他の生徒たちが眠りに落ちたのを確認してから、ダフネは窓際のスツールに腰掛けた。
夜は深まり、外は夜闇に満たされている。その静けさは少なからずダフネの心を落ち着かせたが、それでも波のように押し寄せるハーポへの恐怖心がダフネを苛んでいた。
目を閉じ、深呼吸。
それでもなお、血管が脈打つのを感じる。恐怖心に揺さぶられた心が解放を求めて獣になろうとしているのだ。心が血の呪いへ逃避しようとしている。そして血の呪いがそれを歓喜とともに受け入れているのを感じる。
獣に堕ちれば、自由になれる。
自由になって、そして空に羽ばたき、どこか遠くへ――
「……だめ」
諦めてはならない。
ダフネ・グリーングラスに絶望は許されない。もうここまで走ってしまったのだから。
そして目を開けば、そこには窓の向こうで翼を広げるオオガラスの姿があった。
「ひどい顔だ」
モリガンが嘲るように鳴いた。
「さっきもひとりそういう面のガキを見た。俺はメソメソしてるガキが一番嫌いだ」
「あなたが教育者に向いていないということはよくわかりましたわ。……状況は理解しました。腐ったハーポの魔法、その正体はバクテリア。私は保菌者というわけですわね」
「どうやらそうらしいな」
モリガンは嘴で羽繕いをしながら喉を鳴らした。
厄介なことになった。
要はペニシリンがない時代にペスト患者であることが露見するようなものだ。しかも原因が細菌感染であることを知っている者はほぼいないに等しい。
「どうする? 今抱えている疑念は呪いによるものなのだーっつって訴えて回るか?」
それも考えた。
大多数を占める理性的な第三者が抱える疑念は、確かに原因を説明すればひとまず落ち着かせることができるかもしれない。
「現状では逆効果ですわね」
そのためにはまず腐ったハーポとの接触について説明しなければならない。それはつまり、ダフネが闇の魔術と関与したという確信を与えるということだ。疑念が確信に変わるだけで、解決策とはならない可能性が高い。
シリウスやリーマス、ダンブルドアのような闇の魔術を軽蔑し嫌悪する人々の反応は想像するまでもない。最悪の場合、最終的にハリーたちとの対立すらありうる。
たとえ症状を抑え込めたとしても、闇の魔術に触れたダフネへの隔意はもはや修復不能なものになるだろう。
加えて、現状では根拠らしい根拠がないのもダフネの立場を不利にしていた。魔法細生物学は『ザ・クィブラー』に掲載されるような与太話だと思われ、世間的な認知もないに等しい。魔法族は細菌そのものを知らない。
ハーポの魔法と細菌の関係を裏付ける実証された事実が必要だ。しかし、それだけでは足りない。
「ハーポを……表舞台に引きずり出す必要がありますわね」
ハーポを国際社会の敵として認識させることができれば、魔法族はハーポという敵を前に連帯することができる。その際にダフネは哀れな被害者の立場を取ることができるだろう。
現状、これが最善の策だ。
疑念を押し込めるほどの信用を勝ち取れる主張はできず、根拠を示すこともできない今、原因であるハーポの存在で人々の目を覚まさせる必要がある。
「足取りは掴めていない。それまで耐えて待つか?」
「それが一番の悪手ですわ。疑念とは育つもの。自覚すればするほど、目を向ければ向けるほど膨らむものです。芽生えただけの今こそ処置をしなければ」
そう、今処置しなければならない。
状況は優れない。極めて悪いと言ってもいい。ダフネは決闘の腕や調合の技術で今の地位を勝ち取ったのではない。社交界で培った人脈、それこそがダフネにとって最大で唯一の資本だ。ダフネ個人が持つ力などたかが知れている。
そして、ハーポの呪いはダフネの資本をクリティカルに減少させている。中立的な浮動票が疑念に唆されてダフネの敵対者に回るまで、それほど時間はないだろう。
「疑念が膨らみ、定着してしまうのが一番まずいのです。場合によってはドレフュス事件と同じことが起きかねない」
「どういう事件なんだ、それは」
「フランス陸軍のスパイ事件ですわ。ユダヤ人の男がスパイの嫌疑をかけられ、証拠不十分であるにもかかわらず反ユダヤ的な世論に押されて流刑地送りになりましたの」
「差別か。いつの時代も人間の愚かさは変わらねえな」
