その血は呪われている   作:海野波香

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 せっかく淹れてもらったお茶だが、ハリーはお茶にもお菓子にも手を付ける気分になれなかった。吸い込む空気は埃臭く、しかし復讐の気配がハリーの肌を焼いていた。

 

「ハリー……君にこんな話を聞かせたくはなかった。しかし、君には知る権利があると思ってね。ペティグリューのことも、そして……ダフネのことも」

 

 リーマスの言葉にシリウスが頷いた。襟元に痩せこけ浮き出した鎖骨がちらりと見えた。品よく整えられた髪と髭では隠せない苦しみ。長い収監がブラック家の栄光ある長男を骨と皮ばかりの復讐鬼にしてしまったようだ。

 気品と優雅さに満ちていたからこそ、ハリーにはシリウスのやつれた姿があまりにも残酷に思えて、何も言えなくなってしまった。

 思わず視線を落としてしまったハリーは、カップを両手で包んだまま小さく頷いた。

 ふたりが呪いの菌に感染しているかはわからない。しかし、根拠もなくダフネを疑うホグワーツの生徒たちと違って、ふたりはどうやらダフネの計画に疑念を抱いているようだった。それならば、聞いてみる価値はある。

 

「私たちもダフネを疑いたくはない。彼女は私にとてもよくしてくれた。彼女がいなければ、私は息をつく暇もなく逃げ回る羽目になっていただろう」

「じゃあ、ダフネが隠れ家を?」

「そうだ。ベルーという骨董品店の主は知っているね? ここしばらく、私は彼の部屋に居候していた。柔らかい寝床も、温かい食事も、本当に久しぶりだった……」

 

 シリウスが思わずといった様子で息を吐いた。

 きっとアズカバンで12年間酷い目に遭ってきたのだろう。リーマスに肩を抱かれて項垂れるシリウスは、とても弱々しかった。

 しかし、再び顔を上げた時にはシリウスの瞳からその弱々しさは消え、爛々と炎が燃えていた。

 

「ダフネには世話になった。ハリー、彼女が君を想う気持ちにも疑う余地はないと思っている。しかし……私は彼女が道を間違えるんじゃないかと心配でね」

「道を間違える?」

「なぜペティグリューを捕らえることにしたのか、ダフネは正直な胸の内を私たちに明らかにしていないんだよ」

 

 リーマスの諭すような口ぶりに、ハリーは思わず言葉を返した。

 

「先生たちだってダフネに全部話してるわけじゃない。こうして僕を呼んだのだって、ダフネには内緒なんですよね?」

「それはそうだ。君が今持っている地図のことだってダフネには秘密にしているしね。……ハリー、私たちが戦っている戦争とはそういう時代なんだ。どんなに頼れる味方であっても信じきることはできない」

「でも……戦争はもう終わったんでしょ?」

「おや、戦争が今も続いていると証明したのは君自身ではなかったかな。ヴォルデモート卿が生き続ける限り、戦いは終わらない。私たちはね、ハリー……ダフネがヴォルデモート卿に利用されることを恐れているんだ」

 

 シリウスは紅茶を飲み干して、大きく頷いた。すっかり筋肉が落ちて薄い胸が、お茶を一気に飲むことに耐えきれずぜえぜえと鳴った。

 それから、シリウスは窓の外に目をやった。もう日が暮れはじめている。外を見る彼の瞳は復讐心で煌々と輝いていた。

 その一方で、不思議なことに、どこか躊躇うような理性の光も宿していた。その両者がせめぎあい、彼を葛藤させているようにハリーには思えた。彼は復讐鬼だったが、復讐の奴隷ではなかった。

 

「戦争は終わっていない。ペティグリューはヴォルデモートの下僕だ。最低の裏切り者で弱虫のやつが今もヴォルデモートの下にいるとは思えないが、つながりを持っていると考えたほうが安全だろう。問題はダフネがそのつながりをどうしたいかだ」

