ブレーズ・ザビニの心情は、一言でまとめるには難しいものだった。
かつての活動的で力強くも優しかった母、デメテルの面影が忘れられない。あの頃のデメテルが帰ってきてくれるのなら、折檻も暴言も笑って許せるという気持ちがあった。
だから、ダフネから告げられたその言葉に、ブレーズは太陽が永遠に去ってしまったような寒さを感じた。
「あなたの母を完全な形で救うことは、難しいでしょう」
ダフネは血色の悪さを化粧で誤魔化した頬に苦悩を浮かべながら、しかしはっきりとそう告げた。それがダフネなりの優しさであることは、ブレーズにもよくわかっていた。
母が元に戻らないかもしれない。
その事実に、ブレーズは打ちのめされそうになった。あと一歩のところでこらえることができたのは、その可能性が最初から頭にあったからだ。贈られた金のカップに施されていた邪悪な呪いがデメテルを蝕んでいることは、そばにいたブレーズが一番理解している。
談話室の隅、密談用の小さな部屋の柔らかな椅子の上で、ブレーズは小さく震えた。恐れていた日が来てしまった。
「何人かの協力者に、デメテルに与えられたカップと同じ呪いがかけられた魔法の道具の分析を手伝ってもらいました。はっきり言いますわ。一度呪いに蝕まれた以上、元通りというわけにはいきませんの」
「そう、だよね。……うん、それはわかってた」
ブレーズが頷くと、ダフネは意外そうに眉を上げた。
それはそうだろう。ブレーズは内心で苦笑した。ここ数年のブレーズは臆病で、自信がなく、縮こまっていて、男らしさの欠片もない少年だった。そんな少年に「母親の呪いは治らない」と伝えれば、結果は目に見えている。
しかし、ブレーズは泣き喚いたり、叫んだり、八つ当たりしたりはしなかった。いくら心が弱り、迷っても、母の子であるという誇りまでは捨て去っていなかった。
「それで、何をするの?」
「カップから水を飲んだ以上、呪いは体内に取り込まれている。だから、ただカップを破壊しただけでは呪いは残ったままになりますわ。身体に残っている魔法の全てを、体外に吐き出させる必要がある」
「魔法の全てを……でも、それは」
「ええ。デメテル・ザビニの不老と美貌、その秘訣である魔法も解けてしまうでしょう」
デメテルは鬼婆の血を引いている。
若い頃は美しくとも、いつかは鬼婆の血が表に出る。そうなれば、いぼに覆われ、背は曲がり、いかにもマグルのおとぎ話に出てくる魔女のような不格好で不気味な老婆に成り下がる。
だから、デメテルはずっと魔法でそれを隠してきた。
リンジー・ヤックスリーという魔女から教わった、肉体の時を止め若くあり続ける魔法薬。飲んでいる間はあらゆる変異を食い止め、劣化を防ぐその魔法薬のために、デメテルは何人もの夫を
その魔法が、解けてしまう。
「同情はしますわ。デメテルは悪人だったわけではない。行動力のある慈善家だった。状況が違えば、私にとって心強い味方だったことでしょう。その彼女が一夜にして全てを失うというのは――」
「全てじゃないよ」
ブレーズはダフネの言葉を穏やかに遮った。
全てではない。デメテルは美貌と人望を失うかもしれないが、それは終わりではないのだ。
なぜなら。
「僕がいる。母さんには僕がいるよ」
「……正直、理解できませんわ。あなたは虐待を受けている」
「うん。でも、それは母さんが呪いでおかしくなったからだ。……もしかしたら、母さんにとって男なんて魔法薬の材料でしかないのかもしれない。でも、僕は……」
かつて、デメテルの温かい手はブレーズの全てだった。
どんな美しい女の子より、どんな甘いお菓子より、母の愛情がブレーズを満たした。それはデメテルが呪いに汚染され、理想を失い、富と権力の亡者に落ちぶれても変わらなかった。
デメテルの理想を果たすためだけに生き方を変えた。人を導くのではなく、唆すような生き方。かっこいい男ではなく、魔性の魔法使いに。ブレーズにとって最大の恩師はスネイプでも、ダンブルドアでもない。女性の動かし方を教えてくれたロックハートだ。
その全てが、母のためだった。
「僕は、母さんの子だよ」
しばらく、ダフネは興味深そうにブレーズを眺めていた。
その瞳にはどこか、羨望のようなものが見え隠れした。いつもであればダフネがここまではっきりと感情を示すことはない。彼女は微笑みのうちに全てを決定し、内心を読み取れた頃には全てが終わっている。
きっと、ダフネは疲れているのだ。そして、その疲労の一因となっているのは間違いなくデメテルだった。そのことは、少しだけブレーズを誇らしく思わせた。有能で優秀なダフネでも、母には手を焼くのだ、と。
