生徒たちにはあまり知られていないが、ホグワーツには貴賓室がある。
調度品はディリス・ダーウェント校長時代の大改築以前に仕立てられた一級品のみで揃えられている。絵画は耳目のない風景画のみが飾られ、どんなに腕のいい悪戯生徒でも聞き耳を立てられない魔法の壁で覆われている。
これらはホグワーツがゴブリンやレッドキャップの侵攻から魔法族を守り続けてきた城、つまり防衛拠点であるために要人や外交使節を守る必要があったために作られたものだ。
「懐かしいですかな」
一枚の絵画、スコットランドの山風に吹かれるアザミの花園を眺めていたアークタルスは、背後からかけられた声に振り返ることもせず返事をした。
「この絵は外せと命じたはずだが」
「左様でしたか。しかし、なぜでしょうかな。大胆ながらも細やかな筆使い、さぞかし名のある画家の手によるものとお見受けしますがのう」
「シグナス1世という親馬鹿が倅のホグワーツ校長就任を祝って自ら絵筆を執った絵だ。スコットランドの城だからアザミなどと、安直がすぎる」
「それは、それは。なんとも歴史を背負った名画ですのう」
微笑むダンブルドアはアークタルスの隣に立った。
敬意は示す。しかし、臣従の礼は取らない。アルバス・ダンブルドアという英雄はアークタルスの扱いを心得ていた。下手に恭しくかしこまれば、アークタルスはすぐさま踵を返していただろう。
ダンブルドアは相手が求めている言葉を投げかけることに関して卓越した能力を持っている。教育者としての才というよりは社交界のための才。若き日の華々しい社交界を思い出させるそれが小気味良くもあり、腹立たしくもあった。
「この余を呼びつけたのだ、よほどの用があってのことであろうな」
ブラック家の当主をホグワーツに呼びつけたのは、おそらくダンブルドアが初めてだろう。大抵の校長は屋敷まで伺候にやってくるものだった。
それは単にブラック家が敬意を払われていたからというわけではなく、長い歴史の中でブラック家がホグワーツの運営および増改築に軽視できない額のガリオン金貨を提供していたからだ。言ってみれば、かつてブラック家はホグワーツのスポンサーだった。
ブラック家の栄華は陰った。そうした時代が再び来ることはあるまいと、アークタルスはそう考えていた。ひとつの時代が終わったのだと。
しかし、そこにダフネとアステリアが現れた。
今日、アークタルスが自らの屋敷を離れホグワーツへと赴いたのはダンブルドアのためではない。いまだ殻の取れない雛鳥たちのためである。
「まずはお祝い申し上げましょうぞ。御身の快癒に、そしてお屋敷の再建に」
「うむ、言祝ぐことを許す」
「光栄ですな。名画の前での立ち話も健康のことを思えば悪くはありませぬが、今日はお茶でもいかがですかな。中国の友人から面白い茶葉を送っていただきましてのう」
「茶か。よい、伴をせよ」
イギリス・ルネサンスを象徴するエリザベス様式の直線的なテーブルに、香り豊かな紅茶が今まさに注がれたばかりだった。
見た目とは裏腹に座り心地のいいダイニングチェアに腰を下ろす。ホグワーツという魔法の城は「人はただ生きていればよいというものではない」という本質的な生命の主張を汲んだ設計によって作られており、決して居住者の快適性を無視しない。
ダンブルドアはアークタルスの向かいに座り、ティーカップに指を添えた。節くれだった細い指が持ち手をつまむ。
「この茶葉は中国の宮廷で伝統的に未来を占うために淹れられてきたものだとか。トレローニー先生はお裾分けを喜んで受け取ってくれました。占いはお好きですかな」
「好かん。しかし、本物の予言は好悪で左右できるものではあるまい」
アークタルスはカップを持ち上げ、静かに口元へ運んだ。豊かな香りが吹き抜ける。茶葉としても悪い質ではないらしい。
かつて一度、アークタルスもカッサンドラ・トレローニーの占いを受けたことがある。現職の占い学教授であるシビル・トレローニーの高祖母にあたる魔女だ。本物の予見者、本物の占い師と噂され、社交界の淑女たちは彼女の占いを渇望した。
