その血は呪われている   作:海野波香

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 よく整えられていた爪を噛みたくなるのをこらえながら、グリンゴット8世はなんとか苛立ちを抑えようとしていた。

 計上された損失は人的にも物的にも馬鹿にならない額だ。幸い、ハーポが保管されていた7番金庫を除けば全ての資産は無事だった。しかし、行員から顧客まで全てが金に変えられてしまった以上、アテナイに置かれたギリシャ支店は事実上の破綻状態にあった。

 預金金庫についてはこの際問題ではなかった。重要なのは有形・無形を問わない魔法的な資産の保管が行われていた金庫だ。評価から管理までを担っていた熟練のスタッフたちが失われたのは、グリンゴッツ魔法銀行にとって致命的な損失だった。

 しかし、そこは重要ではない。

 損失は取り返すことができる。グリンゴットにはそれだけの実力がある。この魔法銀行は一支店が破綻しかけているというだけで崩壊するほどやわではない。

 グリンゴットの仕事はここで嘆くことではなく、できるだけ早く状況を改善し、顧客たちに安心を提供することだった。

 

「厄介なことになりましたねえ」

 

 頭取の執務室に隣接した応接室で、紅茶を飲みながら困ったように笑う彼――フローリアン・フォーテスキューは、いつものアイスクリームパーラーのエプロンではなく、象牙色のスーツに紫のネクタイを合わせていた。

 今日、フローリアンはダイアゴン横丁組合の組合長としてここに来ていた。

 

「組合としてもできる限りの助力はしたいと考えていますよ。()()()()()()()()のおかげで魔法運輸部のパーキンソン事務次官とは連携が取りやすいですからね、現地の復興にあたって必要な物資は可能な範囲で供出させていただきます」

「……お気遣い、感謝する」

「何、同じダイアゴン横丁の仲間じゃあないですか。助け合いですよ」

 

 フローリアンは癖のある茶髪を指で混ぜながら笑った。

 可能なら、グリンゴッツの頭取としてフローリアンに借りを作るのは避けたかった。フローリアンは魔法法執行部とつながりがある。民間協力者と言えば聞こえはいいが、要は公安がばらまいたスパイのひとりだ。

 つまり、銀行が借りを作っていい相手ではなかった。彼はダフネのことを友人と呼んだが、内心でダフネのことをどう思っているかなど知れたことではない。

 

「それで、アテナイの件はどうなんです」

「……当局との交渉が難航していましてな。当行としてはエジプトの精鋭を送り込んで可及的速やかに現状復帰を進めたいのだが、ギリシャ魔法省は自分たちの手で結論を出したい様子だ」

「でしょうねえ。これについてはマルフォイ氏も動いてくださっているようですが、随分と苦戦しておいでだ」

 

 何がおかしいのか、フローリアンはくつくつと笑って紅茶を混ぜた。

 

「いや、失礼。とんでもない時代になりましたなあ。彼女が世に現れてからというもの、まさにめくるめく日々だ」

「馬鹿馬鹿しい。子どもひとりに責を負わせるのが貴公らのやり方かね。政治がいかんのだ。ファッジ政権以来、英国魔法界は混沌としている。そして奴はそれを統御できる器ではない」

「はは、僕はファッジのことはあれでなかなか嫌いじゃないんですが……まあ、小心者と評判の彼には気の毒なことですよ。当局は当分腐ったハーポの脱獄を認めない方針のようです。それはいまいちうまくない、そうでしょう?」

 

 ミルクをたっぷり注いだ紅茶のカップを持ち上げて、フローリアンはそう口にした。

 今日のフローリアンは魔法法執行部のスポークスマンでもある。つまり、事件の当事者でありながらギリシャ魔法省当局に阻害されて動きの鈍いグリンゴッツを、魔法法執行部が裏から支援する形で状況を打開しようというのだ。