「いいでしょう。あなたがそこまでデメテルのことを想うのなら、止めはしませんわ」
「うん。それで、僕は何をすればいい?」
「私がデメテルに接近できる唯一の機会、それはクリスマスコンサート。そこで全てを終わらせます。あなたにはふたつ、やってもらわなくてはならないことがありますの」
「ふたつ?」
ダフネは頷き、ポケットから魔法薬の入った小瓶を取り出した。
紫色の洒落た小瓶。螺旋を描いた金の蓋はフランスで流行のデザインだ。おそらく調合した魔術師は自分の魔法的なセンスに自信を持っている人物だ。ブレーズの視線に気づいたのか、ダフネは小さく肩をすくめた。
「スラグホーン先生に調合していただきましたの。最近少し別の魔法薬師と取引があったのですけれど、そのことを匂わせたら喜んで立候補してくださいましたわ。プライドの高い殿方って大変ね」
「はは……この魔法薬はどんな効果があるの?」
「体内の魔法的な均衡を調和に運ぶ魔法薬、だそうですわ。調律前にピアノの蓋を開けるようなものですわね。これをデメテルに飲ませます。全ての魔法を、彼女の身体から押し出す」
「そんなことが本当にできるの?」
ダフネは小さく頷いて、指先で小瓶をつついた。
小瓶は軽く傾いたが、倒れずそのままの角度で静止した。よく見ると、小瓶の中で魔法薬が渦巻いている。完全な均衡を保った美しい螺旋は、いつまでも見ていられそうだった。
「単に呪いだけを排除するのは至難の業ですわ。しかし、全ての魔法を丸ごと押し流すという荒業であれば可能性は見えてくる。混ざりあった絵の具から特定の色だけを抜くことはできなくとも、全ての絵の具を洗い去ることならできるでしょう?」
「……なるほど、わかった。それで、もうひとつは?」
しばらく、ダフネは黙ったまま小瓶に視線を落としていた。
魔法薬は静かに渦巻いている。この渦がデメテルを呪いから解き放つ。たとえデメテルが不老と美貌を失ったとしても、それはブレーズにとって間違いなく救いだった。
しかし、ダフネは浮かない顔で、細く白い指先で魔法薬の小瓶をさらに傾けた。ほとんど倒れているような小瓶の中で、渦はますます大きくなった。
「呪いのカップを破壊すること。それが私たちの勝利条件ですわ」
「どうやって壊せばいい?」
「私がその手段を持っています。だから、あなたはカップを手に入れて渡してくれればいい。……おそらく、魔法薬を投与するタイミングで破壊する必要があるでしょう。呪いを暴走させないためには、早すぎても遅すぎてもいけない」
「……どうして、そんなに不安そうなの?」
たくさんの女の子と触れあってきたブレーズの目には、ダフネが隠そうとしている怯えのようなものが見えていた。いつものダフネであれば隠しきれていたであろう、かすかな震え。それはブレーズにとってあまりにもわかりやすい印だった。
ダフネは不満そうに鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。
「……あなた、デメテルの呪いが解けた後はどうするおつもりかしら」
「母さんを支えるよ。母さんが昔のように弱った人や困った人を助けたいと思うのなら、僕はそうする母さんを助ける」
「茨の道ですわよ。デメテルは社会的地位を失う。おそらく収監されるでしょう。誰も彼女を助けない」
「でも……それでも母さんを助ける手段は、ないのかな」
思わず項垂れる。
自信のなさそうな、庇護欲を刺激する振る舞いが身につくたび、ブレーズ自身の自信が損なわれていった。かつての自分なら笑い飛ばしたであろう不安が、ちくちくと胸を蝕む。
デメテルは多くの罪を犯した。
鬼婆たちの姫として、デメテルは少なくない命を奪った。かつては鬼婆たちのために人を殺していたはずが、美貌と不老のために殺すようになり、やがて私欲のために殺すようになった。
それだけではない。かりそめの救いで多くの孤児を、寡婦を、病人を絡め取り、都合のいい労働者として酷使した。彼らはデメテルの財源であり、権力の源だった。
その罪はたやすく許されることではない。ただの子どもに過ぎないブレーズが一体何をできるだろうか。母を救うためにできることは、本当にないのか。
沈黙の中で、ダフネが魔法薬の小瓶を立てた。
「あなた、正気に戻ったデメテルを説得できる自信はあるかしら」
「説得?」
「我が軍門に降りなさい。私の下につくのなら、守ってやらないでもありませんわ」
顔を上げると、ダフネはそっぽを向いていた。