「それ自体も恐るべき問題ですけれど……この場合に問題なのは、この事件の裏で本当のスパイが告発されたにも関わらず無罪判決を受けていることですわ」
あえてドレフュス事件の名前を出したのは、自分が迫害されていると感じたからではない。ドレフュスの兄は真のスパイであるエステラジーという陸軍少佐を告発したにもかかわらず、エステラジーは軍法会議で無罪となったのだ。
国家主義、そして反ユダヤ主義が一人の男を冤罪で苦しめただけでなく、スパイを野放しにした。その根底にあるのは無能さや癒着といったわかりやすいものではない。恐怖と疑念だ。
恐怖と疑念。
そう、ダフネが今まさに苦しめられているそれは、国家の判断を歪めるほどの力を持っている。どんな優れたリーダーも、恐怖と疑念に囚われれば崩壊する。
なるほど、腐ったハーポとは恐ろしい魔術師だった。
「このままでは、誰かが私を隠れ蓑にして悪事を働きかねません。魔法界を、あるいは国を揺るがすような悪事を」
「……ふむ」
モリガンは羽繕いをやめ、じっとダフネを見つめた。
「勝算はあるのか」
「アージニウス・ジガーが抗菌剤を調合できるのであれば、あるいは状況を逆転させる一手もありうるかと」
ここからでもまだ、ダフネには勝ちの目が見えていた。
状況は極めて悪い。極めて悪いが、裏を返せばこの逆境を跳ね除けることさえできればダフネの足元は盤石になる。今度は敵対者自身が自らの疑念を疑う番になるからだ。
状況は苦しい。しかし、負けてはいない。ダフネは腐ったハーポに先手を取られただけだ。そして何より、ダフネはまだ少しも諦めていない。
「……いいだろう」
モリガンが窓ガラスを軽くつついた。
すると、一体どうやってか、窓際に置かれたキャビネットの上に一枚のボタンのようなものが転がった。燭台の光を受けてきらめくそれはどうやら貝を磨いて作られたもののようで、不可思議な光を宿している。
ダフネは慎重にそれをつまみ上げ、窓越しの星明かりにかざした。
指で触れてもこれといった反応はない。特別な魔法がかけられた品というわけではないようだ。しかし、歪ながらも丁寧に磨かれたそれ――おそらく、貝貨のようなものからは長い歴史を感じさせられた。銀で鍍金され、表には三叉槍のマークが浮き彫りになっている。
「これは?」
「水中人の、まあ、記念コインみたいなものだ。戦の時に託宣を施してやったことがあってな。連中が借りを忘れてなければ、それで仕事を頼めるはずだ」
「抗菌剤を水に混ぜるということかしら」
「その通り。水中人はこのブリテンの水源全てを握っている。つまり、あらゆる蛇口から出る水にお前の薬を仕込むことができる」
「……インフラを異種族に握られているのはあまり愉快な知らせではありませんわね」
「だから俺がいるんだろうが。心配しなくとも水中人はお前達魔法族に好意的だよ。今のところはな」
ダフネはため息を吐いてコインを置き、スツールの上に座りなおした。
幸い、ゴブリンと違って水中人はヒトとしての権利や杖の所有権を求めていない。ダフネの計画の障害となることはないだろうが、それでも水中人との協力関係についてはいずれ大使を置くなどして見直す必要があるだろう。
しかし、これは今のダフネが考えるべきことではない。
ダフネにはもっと確認すべき、重要な問題があった。今後を左右する大きな問題が。
「……これをお借りする前に、そろそろお聞かせいただけないかしら。私に何をお望みなのかを」
返事のかわりに、かり、と何かを砕く音がした。
どうやらモリガンはどんぐりの殻を砕いて食べているようだ。不思議な光景だった。ガラスの向こうでどんぐりを食べているのはカラスなのに、どこかでダフネはナッツをつまむ美しい女性の姿を幻視していた。
「伝えたつもりだったがな。継承者になれ。そうすれば俺はお前を助けてやる」
「私にイギリスを守護しろと? 生憎ですが、決闘の腕に関して言えば三流もいいところでしてよ」
「それを期待しちゃいない。要はブリテンの魔法族が永く栄えればいいのさ。お前の曾祖母みたいにこうやって身体を貸してくれたって構わねえし、もっと直球に俺の下働きになったって構わねえ」
嫌な予感に、ダフネの背筋に汗が伝った。
「……私、それなりに忙しいのですけれど」
