通期で借りたままだった大教室は、いつもより閑散としていた。
もちろん、教師たちはそれに激怒した。ホグワーツの威信に懸けて、期末試験での不正などできようはずもないと主張したのだ。しかし、彼ら教師もダフネを信じきれているわけではなく、状況は混沌としていた。
では、その渦中にあってダフネはどうしているのか。
「できたわ、アステリア。流れ星よ」
「わ、すごいです! ただの輪っかだったのに、本当に流れ星になりました……! ぴかーってしました!」
日本魔法界から取り寄せた魔法のあやとりに興じていた。
「呑気なやつだ。呪いで悪評が広まってるっていうのに、その渦中でやることが紐遊びとはね」
ドラコが呆れたように鼻を鳴らした。
もちろん、ダフネは諦めたわけでもないし、頭がおかしくなったわけでもない。わざわざこの大教室まで降りてきてアステリアとあやとりで遊んでいるのは、まだ勉強会に参加する気のある生徒に向けて「自分は平気ですよ」というパフォーマンスを見せるためだ。
原因が明らかになりはじめた今、ダフネは状況を解決した後のことを考える必要があった。
流布された悪評が消え去らない以上、これまで以上に地道な戦いが求められる。そのためにはまず、まだ味方でいてくれる生徒たちの心が離れないようにする工夫が求められていた。
「言っておくが、僕はお前のことを疑ってないわけじゃない。いつも疑っているだけだ。お前が疑わしいのは今に始まったことじゃないからな」
苛立った様子のドラコも、教室を出ていこうとはしない。
蒼の貴血の初期メンバーにある程度事情を共有したことで、ダフネは大目玉を食らった。封印されていた古代の魔法使いを訪ねたら興味を持たれて呪いをかけられたなどと、笑える話ではない。
しかしそれでも、彼らの離反がなかったことは喜ばしかった。ドラコも、ヘスティアも、フローラも、もちろんアステリアも、程度の差はありつつダフネを信じてくれていた。
「ご忠告どうも。それよりドラコ、あなたは大丈夫なんですの?」
「ふん。お前のことばっかり頭に浮かぶのは鬱陶しいが、呪いのせいだとわかればむしろ術者への苛立ちが勝つね。ストーカーの濡れ衣を着せられた気分だ」
「あら、まるで私に恋してるみたいですわね」
「生憎と馬に蹴られる趣味はない。というか僕にも選ぶ権利はある」
開いていた雑誌をぱたりと閉じて、ドラコはうんざりした様子で首を振った。どうやらドラコの好みのタイプはダフネではないらしい。
そして、ドラコは柱時計をちらりと見て、不満げに教室の扉へ視線を向けた。
「遅いな。ラブグッドは時間を守るタイプじゃないらしい」
アステリアから報告を受けたダフネは、すぐさまルーナに手紙を送った。
もしルーナの言う通りこの呪いが魔法界の細菌類によるものなのだとしたら、解決の糸口が見えてくる。古代ギリシャ魔法界における謎であり汚点、腐ったハーポの呪いを暴く時が来たのだ。
「お願いする側ですもの、少し待つくらいなんということはありませんわ」
「どうだか。この雑誌には一通り目を通したが、信頼できるというタイプじゃあないね。はっきり言って、読むに値しない三文雑誌だ」
ザ・クィブラーはそもそもの知名度がないだけでなく、その内容に関して魔法省から警告を受ける程度には怪しい雑誌だ。内容はある意味シンプルで、魔法省やウィゼンガモット、国際魔法使い連盟についての陰謀論が半分、実在が確認されていない魔法生物についてが半分。
その編集長ゼノフィリウス・ラブグッドの薫陶を受けて育ったルーナ・ラブグッドは、一度でも対話したことのある生徒の大半が「まともでない」と答えるだろう性格をしている。
ルーナに対するいじめは肯定できないし、すべきでもない。しかし、それはそれとしてルーナが示す異常性がなかったことになるわけではない。誇大妄想を膨らませた陰謀論者に育てられた彼女は社会から見て排除される程度には異質である。
しかし、重要なのはルーナが
「あなたがどう思われるかは結構。雑誌の感想を言わせてもらうなら私も同意見ですわ。でも、彼女の聡明さと類稀な視野の広さは今回の特効薬になりうると考えています」
「ふーん……まあいい。ついでに新種の魔法生物として載せてもらうんだな」
