ハリーの心にまとわりついた靄は、11月になっても晴れる気配がなかった。
できる限りのことはした。どこかで自分にそう言い聞かせてしまう。ダフネの噂が拡散するのをなんとか止めようとしたし、魔法の細菌についての情報も得た。
それでも植え付けられた疑念は消えなかった。それどころか、ハリーはダフネに会いに行くことすらしなかった。忍びの地図の上をあちこち動き回るダフネの足跡を目で追うことはしても、そこに駆け寄る勇気が出なかった。
窮地に陥ったダフネの助けになれていないという自覚が、ますますハリーを孤独にさせた。
「まあうん、確かにちょっと可哀想ではあるな。でもほら、身から出た錆って言うだろ?」
「……うん」
ハリーは曖昧に返事をしてスクランブルエッグをつついた。
何をどうやっても蔓延した疑念を払拭することができない以上、いちいち否定して回るのはあまりにも不毛だった。ダフネがそれを望んでいるかもわからないのだから、もはやハリーにできることは何もないような気すらした。
ダフネの役に立つことはできない。自分にはその能力がないのだ。そもそも、ダフネが頼ってこないのだから手を出すべきではない。
これまで交わした言葉のひとつひとつが、その思い込みを裏付けるように蘇る。あれだけ幸せだった日々の思い出なのに、今はそれら全てがハリーの足枷だった。
ハーマイオニーが空気を入れ替えるように明るい調子で別の話題を出してくれなければ、ハリーは夕食を早々に切り上げて寮の談話室に戻っていたかもしれない。
「ねえハリー、今日はクィディッチの練習はないんでしょう? ジャスティンが主宰してる読書会のサークルがあって、今日は私達の世界の政治についてやるそうなの。行ってみない?」
「読書会?」
ハーマイオニーの提案に、ロンが嫌そうに呻いた。
「嫌だぜ、僕。今日は変身術と魔法薬学のダブルパンチだったんだ。もう脳みそがほうれん草みたいにクタクタだよ」
「あなたの脳みそがクタクタのトロトロなのは今に始まったことじゃないでしょ。魔法界の勉強以外も大切よ。ホグワーツを卒業した後、どちらの世界で就職するのかまだ決まっていないんだもの」
「卒業した後? まだ3年生の期末試験だって受けてないのに?」
「期末試験の勉強はしてるわ、当然よ。そのうえで未来のために時間を使うの」
ふたりの言い合いを聞き流しながら、ハリーは少しだけジャスティンの勉強会に惹かれている自分がいることに気がついた。
ハリーにはダフネの考えていることがわからない。それはハリーが無知だからだ。この胸を覆う疑念の霧も、知識の光で照らせばあるいは払うことができるかもしれない。少なくとも、このまま悩んでいるよりは生産的だ。
「初回は……何を読むの?」
「おいハリー、本気かよ!」
「あら、とりあえず初回を見てみるというのは賢明な判断だと思うわ。まだ聞いていないけど、初回なら『自由論』か『国家』がいいんじゃないかしら。ハリーはどう思う?」
「え、うーん……」
恥ずかしくなったハリーは、急に目の前のスクランブルエッグに殻を見つけたふりをした。
ハーマイオニーが挙げた『自由論』も『国家』もハリーは読んだことがなかった。辛うじてタイトルだけはマグル界の教科書で見かけたような気がするが、誰が書いたものかは忘れてしまっていた。
まるで自分の怠惰を責められているようで居心地が悪かった。ハリーはポッター家の当主だ。にもかかわらず、ハリーは今まで政治のことはダフネに任せきりで、学びらしい学びを得てこなかった。
ダフネに甘えすぎた。
こうして疑念を持ってしまって初めて、ハリーはどれだけ自分がダフネに甘えきりだったかを痛感させられた。
「オーケー、じゃあ初回だけだ。何時からだい?」
「ロン、その……あなたは参加できないわ。この読書会はマグル生まれや混血が互助を目的として集まる集会なの。あなたは、その、純血でしょう?」
「……ふーん、まあいいや。なんか面白いことがあったら教えてよ、あるとは思えないけど」
ロンはフォークでポテトを潰しながらそう言った。潰した勢いでハリーの皿にまでグリンピースが飛んだ。
不満は理解できる。ハリーとハーマイオニーだけで参加するというのが気に食わないのだろう。同じ立場ならハリーもさぞかし不満に思ったことだろう。
しかし、ロンは三人の中で唯一の純血なのに蒼の貴血の勉強会に参加していない。ハリーがあれほど参加したかった勉強会に。そう思うと妙に腹が立って、ハリーはロンの苛立ちをわざと無視した。
その晩、ハリーはハーマイオニーと連れ立って読書会が開催されるという教室に足を運んだ。
「やあ、ハリー! それにハーマイオニーも! 入ってください、大歓迎です」
「こんばんは、ジャスティン」
教室の中には知った顔が何人もいた。
コリンが構えるカメラを避けて奥に入ると、シェーマスがニヤリと笑ってハリーに手を振った。ハンナ・アボットやスーザン・ボーンズ、マイケル・コーナーもいた。
