年内最後のホグズミード休暇だ。本来であればアステリアへの土産を買うためにあちこちの店を巡るべき日だが、今日は異なる目的があった。
三本の箒。ホグズミード村で最も賑わうそのパブは、陽気で開かれた雰囲気ゆえに秘密の話には適している。ここには耳をそばだてる者は誰もいない。誰もが酩酊と快楽を求める明るい空間においては、密談そのものが想定されていない。
ダフネはエルダーフラワーの華やかさとライムの爽やかさの奥にかすかな海塩と海藻の旨味が広がるギリーウォーターをちろりと舐めて、それから入店してきた客に手を振った。
「ごきげんよう、ミスター・ジガー」
灰色のゆったりとしたローブを着た老人が、ダフネに大げさなくらい頭を下げた。
アージニウス・ジガー。魔法薬学の大家で、ホグワーツで使われる魔法薬学の教科書『魔法薬調合法』の著者として知られる。ルーナの母パンドラの師であり、目に見えない『魔法細生物』と呼ばれる魔法の細菌の研究者でもある。
その老人はダフネが想定していたよりも身綺麗で、質素ながらも違和感のない身なりをしていた。
「ミス・グリーングラス、待たせて申し訳ない」
「さほど待っていませんわ。……いいえ、それは嘘かしら。だって、お目にかかるのをとても楽しみにしていましたもの。ご注文は?」
「あ、ありがとう。では……同じものをいただこうかな」
ダフネはパブの主であるマダム・ロスメルタに合図をして注文を送り、改めてジガーと向き合った。夏休み以来ずっとダフネを蝕んでいたハーポの呪い、それを解く鍵が目の前に座っている。
当のジガーは落ち着かない様子で、コースターの縁を指でなぞり、何度も座りなおし、目は泳ぎっぱなしだ。それはそうだろう。彼にとってこの商談は決して軽いものではないのだから。
運ばれてきたギリーウォーターをジガーはぐいと呷った。どうやら相当喉が渇いていたようだった。
「ギリーウォーターの発明者は、先生なのでしたわね?」
「ん……おお、懐かしい話だ。そう、私がレシピを作った。メイヨール兄弟に頼まれてな。賢い双子だった」
その一言で、明らかにジガーの緊張がほぐれた。
ダンブルドアのような生きた偉人と比べれば格は落ちるが、ジガーも界隈では名の通った人物だ。ダフネの視線は彼のプライドをくすぐり、口を開かせた。
「ギリーウォーターのギリーは
「そうだ、そのころはまだ薬として売られていた。マグル界にコカ・コーラという飲み物があるのは知っているかね? あれも昔は強壮剤としてコカの葉とコーラの実を使っていたそうだ。売りはじめた頃の名前が残っているという意味では同じようなものかな」
「あら、先生はマグルの薬にもお詳しいのね。鰓昆布は何に効いたのですか?」
「色々と効能はあるが、薬だった頃のギリーウォーターはもっぱら悪心やつわりに効いた。今でも妊娠するとギリーウォーターを飲む魔女がいるだろう? 実は鰓昆布を使わなくなってからライムを入れるようになったのもそこに理由があって――」
なるほど、魔法薬学の大家というだけのことはある。水を得た魚と言うべきか、饒舌になったジガーは柔らかな笑みを浮かべて語りはじめた。
彼ほどの教養が市街に埋もれていることを考えると、魔法界は磨かれないまま朽ちていく原石に満ちていると痛感させられる。それは原作に登場する人物に限った話ではない。ダフネのあずかり知らぬところで、才能を抱えた魔術師が生まれ、育ち、死んでいく。
だからこそ、今日はジガーに才能を発揮してもらう必要があった。
「先生のお話はとても興味深いですけれど……今日は急ぎお願いしたいことがございますの」
「……あ、ああ。承知している。例の薬ならできあがっているよ。ただ」
「ただ?」
ジガーは再び口を閉ざし、視線を泳がせた。
清潔な髭を束ねる金の輪が揺れる。震えているのだ。恐怖。そして後悔。その感情は目を見ればすぐにわかった。ダフネにとってそれらの感情は身近なものだった。
だから、ダフネは微笑んだ。
「あなたのスポンサーが命じたとおりにおっしゃっていただければ結構ですわ」
「ッ、なぜそれを」
「口座を分けずに受け取ったお金をまとめて入金したのは少し不用心でしたわね。せっかくミスター・ヤックスリーが現金で渡してくれたのに、大きなお金の動きがあったとわかってしまいますわ」