 ありがたい反面、腹立たしくもある。彼らのやり方はつまり、魔法法執行部は手を汚さずにグリンゴッツの実働部隊に働かせようということだ。こういうとき、グリンゴットは杖持ちの傲慢さを不愉快に思ってならなかった。

 しかし、腹を立てていてもどうしようもない。

 

「ギリシャのコンモドゥス魔法大臣は否定なさるでしょうが、状況はすでに国際魔法使い連盟が対応すべき国際問題に発展しつつある。しつつある、というのが肝ですよ」

「わかっている。今ギリシャが国際問題の当事者になれば、各国は利権を狙ってギリシャをパイのように切り分けると言いたいのだろう。スペイン内戦のときのように」

 

 かつて、スペイン魔法界で悲劇があった。

 ヴィセンシア・サントスという魔女がいた。血統、能力、人格ともに申し分ない、ブラジル魔法省が誇る魔法大臣だった。彼女はグリンデルバルドの脅威に毅然と立ち向かい、国際魔法使い連盟の議長に立候補した。

 しかし、独立して日の浅いブラジル魔法界は単独で国際魔法使い連盟議長を送り込む余力がなく、サントスは当時の南米に影響力を持つ魔法界の中で最も勢力に優れていたスペインの手によって送り込まれることとなった。

 前議長であるドイツのアントン・フォーゲルはグリンデルバルドの信奉者だった。晩年の彼は服従の呪文で操られていたと主張したが、どちらにせよ彼はグリンデルバルドに味方した。

 フォーゲルは指導者を選ぶ魔法生物として知られる麒麟を使うことを選び、そこに隠された工作を暴く戦いの末に、本物の麒麟が選んだ本物の指導者がいた。その名はアルバス・ダンブルドア。後にグリンデルバルドを決闘で破る魔術師である。

 しかし、ダンブルドアは議長にならなかった。多くの魔法使いや魔女が見守る中、彼はその地位を辞退し、次点でサントスが選ばれた。

 そう、サントスはこの点においてファッジと同じだ。

 真の指導者から席を譲られた、偽りの指導者。その風聞を追いやるために、サントスはあちこちに頭を下げねばならなかった。結果としてスペイン魔法省は各国に無視できない規模の借りを作った。

 その結果がマグル界でスペイン内戦として知られる混沌だ。

 まだスペイン魔法界は当時の傷が癒えていないとも言われている。サントス家という柱を失ったスペイン魔法界は今も混沌の中にいる。

 

「スペインと同じことをギリシャでやらせはしない。闇の帝王とダンブルドアの代理戦争などと、冗談ではない」

「では、あなたはまだ闇の帝王が生きていると信じてらっしゃる? 彼女の言に嘘があったとは思われていないのですか?」

「……ああ、貴公らはダフネ・グリーングラスを疑っているのだったな」

 

 フローリアンの瞳にきらりと冷たい光が宿った。

 

「彼らの一部は彼女が例のあの人とハーポを引き合わせる目的で動いていたと考えているようです。もっとも、僕からすればそれはあまりに安直な見方ですが。あなたはどうなのです?」

「ミス・グリーングラスは聡明で活動的な人物であり、この分野に関して深い見識を持っていることは事実だ。しかし……」

 

 葉巻を取り出し、自ら鍛えたゴブリン銀のナイフで手早くカットする。

 ダフネを疑う気持ちがないわけではない。グリンゴットはダフネにハーポを紹介した張本人だ。彼女をギリシャに送り込んでさえいなければ、あるいはハーポが大人しくしていた可能性もある。

 それに、なぜ彼女が分霊箱という闇に目を向けたかもまだ明らかではない。ダフネは危険だ。手段を選ばないという点では、改革者として危うい部分もある。

 しかし、だからといってダフネを責めるほどグリンゴットは幼稚ではなかった。

 

「ミスター・フォーテスキュー。ハーポは我々の負債だ。グリンゴッツ魔法銀行ギリシャ支店開設の折、我々の定着に尽力していただいたさるお方から『いつか、始末をつけられる者が現れるまで』と預かった品だ。今回の件は我々の落ち度と言っていい」