どうやらスリザリン以外のすべての寮から生徒が集まっているようだった。スリザリン生がいないのは当然と言えば当然だろう。スリザリンで自らがマグル生まれや半純血であることを明かすのは自殺行為だ。
「こんばんは、皆さん、こんばんは。さあ、座って。杖はしまっていただいて結構です」
教室の机は円形に並び替えられていた。そして、机のひとつひとつに一冊の本が置かれていた。ハリーはその本のタイトルに見覚えがあった。
「初回は僕の方で選ばせてもらいました。次回も候補はありますが、リクエストがあればみんなで検討しましょう。誰か、この本を読んだことがある人は?」
「読んだっていうか……パパに見せられたぜ、この映画」
シェーマスが少し嫌そうに眉をしかめた。
その本――正確に言うなら、脚本のタイトルは『
レジナルド・ローズが手がけた名作法廷劇だ。ハリーもダーズリー家のリビングルームで再放送が流れていたのを一度だけ断片的に目にしたことがある。ダドリーの興味を惹かなかったのですぐにチャンネルを変えられてしまったが。
「ではシェーマス、感想を聞かせてください。素直な感想を」
「あー、なんていうか……正直、よくわかんなかった。裁判の話だよな。でも、僕らの歳じゃ関係ない話だし」
「罪に問われた少年のほうはどうです」
「そりゃ、可哀想だよ。結局無実なんだろ? 有罪だって思い込んでる大人は馬鹿だなーって思うし、長々と話してて……何言ってるかわかんなかったよ」
一瞬、ハリーはジャスティンが怒りだすのではないかと思った。せっかく選んだ本をここまでコケにされてしまったら、ハリーなら腹が立つことだろう。
しかし、予想に反してジャスティンは笑顔で頷いた。
「わかりますよ。わからない映画って退屈ですよね」
「え? まあ、うん……そうだな、パパには悪いけど退屈だったかも」
「それにもかかわらず、この作品は名作とされています。なぜだと思いますか?」
「なぜって……頭のいいやつには面白く思えるんだろ」
シェーマスは半ば吐き捨てるようにそう言った。自分の無知を認めるようで不愉快だったのかもしれない。
ジャスティンは大きく頷き、そして本を持ち上げて全員に表紙を見せた。
「この作品は確かに名作です。しかし、陪審制や裁判について何も知らない、それどころか興味もないまま見ても楽しめないでしょう」
「大人向けってこと? じゃあどうして……」
「ところで、皆さんは卒業後魔法界で働くおつもりですか? それとも、マグル界に戻られますか?」
教室は困惑にざわついた。
「ぼ、僕は日刊予言者新聞の記者になりたい!」
声を上げたのはコリンだった。
それを皮切りに、いくつもの声が上がった。クィディッチの選手になりたいという声もあれば、宇宙飛行士になりたいという声もあった。
ジャスティンはその全てに笑顔で頷いて、そして再び口を開いた。
「素晴らしい夢です、大事にしてください。皆さんはこれからもホグワーツで学ばれることと思います。マグルの学校ではなく、このホグワーツで魔法の教育を受ける」
その時、ハーマイオニーがはっと息を呑んで手元の本を見つめた。
「卒業後、もちろん僕たちは成人し、そしてマグル界にも魔法界にも出入りすることになります。その時、もし陪審員召喚局から召喚状が届いたら、皆さんはどうされますか?」
再び教室がざわついた。今度は困惑ではなく、明確な動揺が見られた。
マグル界ではホグワーツの常識は通用しない。マグル界の常識と良識に従ってひとつひとつの証拠や証言を検討し、そして評決を出さなければならない。
このイギリスでマグル界と関わって暮らす以上、ホグワーツでは培うことのできない能力が求められる瞬間が必ずやってくるのだ。
「陪審員に限ったことではありません。僕たちが魔法を使おうと使うまいと、物理法則はリンゴを地面に落とし、コンピューターは2進数で計算します。ホグワーツでは得られない知識がそこにはある」
「で、でもさ、魔法でどうにかしちゃえばいいじゃん」
「なるほど。では、
ジャスティンの切り返しに、シェーマスは目を見開いた。
「父から聞いたのですが、陪審員召喚局の召喚制度は近々コンピューターによる無作為抽出を導入する予定です。当然、記録もコンピューターに残ります。しかし、魔法界にはコンピューターがない。フリットウィック先生であっても、コンピューターを騙す呪文はご存知ないでしょう」
「じゃあ他の陪審員に魔法をかけちゃうとか」
「そう、まさにその話をしたかったのです」
ジャスティンは全員の前で本を開いた。
この物語のあらすじはハリーも知っている。父親殺しの罪に問われている男の子についての裁判で、他の全員が有罪とした中、ひとりの陪審員が無罪を訴えた。そして検証と議論の末、当初有罪だった男の子は無罪となる。
もし、そこに魔法使いや魔女が混ざっていたら?
