その血は呪われている   作:海野波香

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 リチャードジノリのカップに美しい水色で注がれた紅茶は、誰の口に入ることもなく冷めていった。しかし、それはこの茶会が冷めきっていることを意味しているわけではなかった。

 

「まあ、面白い。ミスター・ヤックスリーにそんな一面があっただなんて、私驚きですわ」

「いやあ、結婚する前の自分に見せたら腰を抜かすこと請け合いだがね。男ってやつぁ、女房ができると魂の底から変わっちまうもんさ。そうだろ?」

「ふふ、わかりますわ」

 

 デメテル・ザビニが口元に手を添えて上品に笑った。それでも隠しきれない肩の震えから、本当なら腹を抱えて笑いたいのだろうという様子が見て取れた。

 ヤックスリーがザビニ邸を訪れるのはこれが初めてのことだった。デメテルとは知己というわけでもないし、異なる派閥の長ということもあって軽々には接触できない。ヤックスリーはお行儀よく付かず離れずの距離を保ってきた。

 しかし、その均衡をルシウスが壊した。

 ブラック家の取り込みとハリー・ポッターの擁立、グリーングラス家との連帯強化。ルシウスはリバーシの盤面を覆すように一瞬で局面を塗り替えた。

 そして、まるでその反動かのように、ダフネ・グリーングラスへの不信感がじわじわと広まっている。この不信感の正体を確かめるため、ヤックスリーは素早く動いた。

 

「ハリー・ポッター、あの冴えない坊やも結婚したら変わるのかねえ。俺ぁああいう奴は嫌いじゃねえんだ。ヤックスリーおじさんとしちゃ、いい女を捕まえてほしいもんだが」

「彼の境遇は不幸なものでしたから、幸せを掴んでほしいものですわ。温かで豊かな家庭が必要だと思いませんこと?」

「まったくもってそのとおり。その点、おたくの倅はよりどりみどりってやつかね」

「ええ、本当に困った子。余計な虫がつかないか不安ですわ」

 

 当たり障りのないやり取りに見えて、ここにも情報が潜んでいる。

 デメテルは弱者の代弁者として政界に乗り込もうとしている。そしてその弱者の括りにハリーを入れようとしているのだ。そのためには、ハリーがポッター家の当主として地位を盤石なものにするよりも早く支援に動かなければならない。

 しかし、ハリーの近くにはダフネがいる。そしてダフネはルシウスの傘下にいる。つまり、ハリーに一番近いのはルシウスということになる。

 そこで重要になってくるのがダフネを取り巻く噂だ。

 ヤックスリーはこの疑念が何かしらの呪いによるものだと判断した。伊達や酔狂で闇の陣営の銀行役をやっていたわけではない。そのあたりの嗅覚に関してはルシウスにも勝ると自負している。

 問題は呪いの機序と出処がわからないことだ。

 デメテルが口にした「余計な虫」とはダフネのことだろう。もしデメテルが呪いの主なら、「不安」などという言い方はしないはずだ。もう少し呪いの主であることを示唆して誇るに違いない。それだけの規模の呪いなのだから。

 つまり、呪いは三大派閥のいずれとも関係のないところから湧き上がったことになる。

 

「不安と言えば……ギリシャの件、聞いたかね」

「ええ、ミスター・マルフォイが現地入りされたとか」

「ルシウスのやつも不憫なことだ。ギリシャ魔法省の連中、何かあればすぐにマルフォイ家に泣きつきやがる。まるでベビーシッターだ」

 

 ギリシャ。

 その旧き魔術の地を覆っていた闇はいまだ晴れる様子もなく、ルシウスがエジプト上がりの優秀な呪い破りを率いて現地で調査を行っているのだという。

 ヤックスリーの鋭い嗅覚が、ルシウスの弱みを捉えた。

 ダフネとルシウスは夏にギリシャへ渡航している。ダフネに関する疑惑が持ち上がり、ルシウスは現地で陣頭指揮を執っている。まるで火消しを急ぐかのように。

 間違いない。ギリシャでふたりは何かに接触した。そしてその呪いがきのこの胞子のように芽吹き、すくすくと育っている。ルシウスはその呪いの根を断とうとしているのだろう。

 であれば、間違いなくダフネも動く。

 ヤックスリーは内心でほくそ笑んだ。ようやく付け入る隙が出てきた。ルシウスが不在の今、ヤックスリーは政財界で思う存分幅を利かせることができる。

 やりたいことは山のようにある。ハリーを籠絡したいし、ダフネに牽制を入れておきたいし、ウィゼンガモットへの影響力を伸長しておきたい。邪魔な評議員を何人か失脚させておくことも忘れてはならない。

 しかし、それよりも重要な目的がヤックスリーにはあった。

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「この調子じゃ、シリウス・ブラックの再審も当分先になるわなあ……」

