クリスマス休暇を目前にして、今年最後のホグズミード休暇がやってきた。
透明マントと忍びの地図、ふたつの武器を手に入れた以上、城に留まる必要はないように思えた。ロンとハーマイオニーと一緒に三本の箒でバタービールを飲み、クリスマス休暇用にハニーデュークスで山程お菓子を買い込むのもありだ。
しかし、どうにも気持ちが晴れないハリーは、結局ホグワーツでふたりを待つことを選んだ。
「正しい選択だと思うわ。だって、隠し通路でホグズミードに抜け出すのは校則違反だもの」
「その校則を作った誰かさんはハリーのとこの腐れマグルみたいな連中とは暮らしてなかったと思うぜ。元気出せよハリー、ゾンコでいっぱいお土産買ってくるから」
「ありがとう、気を付けて」
ふたりを見送ってから、ハリーは特に目的もなく校舎をうろついた。
目の飛び出たガーゴイル像。トロール用の甲冑が置かれた暗く湿った部屋。変わり者のウェンデリンがわざと火あぶりにされるのを楽しんでいる様子が描かれた肖像画。
どれも今のハリーを元気づけるものではなかった。
とにかく最近はついていなかった。ニンバス2000はばらばらの破片になるし、クィディッチの試合は負けるし、スネイプの課題は気が遠くなるほど多かった。何より、ダフネとずっと話せていない。
いつの間にかハリーは時計塔の裏側、振り子と歯車に満ちた板間に辿り着いていた。
手すりにもたれ、揺れる金具の向こうに見える雪景色へ目をやる。
一定間隔で刻まれる金属音。その無機質な規則性に身を委ねてぼーっとしていると、不思議とその音が楽器のように聞こえてきた。ダフネと参加したあのパーティーで覚えたステップを、もう随分長いこと踏んでいない。
「――ここは落ち着くだろう」
突如かけられた声に、ハリーは肩を跳ねさせた。
リーマスがハリーの隣で手すりにもたれ、小さく笑ってみせた。チョコレートの香りに混じって、ふわりとわずかに薬のような臭いがした。
「昔、ここで杖十字会という決闘クラブが活動していてね。私たちが入学した頃にはもう会はなくなっていたんだが、罰則でトロフィールームに行ってそれを知ったジェームズがここを決闘の練習に使っていたんだ」
「父さんが?」
「ほら、そこの焼け焦げを見てごらん。シリウスがジェームズのローブに大穴を開けたときのものだ。あの時は肝が冷えたよ」
目に浮かぶようだった。
決闘に熱が入った若い魔法使いが、大胆な呪文を唱える。決闘の相手はその呪文を間一髪躱すが、一歩遅れたローブが直撃を食らう。観客が慌てて駆け寄るが、数秒後には全員で大笑いしているのだろう。
リーマスは遠い目をしながら、手すりの縁を指先でなぞった。
「シリウスもジェームズも、お互いを信じ切っていた。あいつならこれくらい防げるに違いない。その油断があとちょっとで大怪我につながるところだった」
「……ペティグリューを守り人にしたのも、信じていたからなんですか?」
リーマスは答えず、ローブのポケットからチョコレートの包みを取り出した。
「君は吸魂鬼が苦手かい?」
「苦手というか……あれが得意な人なんているんですか?」
「はは、そうだね。私も大の苦手だよ。何より厄介なのが、吸魂鬼には有効な呪文がたったひとつしかないということだ」
「守護霊の呪文ですね」
「よく勉強しているね、グリフィンドールに2点あげよう。副賞はチョコレートだよ」
差し出されたチョコレートを受け取って齧ると、その温かい甘みに強張っていた心が少しだけほぐれるような感覚があった。
守護霊の呪文には興味がある。
とても古く、難しい魔法だ。通常であればホグワーツで教えることもない。その難しさから、ウィゼンガモットの高官など魔法界の名誉ある職に就く者が資質を示す証として唱えることもあるという。
しかし、ハリーが守護霊の呪文に興味を持ったのは、名誉や地位のためではなかった。
「……血の呪いは、感情を荒ぶらせると進行するんですよね?」
「そうだ。吸魂鬼はまさに彼女たちの天敵と言えるね」
「僕……守護霊の呪文を使えるようになりたいんです。その、友達の助けになるってそういうことでしょう?」
