その血は呪われている   作:海野波香

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 放課後、ハリーはハグリッドの小屋でぐったりとしながらロックケーキをかじっていた。

 

「ロンもハーマイオニーも全然真剣に受け取ってくれないんだ。ハーマイオニーなんか、魔法細生物学なんて学問は教科書のどこにも出てこないーって怒っちゃって」

「まさか俺達のハーマイオニーに知らんことがあるとは、俺もちっとも思わなんだ。ほれ、紅茶が入ったぞ」

「ありがとう、ハグリッド」

 

 ダフネを取り巻く悪評の陰謀をなんとか暴こうと走り回ったハリーは、それが徒労に終わったことにがっかりしていた。誰もが、ハリーはガールフレンドを庇おうとしているだけなのだと信じていた。

 誰もがハリーを肯定し、応援しながら、それでもハリーの言葉は信じてくれない。今までとは違う状況が不気味だった。この状況が本当に細菌を使った呪いによるものなのだとしたら、その道具を作った術者は恐ろしい魔術師だ。

 味の濃い紅茶をがぶりと呷って、ハリーはため息をついた。

 

「どうしてダフネは呪われちゃったんだろう」

「そりゃ、お前さん……あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこと人助けして回っちょるからな。きっと何かに巻き込まれたに違いねえ」

「それは、たぶんそうだけど。でも、ただの人助けじゃないんじゃないかな。ギリシャで何か、とんでもないことが起きたんだと思う」

 

 日刊予言者新聞は盛んにギリシャ魔法省の失態を騒ぎ立てている。

 新聞によれば、アテナイ――魔法界ではアテネのことを古い地名で呼ぶそうだ――にあるグリンゴッツ魔法銀行の支店からは誰も帰ってきていないらしい。そして、ギリシャ魔法省はその事実をひた隠しにしているのだとか。

 当初、ハリーはダフネが闇の魔法道具に呪われたのだと考えていた。トム・リドルの日記帳のような恐ろしい道具がグリンゴッツに封印されていたのだと思ったからだ。

 しかし、ルーナの話を聞いて考えが変わった。

 確かに、細菌には寿命がない。ハリーはダーズリーの家にいたころに自然界を特集する番組で北極の氷河に封印されている細菌の話を見たことがある。ダフネが感染したのはそういった細菌の一種だろう。

 では、それがなぜグリンゴッツの支店にあったのだろうか?

 誰かが預けていたのなら、ダフネはその誰かから鍵を預かって金庫を開いたということになる。当然、その誰かは細菌のことを知っていたはずだ。それなのに誰も真相を明らかにしてダフネを庇おうとしない。これは不自然だ。

 ダフネは罠にかけられたのではないだろうか。

 

「不自然なんだ。ダフネが目標のために頑張って、色々な人の支持を得たこのタイミングでピンポイントに支持を損なう呪いの細菌に感染するなんて。誰かが狙ったに違いないんだよ」

「ハリー、考えすぎだ。俺には菌がどうこうっちゅうのはよくわからんが……そういや、パンドラは確かに時々変な眼鏡をかけてうろうろしちょったなあ」

「パンドラって、ルーナのお母さん?」

「そうだ。ありゃ頭のいい魔女だった。ちょっとおかしくもあったがな。目に見えないものに夢中だった。神秘部からのスカウトを蹴って、在野で研究者をやっちょった。卒業してからも何度かゼノフィリウスと連れ立って森に来たもんだ」

「神秘部って?」

 

 ハグリッドはハリーの頭よりも大きなティーポットに手編みのティーコジーをかけながら答えた。

 

「魔法省のいっちばん謎な部署だ。まだ説明のつかないあれこれ、愛やら時やらを研究しちょる。一体どうやって研究してるかは知らんから聞かんでくれよ。とにかく、学者先生、無言者と呼ばれちょるが、そういう連中が集まっちょる部署ってことだ」

「……そこに行けば、ダフネの呪いもどうにかなるかな」

「そりゃ菌のほうか? それとも血のほうか? どっちにせよ、実験だなんだとバラバラにされっちまう気がしていかん。おっかないところだ、神秘部は。パンドラは神秘部に行かなくて正解だったな」

 

 窓の外に広がる禁じられた森に小鳥が迷い込んでいくのを眺めながら、ハリーは曖昧に返事をした。

 あちこちに菌の話をして回っているうちに、ハリーはルーナの噂を耳にした。彼女の母親は実験で吹き飛んでしまったらしい。一体なんの魔法実験だったのかはわからないが、悲劇であることは間違いない。

