転がって埃を被った空の薬瓶が、アージニウス・ジガーの現状を表していた。
ヤックスリーが薬瓶を蹴り飛ばすと、壁に当たって弾けた薬瓶の破片がジガーの頰を掠めた。蝿のように手をすり合わせて縮こまる様はなんとも滑稽で、惨めで、哀れだった。
「た、頼むヤックスリー、あと1ヶ月、あと1ヶ月でいいんだ。大きい取引のあてがある」
大鍋は乾いていた。魔法薬の一滴もそこには残されていなかった。それがジガーという魔法薬師の余命だった。
ヤックスリーは鬼ではない。支払いが滞らない限り、金を貸した相手は皆上客だ。ファイアウィスキーとスモークナッツでもてなし、必要とあらば見目のいい手下に酌をさせることだってする。
しかし、ひとたび支払いが遅れれば。
「何も全額耳を揃えて返せと言ってるわけじゃあねえんだ。積もりに積もった利息分の182ガリオンと11シックル6クヌート、それをおまけして180ガリオンでいい。俺は気前のいい男だ、そうだろ?」
「わ、私は払えるものを全て差し出してきた。もう何も残っていないんだ」
「矛盾してらあな、ジガー。本当に取引のあてがあるならそこには何かが残っているはずだ」
「そ、それは、それはそうだ。だが、今払えるものじゃないんだ。来月になれば現金に換えられる。あんただってそのほうが都合が――」
ヤックスリーの細いステッキが這い上がろうとしたジガーの膝を貫いた。
苦悶の声が上がった。悲鳴というよりもむしろ、狂ったバイオリニストが腕を壊すために奏でるようなヒステリックな音色だった。
老いたジガーには手痛い傷だ。まともに立てるようになるまでは時間がかかるだろう。手を狙わなかったのは、まだジガーが魔法薬師として何かしらの富を生む可能性が残されていたからだ。八つ当たりで債務者を壊すほどヤックスリーは馬鹿ではない。
あるいは、ジガーがまだ魔法薬師として生きていく意思があるのなら、彼は自ら魔法薬を調合して傷を治すこともできるだろう。しかし、ヤックスリーの経験上、ここまで借金という楽を覚えてしまった人間は元の道に帰ることはできない。
そう、借金で生活をするとは根本的に楽をする手段なのだ。額に汗して働くかわりに金を借りる。返済期限までは労働のことを忘れることができる。一度その甘美な平和を知ってしまえば、もう借金から逃れる術はない。
ある意味で、借金とは薬のようなものだ。強力であればあるほど副作用も重い。優れた魔法薬師でありながらその恐ろしさに気づけなかったジガーは哀れであり、愚かでもあった。
膝をついたヤックスリーは、ジガーの細い白髪を掴んでその涙で濡れた顔を引き上げた。
「なあ、ジガー先生。そうだ、あんたは先生だ。学がある。あんた好みの話があってな」
涙で喉を詰まらせたジガーからは返事がなかったが、ヤックスリーは構わず続けた。
「昔、賢く優しい犬と愚かで貧しい豚が同じ牧場にいた。豚は犬に金を貸してくれとせがみ、犬は親切にも大金を貸し与えた。豚はその金で贅沢三昧、好きなように暮らした」
「わ、私は贅沢など」
「ところが、豚はいざ金を返す段になって財布が空だから返せないと喚いた! さて、犬は困ってしまった。親切の見返りがこれとは、あまりにも心がない話じゃあねえか、なあ?」
「金は、金は返す」
「そこでどうするかだ。可哀想な犬は泣きながら友達だった豚を殺し、潰し、腸詰めにして牧場で売りましたとさ。この物語に込められた教訓がわかるか、ジガー……なあ、わかるか」
ヤックスリーがジガーの喉仏に杖を突きつけると、ジガーは痛みの予感に大きく息を吸った。
金を返させる手段などいくらでもある。この英国魔法界では人間の内臓や眼球はご禁制であり、だからこその高値がつくのだ。鬼婆やゴブリン、そして他でもない魔法薬師はご禁制の柔らかな生き肝や白い目玉をいつも求めている。
しかし、ヤックスリーはまだジガーを殺すつもりはなかった。ジガーに利用価値を見出していたからだ。
「あんたがぶよぶよのソーセージになって肉屋の軒先に吊るされないために、一体何ができる? あんたは俺に何をしてくれる?」
「わ、私は……私は」
「ただ取引を済ませてカネを払う、それじゃ駄目だ。あんたには俺を待たせた罪がある。まだ自覚してないようだから言っておくが、これはとんでもない大罪なんだぜ、ジガー」
