「そうさ。まあ、悪いようにはしない。俺とマーリンの野郎の間で結ばれた契約は今も俺を縛ってんだよ」
「契約?」
「俺はブリテンを守る最終兵器だ。俺の魂はブリテンの名が消えた時に消し飛ぶ。生憎と
「……魔法理論の根本原理ですわね。魂を弄んだ者が受ける致命的な代償。一説によれば、あの世でもこの世でもない辺獄に囚われ――」
「誤魔化さなくてもいい。
「ッ、それは」
「安心しろ、誰も聞き耳を立てちゃいないよ」
本当だろうか。
今は闇の魔術師の言葉を信じる気にはなれなかった。ハーポが脱獄を選んだのはダフネのせいだ。これ以上厄介事を増やしてしまえば、いよいよダフネの計画は崩壊する。
しかし、モリガンを名乗るオオガラスが示唆したのはダフネの原作知識のことだ。これまでダフネは徹底して開心術の可能性を避けてきた。ダフネが原作知識を有していることは誰にも知られていないはずだ。
それに、あれほど威圧されたにも関わらず、オオガラスの瞳を見ていると心が安らぐのは確かだった。アステリアがこのカラスを見て先祖と思ったのが今なら理解できる。不思議と気持ちが和らぐような、そんな力があの瞳にはある。
結局、ダフネはスツールを引っ張ってきて窓の側に置き、そこに腰掛けた。
「いい子だ」
「イギリスの悪い子代表に言われると光栄ですわね」
「へえ、言うじゃねえか。そもそもお前の一族は1000年前までは俺に仕えてたんだぜ?」
「……あなたに?」
「俺がブリテンに俺の配下以外のカラスを認めると思うか?」
返事に困って、ダフネは指先で杖を弄んだ。
モリガンは自らがオオガラスの動物もどきだったとされる。その彼女に仕える魔女がオオガラスのマレディクタスというのはいかにもありえそうな話ではあるが、本当なのだろうか。
もしこのオオガラスが真実を語っているのなら、グリーングラス家ははるか昔からモリガンの支配下にあったということになる。それはあまり面白くない事実に思えた。
ダフネの胸中も知らずのんびりと羽繕いをしながら、オオガラスは話の続きを語りはじめた。
「その呪い、条件次第で解いてやってもいい」
「ハーポの呪いを?」
「そうだ。その呪いはお前とその周囲を腐らせる魔法だ。強力な呪いというわけじゃない。お前が抱える恐怖や、お前の周囲が抱える疑念を自覚させ続けるだけ。ハーポはお前の足場を崩すのに最適な呪いをかけたわけだ」
「では、私がこのままでは……」
「内紛が始まり、お前はハーポの前に差し出される。なんならすでにお前を疑ってるやつの感情は揺さぶられているぞ。心当たりはあるだろ?」
思い返す。
確かにスクリムジョールの疑い方は不自然だったかもしれない。ホグワーツの3年生に向ける疑念としては重すぎるというのはスラグホーンが指摘していたとおりだ。
昨日からホグワーツに蔓延するダフネへの不信感にもこれで説明がつく。急速に広まる噂と疑念にダフネの支持者たちは困惑していたが、原因が呪いなのだとすればあるいは解決の可能性が見えてくるかもしれない。
「この呪いのたちが悪いところは、恐怖や疑念を増やすわけではないってとこだな。ただ無視できるものを自覚させるだけ。自覚すれば、人間の理性はそこに向く」
「……よく、ご存知ですわね」
「俺を疑ってる暇はないぞ。はるか昔、腐ったハーポはこの呪いで都市国家をひとつ滅ぼしてんだからな。いいか、この疑念は植え付けられたもんじゃない。偽物の感情じゃないわけだ。疑り深いやつほどドツボにはまる」
「呪いが解けたら?」
「誘導はなくなるが、元々ある疑念までは消えない。そいつ自身が持ってる疑念と向き合わせるだけの呪いだからな。普通の人間なら少し不審がられるだけで済む。だが、お前は目立ちすぎた」