リーマスが微笑ましいものを見る目でハリーを見下ろした。
「友達、ね。それはとてもいい心がけだ。しかし、守護霊の呪文は簡単ではないよ? 長く厳しい訓練が必要だ」
「知ってます。調べたんです、少しだけ。幸せな記憶が必要なんですよね」
「そうだ。
リーマスが杖を振ると、青みがかった銀色に輝く靄のような光の盾が空中に現れた。そこから放たれる光はとても清らかで、見る者の心を温かくさせる力があった。
これが守護霊か。
ハリーはじっとリーマスの杖先を見つめた。そこに彼の思う幸せな記憶が詰まっている。ハリーにはリーマスがいつのことを思い出しているのかなんとなくわかる気がした。
「最近のホグワーツでは守護霊の呪文を練習する生徒が増えていてね。君の友達が行った授業のおかげかな」
「……その日は僕、クィディッチの練習があったんです。ズル休みしてでも参加すればよかった。そうしたら、もっと早くに練習できてたのに」
「ミス・グリーングラスはどうしてあの授業をやったのだろうか」
ぽつりとこぼしたリーマスに、ハリーは返事に困って彼を見上げた。
ハリーに問いかけているというよりも、むしろ彼自身の内側に生じた問いかけのようだった。リーマスは困惑したように首を掻いて、小さく肩をすくめた。
「彼女が悪い子でないことは私もわかっているつもりだよ。守護霊の呪文は闇の魔法使いや魔女には応えない。それどころか、闇の魔術師が守護霊の呪文を唱えると術師を破滅させるとすら言われている」
「でも、先生はダフネを疑ってる」
「……彼女が疑わしい素振りを見せているとは感じている。その素振りが信じる根拠に対してあまりにも多いともね。それだけを理由に決めつけるわけにもいかないが、かといって疑念を無視して信じきることもできない」
しばらく、ふたりは沈黙していた。
ダフネへの疑念。それは確かにハリーの胸の中にもある。しかし、それは細菌の魔法によって肥大化させられた偽りの疑念だ。リーマスやシリウスがダフネを疑うのも、細菌の魔法による影響がないと言えば嘘になるだろう。
その一方で、疑念を持ったことで初めて見えてくることもある。ダフネの振る舞いは確かに怪しいのだ。彼女はいつも一歩先にいる。まるでハリーを導いているように。それはつまり、ハリーの道筋をダフネが作っているようなものではないのか?
少しずつ、ハリーはダフネの優しさが単なる善意ではないことに気づきつつあった。ダフネはハリーに何かを望んでいる。彼女の大きな目的の中にハリーは組み込まれている。
それでも、ハリーはダフネのことを大切に想っていた。
信じたい。
「僕はダフネのことを信じています。だけど、ダフネに悪いことや危険なことはしてほしくない。だから……先生に協力します」
「その言葉を聞いて安心したよ。あの犬もきっと喜ぶだろう」
「かわりに、お願いがあるんです。僕に守護霊の呪文を教えてほしい」
リーマスはしばらくハリーの瞳を見つめていたが、ややあって頷いた。
「わかった。私は専門家ではないが、学生がひとりで練習するよりは安全で効率的なやり方を多少は心得ている。君の助けになろう」
「ありがとうございます。……時々、不思議に思うんです。僕はただの子どもなのに、沢山の人が僕を使って何かをしようとする」
「大人に利用されるのは不愉快かい」
「最初は少しもやもやしました。でも、そうすることで助かる誰かがいるのなら……僕の名前が独り歩きするくらい、どうってことないです。それ自体は小さい頃からずっとそうだったみたいですし」
ハリーが肩をすくめて笑うと、リーマスは微笑んだ。
生き残った男の子。その名前が独り歩きしていることにはもう慣れてしまった。それと比べたら、ポッター家当主だのどうのと騒がれることは大した問題ではなかった。
「君は同じくらいのころのジェームズと比べるとずっと落ち着いている。ジェームズは社交やパーティーが大嫌いだった。そんな時間があったら箒に乗っている方がずっといいと言ってね」