「あなたこそ、絶滅危惧種として紹介していただいたらどうかしら。雑誌を読んでお嫁さんに立候補してくださる方が増えるかもしれませんわよ?」
見ず知らずの他人が聞いたらまず間違いなく喧嘩していると思われるような冗談を飛ばしあっているうちに、大教室の扉が開かれ、ルーナが姿を現した。分厚い本を何冊も抱えている。
今日は個性的な格好はしていないようだ。目につくのはレンズが緑色の丸眼鏡くらいだろうか。ダフネはアステリアが目撃したという太陽の被り物をしたルーナが見れなかったことを少しだけ残念に思いながらも、立ち上がって彼女を出迎えた。
「ごきげんよう、ミス・ラブグッド。ご足労いただき感謝いたしますわ」
「ううん、別に大変ってことはないよ。この本がちょっと重かったくらいかな」
「呼んでいただければ手伝いに参りましたのに」
「……考えたこともなかった。あんた、いいやつだね」
「助けてもらう側ですもの。さ、お座りになって」
ルーナはこくこくと頷いてアステリアの向かいに座った。
珍しく、アステリアが疑り深い視線をルーナに向けている。先にドラコがザ・クィブラーを読ませたのもよくなかっただろう。アステリアから見て、ルーナは疑わしい人物らしい。
「嘘だったら許しませんから」
「自分の理性で理解できない物事を、人はしばしば嘘と決めつけるよね。でもそれは無知と愚かさの証明でしかないってパパが言ってたもン」
「なっ!」
「ふふ、残念だけどミス・ラブグッドのほうが一枚上手ね。それで、魔法細生物学だったかしら。マグル界で言うところの細菌学に相当すると考えてもよろしいのね?」
「そうだよ。ママはコッホの本なんかも熱心に読んでた。でもマグルの細菌と違って、拡大したら見えるなんて単純なものじゃないんだ。ンー、初めてならこの本がわかりやすいかな」
積み上げた本の中から一冊を慎重に抜き取って、ルーナはテーブルの上に開いた。
革表紙に『魔法細生物学事始』と題されたそれは、研究ノートから書き起こした写本のようだ。チーズの発酵から竜痘の感染経路まで、幅広い題材を細菌学の手法で説明している。
ダフネは慎重に文字を追い、そこでひとつの事実に気がついた。
「あら……著者のアージニウス・ジガー先生というのはもしかして、教科書に指定されている『魔法薬調合法』の?」
そう、著者の名前に見覚えがあったのだ。
アージニウス・ジガーは決して世界的に有名な人物というわけではない。物語としての原作には登場しなかったに等しいほどだ。
しかし、あのスネイプが教科書として採用する程度には実力のある魔法薬師であるとは言っていいだろう。全てのホグワーツ生が一度は彼の著書を読む。その意味ではある程度信用の置ける人物だと考えられる。
「ジガー先生はママの師匠だったんだ。魔法界で一番魔法細生物に詳しい人だよ。でも魔法細生物学の本はちっとも売れないから、魔法薬学の講師もしてるんだ」
「それはそれは……」
思わぬところで縁が繋がりそうだ。
「よければ今度ご紹介いただけないかしら?」
「ン、いいよ。ジガー先生、最近あんまり会ってなかったからきっと喜ぶと思うな」
「それで……その細生物学? とやらでダフネの呪いは説明できそうなのか」
信用できる名前が出てきてその気になったのか、ドラコが身を乗り出した。
「まだわからないけど、あんたがポックピックムラサキムシに感染してるのは確かだよ」
「ふざけた名前だ。古代の魔法使いが使役している生物なんだろう? もっとこう、伝統に裏打ちされた格式のある名前であって然るべきだ」
「パパが名付けたんだ」
「ハン、どうりで」
一瞬、空気が悪くなった。
父親を馬鹿にされたと感じたのか、ルーナの視線が冷たくなる。先程露骨に態度で示したように、アステリアもルーナに不信感を向けている。コミュニケーションは円滑とは言えない。
さて、困ったことになった。ダフネは内心でため息をついた。ルーナを庇うのは難しい。事実としてゼノフィリウスの刊行物は無闇に社会不安を煽る陰謀論が大半を占める以上、それを擁護するわけにはいかない。