ハリーもジャスティンが何の話をしようとしているか、さすがに察することができた。ジャスティンは責任の話をしようとしているのだ。
「大いなる力には大いなる責任が伴う。ヴォルテールです。僕たちはマグル界にない力を持っている。そう、僕たちはやろうと思えばこの男の子を死刑にすることだってできたでしょう」
「そんなことしない!」
「そうですね、ここに集う皆さんはそんなことはしない方ばかりです。しかし、考えてみてください」
ジャスティンは本を閉じ、代わりに杖を出した。
「僕たちには魔法がある。しかし、それをマグル界でどう使うべきかの知識がない。これは十分な良識を身につけないままナイフを持ち歩いているようなものです」
ジャスティンは杖をナイフに見立て、飛び出しナイフの刃を出すような仕草をしてみせた。
確かに、納得のいく話だった。適切な使い方を知らずに魔法を使ってしまえばどうなるか、ハリーはこの夏に体感したばかりだ。
マージを膨らませた事件を思い出して、その後の顛末まで思い出したことでハリーの胸はちくりと痛んだ。ダフネがいなければ、ハリーは今頃退学になっていたかもしれない。
「悲観的な話ばかりではつまらないですね。同時に僕たちは魔法界にない知識も持っているわけです。魔法界の法廷、ウィゼンガモットには陪審制が
杖を振ったジャスティンは、本の表紙を変身させた。光沢感のあるそれは、どうやらプラスチック素材のようだった。間違いなく、魔法界にない素材だ。
「ここは僕たちの故郷とは全く常識が違う世界です。僕たちはその両方で生きなければならない。しかし、裏を返して考えれば、僕たちは両方の世界にある強みを両手に抱えているわけです。つまり、僕たちは――」
ジャスティンは何かを語ろうとしていたが、教室の扉が開かれると口を閉ざした。
そこに立っていたのはフラウィウス・ブルストロードだった。威圧感のある髭、神経質に撫でつけられた髪、冷たいブルーの瞳。ウィゼンガモットからやってきた彼を、誰もが不気味に思っていた。
きっとこの集会を取り締まりに来たのだろうと誰もが思った。ハーマイオニーが立ち上がり、フラウィウスを睨んだ。
「ブルストロード監察官、ホグワーツでは集会の自由が認められています。これは生徒たちの自主性に基づく学習のための集会で――」
「君が何を心配しているにせよ、その心配は無用だ、グレンジャー。当方は集会の取り締まりにきたのではない」
しかし、フラウィウスは静かにそう言ってジャスティンを見つめた。
「フィンチ-フレッチリー」
「はい、監察官」
「素晴らしい見識だ。君が、そして諸君が学び、考え、魔法界の社会に参与することを歓迎する。社会とは肉体であり、市民とは精神である。健全な肉体は健全な精神によってのみ成り立つものだ」
「……この会に賛同してくださるのですか? しかし、監察官は」
「私は純血だが、妻はマグル生まれだ。妻は私の政治に関するコンサルタントでもある。……もしこの会を広く長く展開していきたいのであれば、大人の力が必要だと思うが、違うかね」
この読書会に集まった全員がジャスティンとフラウィウスに注目していた。
どうやら、フラウィウスは自分を顧問にしないかと提案しているようだ。悪い話ではなかった。顧問のいるクラブ活動は教室も借りやすいし、他のクラブとの折衝もスムーズになる。
ジャスティンはしばらく考えてから、教室を見渡した。
「皆さんの考えを伺いたいですね」
「……いいと思うわ。ウィゼンガモットの見識ある大人の意見を聞ける機会は貴重よ」
ハーマイオニーがそう答えると、集まった面々は口々に同意を示した。
その中で、ハリーはなぜか口を開けずにいた。フラウィウスの冷たい瞳がどこかでハリーに疑念を植え付けていた。この疑念が本当に正しいものかもわからず、ハリーはただ様子を見ることしかできなかった。
「ありがとう、皆さん、ありがとう。では、監察官。お願いしてもよろしいでしょうか?」
「喜んで引き受けよう。すまない、演説を遮ってしまったな」
こうして、この読書会にはフラウィウス・ブルストロードという顧問がつくことになった。
ジャスティンは改めて集まった面々に向き合い、もう一度本を取り上げた。
「ここは僕達の故郷とは全く常識が違う世界です。でも、忘れないでください。僕達は市民です。その世界の主体です。考え、話し合い、手を取り合うことは時に常識を覆すことだってできる。そのことを考えて、この脚本を読んできてください」
喝采に包まれて、第1回のオリエンテーションは終わった。ジャスティンはどこかホッとしたような笑みを浮かべていた。
拍手を送りながら、ハリーの胸中は疑問で渦巻いていた。
ジャスティンは「常識を覆す」と口にした。そして、演説の中で彼はふたつの世界について言及した。それならば、彼は一体どの世界のどんな常識の話をしているのだろうか?
ハリーはすっかりフラウィウスに対して抱いた疑念も忘れて、配られた本をじっと見つめていた。