そう、ダフネは目立ちすぎた。目立たざるをえなかった。
これからダフネは表舞台に立ち、多くのことを成し遂げていかねばならない。そのタイミングで発動する呪いとしてはあまりに最適すぎた。
おそらく、ハーポはこのタイミングを狙っていたのだ。ダフネの地盤が不安定で、かつ人々に知られはじめたタイミングでダフネを軽くつついた。あとは勝手に崩れ落ちると判断して。
「まあ、ハーポさえ潰しちまえばどうとでもなるんだがな。あれくらいなら俺が手を貸さずとも今を生きる人間だけでなんとかなるだろうよ」
思わずダフネは立ち上がった。
「ハーポが、なんとかなる? あれはとても古い闇の――」
「生憎だが、あれについてはお前より俺のほうがいくらか詳しい。その上で言うが、単に戦うだけなら当代の校長のほうが強いぞ。この呪いに関しちゃ後手に回ってるようだがな」
「それ、は……でも、分霊箱は魔法的に護られていて」
「いいか、お前が今抱えている恐怖は呪いによるものだ。それを理論武装するな、自分の理性まで恐怖で説得しちまうぞ。あいつが分霊箱程度を壊せないと本気で思うか?」
「あ……」
そう、ダフネは自分で思っているよりも賢く、自分で思っているよりも愚かだった。
ダフネの理性は、込み上げる根拠のない恐怖に説明を与えることができてしまう。水に器を与えてしまうようなものだ。
ハーポという原作に登場しなかった巨悪に対する恐怖は、ダフネの知識で格付けが難しい。だからこそ、想像を絶するほど邪悪で強大に感じる。そして、その感覚に説明を与えるだけの知識がダフネには備わっている。
光で照らせば照らすほど、影はちらつき、大きく膨らむ。
大きく息を吸う。落ち着けと自分に言い聞かせるたびに、ダフネの隅に淀んでいた恐怖が晴れていくのが感じられる。
「どうしても恐怖に耐えられなくなったら変身するといい。その呪いは生きた人間にしか効かない」
「ご親切に、どうも……それで、条件というのは何なのですか」
「聞くということは、信じるんだな?」
「騙りを疑うにはあなたは知りすぎていますわ。でも、ひとつだけ聞かせてくださるかしら。……どうして、助けてくださるのですか」
カラスは羽繕いをやめて、じっとダフネを見つめた。黒い瞳はベッドサイドに置かれた小さな燭台の柔らかな火を受けてきらめいていた。
ややあって、カラスは小さく頷くように首を振った。
「今はまだ教えてやれない。個人的な理由だ」
「個人的な?」
「俺みたいな偉大で有名な魔女にプライベートがあるのが意外か? まあ、色々あるんだよ。……信じろとは言わねえ。調べるなり考えるなりするといいさ」
「そうさせてもらいますわ」
「いい子だ。それから、悪いが俺は基本的にそちらの世界には干渉できない。しかもこの呪いは
そう言ってモリガンは首を曲げ、どこか遠くを見上げた。
「ハーポの呪いは古代ギリシャ最大の謎のひとつだった。その正体がついに暴かれる、か。面白え時代だよ、まったく」
「当事者としてはちっとも面白くありませんわ」
「はん、そりゃそうだろうな。時間をやろう、明日の晩またここに来る。それまでに考えておけ。……ああ、
そう言い残して、モリガンは飛び立った。
あっという間に夜闇に消えていったカラスをそれでも視線で追いながら、ダフネはスツールの上で小さくぽつりとこぼした。
「……わざとらしい助言ね」
あの口ぶりはダフネの周囲にいる誰かが解決の糸口を握っているということだろう。
問題は誰が、何の知恵を握っているかだ。誰もがダフネを疑っている今、頼ることのできる相手はどれだけいるだろうか?
しかし、ダフネには自信があった。
間違いなく自分を疑わないでいてくれる仲間は、確かにいるのだ。