「ダフネはヴォルデモートの手下なんかじゃないよ!」

「わかっている。しかし……リーマスから聞いたが、クィレルという教師はやつを倒すつもりでアルバニアに行って、そのまま屈したそうじゃないか」

「クィレルは弱かったからだ」

「私は違うと思うよ、ハリー。クィレル先生は決して弱かったわけではない。むしろ、才気あふれる優秀な人物だったと私は思っている。ヴォルデモート卿にはそういう、恐ろしい魔力があるんだ。どんなに勇敢で力のある者でも膝を折ってしまうような……」

 

 リーマスがシリウスにちらりと目をやった。

 どうやらシリウスはリーマスの意見には反対のようで、少し乱暴にお茶のおかわりを注いだ。それはそうだろう、復讐のためにアズカバンを脱獄するような男がこのような意見を認めるとは思えない。

 その一方で、ハリーはどこかで納得もしていた。

 賢者の石を守ったあの夜、ヴォルデモートは巧みにハリーの心を折ろうとしてきた。かつて闇の大軍勢を組織したヴォルデモートにそういった力――畏怖すべき存在としてのカリスマが備わっていたとしても、なんら不思議ではなかった。

 

「もし、ダフネがペティグリューをきっかけにヴォルデモート卿と接触して、そしてやつの力に屈したら……彼女が素晴らしい人物だからこそ、魔法界は大変なことになるのではないかな」

「でも……ダフネならきっと、ペティグリューを司法に委ねると思います」

「司法!」

 

 シリウスが高らかに笑い声を上げた。

 まるで滑稽劇を観劇しているような愉快さに、はっきりと滲んでいたのは諦めと絶望。ハリーはそこですぐさま自分の失言を悟った。

 

「僕、その……」

「ハリー、君はもしかしたら社交界で煌びやかな大人たちを見て勘違いしているかもしれないな。ウィゼンガモットの高官たちは決して有能ではない。ルシウス・マルフォイが今ものさばっているのがその証拠だ」

「シリウス、その話は」

「ダフネはマルフォイ家とつるんでいる。マルフォイ家だぞ? 私はやつと三度杖を交えた! その結果がこれだ! 私は投獄され、やつは太陽の下を堂々と歩いている!」

 

 肩で息をするシリウスの背を撫でながら、リーマスが静かにハリーを見つめた。

 ハリーにはどう答えるべきかわからなかった。ルシウスはハリーによくしてくれている。その息子であるドラコはハリーにとって大切な友達だ。しかし、マルフォイ家に関する様々な嫌疑はロンから散々聞かされてきた。

 もしルシウスが悪人で、ヴォルデモートに心から仕えていたのだとして、今も彼の心はかつての主君に向いているのだろうか? そうだとすれば、彼と手を取り合って歩んでいるダフネは彼の罪をどう考えているのだろうか?

 ハリーには何もわからなかった。何一つ、わかることなどありはしなかった。

 

「司法に委ねるのが間違っているとは私は思わないよ。しかし、その委ね方が問題なんだ、ハリー。今日、こうして会う前にシリウスが私に手紙を寄越してね……私達はペティグリューを捕らえるダフネの計画について認識をすり合わせたんだ」

「認識?」

「ダフネはおそらく自分に都合のいい形で幕を引けるよう、情報を操作している」

「嘘だ!」

 

 怒りに任せてハリーが立ち上がると、木箱の上に置かれたティーセットがかたかたと音を立てた。

 ようやく呼吸を落ち着かせたシリウスは、木箱からカップを取り上げてもう一杯お茶を口に流し込むとゆっくり語りはじめた。

 

「ダフネは私にペティグリューの母親を囮に使うことを提案した。苛烈なやり方だ。しかし、彼女はブラック家の名誉を回復しアステリアの環境を改善するためだと私を押し切った。そこにリーマスが関わることは知らされていなかった。リーマス、君はどうだ」