その指先が小瓶を弄ぶ。ぐらぐらと揺れる水面は、まるで彼女の心を表しているかのようだった。ダフネ自身が戸惑い、悩みながら、それでも彼女は言葉を続けた。
「デメテルは弱者を生かさず殺さずの食い物にするビジネスで成り上がりました。それは褒められたことではありませんわ。しかし、彼女が失墜することは多くの弱者にとって死を意味する。イギリス魔法界の平和を保つためには、まだ働いてもらう必要がありますわ」
「それって……」
「無罪放免とはいきませんが、司法取引の用意があるということです。財産の没収くらいは覚悟してくださいまし」
ブレーズが勢いよく立ち上がると、ダフネはブレーズを見上げた。その威嚇するような勇ましい目つきは、ブレーズから見れば不安の裏返しだった。
きっとダフネの敵はデメテルだけではないのだろう。こういった戦いをいくつも繰り広げてきたはずだ。その中ですら、ダフネは救える者を救おうとしている。
もちろん、ダフネにとって一番大事なのは富でも権力でもないし、ましてや闇の魔術師のように死と混沌を振りまくわけではない。ダフネの瞳がアステリアに向けられる時、その瞳に浮かぶ光の柔らかさをブレーズはよく知っていた。
この愛情深く、気高い少女とともに戦いたい。
自尊心を捨て、愛玩動物のように振る舞っていたブレーズの深層に積もっていた消し炭が、ちろりと青い火を灯しはじめた。
「僕は、君の役に立てる?」
「デメテル・ザビニの人心掌握術を一番近くで見ていたあなたには、相応の期待を向けておりますわ。それに、たとえ彼女の正体が暴かれようとも残るものがないわけではない」
「うん。……うん、わかった。母さんを救ってくれるなら、僕はきみのために戦う」
ブレーズは跪き、ダフネの前で頭を垂れた。
小さく息を吐く音が聞こえる。
ダフネは戸惑っていた。それはそうだろう。ブレーズはただ、母親の協力を取り付けるだけでよかった。ダフネの配下として生きる必要はないのだ。ただ、協力すればそれでよかった。それをダフネも望んでいたことだろう。
それでも、ブレーズはダフネの配下となることを選んだ。それは打算であり、同時に運命だった。ブレーズに流れる鬼婆の血という霊性が、強者に対する本能を強く刺激した。
「……いいでしょう。臣従を誓いなさい。生かさず殺さず人を使うということがデメテル・ザビニだけの専売特許ではないということを、思い知らせてあげますわ」
ダフネがブレーズの肩に杖を置いた。
それは間違いなく、臣従の誓いだった。14歳の子どもたちがするそれはあまりにもごっこ遊びじみていて、しかし、一生を左右する強い誓い。
「デメテル・ザビニを呪いから解き放ちましょう。たとえ彼女が老いた鬼婆としての醜く残忍な姿を晒すとしても、あなたがそれを救いと思うのならば」
わかっている。
ダフネはブレーズのためにデメテルを救うのではない。デメテルの名声を失墜させることがダフネにとって得になるから、杖を取るのだ。
ブレーズはダフネを救世主と思っているわけでもなければ、奇跡と思っているわけでもない。母の周囲にいる多くの策略家と同様に、ダフネは陰謀の糸を編み、広大な計画のタペストリーを紡ごうとしている。その一部にデメテルの失墜という物語が含まれるだけだ。
それでも、長くデメテルのそばにいたブレーズは、ダフネが一流の織り手であることを直感的に理解していた。
もちろん打算もある。
ダフネの下につけば、ザビニ家にも存続の道が見えてくる。ブレーズ自身も鬼婆の血を引いている以上、権力にすり寄らねば生きていく道は限られる。
「誓いなさい。私の配下となると。あなたは臆病なネズミだけれど、私の下で大魔法使いイリウスのネズミとなる。史上最も多くの吸魂鬼を追いやった、最強の守護霊に」
「うん……誓うよ。僕はあなたのネズミだ」
杖先がちり、とブレーズの肌を焦がした。
母を救い、家を救い、そして自らの道を切り開くために、ブレーズは母を裏切ることを選んだ。
「クリスマスコンサートではあなたにエスコートを任せますわ。そして、これを」
しゃらり、と金属が鳴る。
ひんやりとした感触がブレーズの首にかけられた。それはどうやら、金でできた鎖のようだった。視線を落とすと、砂時計の嵌まった円盤のようなものが見えた。
「ひとりにふたつの仕事を同時にさせるのは難しい。それなら――あなたが増えればいいのだわ」
ダフネは笑っていた。
不安も戸惑いも飲み込んで、戦場に赴く者の強い笑み。全てを喰らい尽くしてしまうようなこの笑みに、ブレーズは賭けることにしたのだ。