その血は呪われている   作:海野波香

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 湖底に現れた沈没船は、まるで海藻で覆われた王宮のようだった。

 堆積した泥炭で濁っていることが多いスコットランドの(ロッホ)にしては珍しく、黒い湖の水は澄んでいる。それでも光が届かない深い湖底には海藻らしい海藻は育たないのが常識だが、水中人たちが手入れをしているのか、一目で豊かな植生が見て取れた。

 渦の中央に立ったダンブルドアとダフネは、その岩盤質の湖底に足をつけ、渦巻く水面の向こう側から興味津々といった様子でこちらを見る水中人を見つめ返した。

 

「この季節にあなたの訪問があることは珍しい、ダンブルドア」

 

 水質と同じくらい澄んだ声が響いた。

 地上であれば金属をひっかくような音にしか聞こえない水中人の声は、彼らのフィールドである水中では人々の心を震わせるほどの美声に変わる。かつては船乗りたちが水中人の声に誘われて自ら入水したとも言われるほどだ。

 ダンブルドアは水中人に対して柔らかく微笑み、返事をした。

 

「いかにも。地上で火急の用が生じてのう。族長殿と話せると嬉しいのじゃが」

「我々はいつでもあなたを歓迎する。そちらの小さな友人も歓迎しよう」

「光栄ですわ」

「しばし待つといい。長はもうすぐあなたたちの前に現れる」

 

 どこか超然とした態度の水中人はくるりと旋回し、沈没船の中へと消えていった。

 

「お礼を言い損ねてしまいましたわ。今の方のお名前はなんとおっしゃるのでしょう」

「君のその良心は声を通じてきっと彼らに伝わっておるじゃろう。水中人は個人名を持たず、歌声で互いを見分けるのじゃ。それゆえに彼らの住まいはいつも歌声にあふれておる」

「素敵ですわね」

 

 確かに、耳を澄ませば神秘的な歌声が何重にも響いているのがわかった。

 美しい景色だった。スリザリンの談話室から見える湖とはまた違う表情がここにはあった。不思議と気持ちがほぐれていくような感覚すらある。

 ダンブルドアはダフネを見下ろしてゆっくりと頷いた。

 

「ここの景色はいつ来ても見事なものじゃ。ホグワーツの周りをいくら散歩しても飽きないのは、こうした絶景がいくつも隠れているからかもしれんのう」

「そうですわね。私も趣味に散歩を加えてみようかしら。どうやら最近の私は、少し閉じこもりすぎていたようですし」

「ミス・パーキンソンとミス・ブルストロードも連れてピクニックにでも行くとよいじゃろう。あのふたりは君を随分と心配しておった」

 

 パンジーたちがダフネを信じてくれたのは、この騒動の中で貴重な癒やしと言えた。あのふたりにまで疑われれば、もっと精神的に揺らいだ可能性もある。

 

「これは恥ずかしい話じゃが、わしはこの段に至ってもなお()()()()()()()()()()()()()()()。しかし、ミス・ラブグッドのお父上から興味深い手紙をいただくことができてのう。彼によれば、この呪いは力の多い者ほど気づけなくなるものらしい」

 

 どうやらモリガンは本当のことを言っていたようだ。

 力の多い者、秀でた者ほどダフネへの疑念を自然なものと思いこんでしまう。これは恐ろしい呪いだ。ハーポがこの呪いでかつて都市国家を滅ぼしたという話もあながち嘘ではないだろう。

 

「であれば、先生が気づいてくださったのは僥倖としか言いようがありませんわ」

「実を言うと、君のよき保護者であるアークタルス殿に喝破していただいたのじゃ。まったくもって、わしの目は曇っておった。情けないことじゃのう」

「閣下が? ……どうやら私は随分とたくさんの人々に助けられているようですわね」

 

 パンジー、ミリセント、ブリジット、ガウェイン、アークタルス、そしてもちろんアステリア。

 思っていたよりも多くのつながりがダフネを支えていた。そのつながりは今までダフネが歩んできた道を証明するものでもある。そう思うと誇らしく、また怖くもあった。

 彼らを失ってしまったら、その時ダフネは同じように歩んでいけるだろうか。

 ダフネは小さく頭を振った。このようなことを今考えていてもどうにもならない。今は水中人の協力を得てイギリス中に広がった菌を駆逐するときだ。

 