指先を震えさせたジガーが、グラスを取り落とした。ダフネは軽く杖を振って、それをテーブルに軟着陸させた。
そう、ダフネは知っていた。ヤックスリーがジガーに接触したことを。そしてふたりが何かしらの取引を交わし、ジガーが大金を受け取ったことを。
ダフネの後援者、グリンゴットの目をすり抜けて金のやりとりをすることはできない。ましてや、愚直な消費者であるジガーは古びて防犯魔法に綻びのある自宅に大金を置いておくなどという大それたことができるほど豪胆な老人ではない。
「失礼ながら、先生の経済状況については十分承知しておりますのよ。先生、家計簿をつけてらっしゃらないでしょう。なんなら私の方が先生の資産ポートフォリオを正確に描けますわ」
「な、な……」
「その上で……お詫び申し上げますわ、先生。先生が背負った借金、いいえ、より正確に言えばコーバン・ヤックスリーという金貸しにカモと見なされていることそのものについて、私は解決策を持ち合わせていませんの。だから、先生を助けることができなかった」
ダフネの腕は有限の長さだ。全てを抱えられるわけではない。
モンテ・クリスト伯の如く大金をばらまいて救いと破滅を与えることは、ダフネにはできない。グリーングラス家は資産運用こそ堅実だが、収入面では所詮純血社会の末席に位置する程度のものしか有していないのだ。
だから、借金苦に陥った魔法使いにガリオン金貨の詰まった袋を突きつけるようなシンプルで理想的な外交をすることはできなかった。もちろん、ルシウスの手を借りれば実現は可能なのだが、ダフネはそうしなかった。
その手段を選んだという隙をヤックスリーに見せるわけにはいかなかった。
「必要とする相手を借金苦に落とせば私をコントロールできるなどという、浅はかな考えに屈するわけにはいかないのです。ご理解いただけますでしょう、先生?」
ジガーは口をぱくぱくとさせたが、結局そこから言葉は出てこなかった。
仮にダフネの総資産をはたいてジガーを救うことができたとしよう。ヤックスリーは次の生け贄を祭壇に上げる。ダフネが見捨てるわけにいかない誰かに借金をさせて、その金をダフネに払わせる。
これがヤックスリーの描いたであろう破滅の最短ルートだ。
ダフネがこの借金を肩代わりするわけにはいかない。ヤックスリーが明確にダフネを敵対視しはじめた以上、ダフネは経済的に潔癖である必要がある。
あるいはダフネにもっと力があれば、ジガーを直接救うことができただろう。その場合、ジガーはダフネにとって心強い味方になりえた。政治では役に立たなくとも、腕のいい魔法薬師が味方にいるというそれ自体が強力な意味を発揮する。
ヤックスリーが掘った穴をダフネが埋める。その不毛な勝負に持ち込まれれば、疲弊するのはダフネの方だ。ブラック家やマルフォイ家と手を組んだといえども、ダフネは矮小な純血の小娘に過ぎない。
しかし、それはダフネがヤックスリーに対して無力であることを意味するわけではない。
「先生。こんな夢を見たことはありませんこと? ある朝目が覚めると、借金が全て帳消しになっている、そんな甘美な夢を」
「そ、そ、それは……だが、そんなことは」
「起こりえない。ええ、そうでしょう。しかし、起こりえないことを現実にするのが魔法なのだとしたら、私は魔女なのですわ、アージニウス・ジガー先生」
ダフネはゆっくりとギリーウォーターを口に運んだ。
何も金の綱引きでヤックスリーに勝つ必要はないのだ。ヤックスリーをアズカバンの終身刑に値する存在だと世に知らしめることができれば、ダフネはジガーを借金から解放してやることができる。ダフネの勝ち筋はそこにある。
ヤックスリーとの勝負はこれから始まる。
「ミスター・ヤックスリーは今回の魔法薬について何を要求すると言っていましたか?」
「……記憶だ。開心術を受け入れるようにと。め、名目上は新薬を危険なことに使わないかの内心調査ということになる」
「なるほど」
ダフネは頷いてみせて、それからグラスを置いた。細長いグラスに水滴が伝い、テーブルに光を散らした。
的確に弱いところを突いてくる。やはりヤックスリーは厄介な敵だ。これまでもそうして人々の弱みを握ってきたのだろう。無差別な開心術は民事訴訟の要件を満たすが、契約の上であれば民間でも使うことができる。