「おや、総裁ともあろうお方がそのようなことをおっしゃってよろしいんですかね。いや、僕としてはあなたがたが積極的に動いてくれるのは嬉しい限りなんですが」

「わからないでしょうな、ミスター・フォーテスキュー……ミス・グリーングラスは私と契約しているのだ。私は手ずから彼女に我らの銀で腕輪を鍛えた。その意味が、貴公にはわからんだろう」

 

 マッチを擦り、グリンゴットは葉巻に火を付けた。

 ダフネを疑う気持ちがないと言えば嘘になる。しかし、ゴブリンとしての誇りがその疑いに蓋をしていた。もうグリンゴットはダフネに投資したのだ。これから必要なのは冷静で客観的な評価であって、個人的な疑念などはどうでもいい。

 ゴブリンとして、大人として、グリンゴッツ魔法銀行の頭取として、誰がなんと言おうとグリンゴットはダフネを支援するつもりでいた。

 その一方で、必要に応じてグリンゴットはダフネを試すつもりでもいた。

 ハーポの脱獄が発覚したとき、真っ先に参考人としてダフネの名前を魔法法執行部に伝えたのはグリンゴットだ。ここで馬脚を現すようであれば、支援する価値はない。グリンゴットにはこの銀行の頭取として彼女を見極める責任があった。

 ダフネは試練を乗り切ろうとしている。試練の後には報酬がなければならない。それが取引というものだ。

 

「なるほど……まあまあ、あなたがそうおっしゃるのならそれはそれで結構なことですよ。彼らの中にも彼女を支持する声はあります。あとは彼女が疑いを晴らすか、晴れるまで耐え忍ぶか……」

「要するに、あなたはスクリムジョールから私とミス・グリーングラスの関係を探ってこいと言われたのだろう」

 

 フローリアンは困ったように頭を掻いた。

 

「いやあ、仰る通りで。僕としてもダフネのことは応援したいんですけどね、今回の件は流石に目を瞑るわけにはいかんでしょう」

「もし、仮にミス・グリーングラスが闇の帝王を復活させる目的でハーポと接触したとして、果たしてそれは何の罪になる。いつから魔法法執行部は内心の検閲までするようになったのだ」

「それを言われると耳が痛いなあ。しかしね、サー・グリンゴット。当局はどうも、あなたにも疑いの目を向けているようなんですよ。つまり……彼女と結託してヴォルデモートを復活させ、闇の陣営に加わるのではないか、とね」

 

 グリンゴットは葉巻の煙をたっぷり吸い込みながら鼻を鳴らした。

 ゴブリンが疑われるのは今に始まったことではない。金融と冶金という魔法界の地盤を支える生業に従事していても、なお多くの魔法族はゴブリンを疑い、蔑み、恐れる。

 確かにゴブリンには血なまぐさい歴史がある。幾度となく魔法族と戦争をした。ホグワーツが城塞の姿に至った理由のひとつはゴブリンのような種族との戦争に備えるためだ。

 だから、魔法法執行部に睨まれる程度のことはグリンゴットにとって些事に過ぎなかった。

 

「本気でそう思っているのなら、ここに送り込むべきは貴公ではなくファッジだ。魔法省の財政が立ち行かなくならないよう、私を慰問しに来るべきでしたな」

「まったく、仰る通り! 僕では力不足だって何度もスクリムジョールには言ったんですがね……まあ、わかりました。うまくまとめておきますよ。最近の彼はいつにも増してパラノイア気味ですが、僕が大丈夫だと言えば多少は落ち着くでしょう」

「……わかりやすい成果がほしいのであれば、この小切手にスクリムジョールが納得する金額を書け」

「いつも貧乏な彼らにしては珍しいことなんですが、今必要なのは金より情報なんですよ、困ったことにね。さて、そろそろ行かないと」

 