「そうだね、まず私はダフネからペティグリューの生存を知らされていなかった。ミス・ペティグリューを外部講師として招くよう勧められたのも、戦争の悲惨さを若い世代に伝えるためだと言われた。そもそも、彼女はシリウスの居場所を知って私に黙っていた」

「でも……きっと何か理由が」

「そう、何か理由がある。私とシリウスに連携を取らせないことで、ダフネは何かを起こそうとしていた。その何かを私達は予期できない。もう少しはっきりした言い方をするなら、私とシリウスはまんまとダフネの陰謀に使われていたんだ」

 

 嘘だと思いたかった。

 しかし、目の前にいるふたりの大人がハリーを騙して、一体何の得があるというのだろうか? 理由もなくくだらない嘘をつく人たちとは思えなかった。

 では、ダフネは本当にそんな陰謀を企てているのだろうか?

 

「ハリー……少なくとも、ダフネ・グリーングラスが君の思っているより幾分恐ろしい人物なのは確かだ。君が彼女を信じるにせよ、そうでないにせよ、そのことだけは伝えたかった」

「でも……でも、シリウスもルーピン先生も……」

 

 細菌に感染しているからそう思うのだ。

 ハリーはそう主張しようとしたが、言葉は力なく喉の奥で霧散した。そんなことを言って何になるというのだろう。

 そもそも、ルーナによればこの細菌はダフネへの疑念を自覚させるだけで、元々抱えていた疑念が表出するだけだ。偽物の疑念を植え付けられているわけではない。

 それどころか、今のふたりに細菌のことを話せば余計にダフネを疑うだろう。ダフネはルシウス・マルフォイと一緒にギリシャに行った。そしておそらく、そこで細菌に感染したのだから。

 

「君がダフネを信じたい気持ちはわかる。だがね、ハリー……君のお父さんはこういった陰謀に使われるのを嫌うタイプだった。ジェームズとシリウスは家柄が家柄だから何かとやっかみを受けたし、私にも色々と事情があってね」

「……僕にどうしてほしいんですか」

「協力してほしい。ペティグリューの捕縛に」

 

 ハリーの問いかけに即答したのはシリウスだった。

 シリウスの目はそこに宿った強い意志で輝きを放っていた。落ち窪んだ眼窩の中でなお、彼の瞳は最もよく磨かれた宝石のようだった。それだけの強さがそこに満ちていた。

 確固とした目的意識とそれを貫く鋼の意志。今目の前に立つ男の雄々しさにハリーは圧倒された。これがシリウス・ブラックか。父の親友で、12年間冤罪による投獄に耐え、史上初の脱獄を成し遂げ、復讐のために舞い戻った男の貌か。

 一瞬、ハリーはシリウスにアークタルスの面影を見出した。

 芯、あるいはもっと詩的な言い方をすれば魂。シリウスに今もなお灯る根源的な熱に、ハリーはブラック家が王族とまで謳われたその歴史の一端を見出したような気すらした。

 しかし、ハリーの脳裏によぎった伝統という幻影は、リーマスが発した静かな声にかき消された。

 

「正直、私はあまり賛成できない。そもそもハリーは一生徒で、何の義務も負っていないわけだからね。しかし……シリウス、君の言いたいこともわかる。ハリーにはその権利がある、そうだね?」

「そうだ。そして、ハリー……君が望むのなら、私達はそれを全力で支える。私はジェームズとリリーを……守れなかった」

「そんなことは」

「守れなかったんだ。いいか、聞いてくれハリー。君が望むのなら、私のことを殺したって構わない。この復讐が終わったら、私の命は君のものだ」

「シリウス」

 

 なおも言い募ろうとしたシリウスを、リーマスがわずかに強い呼びかけで抑えた。

 冷静さを取り戻したのか、崩れ落ちるように椅子に座って大きく息を吐いたシリウスには先程まで見せていた荒々しい炎のような意志は見えなくなっていた。しかし、それでも彼の瞳には怒りと憎しみが渦巻いていた。

 