「本当に無罪なのかしら。だとしたら恐ろしいことだわ、12年間もアズカバンにいたんでしょう?」

「そうとも。だからといってクラウチを責められやしないがね。やっこさんは逮捕されたときに抗弁しなかった。あのころは現行犯逮捕の犯罪者をいちいち裁判にかけていられるほど勾留所に余裕がなかったからなあ。ひどい時代だった、まったく」

 

 ようやく、ヤックスリーはぬるくなった紅茶に手を付けた。

 ひどい時代だった。男も女も、子どもも老人も関係なく、尊厳を粉々にされて死んでいった。残酷で、悲惨で、どこか滑稽ですらあったあの時代。

 そう、ヤックスリーが焦がれてやまない戦争の時代だ。

 あの時代が再びやってくる。死体から漂う焦げと腐敗と饐えた屎尿の匂いでむせかえるようだった、戦争が再び始まるのだ。

 ヴォルデモートさえ帰ってくれば、ヤックスリーはまた戦争で大いに稼ぐことができる。そのために誰を確保するべきなのか。誰が何を知っているのか、情報を集める必要があった。

 

「ブラックが無罪となると、ブラックを罠にはめた誰かがいるってことにならぁな。当然、そいつは死喰い人だ。しかも野放しってことになる」

「まあ、恐ろしい。闇の帝王の配下なのでしょう? 恐ろしい方だったと聞いておりますわ」

「そうか、あんた前の戦争のころはイギリスにいなかったんだったか。そりゃあ恐ろしいお人だった。だが、ただ恐ろしいだけじゃねえ……そう、ただ恐ろしいだけじゃねえのさ」

 

 無性に葉巻が吸いたくなったが、生憎手持ちを切らしていた。

 デメテルは美貌を維持するために煙草を避けている。帰宅するまで辛抱できるだろうか。街の煙草屋で安い紙巻きを買うことになるかもしれない。

 ヴォルデモートのことを思い出すといつも、ヤックスリーは無性に煙草が吸いたくなった。脳が揺さぶられるようなどっしりとした煙を吸い込むと、どこか遠くにヴォルデモートが己の名を呼ぶあの声が聞こえる気がした。

 戦争が終わって12年経つ。あのカリスマに焦がれたヤックスリーは、まだ目を焼かれたままでいる。

 

「ミスター・ヤックスリー?」

「……あんたも気をつけたほうがいいぜ。こわーい死喰い人がドアをノックしてきたら、ガリオン金貨を投げて追い払うといい。足りなくなったら俺に言うんだな、はは」

「もう、死喰い人を追い払って借金取りに追われていては元も子もありませんわ」

 

 クスクスと笑って、デメテルもカップを手に取った。

 平和だ。平和だからこそ、今のうちにヤックスリーは動かなくてはならない。ヴォルデモート帰還の際、最もいい席に陣取れるように。

 野放しの死喰い人を見つけ、ヴォルデモートの居場所を特定し、必要に応じて彼の復活を助力する。それがヤックスリーの当面の目標だった。何より、ヤックスリーはヴォルデモートの第一の臣として馳せ参じるつもりでいた。

 そのためには、都合のいい盤面を作っていつでも裏切りが果たせるようにしているルシウスに先んじる必要がある。

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。昨今のルシウスはブラック家とポッター家に支えられている。その二騎を崩す要がダフネ・グリーングラスだ。

 

「そういえば、そろそろ手紙が届く頃だわ」

「手紙?」

「ホグワーツの先生にお願いして息子の近況をお知らせいただいていますの。あの子ったら、最近は恥ずかしがって手紙もろくに書いてくれないのよ? あっ、来たわ!」

 

 ふくろうが窓辺に降り立ち、嘴でデメテルに封筒を差し出した。

 躾がよくなっていて癖がない。ホグワーツのふくろうらしい、行儀の良い個体だ。デメテルは自分の皿からビスケットの欠片を手にとってふくろうに与え、一撫でしてから手紙を開いた。

 

「あら、あの子ったら……」

「ガールフレンドでも増えたかね」

「その逆。ダフネ・グリーングラスという生徒を贔屓するようなことを言って、ガールフレンドを怒らせちゃったみたい。騒ぎを起こした咎でスネイプ先生に罰則を命じられたそうよ」

「はっはー、そりゃいけねえな。いつだって男は自分の隣にいる女の子を一番大事にしなきゃならねえ、そうに決まってる」

 

 面白いことになった。

 どうやらブレーズ・ザビニはダフネの味方をすることを選んだらしい。母親に反抗しているのなら、敵の敵は味方と言ったところだろうか。

 とはいえ、使い所の難しい情報だ。ブレーズを経由してダフネに接触しようとすれば、当然デメテルにその動きは露見する。どうやらデメテルはホグワーツの内部にも協力者を持っているようだから、軽率に接触することはできない。