閉心術の練習はしているが、ダフネの魔女としての技量は凡庸の域を出ない。限界まで努力してもなお、何かしらの情報は抜かれると思っていいだろう。原作の記憶は死守するしかないが、それ以外については最悪諦める必要がある。
「いいでしょう。その条件を呑むと伝えてくださいませ」
「い、いいのか? あのヤックスリーに知られるということは……」
「ええ。彼はその弱みを存分に活用することでしょう。リスクは承知しています。しかし、対処できないほどの問題ではありませんわ」
確かにヤックスリーは厄介だ。ダフネにない力を持っている。金貸しとしても死喰い人としても、あまり相手にしたいとは思わない。
しかし、結局はそれまでだ。
金貸しとしてのヤックスリーはグリンゴットには勝てない。死喰い人としてのヤックスリーはルシウスには勝てない。ダフネ個人では勝てない相手であっても、盤面を整えてやれば有利関係は覆る。
そして、ダフネはヤックスリーをいつまでものさばらせておくつもりはない。
すぐに勝てる相手ではない。ヤックスリーのような相手は勝ちきる盤面を作らなければ必ず蘇ってくる。二度と世に出られないような、完全な敗北を撃ち込む必要がある。そのためには、時間をかけてヤックスリーの認識を少しずつ歪めていく必要がある。
勝利を確信した瞬間が、策略家にとっての終焉だ。
「あまり悲観なさらないことですわ、先生。幸運は身近に転がっているものでしてよ」
「わ、私は……もう、悲観には慣れてしまったよ。彼との付き合いも長くなりつつある」
「ええ、そのようですわね」
ジガーはヤックスリーを破滅させるための釣り餌だった。
グリンゴットを通じてジガーの経済状況を把握し、彼がヤックスリーの邸宅付近で目撃されていることを知って、ダフネはヤックスリーの策を利用することを選んだ。
もちろん、一筋縄でいく相手ではない。ダフネの予想を超えることもあるだろう。もしかすれば、危険な目に遭うこともあるかもしれない。しかし、この一手でダフネは逆にヤックスリーの行動を制限することができる。
ハーポの呪いがある以上、ヤックスリーはダフネを警戒する。警戒している相手の弱みを握ったと考えれば、大抵の場合人はそれに夢中になる。与えられた骨に夢中でかじりつく犬と同じだ。
噛みつかれたのが記憶だったのは厄介だが、手はある。むしろ、ここでデメテル・ザビニと連帯して攻めてこられなかったのは僥倖だったとすら言えるだろう。
「犬を躾けるなら、まずはご褒美を与える必要がありますものね」
「な、何を言っているのか私には……」
「単なる冗談ですわ。私、冗談のセンスがないと友達によくからかわれますのよ」
ダフネがクスクス笑うと、ジガーは困惑したように眉を震わせながらグラスを手にした。状況が理解できずとも、与えられた役目を果たせたということは理解できたようだった。
これでジガーはヤックスリーからさらに金を与えられる。もちろん、それはジガーが抱える借金と比べれば焼け石に水もいいところだ。しかし、当座を凌ぐことはできる。次の返済にはまたヤックスリーから仕事を与えられ、こなせばいくらかの金貨がもらえる。
そうやってヤックスリーは少しずつジガーを自分のものにしていく。ヤックスリーは借金で人の魂を買い取る悪魔だ。悪魔は天使よりも優しく愚か者に手を差し出す。
その悪魔が被った善人の仮面を引き剥がし、地獄に叩き返して門を封じるためには、まだしばらくジガーには犠牲になってもらう必要がある。
「安心してくださいな、先生。友達の恩師ですもの、悪いようにはしませんわ」
「ああ、その……ありがとう。忘れないうちに渡しておこう、これがその薬だ。少しでも口にすれば細生物はたちどころに消え去る」
ジガーが懐から一本の試験管を取り出した。
ほんのわずかな雫だけがそこに入っていた。色のない、少し粘度の高い液体。これがダフネを呪いから解き放つ第一歩になる。
それを慎重にしまったダフネは、グラスを掲げてジガーに微笑んだ。
「お礼に次の一杯は奢りますわ」
「そうか? そ、それではもう一杯だけ」
「ええ。是非魔法薬の話を色々と伺いたいですわね」
老いたジガーは借金苦から解放されないまま死ぬかもしれない。そうなれば、ジガーはヤックスリーとダフネ、ふたりの策略家の犠牲になったことになる。
だからなんだというのだ。
「未来に、乾杯」
ダフネは、妹の未来のためだけに戦っている。