「少し興奮しすぎだ。ショートブレッドをお腹に入れて、お茶のおかわりを飲んで……おっと、いけない。そろそろ門限の時間じゃないかな? フィルチさんに見つかるといけないからね、城まで送ろう」

「いえ……ひとりで帰ります。地図もあるし、大丈夫です。お茶、ごちそうさまでした」

 

 ハリーがそう答えると、リーマスは立ち上がった。

 

「……そうか。なら、私はもう少し打ち合わせをしてから行くとしよう。教師になってよかったことは山程あるが、門限に縛られずにホグワーツで過ごせるのはなかなかに嬉しいことだ」

 

 いつもならリーマスの冗談に笑うところだったが、その気分にはなれなかった。

 ハリーは踵を返して建付けの悪い扉の前に立ち、外れかけている真鍮のドアノブに手をかけた。ドアノブはひどく冷えていて、それが妙にハリーの気持ちをざわつかせた。

 

「あの……シリウス」

「なんだい、ハリー」

 

 喋り疲れたのか少し声ががさついていたが、それでもシリウスはできるだけ穏やかにハリーの問いかけに答えたつもりなようだった。

 

「僕は……僕は、母さんの愛に護られてるんだそうです。クィレルを倒した後、ダンブルドアから聞きました。つまり、母さんの命に生かされてるってことです。だから……それで十分です」

「そうか。……そうか。きっと、君のような息子を持ててジェームズとリリーは喜んだだろう」

 

 ハリーは今度こそドアノブをひねり、半ば飛び出すようにして叫びの屋敷を転げ出た。

 夢が醒めていくように、冷たい感覚がハリーの全身をすり抜けていく。

 暴れ柳の瘤を杖で叩いて校庭に出た頃にはすっかり日が傾き、空気は冷えて冷たい風がハリーの首を冷やした。芝を踏みながら、ハリーは自分の中に渦巻く感情をこらえるように片腕で自分の体を抱いた。

 ダフネへの疑念が大きくなっている。

 これは呪いの菌のせいだ。そう言い聞かせても、ダフネを疑う気持ちは止まらなかった。ハリーとずっと過ごしていながら、母親を囮にするなどという残酷な策を企むダフネの考えが少しもわからなかった。

 どこかでハリーは呪いを侮っていたのかもしれない。

 何より悔しいのが、直接ダフネに尋ねるという一番簡単で確実な手を取る勇気が湧かないことだ。考えるだけで震えが走る。

 もし、ハリーにとって受け入れられないような致命的な何かをダフネに見出してしまったら。その時、自分はダフネにどういう態度を取るのだろうか。この気持ちを否定することになるのだろうか。

 ずっと好きだったのに、嫌いになるかもと怯える自分が嫌だった。

 

「……僕にどうしろっていうんだ」

 

 丘を登り、渡り廊下へ進む足が重い。

 ハリーは渡り廊下の前を見守る環状列石の一枚にもたれかかり、最後の夕日が城の向こうへ沈んでいくのを何もせずに眺めた。今はどんな罰則も他人事のように思えた。

 大人は勝手だ。

 ダフネだけがハリーを助けてくれた。ずっとそばにいてくれた。いつだって手を差し伸べてくれた。それなのに蔑んで、疑って、後ろ指を指して、全てを台無しにしようとする。

 どこかでそれが正しいと思ってしまう自分がいる。

 邪悪な陰謀を企てているダフネが悪いのだ。巻き込まれていいように使われたリーマスやシリウスが怒るのは当たり前だ。全ては日々の行い、その報いだ。

 

「違う、違う違う……僕の、頭から出ていけ!」

 

 ハリーは叫んで、岩に頭を叩きつけた。

 額にじわりと熱が広がる。それとは反対に、ハリーの心は熱を失っていく。今になってリーマスのところに林檎を忘れてきたことを思い出したが、取りに帰る気にはなれなかった。

 岩の上に止まったオオガラスが嘲るように大きく鳴き、どこかへ飛び立っていった。

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