「――待たせましたね、ダンブルドア」

 

 声が響き、水中人が現れた。

 骨を編んで作られている首飾りをかけ、灰がかった肌には不可思議な流線型の文様が刻まれていた。銀の鱗で覆われた尾は長く、手に持った長い三叉槍は氷を磨いて作ったように透き通っていた。

 

「そして小さき友よ、あなたを歓迎しましょう」

「急な訪問にもかかわらず、感謝いたしますわ、族長」

「急な訪問があったということは、地上でなにか問題が起きたということでしょう。ここしばらく水が騒がしい。セイレーンの嘆きを感じます。遠く、地中海のどこかで何かが起きている」

「あなたたち水中人は本当に耳聡いのう。そうじゃ、古い闇が解き放たれてしもうた。敵はこのイギリスに目に見えない細かな生き物をばらまいたのじゃ」

 

 そこまで語って、ダンブルドアはダフネに目を向けた。話の主導権を譲るということだろう。

 ダフネは頷き、ダンブルドアに続く形で水中人の長に説明を始めた。

 

「地上はすでに敵のばらまいた菌が蔓延しておりますの。それを駆逐するために、あなたたちのお力をお借りしたいのです。菌を滅する薬を調合し、それを水源から流せば、自然と菌は滅ぶことでしょう」

「以前も似たようなことがあった。寄生虫が流行った時、ディリス・ダーウェントに頼まれて我々は虫下しを流しました。しかし、小さな友人、いくらダンブルドアの紹介とは言えども手放しにあなたの薬を受け入れるわけにはいかない」

 

 水中人の長は水中でくるりと一回転し、顎に細い指を添えた。

 

「我々は契約によってブリテン島の水源を預かる者。もしあなたが偽って毒を流させれば、我々は水源を汚した大罪人となります」

「このコインは信用する証拠になるかしら」

 

 ダフネがポケットからコインを取り出すと、長は黄色い目を見開いた。

 どうやらただのコインではないようだ。ダフネの指先で、コインは光を放っていた。その光は次第に収束し、沈没船を指し示す光線となった。光を避けてホッキョクイワナの群れが鱗を輝かせた。

 長は湖底でとぐろを巻き、ダフネに向かって深々と頭を下げた。

 

「無礼を許してほしい。我らの客人よ、喜んであなたに協力しよう」

「……このコインの謂れをよく知らないのだけれど、そんなに重要なものなのかしら」

「それは初代族長が戦いを共にした盟友に贈った7枚の証。我らの客人、我らの友の証。今やそのほとんどが失われ、その中のいくつかは割れ、砕けた果てにこの湖底に再び流れ着きました。まさか我が代でその輝きを目にすることがあるとは」

 

 思わずダフネは頰を引きつらせそうになった。

 モリガンはとんでもないものをダフネに貸し与えたようだ。もし彼女の言葉通り、彼女が水中人の初代族長に託宣を与えたのだとしたら、水中人はある意味でモリガンの支配下にあるということになる。

 ダンブルドアは興味深そうにダフネの手を覗き込んだ。

 

「見事なものじゃのう。伝説によれば、ロウェナ・レイブンクローもまたこのコインの持ち主だったそうじゃ。しかし、そのコインは失われて久しいと聞く。本物を見たのはわしも初めてじゃよ」

「なるほど……私には分不相応なものだということはわかりましたわ」

「初代族長の盟友は皆知恵に長けていたといいます。その知恵者があなたを信じたのなら、あなたは我らの友人に相応しい」

 

 族長は歯を剥き出しにした。どうやらそれが水中人の笑顔らしかった。

 ふと気になったダフネは、コインをポケットに戻してダンブルドアを見上げた。ダンブルドアが本物を見るのが初めてなのだとしたら、一体ホグワーツはどうやって水中人と協力関係を構築しているのだろうか。

 

「ダンブルドア先生は水中人の皆さんと長くお友達なのかしら」

「おお、嬉しいことを聞いてくれるのう。彼らとよき友になるために、わしは3年かけて彼らの言語を学んだのじゃ。残念なことに、わしの水中人語より族長の英語のほうがよほど達者なものじゃから、最近は披露する機会もめっきり減ったがのう」

「ホグワーツの校長が代々水中人語を学んだというわけではないのですね」

「いかにも。水中人の皆さんとホグワーツを結ぶ絆はもっと深く、そして重要なところにあるのじゃ」

 