 不思議な少女だった。

 ディーンが偶然持っていた『ザ・クィブラー』を読んで、ハリーはなんとなくルーナの主張が信じられない理由がわかった。その雑誌はバーノンが読んだら激怒するくらい根拠の薄い陰謀論で埋め尽くされていたからだ。

 しかし、ハリーはルーナが嘘をついているとは思っていなかった。あれを嘘と断じるにはあまりにも状況が揃いすぎている。

 

「今は様子を見るしかねえ。その呪いっちゅうのがいつまで続くのか、これからどうなるのかをな。ダフネだって黙っているとは思えねえ。あの子は強い子だ」

「うん……そうだね。僕、ダフネのところに行ってこようかな」

「それがええ。土産を持たせちゃる。ちょうど林檎の時期だ。あの子の家の果樹園で採れたもんとは格が違うが、それでもホグワーツの林檎もなかなか捨てたもんじゃねえからな」

 

 ハグリッドに新鮮な林檎を1ダースも渡されて、ハリーはわたわたとそれを抱えながらホグワーツへの帰路についた。

 その途中、ハリーは道端に見覚えのある影を見かけた。黒い犬がお行儀よく座ってハリーを待っている。ダーズリーの家を脱走したあの日、ハリーにじゃれついてきた犬だ。

 

「わ、君って魔法界の犬だったのかい」

 

 黒い犬は嬉しそうに吠えて、尻尾を振った。

 ハリーは抱えている林檎の中からひとつを取り出して、ゆっくりと地面に置いた。

 

「食べる?」

 

 黒い犬はまた嬉しそうに吠えて、ハグリッドが育てた大きな林檎にかじりついた。

 よく磨かれた鋭い牙が林檎を噛み砕いていくのを眺めながら、ハリーは考えた。一体この犬はどうやってホグワーツに迷い込んだのだろう?

 ハグリッドのところに連れて行くべきか迷っているうちに、黒い犬はあっさり林檎を食べ尽くしてしまった。そして、その犬はくるりとハリーに背を向けるとゆっくり歩き出し、また吠えた。

 

「ついてこいって? でも……」

 

 ハリーは沈みゆく太陽に目をやった。

 門限を過ぎれば当然減点と罰則が待っている。1年生のころにノーバートを運び出すため夜のホグワーツをうろついて食らった罰則のことは思い出したくないほど嫌な記憶だった。

 その一方で、誰もダフネのことを信じてくれない談話室に戻りたくない気持ちもあった。この時間はダフネも勉強会に参加しているだろうし、会うのは明日でもいいかもしれない。

 しばらく悩んでいると、背後から声をかけられた。

 

「悩むことはない、ハリー。私も一緒に行くとしよう」

「ルーピン先生?」

 

 いつの間に現れたのか、すぐ後ろにリーマスが立っていた。

 数日見ない間に少し憔悴している。顔色もよくない。病気で通院治療をしなくてはならないと聞いていたが、それほどまでに苦しい治療なのだろうか。

 ハリーの視線に気がついたのか、リーマスは困ったように笑った。

 

「心配をかけたようだね。だが大丈夫だ。今の私はいたって健康だよ。そこの犬とかけっこをしても勝つ自信がある」

 

 犬が文句を言うように唸った。

 まるで自分の飼い犬のように、リーマスは当たり前のような顔で犬に歩み寄ってその毛並みに指を埋めた。

 

「パッドフット、随分ふさふさになったじゃないか。よほどいい宿に泊まっていると見える」

「その犬、パッドフットっていうんですか?」

 

 どこかで聞き覚えのある名前だったが、ハリーにはすぐに思い出すことができなかった。

 リーマスはにこりと笑って、パッドフットの背中を乱暴に撫でた。

 

「そうだ。賢くて生意気で、人騒がせな犬だよ。さ、ついていこう。彼は私達に用事があるらしい」

 

 パッドフットは不満げに鼻を鳴らした後、リーマスの脛を尻尾ではたいてから駆けはじめた。

 自分で言っていた通り、リーマスはなかなかに足が早かった。ハリーは林檎をこぼさないようにしながらついていくので精一杯で、どこに向かっているのか気づきもしなかった。

 やがて、一匹と二人は暴れ柳の近くまでやってきた。

 

「先生、暴れ柳にはあまり近づかないほうが」

「大丈夫だハリー。この素晴らしい老木は私がホグワーツの生徒だった頃にここに植えられてね、扱いはよく承知している。見ておきなさい。頼めるかい、パッドフット」

 

 黒い影が暴れる枝の隙間をすり抜け、根元まで駆けていった。

 そして、その肉球で根元の瘤を押さえつけると、たちまちのうちに暴れ柳は動きを止めた。リーマスとパッドフットは本当に暴れ柳のことをよくわかっていた。

 