もちろん、ルーナは『ザ・クィブラー』の内容を信じているわけで、正面から彼女の主張を否定するのは得策ではない。彼女は普通の女の子であり、親を嘘つき扱いされれば当然傷つくのだから。
であれば、話をずらすしかないだろう。
「あなたのお母上はどうして魔法細生物学の研究を?」
「ママは目に見えない魔法生物について調べてたんだ。目に見えないって言ってもデミガイズみたいなのじゃないよ。ムラサキムシとか、ラックスパートみたいな」
「ラックスパートについての記事は私も拝読いたしましたわ。耳から入って頭をボーっとさせるのでしたわね」
「そう! あんた、購読者なの?」
ドラコが胡乱なものを見る視線をダフネに向けた。
もちろん、ダフネは『ザ・クィブラー』を読んでいる。アステリアに悪影響を与えないようこっそりとだが、知識は頭に入れておいた。いつかルーナやゼノフィリウスと対話する機会があると思っていたからだ。
「ええ、定期購読させていただいていますわ」
「お姉様!?」
「ラブグッド編集長の政治的主張には時折強い興味を惹かれるものがあります。その指摘が常に正しいとは思っていませんが、権力者を監視する市井の力強い声には常に関心を向けておきたいと思っておりますわ」
「わあ……入学してから色んな人と話したつもりだったけど、定期購読者と生で話すのは初めて。握手してもいい?」
「もちろん。光栄ですわ」
ダフネが手を差し出すと、ルーナは逃さないと言わんばかりに両手でがっちりとダフネの手のひらを掴んだ。
騙しているわけではない。ダフネは本当に『ザ・クィブラー』を定期購読している。ただ、ルーナと違ってゼノフィリウスの嘘に気がついているというだけだ。
「はあ……お前の奇行を咎めるのにももう飽きたが、まさかこれを定期購読しているとはね」
「あら、最近の読み物では一番気に入っていましてよ?」
「本気で仰っているのですか、お姉様……!?」
嘘であるとわかっていれば、『ザ・クィブラー』はいい読み物だ。それは当然のことだった。ゼノフィリウスは自らの才覚を全て娘の幸せに注ぎ込んだのだから、彼が編纂した千夜一夜物語が面白くないわけがないのだ。
そう、『ザ・クィブラー』とはとても歪な愛の形である。少なくともダフネはそう思っていた。
愛した妻そっくりに育ったルーナがわずかにも孤独や不安を感じないよう、ゼノフィリウスは魂の全てを創造力に注いできた。その結果としてルーナはのびのびと、自由に育つことができた。
その愛の形を真っ向から否定することは、ダフネにはできなかった。する気にもならなかった。
「アステリアにはまだ早いかしら。もう少しお姉さんになったら貸してあげるわね」
「お姉様、その……はい」
「ああもう、この際お前がゲテモノ食いなのはいい! それで? どうやったら治る?」
ルーナは顎に手を添えて首を傾げた。
「ンー……細生物にアプローチする魔法薬はジガー先生の分野だから、ママの研究資料だけだとわかんない」
「はあ? じゃあ、今日は無駄足ってことか」
「あんたたちがダフネに抱えてる不信感がポックピックムラサキムシのせいだってことを確定して、魔法細生物についての知見を共有する。それは治験の第一歩としてとても大事なことだって思うな」
「……まともになったりそうじゃなかったり、忙しいやつだな。もういい、僕は向こうで下級生の指導をしてくる」
ドラコはうんざりした顔で立ち上がった。しかし、もうドラコの目にルーナへの軽蔑の色はなかった。
親の教育によって陰謀論と妄想癖を抱えてはいるが、ルーナは純朴でまっすぐな女の子だ。ハリーと出会えば原作通りいい友達になるだろう。それならば、今のうちに関係を築いていく価値がある人物と言える。
「それではミス・ラブグッド、ジガー先生にご紹介いただけるかしら?」
「ン、いいよ。今日中に手紙を送るね。ご用はこれで終わり? それなら、あたしも勉強会を見学していってもいいかな」
ルーナの言葉に、アステリアが少し意地の悪い声で応えた。
「あら、面白くなかったんじゃなかったんですか?」
「アステリア」
「だって……」
拗ねたように口を尖らせたアステリアは、ちらりと机の上で閉じられたままの『ザ・クィブラー』に目を向けた。