「フリーモントお祖父さんに似たんじゃないかって言われたことがあります。僕としては、父さんに似ててもそれはそれで嬉しいけど」
「なるほど、あの人に似たのならおかしなことではないね。……そうだ、それなら君に頼るのも手かもしれないな」
リーマスはローブの懐から封筒を取り出した。
大樹に爪痕の蝋印が捺されたそれを受け取ったハリーは、皺にならないよう慎重に開いて中身を取り出した。それはどうやらクリスマス休暇中に開かれるコンサートの招待状のようだった。
「コンサートですか?」
「チャリティーコンサートだ。先の戦争で家族を亡くしたりして支援を受けている魔法使いや魔女が、社会復帰の一環として演奏会をやる。主催者は私もよくしてもらっている人でね」
「デメテル・ザビニ……ザビニ?」
嫌なことを思い出して、ハリーは顔をしかめた。
1年生のころ、ブレーズ・ザビニの嫌がらせのせいでハリーは禁じられた森での罰則を受けることになったのだ。それどころか、彼は元々ダフネに罰則を受けさせるつもりでうろついていたとまで言っていた。
あまり行きたいとは思えないが、ハリーの反応に気づかなかったのか、リーマスが言葉を続けた。
「この手のパーティーには同伴者をひとり連れていくのがマナーということになっていてね。ただ、私の家族はこういう場に慣れている人たちではない。彼を連れていくわけにもいかないだろう?」
「それはちょっと、大騒ぎになりますね」
「実を言うと、私もあまりこういう社交の場には慣れていなくてね。君のような経験者にサポートしてもらえると心強いんだが」
少し迷って、ハリーは招待状の裏表を返して見つめるふりをした。
嫌というわけではない。社交のサポートができるほど経験豊富なわけではないが、なんとなくの立ち回り方は理解しつつある。致命的な失敗を回避するくらいはできるだろう。
しかし、何かが引っかかっていた。
「クリスマス休暇中だからね。君がもしホグワーツに残るのなら、私に同行しての課外活動という扱いになる。もし君さえよければ、帰りはホグワーツに直帰ではなく三本の箒で暖炉を借りたっていい」
「えっ、ホグズミードに寄るってことですか!」
「クリスマス休暇中は帰省するかホグワーツに残るかだけだからね。クリスマスのホグズミードを見たことがある生徒はあまり多くないだろう。三本の箒にはクリスマス限定のドリンクがあるのを知っているかい? 広場の大きなツリーを見たことは?」
ハリーが大きく首を振ると、リーマスは悪戯げに瞳を輝かせた。
もはやハリーに断るという選択肢はなかった。コンサートでリーマスをサポートして、それからホグズミードのクリスマスだ。きっとロンもハーマイオニーも羨ましがるだろう。
クリスマス飾りが施されたきらびやかなホグズミードを想像し、そこに香る様々な香りとどこかから聞こえるクリスマス・キャロルを思い描いた時、ハリーの胸はちくりと痛んだ。その景色の中に、艶のある黒髪を編んだ彼女の姿が思い浮かんだからだ。
思わず、ハリーは口に出していた。
「ダフネも来るんでしょうか」
「どうだろう、私は社交界の情勢のようなものには詳しくないが……私なら招待すると思う。彼女はグリーングラス家の当主だ。それに、ブラック家やマルフォイ家のような伝統のある家と深い付き合いがあるからね」
「そう……ですね。わかりました、僕も行きます」
「そう言ってくれると思っていた。……おっと、もうこんな時間か。すまないが失礼するよ。スプラウト先生とフリットウィック先生にパーティー用の衣装を見立ててもらう約束をしているんだ。それじゃあ、クリスマスに」
ひらりと手を振って、リーマスは去っていった。
クリスマスが迫っている。ハリーは大きく伸びをして、それから頷いた。勇気を出さなければならない。ダフネにクリスマスプレゼントを贈って、それからパーティーの場で話しかけるのだ。
雪はしきりに降り続け、吹いた風が白を伴って時計塔の入口を荒らした。きっとフィルチが怒るだろう、と思いながらハリーはその場を後にした。その向こうにいる吸魂鬼のことなど、今は考えてもいなかった。