 フローリアンは肩をすくめて立ち上がった。

 腹の底が読めない男だった。ヘラヘラしながらダフネに愛想を振りまき、かと思えばその様子を当たり前のような顔でスクリムジョールに報告する。そのくせ平気でグリンゴットにも魔法法執行部の内情を語ってみせることすらある。

 一体この男の心はどこに向いているのか。何を望んで動いているのか。

 思わず、グリンゴットは口を開いた。

 

「貴公が願う着地点はどこにあるのだね。貴公はミス・グリーングラスに何を求めている」

「そうですねえ……僕は彼女のことを時代の転換点なんじゃないかなと思っていて。ある意味ではあなたと同じですよ、賭けてるんです。彼女に注目しておけば、最前席で面白いものが見れる」

 

 その瞳は冷ややかだった。

 そして、その言葉を聞いて初めて、グリンゴットはフローリアンの瞳に感じる既視感に気がついた。彼は冷静に品定めをしている。グリンゴッツの行員たちが資産価値を見積もるためにルーペを手に取るときのように、極めて客観的に。

 フローリアンにとっては、ダフネもグリンゴットも歴史という大長編に登場するキャラクターでしかないのだ。そして、もしかすると、フローリアン自身も。

 

「いつまで客席気取りでいられるか見ものだな。ミス・グリーングラスは台風の目だ。やがて貴公も振り回されるだろう」

「はは、その忠告は重いなあ。僕はこれでも平和なのが好きなんです。あくびが出るくらいに平和な市民生活を謳歌したいんですよ。歴史を学ぶと、そんな瞬間があまりにも限られていることに驚かされます。僕は貴重な時代を生きている」

「そして、その時代はもうすぐ終わる。……スクリムジョールに伝えるといい、グリンゴッツ魔法銀行は闇の陣営に決して屈さないと」

 

 フローリアンは軽やかに一礼して、部屋を出ていった。その後ろ姿は頼りないアイスクリームパーラーの店主そのものだった。

 しばらく葉巻を吹かしながら、グリンゴットは考えていた。煙がグリンゴットの理性をまとめ上げ、落ち着かせていった。

 当局はダフネに疑いの目を向けているが、ダフネに限って彼らに付け入る隙を見せることはないだろう。しかし、彼女が追っているハッフルパフのカップについては少々動きにくくなるかもしれない。

 必要なのは早期の決着と長期の対策だ。

 分霊箱は見つかり次第破壊すればいい。しかし、ハーポがそう簡単に屈するはずもなく、それどころか足取りすら掴めていない状況だ。まずは分霊箱を処理し、余裕を持ってハーポに対応できる状況を固めなければならないだろう。

 そのためにグリンゴットができることは何か。

 

「……まずはギリシャで泣きべそをかいているマルフォイの小倅を助けてやるとするか」

 

 グリンゴットはベルを鳴らし、従業員を呼びつけた。

 

「お呼びでしょうか、閣下」

「魔法省の支援を取り付けた。エジプトの精鋭を今日付けでアテナイに送れ。今一番損耗率の低いチームはどこだ?」

「確か、ビル・ウィーズリーのチームだったかと」

「結構。手紙を持たせる、ルシウス・マルフォイ氏と合流するよう指示しろ」

「マルフォイ氏と? しかし……」

 

 ゴブリンの従業員は渋面でグリンゴットを見上げた。

 言いたいことは理解できる。ルシウスは純血主義のヒト至上主義だ。来店した際の彼の蔑むような目つきに辟易している行員はひとりやふたりではない。

 だからこそ、今ルシウスに貸しを作っておくのが面白いのだ。ダフネという同じ旗の下にいる今、ルシウスはグリンゴットからの助力を無視できないだろう。ゴブリン相手に負債を抱えることの恐ろしさを少しばかり教えてやることとしようではないか。

 

「責任は私が取る。今こそ手を取り合うべき時なのだ」

 

 葉巻の火を消して、グリンゴットは小さく笑った。

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