オールダーンのイゾベル・ガウディ・ホールは、イギリス魔法界で最も名誉ある音楽堂とされている。
国際魔法使い機密保持法制定当時の魔女として有名なイゾベル・ガウディは、歌うように呪文を唱える近代呪文音韻論の祖としても知られる。その影響はマグル界の童話にも残っているほどだ。
その素朴な伝承に反して、イゾベル・ガウディ・ホールは多くのスコットランド魔法族からの献金を得て作られた絢爛な建物だった。緻密に設計された反響魔法は最先端のマグル界の劇場をはるかに凌駕する圧倒的な音響美を誇る。
「でも、今宵の音色はこのオールダーンには収まらない」
スコティッシュ・ウール100%の赤いカーペットをハイヒールの爪先で撫でて、ダフネは小さく微笑んだ。その微笑みに、紳士たちが戸惑ったように目を逸らしたり、調度品を眺めるふりをしたりした。
なぜダフネに注目が集まっているのか。
それはホストであるデメテル・ザビニの息子、ブレーズ・ザビニがダフネをエスコートしているからだった。一部ではデメテルがダフネを息子の嫁に認めたという軽率すぎる噂すら流れている。
もちろん、実態は違う。今夜、ダフネはデメテルと決着をつけに来た。
「ブレーズ、手筈は」
「万全に」
「ありがとう」
「……また僕たちが知らないところで悪巧みをしていただろう」
上等な夜会服に身を包んだドラコが、眉間に皺を寄せてダフネを睨んだ。
今回の一件は蒼の貴血を通していない。ドラコにも相談すらしていなかった。それが今になってドラコの機嫌を損ねている。
「あなたたちに汚れ仕事をさせるつもりはなくってよ」
「ふん、それが本音のつもりか?」
ドラコは不満そうにシャンパングラスを傾けた。もちろんノンアルコールだが、怒りでかすかに上気したドラコの頬を見ているとどことなく酒を呷る不良にも思えてくる。
ダフネが蒼の貴血を頼らなかった理由はシンプルだ。手札には役割がある。
「ここでこの一件とあなたたちを絡めると、後々露見したときにあなたたちが動きづらくなる。それは私にとってあまり望ましいことではない。あなたたちには大手を振ってお日様の下を歩ける身分でいてもらう必要があるの」
「だから汚れ仕事をひとりでやるって?」
「ひとりじゃないわ」
「へえ、それならご紹介いただきたいものだ。一体誰がこの性悪に振り回されているのか。場合によってはいい友人になれる」
ちょうどその時、誰かがローストビーフのトレイをひっくり返す音が響いた。このホールは音をよく拾う。銀製のトレイなど落とそうものなら、それはもうひどく騒がしい。
「あーっ、ごめん! 大丈夫、片付けるから。大丈夫!」
「手伝いますわ」
「本当? ありがとう!」
口の端にソースをつけたまま杖を振るってトレイをなんとかカートに戻そうとする魔女の隣で、ダフネはこぼれたローストビーフに消失呪文を放った。彼女の
全てが片付いてカートが自動運行を再開した時、魔女は大きく息を吐いて胸を撫で下ろした。
「参っちゃうよ、ちょっと小腹が空いただけだったんだ。こういう窮屈な場だって知ってれば漏れ鍋の待機組に志願してたのになあ」
「あら、功労者に相応しい夜だと思いますわよ、ニンファドーラ」
身震いしてから警告するようにダフネを軽く睨んだ彼女――ニンファドーラ・トンクスは、小さくため息をついた。
「わかってもらえないかなあ。本人にとっては重大な問題なんだよ、名前って」
「だからってアンドロメダと並んだときにあなたをファミリーネームで呼べと? 犬を飼うときに犬という名前はつけないでしょう」
「それはまあ……待って、一匹しか飼わないなら犬は犬だっていいんじゃない? それとおんなじ。パパとママがいないときならわたしはトンクスで通じるでしょ」
トンクスと呼ばれるためなら頭の回転すら速くできる彼女のことを、ダフネは存外気に入っていた。
今回の作戦で最大の功労者、それがトンクスだ。独自のネットワークを有する鬼婆たちを相手に魔法法執行部が情報戦を展開できたのは、ひとえに先天的な変装の達人であるトンクスの力によるものだった。