報告は受けている。アステリアがルーナをよく思っていないのは、そもそもルーナが蒼の貴血の勉強会を悪く言ったからだろう。それがアステリアをここまで意地悪な気分にさせてしまった。
アステリアにとってみれば、蒼の貴血は最初にできた友達であり、志を同じくする仲間だ。それを悪く言われなければ、アステリアもここまで頑なにはならなかったに違いない。
ダフネはまだまだ子供らしいところのあるアステリアの可愛げにほっこりしながらも、ルーナを傷つけずに状況を丸めるための言い回しを探した。
しかし、そこでルーナが意外な行動を取った。
「ごめん。確かに面白くないって言ったのは失礼だったね。今日は寮に帰る」
ルーナは身体を折るようにアステリアに頭を下げた。
反射的にアステリアは椅子から立ち上がったが、どう返せばいいかわからないようだった。当然だ、アステリアは今まで人に意地悪をした経験がないのだから。
「えっ、あ……」
「また今度、あんたが許してくれそうなら見学に来てもいい?」
アステリアが慌てふためいてルーナとダフネを交互に見上げた。
その時、ダフネはひらめいた。もしルーナがこの勉強会に継続して出入りするようになれば、場合によってはアステリアにいい影響を与えるかもしれない。
ダフネに育てられ、アーマンドとアークタルスの薫陶を受けたアステリアはよくも悪くもまっすぐで、世界の多様性を認識はしていても理解していない節がある。ルーナという可能性に満ちた存在との遭遇は、アステリアに新しい可能性をもたらすだろう。
要するに、ダフネはアステリアとルーナが友達になればいいと考えた。
「アステリア、あなたも言わなければならないことがあるんじゃないかしら」
「……ごめんなさい、ミス・ラブグッド。嘘だって決めつけたのはとても失礼なことでした」
「いいよ、慣れてるから。世界に知られていないことを世界に認めさせるのは、あらゆる苦行の中で最も過酷なことのひとつだもン」
ルーナはこくりと頷き、テーブルの上に広げた本を回収しはじめた。
それを見ていたアステリアは、おずおずと重い本に手を伸ばし、持ち上げて抱えた。
「あの……運ぶの、手伝います。これでお詫びになるかはわからないですけど」
「え? ……じゃあ、お願いしようかな。レイブンクローの塔までは少し遠いけど、いいの?」
「はい。だから、その、着くまでにもう少しお話聞かせてください。それがお姉様のためになるのなら、私はちゃんと考えなくちゃいけないので」
しばらく、本を抱えたふたりが互いに見つめあっていた。
相性で言えば決して良好とは言い難い。正しいことだけで育ったアステリアと、無限の可能性を期待して育ったルーナの間には大きな隔たりがある。
しかし、その河を渡ることができるからこそ、人はつながることができるのだ。
「アステリアって呼んでもいい?」
「はい! 私も……ルーナとお呼びしますね。それではお姉様、ちょっとレイブンクローの塔まで行ってきます!」
「ええ、気を付けて。ミス・ラブグッド、今日は来てくれてありがとう。妹をよろしくね」
ルーナはこくこくと何度も頷いて、アステリアを引き連れ大教室の扉へ向かった。
扉の手すりに手をかけようとしたその時、ルーナはくるりと振り返って叫んだ。
「あんたもルーナって呼んでいいよ!」
「あら、ありがとうルーナ。また遊びに来てくださいまし」
「うん。またね、ダフネ」
そして、ふたりは大教室を出ていった。
下級生に毒キノコの見分け方を教えていたドラコが、去っていくルーナを目で追いながらダフネのもとに戻ってきて、ぽつりとこぼした。
「役に立つのか?」
「ひとりひとりが力を持たないとしても、市民には支持されるべきだと思いませんこと?」
「市民ね。あれが市民の代表者なら、魔法界ってやつは随分とおかしなことになっているらしい」
「あら、ご存知なかったの? 魔法界は随分前からおかしなところですわ。もしかしたら、はじめからね」
ドラコは鼻を鳴らして、ぽんとダフネの肩を叩いてから指導に戻っていった。
少し疲れたのが顔に出ていたかもしれない。ダフネは小さく首を振って、気合を入れなおした。今は疲れを見せてはいけない。呪いによって損なわれた支持は地道な政治活動で取り戻すしかないのだから。