「さ、行こうか。林檎は私が預かっておこう」

 

 リーマスはハリーから林檎を受け取って巾着袋に放り込んだ後、杖を取り出して明かりを灯した。

 その光の先には小さな穴があった。暴れ柳はまるでその穴を守るようにして植えられているようだった。一体どこへ続いているのだろうか。

 ハリーの疑問に、リーマスはおどけるようにウィンクした。

 

「私が先に行くかい?」

「……いいえ、僕が行きます」

 

 ハリーは穴に潜り込んだ。

 穴の中は土がむき出しだったが、見た目よりも清潔でよく整えられていた。どうやら最近誰かがこの穴をよく使っていたようで、土は踏み固められていた。

 しばらく進むと、突然人工的な空間に辿り着いた。そこはどうやら部屋の中だった。

 

「我が家へようこそ、ハリー。みずぼらしいところだがね」

「我が家? でも、ここって……」

 

 割れたガラスのはまった窓から、遠くに町並みが見えた。

 ホグワーツからの隠し通路。フレッドとジョージにプレゼントしてもらった地図を眺めていたときに、ハリーはこの通路を見かけたような記憶がある。

 

「確か、暴れ柳の下の隠し通路はホグワーツの外に繋がってるんですよね?」

「おや、知っていたか。そうとも、ここはホグズミードにある叫びの屋敷というお化け屋敷だ。もっとも、昔はそんな事故物件ではなかったんだがね」

「ここに住んでるんですか?」

「――ここはリーマスにとって貴重な安息の場だ。時には私にとってもだが」

 

 聞き慣れない声が割って入った。

 階段の手前に、光沢のある黒い髪の男が立っていた。顔はやつれているが、どこか優雅さの漂う風格があった。グリモールド・プレイスに飾られていた肖像画の中に、彼に似た男が何人かいたようにハリーは思った。

 男は糊のきいたシャツを着ているが、袖から覗く手首は病人のように痩せこけていた。肌も清潔だが蝋のように白く、最近棺桶から這い出た死人のようだった。

 しかし、瞳に爛々と輝く意志の強さは彼が状況に敗北していないことを訴えていた。

 総合して、ハリーは彼が誰なのかを推理することができた。

 

「あなたが……シリウス・ブラック?」

「その鋭い知性はリリーに似たのかもしれないな。林檎をありがとう、ハリー。私の祖父が世話になったようだね」

「じゃあ……待って、ルーピン先生は彼を匿ってたんですか?」

 

 リーマスは困ったように笑って、首を横に振った。

 

「この男は私にすら居場所を明かすことなく、英国魔法界全土から姿を隠し続けた。ある協力者の姉妹を除いてね」

「姉妹って、まさか」

「ダフネとアステリアだ。あのふたりには苦労をかけてしまった。上でお茶にしよう。ムーニー、まさかティーセットまで壊していないだろうな?」

「まさか指名手配犯からお茶の誘いが来るとは思わなかったものでね、パッドフット」

 

 その時、ハリーは思い出した。

 ムーニー、パッドフット。その名をハリーは知っている。

 

「もしかして、ふたりは忍びの地図の?」

「おや、あれは君の手に渡っていたか! そうだ。私と彼、そして君のお父さんともうひとり。我らの青春を総結集させた思い出の地図だよ」

「リーマス、その思い出話は後でゆっくりしよう。喉が渇いた」

「やれやれ、わがままなところはアズカバンで矯正されなかったのかい? 行こう、ハリー。林檎はここに入れるといい」

 

 促されるままに、ハリーは階段を登った。

 そして、奥の部屋に辿り着いた。埃っぽいが、最近人の出入りがあったようでまだマシな部屋だった。ふたりが杖を抜き、埃を拭って明かりを灯すと、ずっと人間の家らしくなった。

 リーマスは奥から椅子を引っ張り出し、修復呪文で直してハリーに差し出した。少し引っかき傷が残っていた。

 

「さて、ハリー……何から話したものかな」

「全部教えて下さい。……あの、ブラックさん」

「シリウスと呼んでくれ。ジェームズとは賭けをしていたんだ、君が私の名前を呼ぶのが先か、彼の名前を呼ぶのが先か。あいつは君がパパと言ったから自分の勝ちだと言い張っていたが……」

 

 しばらく、シリウスは無言でハリーを見つめていた。

 様々な感情が彼の瞳に煌めいていた。安心。歓喜。幸福。どうやらシリウスはハリーと会えたことを心から嬉しく思っているようだった。

 やがて、シリウスはぽつりとこぼした。

 