ジガーは焦ったように視線をあちこちに這わせた。しかし、掃くような視線を持ってしても1クヌートすら見つかることはなかった。
返済滞納の罪は重い。ヤックスリーが高利貸しだったからといって、それが覆るわけではない。たとえ、ヤックスリーが彼の返済をもともと期待していなかったとしても。
広い意味で言えば、これは投資なのだ。
ヤックスリーは金を貸す。債務者は返済に困る。頼れる相手はヤックスリーしかいない。返済のかわりにヤックスリーは債務者に仕事を申し付ける。こうしてヤックスリーの版図は拡大していく。
「その取引とやらに俺を噛ませろ。お前が払えないなら取引相手から直接回収したほうがいい、そうだろ? なあ?」
「そ、それは……それはだめだ!」
「誰に口利いてると思ってんだ、あ?」
ヤックスリーがジガーの痩せた喉仏に杖をめり込ませると、ジガーは苦悶の声を上げた。
一瞬、ヤックスリーは磔の呪文を唱えようとした。しかし、それをやめて膝をジガーの腹に叩きつけた。もしジガーが少しでも頭が回るなら、取り立てがあることを魔法警察にたれ込んでいてもおかしくはない。
嗚咽するジガーのひび割れた唇を伝うのは胃酸だけだった。どうやら何も食べていないらしい。
「残念だよ、ジガー……一時はホグワーツの校長にとまで期待されたお前が、借りたものも返せないろくでなしだとは思いもよらなかった」
もちろん、ヤックスリーはジガーに返済能力がないことを知っていた。彼が理事会の中で校長にと名前が挙がったのは、単に彼が貧しく御しやすい老人だからだ。
その道が途絶えた今、ジガーに果たしてどのような取引が残されているのか。
ここでジガーが教育者であるという点が活きてくる。教育者は多くの教え子を抱え、時に思いもよらない人脈を有している。ヤックスリーはすでにその取引が一体どのような価値を帯びているのかを把握していた。
そう、この取引には価値がある。
「ルーナ・ラブグッドとかいうガキに興味はねえ。だが、ダフネ・グリーングラスは別だ。……そう、大いに興味がある」
ついにヤックスリーはダフネの影を踏んだ。
ダフネ・グリーングラス。今やブラック家の影の女主人であり、マルフォイ家の最大の同盟者であり、そしてポッター家第一の後援者である彼女は、魔法界の頂点に立ちたいヤックスリーにとって誰よりも攻略すべき存在だった。
借金を作らせるのは難しかった。グリーングラス家の資産は決して豊かではないが、ダフネの資産運用は冷静かつ巧みで付け入る隙がない。妹に不自由させないという一点に注力した管理能力は本職であるヤックスリーですら舌を巻くものだった。
ヤックスリーの本業でダフネの弱みを握るのは難しい。将を射んと欲すればまず馬を射よと言うが、ダフネを支える家々はいずれも財政を健全化している。おそらくはダフネが思い描く新たな時代に備えてのことだろう。
だから、ヤックスリーは途轍もない遠回りをする必要があった。
「ようやくだ。ようやくあの綺麗な白い喉に俺の指がかかった。聞かせてもらおうじゃねえか、ジガー先生。あの娘は何の病でお前の魔法薬をご所望なのか」
「……話せば、いいのか」
「そうだ、話せ。話せば取り立ては待ってやる。飯だって食わせてやるさ。腹が空いてるだろう? 硬いパンとかびたチーズじゃねえ、しもべが作った温かい飯だ」
ジガーの濁った瞳が震えた。
英雄であれば、ダンブルドアやクラウチのような偉人であれば、あるいはこの苦境を高潔に乗り過ごしたのかもしれない。自らの足で立つ力強さ。それこそが英雄の証左だ。
しかし、ジガーは英雄ではない。
凡人なのだ。それは誰にも責められることではない。ただの人であることは罪ではない。たとえ、ただの人であることを理由に誰かを売り飛ばしてしまったとしても、その弱さそのものを罪とすることは誰にもできないだろう。
凡人が凡人たるゆえに、ヤックスリーは多くの弱みを握ってきた。ヤックスリー自身が二流の悪党、凡俗だからこそ、凡人を食い物にする術はいくらでも思いついた。ジガーのような平凡で貧しい学者は、生まれた瞬間からヤックスリーの掌の上にいるようなものだ。
そして、ジガーは口を開いた。