まだアラスター・ムーディの下で指導を受ける見習いの身でありながら現場参加が許されたのは、この後の作戦でもその能力が活きるとスクリムジョールが判断したからだ。闇祓いの配置を任されたパイアスは即座にトンクスをダフネの近くに置いた。
「あまり緊張していないようで安心しましたわ」
「うん、まあ、あんまり実感がないからね。緊張してた方がいい?」
ダフネは返事の代わりにシャンパングラスをシャンデリアの淡い光にかざした。
立ち上る気泡のように、この魔法界では何人もの魔法使いや魔女が頭角を現しては消えていく。原作のトンクスもある意味ではそのひとりだ。闇祓いであり不死鳥の騎士団員でもあったトンクスは、戦争の中で悲劇の死を迎える。
利用価値はある。血筋も悪くはない。しかし、根本的な精神性が純血主義とは相容れないだろう。トンクスをどう扱うべきか、ダフネはまだ決めかねていた。
「ポリジュース薬がなぜ法で禁じられたかご存知かしら」
「なぜって……あー、なんか試験に出た気がする。変身に失敗するととんでもない魔法事故になるんだっけ?」
「それはあくまで副産物。本質的には、ポリジュース薬はどんな凡夫をすら最強の工作員に変えてしまう薬だからですわ」
外見を完全にコピーする薬。そんなものが出回れば、あらゆる守りは意味をなさなくなる。仲間の姿をした敵。いや、問題はもっと根深い。一度ポリジュース薬にしてやられた者は、生涯に渡って周囲を疑わねばならなくなる。その猜疑心こそがポリジュース薬最大の成果だ。
そして、トンクスはやろうと思えばノーコストでそれを不完全ながら再現できる。ネズミの動物もどきと違ってその姿のまま魔法を使うこともできるし、副作用すらない。
その成果が今日、この舞台で発揮される。
「今宵の活躍には期待させていただきますわ、ニンファドーラ・トンクス」
「トンクスだけでいいの、トンクスだけで。でも、わかった。お姉さんにどーんと任せときなさい!」
軽薄さとは裏腹に、その瞳には誠実な光が宿っていた。
ちょうどその時だった。
「――あら、ここにいたの。探したわ、ブレーズ」
澄ました柔らかい声。人の警戒心を解かせ、柔らかい生の感情を掬い取るその声の持ち主は、今になって初めてダフネに気づいたように眉を上げた。
銀のドレス。大ぶりな琥珀の耳飾り。己の黒い肌を美しく見せるということについて知り尽くした女の妖艶な立ち姿で、今宵のホストが静かにダフネの価値を見定めていた。食う価値のある餌か、と。
「ごきげんよう、ミセス・ザビニ。いい夜ですわね」
「ええ、いい夜になるわ。ロンドン中の苦しみを抱えた魔法族がその傷を癒やしに集まったのだから、いい夜にしなくては嘘というものでしょう」
クリスマス・チャリティーコンサート。
この夜、少なくない額のガリオン金貨がデメテルの口座に集まる。もちろん、表向きは個人の口座ではない。彼女が立ち上げた基金への寄付という形になっている。しかし、実際のところその使途についてはデメテルに一任されている。
デメテルはこの基金から小銭を引き出し、それを報酬としてあてがうことで弱く貧しい人々に仕事をさせてきた。それどころか、その労働者プールをアッパーミドルクラスと共有し、ある種の財閥を構築していた。
「私、あなたを尊敬していますの。本当ですのよ?」
「あら……お上手だこと」
それ自体は罪ではない。うまい手法だ。ダフネも感心させられた。
だから、今宵の戦いは正義の戦いではない。鬼婆を指揮して人を殺させているというのはダフネにとって口実でしかない。これより先に進むための、エゴに満ちた生存競争だ。
「今日はお友達が多いみたいね?」
「あなたのご招待でしょう?」
「ええ。でも、あなたが声をかけなければここに来なかった方たちだわ。最上席の周りに3人、ステージ近くに3人。シリウス・ブラックでも来るのかしら?」
デメテルの言葉にトンクスが身を強ばらせた。
闇祓いの配置がデメテルに露見している。スクリムジョールの計画では、コンサートの最中に起きる
「いい手を使われましたわね。鬼婆の証言に証拠能力はない」
デメテルが笑みを深めた。