当時のカッサンドラはすでに老齢で、アークタルスは若い仲間たちとつるんで彼女の館を冷やかしに行った。超然的な魔女だったが、今思えばあれも客を煙に巻くための演技だったのだろう。ペテン師としても一流だったが、予見者としても一流だった。
「本物の予言をご覧になったことが?」
「その方もあるのであろう? でなければトレローニーを囲ったりなどすまい」
「トレローニー先生は教授としてよく勤めてくださっておりますよ」
「かの者の評判は余の耳にも入っておる。その方は予言をヴォルデモートに使われることを恐れておるだけだ。あるいは――その方の永遠の宿敵が予見者であったことがそうさせるのか」
一瞬、ソーサーを持つダンブルドアの手が固まった。
ダンブルドアがトレローニーを後生大事に守っているのは、当然闇の陣営に予言を利用されないためだ。運命を一方的に知っているという情報アドバンテージは戦略規模の有利をもたらす。
では、ダンブルドアはどこでその事実を理解したのか。
ダンブルドアが聡明だから自然と理解できたと言う者もいるだろう。しかし、アークタルスの考えは違う。ダンブルドアは身を以て予見者と予言の恐ろしさを理解したのだ。
ゲラート・グリンデルバルドという予見者によって。
「いやはや、何もかもお見通しですのう」
「あの大戦でその方が重い腰を上げるまで、誰がこの英国魔法界を守護したと思う。その程度の噂はたやすく余の身に入るわ」
「なんともまあ、久しぶりの感覚ですな。わしは幾分長くホグワーツの校長を務めておりますが、そのせいか身近に年長者のいない生活を送ってまいりました。年上の賢者に諭されるのはいつぶりでしょうかのう」
ダンブルドアは微笑み、カップを置いた。
「気になるか、
ある予言が残された。
社交界の華と謳われ、ブラック家の栄華を全身に浴びて育ったアークタルス・ブラックという青年が、占い師カッサンドラの館で与えられたささやかな予言。
それは青年の伸びた鼻を折り、王子を庭師に変えた。そして庭師は年を取り、魔法界は幾度もの変化を迎え、ついに運命は庭師の扉を叩いた。
「
「死の名を冠する、謎」
「ヴォルデモート。
もはやダンブルドアは笑っていなかった。その表情は静かで、あらゆる感情が読み取られることを拒絶していた。
「ダフネが現れることは予言されていたのですな」
「左様。ゆえに、申し付けておくぞダンブルドア。余に何を期待しようと無駄なことだ。余はもはや王冠を下ろした老いた庭師に過ぎん。あの娘たちの行く末を見守る、腰の曲がった教育係よ」
「……まったくもって、あのふたりの少女が羨ましいことですのう。あなたほどの人物の薫陶を受けて、一体あのふたりはどこまで大きく育つのやら。目指せるものが多いということそのものが、この歳になると眩しくすら感じられますのう」
柔らかな教育者らしい口ぶりで、しかしダンブルドアはもはや柔和な校長の仮面を被ってはいなかった。その静かな瞳は、ウィゼンガモット大法廷で罪人たちを裁き続けてきた法と秩序の番人としての彼を思い出させた。
アークタルスは静かに茶菓子のセットからスコーンをつまみ上げた。よい加減に焼き上がっていたが、食べる気にはならなかった。
未熟な雛鳥の羽ばたきが旧き悪の興味を惹いたらしい。英国魔法界に渦巻く疑念についてガウェインたちの報告を受けたアークタルスは、どうやらダフネを守るために自分の、ブラック家の名前を使うべき時が来たようだと判断した。
「あの娘には余の全てを教える。そのうえで、それでも余には教えてやれぬことがある」
「教えて、やれないこと」
「あの娘が本来やらねばならぬことだ。民草のひとりひとりと顔を合わせ、声を聞き、手を取ってやること。そればかりは余もわからぬことよな。だが、ホグワーツでなら学べると、余はそのように期待していた」
そう、アークタルスには教えられない政治術がある。