「心配はいらねえよ。どちらにせよ、死んだ後の話だ」
「死んでから、いつまで?」
「ほう、よく気づいたな。答えは永遠に、だ」
ダフネは膝の上で拳を握りしめた。
永遠。
これは決して比喩でも、冗談でもない。ダフネにはそれがわかっていた。
「……ふふ、悪魔の契約ですわね」
一見すると、ダフネにとってはメリットしかない。
死んだ後の話だ。どう使われようと知ったことではない。もっと適切で丁寧な言い換えをするのなら、ダフネは死後という自分にとって無価値なリソースをコストにモリガンの助力を得ることができるわけだ。
しかし、ダフネは知っている。この世界には死後がある。
ハリーが亡きダンブルドアと対話したあのキングスクロス駅のように、この世界には死後があり、列車は「次」へと向かう。魂には降車すべき「次の駅」があるのだ。
モリガンに肉体や魂を明け渡せば、ダフネは永遠を手に入れるのかもしれない。しかし、その永遠はダフネが望むものではない。キングスクロス駅のベンチの下で震える赤ん坊のヴォルデモートがそうであったように、望まない永遠は苦痛でしかない。
なにより、そこにはアステリアも、ハリーもいないのだから。
「私は……」
永遠の孤独と苦痛に耐えられるのか。
独力でハーポに立ち向かうのは不可能だ。モリガンの手を借りることができるのなら、それに越したことはないとも思う。
しかし、その代償としてダフネは永遠の苦しみに苛まれることになる。
「お前は賢い。ここで悩むことはわかっていた。だから、俺も譲歩しよう。今回の一件まではサービスで手伝ってやる。だが、この先も俺の力が必要になることはあるだろう? その時に選べ。俺を求めるか、求めないかを」
囁かれた甘言がダフネを絡め取ろうとする。
理性は断るべきだと訴えていた。しかし、感情がそれを妨げている。
握りしめた手のひらがじわりと汗ばむ。心臓が脈打つのを感じる。それはハーポへの恐怖だけに由来するものではなく――
「……私の一族はあなたに仕えていたと、そうおっしゃいましたわね」
「ああ、そうだ。俺はお前達の一族を蝕む呪いについてよく知っている。ほしいだろう? 血の呪いを解く知恵が。お前自身のため、そして……可愛い妹のため」
そう、血の呪いを解く術を知っているのではないかという期待がダフネの判断を鈍らせていた。判断が鈍っていると自覚して、なおも切り捨てられなかった。
ハーポによれば、地中海の孤島に今もなお生きる旧き魔女キルケーが血の呪いの治療法を知っているという。しかし、彼の言葉を鵜呑みにしていられるほどダフネは怠惰ではない。得られる情報は全て勝ち取っていかねばならない。
しかし、そこに理性がストップをかけている。
「癪に障りますわね。アステリアの名前を出せば私が揺らぐとでも?」
「だが、事実お前は揺らいでいる。いずれお前は俺の手を取るさ」
「……いいでしょう、一考の余地がある提案でしたわ。検討しておきます。でも、覚えておきなさい」
ダフネは立ち上がり、窓越しにカラスへと杖を構えた。
「この世のことはこの世の人間が決定するのですわ。継承者だかなんだか知りませんが、はるか昔に封印されたカラスの化物風情にあれこれ指図されるつもりはありませんことよ」
「……いいねえ、それくらい虚勢を張れるなら上等だ」
モリガンは翼を広げて大きく笑った。
歯牙にもかけない態度が腹立たしいが、ダフネが未熟な小娘に過ぎないのは事実だ。ダフネは黙って、モリガンが飛び立つのを見送った。
黒い翼が夜闇を打って消えていく。ダフネは杖を下ろし、コインを拾い上げた。
「……業腹ですが、いいでしょう。利用できるものは利用しなくては」
もはや手段を選んでいられる状況ではない。
ヴォルデモートとハーポの二正面作戦になることは望ましくないが、かといって両者の連合に立ち向かうのも困難だ。手札は多ければ多いほどいい。
コインをポケットにしまい、スツールを整えて、ダフネは自分のベッドに腰掛けた。
どれを取っても簡単な道ではない。これから待つ選択肢はいずれも苦渋の決断になるだろう。ベストな回答が常にあるとは限らない。後悔することもあるだろう。味方の離反に苦しむ瞬間もきっとある。
それでも、ダフネに諦めることは許されない。