「本当に、ジェームズに生き写しだ。目だけがリリーの目だな」

「ああ、私もそう思ったよ」

「あの……ふたりは父さんと母さんの友達だったんですよね?」

「そうだ。無二の親友だった。……すまない、ハリー。不甲斐ない名付け親を許してくれ。私がアズカバンになど送られなければ、私が君を引き取ることだってできたはずだったんだ」

「名付け親?」

「後見人のことだよ、ハリー。ジェームズとリリーはこの男を君の後見人に指名したんだ。つまり、そうだね……シリウスは、今生きている唯一の君の家族だ」

 

 家族。

 その言葉に、ハリーはじんわりと胸が温かくなった。

 魔法界に来て、ハリーはたくさんのものを得た。経済的にも豊かになったし、自分の家だって持つことができた。先祖代々の品や、写真も残っている。

 しかし、家族だけはいなかった。

 ダフネもドラコも、アークタルスを筆頭とした社交界の人々も皆とても親切にしてくれる。しかし、その場ではハリーはポッター家の当主で、たったひとりのポッター家だ。

 ふたりの言葉を信じていいのなら、ハリーはついに満たされる時が来たのだ。

 

「家族?」

「ああ、そうだ。君が嫌でなければだが」

「嫌なわけない!」

「そうか。……そうか」

 

 しみじみと呟いたシリウスの前に木箱が置かれ、その上に清潔なハンカチが敷かれた。そして、リーマスが杖を一振りするとそこにティーセットが現れた。

 ハリーが見上げると、リーマスがからかうような笑みを浮かべていた。こんなに子供っぽいリーマスを見るのは初めてだった。

 

「まるで老犬のようなしんみり具合じゃないかね、パッドフット。アズカバンでの歳月は君を予想以上に老いさせたらしい」

「一方で歳月は君の情緒をその毛並みのように摩耗させたのか、ムーニー」

 

 舞台役者のようにおどけてみせたふたりは、目を合わせてくすくすと笑いあった。どうやら、それがふたりのお決まりのようだった。

 そして、そのやり取りを終えたふたりはてきぱきとお茶の準備を始めた。どこからともなく水を出し、巾着袋からティーバッグを引っ張り出し、ショートブレッドを切り分けたころにはすっかり部屋はお茶のいい香りになっていた。

 

「あの、シリウス?」

「なんでも遠慮なく聞いてくれ」

「じゃあ……あなたが脱獄したってことは、ピーター・ペティグリューは生きてるの?」

 

 シリウスは一瞬カップにミルクを注ぐ手を止めたが、すぐに頷いた。

 

「そうだ。今日はそのためにホグワーツに来た」

 

 リーマスがカップを欠けたソーサーにことりと置いた。

 もはやリーマスは笑っていなかった。真剣な瞳でシリウスを見つめていた。

 ギリシャの事件が起きるまで、新聞では盛んにシリウスが無罪である可能性と、魔法省の失態について書き立てられていた。もしピーター・ペティグリューが生きているのなら、現場でそれを捕り逃したどころか無罪のシリウスに縄をかけたファッジは大失態ということになる。

 シリウスが父の親友と知ってから、ハリーはずっとシリウスの罪とその根拠について考えていた。まさか、本人とこうして話す日が来るとは思わなかったが。

 

「やるのか、シリウス」

「最初はそう考えていた。だが、それではだめだ。生かして捕らえる必要がある。……しかし、ダフネの策はあまりにも残酷すぎる」

「なにをやるの? ダフネの策って?」

 

 シリウスの表情は静かだった。

 

「ダフネは……ペティグリューの母親を餌にペティグリューを釣り出すつもりだ。老いた母親の前で、英雄と称えられていた息子の正体と罪を暴く。そんな残酷なことは私にはできない」

「そんな!」

「ハリー、私が授業を休む日に代理で講師が入る話は学期初めにしたね。あれは元々ダフネの提案だったんだ。最初から、ダフネはペティグリューを捕まえるために動いていたんだよ」

 

 ハリーにはふたりの話が信じられなかった。

 あのダフネがそんな残酷な計画を立てるだろうか。ハリーの知るダフネは思いやりに満ち、愛に溢れていて、一生懸命な女の子だ。そんな彼女だから誰もが手を貸そうとするのだと、そう思っていた。

 

「ダフネは何の目的でペティグリューを狙っているのか、それを明らかにしなくてはならない。……捕まえるつもりが逃亡を手助けすることになっては、元も子もないからね」

 

 リーマスの言葉はとても静かで、どこか冷ややかだった。

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