鬼婆を捨て駒に使うのは賢いやり方だ。ヒト至上主義者の跋扈するウィゼンガモットは亜ヒトの証言を尊重しない。鬼婆の記憶にすら証拠能力を認めないだろう。だから、デメテルと鬼婆の関係が立証されることはない。
だから、スクリムジョールは一計を案じた。今夜、
それが失敗に終わろうとしている。
「亜ヒト種族に対する魔法省の態度には正直に言って疑問しかないわ。私にはどうしても、無意味に虐げているように思えるの。もし誰かが不当に逮捕されているのだとしたら、私はその人の名誉のために戦ってもいいと思っているわ」
「それはご立派ですわね」
デメテルの権利運動が鬼婆にまで拡大すれば、もう彼女は止まらない。心酔する奉仕者と闇の勢力によって構築された一派は、マルフォイ閥すら傾かせるだろう。
「あなたの計画にはタイムリミットがあった」
「何の話かしら」
「寡婦、乞食、孤児、傷病人。先の戦争で多くの魔法使いや魔女が弱者に身をやつしましたわ。あなたは見事にそれを拾い上げてみせた。需要と供給が噛みあったのですわね。でも、それにはいずれ終わりがある」
ダフネは視線をステージの袖へ向けてみせた。
待機する楽団に声をかける魔法使いがいる。一見すると激励して差し入れを渡しているだけのようだが、違う。彼らはデメテル閥からの引き抜きを狙っているのだ。
パイの奪いあい。弱者を支援するという人道的行いによって社会的地位を得るためには、まず弱者が存在していなくてはならない。誰もがデメテルに仲介料を払いたいわけではないだろう。
「組織的で大規模な弱者救済。それを構築するためには資金、人脈、そして何よりも速度が必要だった。オークションのようなものですわね。誰よりも早く、誰よりも多くせしめる必要がある」
「何が言いたいのかしら。そろそろ息子を返してもらっても?」
「あなたの失敗は、ブレーズを後継者として扱わなかったことですわ。そうでなければ、あなたはまだ戦えた」
デメテルがダフネに歩み寄り、腰をかがめた。
「あまり生意気を言うと踏み潰してしまうわよ、おちびさん」
ダフネはデメテルを見上げた。その
仕込みは済んでいる。
「ブレーズをお返ししますわ」
「……ええ、どうも。行くわよ、ブレーズ」
「はい、母さん。……それじゃあ、後は」
「ええ、任されましたわ」
サバンナを歩くメスライオンのように堂々たる足取りで、デメテルは去っていった。
分霊箱、ハッフルパフのカップはデメテルのドレスに仕込まれた検知不可能拡大呪文によって隠されている。それこそが作戦の要だ。
「……怖っ」
トンクスが小さくこぼした。その視線は、明らかにダフネへと向けられていた。
なるほど、小市民的な視点からすればダフネも十分に恐ろしいのだろう。ダフネは自分がどう見えるかについてある程度は客観視している。そうでなければ自分という駒を最大限有効に活用することができないからだ。
しかし、素直に怖いと言われたのは久しぶりな気がした。
「私が怖いかしら、ニンファドーラ」
「はは……ガウェインのやつ、何が楽な子守だよ! めっちゃ怖いじゃん!」
「でも、デメテル・ザビニはもっと怖いですわよ。私は仕事を果たしましたわ。あなたも自分の仕事をなさいな」
「うんまあ、
その時、ホールの照明が一段暗くなった。
コンサートが始まる。ダンスタブルやタヴァーナーといったイギリス魔法界を彩る魔法音楽家たちの曲だけでなく、魔法界で生み出されてきた様々な交響曲が奏でられる夜だ。
「きっと美しい夜になりますわ」
シャンパングラスの中は、もう炭酸が抜けていた。
ダフネはそれを屋敷しもべ妖精が持つ銀のトレイに戻して、自分の席へと向かった。まだ人々は社交に明け暮れていて、暗がりをひとり歩くダフネには目もくれなかった。
席につくと、そこにはブレーズが待っていた。ブレーズは金の鎖に繋がれた逆転時計を首から外し、ダフネに差し出した。
「言われたとおりにしてきたよ」
「大変結構。それでは、預かりましょう」
「うん。……お願い。母さんを、助けて」
ハッフルパフのカップを受け取ったダフネは、ブレーズに頷いて背もたれに身を預けた。破壊手段はある。ダフネはついにヴォルデモートの不死たる所以に手をかける。
重要なのは、タイミングだ。