 示唆的な物言いに首を傾げると、ダンブルドアは柔らかく笑って水中人の長に視線をやった。すると、水中人の長は深く頷いて答えた。

 

「食事です。我々水中人はヘルガ・ハッフルパフと契約を交わしました。ホグワーツは我々に温かい食事を提供し、そのかわりに我々はホグワーツとその水源を守るのです」

「食事……?」

「小さき客人よ、想像したことがありますか。水中では煮炊きができないのです。我らはヘルガと出会うまでずっと生で魚を齧ることしか知らなかった。初代族長は初めてニシンの燻製を食べた時感涙したと伝え聞いています」

 

 急に早口になった水中人の長は、目を爛々と輝かせていた。その姿はどこか深海魚のようで不気味だったが、ダフネは努めてそれを表情に出さないようにした。

 長は長い両腕を広げ、熱弁しはじめた。

 

「特にフィッシュアンドチップス、あれはいい。とてもいい。素晴らしい。魚を揚げるという発想は天才的と言っていいでしょう。しかし、同胞たちには内緒にしてほしいのですが、私は白身魚のフライよりもむしろそこについてくるチップスのほうが好きなのです」

「なぜ内緒に?」

「なぜって……ポテトを食わず嫌いしている同胞から引き取っているからです。彼らの中には水中人と言えば魚を食べるものだという伝統に引っ張られ、ポテトを嫌う者もいます。私がポテトを好いているという事実が水面に浮かんでしまったら……」

 

 どうやら水中人の長にも為政者としての悩みがあるようだ。パブリックイメージということだろうか。ダフネにも共感できる話だった。

 水中人の政体がどのようなものかは明らかになっていない。それどころか、水中人がどのように考え、何を食べるのかすらほとんど明らかになっていない。今日の話はもしかすると多くの魔法生物学者にとって垂涎ものの話なのかもしれない。

 しかし、ダフネの共感と好奇心は水中人の長の続く一言でへし折られた。

 

「私の取り分が減るではありませんか。ポテトのよさを理解しているのは私だけでいいのです」

「なんとも、共感できる話じゃのう。いつだって好物をお腹いっぱいに食べたいという気持ちは心をくすぐるものじゃ」

「……まあ、わかりますわ。わかりますけれども」

 

 神秘のヴェールを引き剥がした先にあるのは食い意地の張った水中人だった。

 ダンブルドアはクスクスと笑ってダフネを見下ろした。その表情はいたずらに成功した悪ガキそのものだった。

 

「わかるかね、ダフネ。世の中には君が思っているよりもずっと単純な理屈で動いている物事もあるのじゃよ。美味しいご飯が食べたいから、柔らかな寝床がほしいから、それだけのシンプルな欲求は時にあらゆる政治的要求を上回るものじゃ」

「……ええ、そうですわね、わかりますわ」

「おお、わかってくれるかね」

「市井の望みを聞き取り、それを満たすことこそが政体を長期的に安定させる秘訣ということがよくわかりましたわ」

「おお、伝わっておらんようじゃのう……わしは君にもっと気楽な思考を持ってほしいと思っておるのじゃが、君の歩んできた道のりは君にその気楽さを許してくれんようじゃ」

 

 ダンブルドアはわざとらしく嘆いてみせたが、ダフネにとってこれは重要な指摘だった。デメテルが乞食や寡婦といった貧者を味方につけることに成功したのは、まさにこういった「今日の需要」を満たしていたからだ。

 ダフネのような政治志向の人間はしばしば明日のこと、未来のことばかりを考える。しかし、市民にとって大切なのは今日の暮らしなのだ。

 美味しい食事、柔らかな寝床、そういった欲求は政治上しばしば軽視される。優れた為政者は平時においては今日の暮らしよりも明日の経済を、明日の社会を見ている。

 しかし市民はしばしば今日の豊かさを求める。これはどちらが正しいわけでも、どちらが間違っているわけでもない。今日なくして明日はないが、明日のない今日は虚しいものだ。

 たとえ優れた為政者と冷静な市民が向き合っていても、両者には必ずすれ違いが生じる。

 デメテルを潰すのなら、彼女が今まで慈善家として支えてきた貧者、弱者のコミュニティをどうするかはいずれ考えなくてはならないだろう。誰がいなくなろうとも、市民には今日があり、そして明日は続いていくのだから。