「調合を頼まれたのは……虫下しだ」
「虫下し? はらわたに寄生虫を飼ってるってだけならお前には頼まねえだろう」
「ただの虫下しじゃない。……龍痘の原因であると私が考えている、細生物。マグルが細菌と呼んでいるそれを、魔法的な処置によって殺す薬だ」
「細菌、細菌ね……」
ヤックスリーは学問に造詣が深いわけではない。しかし、龍痘研究の専門家として何冊も本を書いているジガーがここで嘘をつくとは考えにくい。
いくつもの企みがヤックスリーの脳裏に浮かび、そして消えていった。この一件をガリオン金貨に変換するのは簡単だ。しかし、今求めているのは富ではなく、ダフネを崩す一手。それも、長期的で確実な一手でなければならなかった。
「細生物は目に見えない。かつて細生物を使った魔法はいくつも存在した。感染者の心を読む魔法や、中には感染者を思いのままに操る魔法まであったという。しかし、細生物に頼らない呪文が発明され、長い歴史の中で忘れられてしまった……当然、細生物に対処する呪文や魔法薬も失われた」
「なるほど。グリーングラスはなぜそれを知ってる? どうして薬を求めた?」
「わ、わからん。ルーナ、手紙を送ってくれた娘だが、その子の母親は私とともに細生物の研究をしていたのだ。……頼む、あの子だけは!」
「言っただろジガー、その娘にはちっとも興味がねえんだ。だから汚え手で俺のスーツを汚すんじゃねえ、よっと!」
縋りついてきたジガーを蹴り飛ばしたヤックスリーは、しばし思案した。
細菌の魔法。なるほど、もし使いこなせれば強力な手札になるだろう。今はまだ発見できていないが、もしヴォルデモートが復活するのであればこの魔法を献上するという手もある。
しかし、それは使いこなせればの話だ。闇の帝王は偉大な研究者でもあったが、同時に厳格な独裁者でもあった。献上した道具が闇の帝王に牙を剥けば、その罪でヤックスリーはひどく罰せられるだろう。それは効率的とは言えない。
「ジガー、薬に細工はできねえのか?」
「さ、さ、細工とは……」
「たとえば、そうだな。定期的に飲み続けなきゃならねえような薬ってのはどうだ」
「……無理だ」
「ああん?」
「技術的に無理なんだ! 細生物の研究は長い歴史の中で、た、大半が失われてしまった。だから、細生物を生かさず殺さずというのは、わ、私には、む、無理だ……!」
筋は通っている。
髭を剃った滑らかな顎を撫でながら、ヤックスリーはジガーを見下ろした。技術者が技術的に無理だと言うのなら、それを信じるよりほかない。自分の土俵で戦わないとはそういうことだ。
だから、ヤックスリーは自分の土俵に物事を引きずり込むことに関して特に能力を磨いてきた。押し付けがましい、厄介で面倒な男。そういう評判と地位を確立するために、ヤックスリーは恥も外聞も捨ててきたのだ。
学があるわけでもない。爵位を持つわけでもない。しかし、それでも多くの人々がコーバン・ヤックスリーという金貸しに頭を下げる。
次はダフネ・グリーングラスの番だ。
「いいだろう! 人様のためになる仕事は好きだ。気分が良くなる。危険な細菌を殺す薬、大いに結構じゃねえか。そうだろう、先生」
膝を曲げて、ヤックスリーは這いつくばるジガーの顔を覗き込んだ。もはやその濁った瞳には怒りと抵抗の光すらなく、ただ絶望と悲嘆のみが渦巻いていた。彼の借金苦が底なし沼であるのと同様に、その渦には終わりがなかった。
「スポンサーになってやるよ。今回の利息分はこれでチャラだ」
「ほ、ほ、本当に……?」
「ああ、俺が嘘をついたことがあるか? 俺は誠実な金貸しだ。誤魔化しひとつない、そうだろ? そのかわり……」
ヤックスリーは杖先でジガーの顎髭を撫でた。ちり、と焦げたような音が鳴り、痛みの予感にジガーの老いて曲がった四肢が縮こまった。
古くからポッター家の財源がそうであったように、魔法薬の発明には権利が認められてきた。それは特許利用料のようなものだが、より広範で、曖昧に作られている。魔法薬の権利者は、契約によってはその使用者に
契約。それはヤックスリーの領分だ。
「その虫下しの権利、俺にくれないか」
涙に顎髭を濡らしながら、老いた魔法薬師は震えるように頷いた。