世間的にはドブ板などと呼ばれている、自らの足で権利者を訪ね声を汲み上げて回る行為。それは伺候される側であるアークタルスにとって未知の世界だった。
そして、今ダフネへの疑念を振りまいている誰かはその弱点を的確に突いている。ダフネは民草の支持を得るための振る舞いを得意としていない。だからこそ、世論はろくに見たこともないダフネ・グリーングラスの虚像に怯えている。
その政治術は少しずつ磨かれていくはずだった。結社を率いる派閥の長として多くと触れ合い、時には敵対者とすら言葉をかわすことで、ダフネは一歩ずつ成長するはずだったのだ。
しかし、世界はもうその遅さを許容してくれない。
「あれの手落ちでもある。その方の信用を勝ち取ることができなかったのはあれの未熟さよな。しかし、同時に
「……ダフネを取り巻く状況が陰謀であるとおっしゃりたいのですかな」
「その方は用心深い。心の底から人を信じるということを知らぬ。敵はその疑念を突いた。いつの時代も賢者は世論の中核であり、世論は勝敗の中核である。敵はその方を陥落させることで世論を掌握しようとしておる」
ダンブルドアは静かだった。
しかし、目つきが変わった。アークタルスの知るダンブルドアは誰よりも疑り深いが、まず何よりもその疑念を自らに向け続ける。その疑念を少し突いてやれば――
「……なんと」
気付けないはずがないのだ。
ホグワーツにいてもダンブルドアの耳目は世界中にある。彼には世界中から手紙が届く。彼の支持者は政財界、そして社交界にも多い。きっかけさえあれば、ダンブルドアは違和感を覚えることができる。
英国魔法界で最も理性的な怪物であるからこそ、ダンブルドアは自分の判断に
「気づいたか、ダンブルドア」
返事はなかった。
しかし、ダンブルドアは静かに立ち上がった。その表情は険しく、裏側で無数の思考が巡っているのが克明に表れていた。
「その方の疑念にあえて答えてやろう。ダフネは腐ったハーポとやらに接触した。それはそうだ。あの娘らしからぬ軽率な真似をした。気が逸ったのであろうよ」
「……ハリーのためですかな」
「違う。ハリー・ポッターを救うことはあれにとって叶えて当たり前の過程に過ぎん。その方はずっとあれを見ていて気づかなかったか。……いや、そうか、気づけまい。気づけまいな、アルバス・ダンブルドア」
カップの水面にダンブルドアの青い瞳が反射している。
その目が苦しみに歪むことをわかっていて、アークタルスはあえてその言葉を放った。それは彼を傷つけるためではない。彼を目覚めさせるためだ。
「あの娘の、ダフネの本質は
たとえ英雄であろうと太陽を見れば目が焼かれるように、目を逸らしたいものは誰にでもある。
きっと自覚はなかったのだろう。
ダンブルドアにとって、ダフネとは苦痛そのものだった。妹を救うために世界を変える。それはまさに、グリンデルバルドと見た夢に耽溺するかつての自分の、もう少し賢かったならありえたかもしれない未来なのだから。
哀れには思う。
ダンブルドアが自ら否定し、投げ捨てた夢を、目の前でちっぽけな小娘が追っている。腹立たしいだろう。歯がゆいだろう。苦しいだろう。それでも手を出すことは許されない。それは否定して然るべき、間違った理想だったのだから。
しかし、ダンブルドアとダフネの違うところがあるとすれば、ダフネは自分の理想が間違っていると承知の上で大義ではなく自己利益のためにひた走っているというところだ。
妹の幸福。そのための純血の幸福。そして、そのための魔法族の幸福。
どこまでいってもダフネは私利私欲で魔法界を改革しようとしている。かつてアークタルスが諭したとおり、ダフネは強欲になった。それがダフネの強さだ。それはダンブルドアには備わっていない、残酷で優雅な強さだ。
「眩しさに目を焼かれたか、ダンブルドア。その方が目を眩ませている間に、闇はその方のくるぶしを捕らえたぞ」
「……どうやら、わしは史上一の大間抜けだったようですな」
ダンブルドアは小さく、何かを諦めたように笑った。