 

「小さき客人よ。我々は喜んであなたに協力します。しかし、もしあなたが我々の働きを喜んでくれるのであれば――」

「ええ、もちろんです。おいしい食事を差し入れますわ」

「あなたはよき客人だ。皆があなたを歓迎するでしょう」

 

 水中人の長はとぐろを解き、歓喜を示すようにダフネの前でくるりと回った。

 これで水源は確保できた。あとは魔法薬を調合するだけだ。アージニウス・ジガーとは今週末のホグズミードで会う約束をしている。

 

「目的は果たせたかね、ダフネ」

「十分に。ありがとうございます、先生」

「それはよかった。さて、そろそろ帰る頃合いじゃ。今度はホグワーツで一番ポテトを揚げるのが上手な屋敷しもべ妖精の手料理を持ってくることとしようぞ」

「それは楽しみです、ダンブルドア。あなたと小さき客人によき流れがあらんことを」

 

 足元で水が渦巻き、ダフネとダンブルドアを持ち上げるように広がった。渦は次第に縮み、ふたりを空へと突き上げた。

 地上へ押し上げられたふたりは、傾きつつある日差しを浴びてきらめくホグワーツ城に目を向けた。ハーポが差し向けた見えない侵略者は、ホグワーツの力によってなんとか食い止められそうなところまできている。

 

「ダフネ、わしは君を信じたいと思っている」

「心強いお言葉ですわ。必ず先生に私を信じさせてみせます」

 

 ダンブルドアは敵ではない。しかし、味方でもない。

 ハーポやヴォルデモートと戦うにあたっては手を取り合うことはできるだろう。しかし、それは過程に過ぎない。これは戦争ではない、改革なのだ。敵を倒して目的が達成できなければそれはダフネの敗北を意味する。

 そして、その意味ではダフネが敗北する可能性を最大化しているのがダンブルドアだ。純血主義に否定的でマグルやマグル生まれに融和的、カリスマがあり高い名声を誇る彼は、ダフネがいずれ乗り越えねばならない相手でもある。

 しかし、今は、今だけは共に戦うことができる。ダフネは当代最新にして最強の英雄に背中を預けることができるのだ。これほど心強いことはない。

 

「その前にひとつだけ教えてほしいのじゃ。君は、どこでハーポが生み出したあの魔術のことを知り得たのかね?」

「……ふふ」

 

 ダンブルドアは「信じたい」と口にした。

 つまり、ダンブルドアは現状ダフネのことを信じていない。どこまでいってもダンブルドアは闇の魔術と親しむ存在を受け入れない。

 それでも、ダンブルドアはダフネに歩み寄ろうとしている。あるいはここで自分が転生者であることを、この世界を知っていたことを明かせば、信用を得ることもできたかもしれない。

 

「ひとつ言えるのは、私は知ろうとして知ったわけではないということです。それだけですわ、先生」

 

 静かな表情で、一瞬ダンブルドアの瞳は迷うようにダフネの顔を見下ろした。

 開心術を使うか悩んでいるのだろう。その葛藤を顔から汲み取らせてくれるほどダンブルドアは甘い人物ではないが、それでも沈黙は雄弁だった。

 

「行きましょう、先生。風邪をひく前に戻らないと」

 

 転生者であることを明かすわけにはいかない。

 ダンブルドアは柔軟だ。そのような神秘があることもたやすく受け入れるだろう。転生者であることそのものは問題にはならない。

 しかし、全ての未来を知っていたことが明らかになれば、ダンブルドアはダフネの一挙手一投足に意味を見出してしまう。それはダンブルドアの計画を崩壊させうるノイズだ。ただダフネが疑われるだけでは済まなくなる。

 

「そうじゃの。この年になるとちょっとした風邪にも気をつけねばならぬと、ポピーに散々叱られたからのう。もう風邪は懲り懲りじゃよ」

 

 結局、ダンブルドアは開心術を使わなかった。

 城へ続く坂を上りながら、ダフネの背筋には汗が伝っていた。ダンブルドアの自制心に助けられた。まだダフネの閉心術は完璧とは言えない。今開心術を使われれば、全ての計画が崩壊していた可能性すらある。

 

「おや、ベリーの茂みが見事な紅葉じゃのう」

「ええ、本当に」

 

 なんとか今日を乗り切った。そして、明日がやってくる。

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