 もちろん、デメテルもそれがわかっているからヤックスリーの前でその話をしたのだ。自分がホグワーツにも影響力を持っていることを誇示するために。

 しかし、ホグワーツ卒業生なら誰もが知っている事実として、教師の監視が行き渡らない瞬間というものがある。

 ホグズミード。

 英国唯一の魔法族のみによる開拓村であり、現在も魔法族のみによって成立している集落であるホグズミードには、月に一度生徒たちが羽伸ばしに訪れることがある。

 そして、ヤックスリーの営む闇金のひとつであるガレ・ローンはホグズミードに支店を置いている。

 どう策を組み立てるべきか。

 直球勝負で崩せるほどダフネが柔な女でないことはヤックスリーもよく承知していた。その程度の存在ならすでにヤックスリーはハリーを籠絡している。であれば、多少迂遠でも必ずこちらの土俵に引きずり込める策を使うべきだ。

 頭の中で役に立ちそうな債務者のリストを捲っていると、デメテルがにこやかに口を開いた。

 

「そういえば、リンジーはお元気?」

「元気だ、元気すぎて困るくらいさ。世界一ごきげんなお姫様ってやつだ」

「それはよかったわ。私が今こうしていられるのもリンジーのおかげだもの、彼女には感謝してもしきれないわ」

「あんたの師匠が使う金は俺が稼ぐ金を毎夜消し飛ばしてくれるからな。働きがいがあるってもんさ」

 

 そう、リンジー・ヤックスリーとデメテル・ザビニは師弟関係にある。

 リンジーがギリシャの孤島で学んだという若返りの魔法薬こそが、デメテルの若返りを維持する神秘の正体だ。

 

「本当に……リンジーには感謝しかないわね」

 

 デメテルのため息のような言葉は、きっと本心からこぼれたものだった。

 デメテルとリンジーの間には秘密の契約がある。デメテルには若返りの魔法薬を飲み続けなくてはならない理由がある。そして、リンジーも同様に。

 ふたりは世界を偽りの若さで騙し続けている。その詐欺が続く限り、ふたりは永遠に若いままだ。そして、その詐欺が終わる時がふたりの終わる時でもある。

 ヤックスリーはその全てについて詳細を知らない。ヤックスリーはリンジーを政治の駒にするつもりはない。リンジーが何を知っているにせよ、それはヤックスリーが知る必要のない情報だ。自分の力で勝ち取った情報だけでもヤックスリーは十分に戦える。

 しかし、その恩があるからか、デメテルとヤックスリーの間には緩やかな協力関係が成立していた。

 ヤックスリーが使える貧者を生み、デメテルが使い終わった貧者を救う。マグルのリサイクル工場のようなものだ。生きている人間には無限の価値がある。貧しさそのものにすら価値を見出すことすらできるのだ。

 そして、ヤックスリーは富めるをより富ませ、貧しきをより貧しくさせることにかけては天才と自負していた。

 

「おっと……いけねえ。女房と観劇の約束をしてるんでね。悪いが、そろそろ」

「ええ、またぜひいらして」

 

 ヤックスリーが立ち上がると、デメテルは微笑んだ。

 デメテルとヤックスリーが連立すれば、急速に勢力を拡大しているルシウスに対抗することができる。盤面を拮抗状態に持ち込み、そのままヴォルデモートという大駒を叩き込むことでデメテルを排除、ヤックスリーは単独勝利を掴むつもりでいた。

 今度の戦争で勝つのはヤックスリーだ。

 そして、そのためにはどうやらダフネ・グリーングラスを仕留める必要があった。

 

「おや、雨か」

 

 玄関口でヤックスリーは杖を抜き、杖先から透明な傘を開いた。昨今はマグルがビニールという奇妙な素材でこれに似た傘を作っているから、ヤックスリーが目立つことはない。

 雨粒を弾く魔法の傘が奏でる音色にステップを踏みながら、ヤックスリーはザビニ邸を後にした。

 リンジーに会う前に一件だけ仕事をこなさねばならない。溜まりに溜まった利息の支払いとして、アージニウス・ジガーから魔法薬の権利を回収するのだ。

 

「金貸し暇なし。はあ、不景気、不景気だわな」

 

 不景気を作り出している側だという自覚はある。しかし、そこに一片の反省も後悔も、良心の呵責もありはしない。それがコーバン・ヤックスリーという男の生き様なのだから。

 水たまりを飛び越える。

 ジガーの借金は個人では払いきれない額まで膨らんだ。彼の周辺から金を回収するために、彼の家に着いたら()()()()()()()()()()()()

 暗雲は広がり、しばらく雨は止みそうになかった。

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