その血は呪われている   作:海野波香

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 ハリーは今まで、ホグワーツが魔法界最大の建物だと思っていた。それが思い込みに過ぎないと知らされたとき少しだけ寂しく感じたのは、きっとハリーの郷土愛とも呼ぶべき熱がホグワーツに向けられているからだった。

 

「イゾベル・ガウディ・ホールだ、ハリー。ここはスコットランドのオールダーン。ホグワーツよりは幾分南かな。イギリス魔法界最大の音楽堂だよ。フランスだとダスピルクエット劇場のほうが大きいのかな?」

 

 軽やかに解説を加えたリーマスは、多少古くさいながらも清潔な燕尾服を着て10歳は若返ったようだった。髪も丁寧に撫でつけ、胸にはフリットウィックから借りたらしい白いポケットチーフを挿している。

 ハリーもアークタルスから与えられたフォーマルな席のためのドレスローブを着ている。黒地に金糸、襟飾りはエメラルド。こんな高級な服を着てコンサートに来ていると知れたら、ダーズリーの連中はなんと言うだろうか。

 隣に座るリーマスの服装と比べるのが申し訳なくて、ハリーはなんということのない吊るしの衣装でも借りてきたような素振りを取ろうかとも思った。しかし、リーマスはハリーの衣装を一目見て「いい服だ」と褒めてくれた。

 

「緊張する必要はないが、ひとつだけ……これはチャリティーコンサートだ。席代は先の戦争で傷ついた人々の救済に使われる。その意義は理解しておいて損はないだろうね」

「先の戦争で、傷ついた人々……」

 

 ある意味では、ハリーもそのひとりだ。

 両親を失い、おばの一家に引き取られたハリーはずっと両親の遺産や土地のことなど知りもせずに、苦しい思いをして育った。しかし、多くの人々がハリーの幸せを願ってくれたのだ。その事実は、金貨の重み以上にハリーを癒した。

 その知らせを持ってきてくれた彼女が今隣にいないことを思うと、ハリーは見えない寒さに襲われたようなむなしい気分になった。きっとこの会場にいるはずなのに、それはハリーの隣ではない。

 ハリーの表情をどう勘違いしたのか、リーマスが元気づけるように明るい声を上げた。

 

「飲み物はどうだい、ハリー。君はまだシャンパンを飲むには少し早い歳だが、先ほどメニューを見た限りではかなりのラインナップだったよ。限定フレーバーのバタービールまである」

 

 ハリーは入り口で渡されたメニューを気乗りしない指先でゆっくりと開いた。せっかく連れてきてくれたリーマスには申し訳ないが、今は何も飲みたくない気分だった。

 その時、誰かの小さな手がハリーのメニューを取り上げた。

 

「おすすめはこれ、ですよ!」

 

 シナモンアップルフレーバーのバタービールを指さして、アステリアが笑っていた。隣ではグリフィンドールの1年生、カイン・リヴィングストンが少し困ったような笑みを浮かべている。

 カインは面白い後輩だった。パーシーやハーマイオニーとも話が合うし、フレッドとジョージについていけるだけの度胸と遊び心もあるし、ジャスティンの勉強会にも参加している。しかし、ハリーの知る限りでは、アステリアの隣にいるときが一番黒い瞳がきらめいていた。

 

「グリーングラス家の林檎を使っていただいてるんです。こういう席でしか出さない限定品ですからね!」

「やあアステリア、カインも来ていたんだね」

「こんばんは、ルーピン先生。私はアステリアの付き添いです」

「お目付役なんです! お姉様ったら、今日は忙しいからそばにいられないなんて言って、私をカインに押しつけたんですよ?」

 

 思わず、ハリーの胸がどきりと跳ねた。

 もしかして、ダフネは今日何か家の仕事でこの会場に来ていないのではないか? ハリーの胸中で、女々しい期待が膨らんだ。自分が誘われなかったわけではなく、単にダフネが来られなかっただけなのだと。

 

「お忙しいと伺って私から希望させていただいたんだ。それとも、僕のエスコートでは不満かい?」

「ほら、すぐそういうことを言う! 今日カインが何人の魔女をメロメロにしたか、あとでコレットに報告するんだから!」

「メロメロだなんて俗っぽい言い方はよしてくれ、ダフネ様の耳に入ったら僕が叱責を受けてしまう」

「……ダフネは今日、来てるの?」

 

 来ていない、そう答えてくれるだけでよかった。一日中忙しくしているのだと、家で様々な書類や帳簿を相手に奮闘しているのだと、そう言ってほしかった。

 しかし、その淡い期待はすぐに打ち砕かれた。

 ハリーの期待に反してアステリアは大きく頷いて、ホールの後方を指し示した。

 そこには、アステリアと同じ若草色のドレスに身を包んだダフネの姿があった。今日はいつもと髪型が違う。銀の飾りで髪を丸くまとめた姿は、どことなく大人びている。

 遠目には何を話しているかわからないが、エスコートしていたのはブレーズ・ザビニのようだ。ブレーズはちょうど似た顔の美人の魔女に連れられてどこかへ去っていく最中で、ダフネがその背を静かに見送っていた。

 

「……なんであいつと」

 

 小さくついた悪態は、誰の耳にも入らずに消えていった。

 

「おや、ブレーズのエスコートか。今宵のホストの息子だね」

 

 この話をこれ以上聞きたくなくて、ハリーは給仕の屋敷しもべ妖精を呼びつけ、シナモンアップル味のバタービールを頼んだ。

 グラスに注がれた琥珀色の液体をぐいと呷る。これがアルコールであればいいのに、と虚しい願いを一緒に飲み込む。きっとおいしいのだろうが、今のハリーには味が分からなかった。

 ちょうどその時だった。

 

「……あれって」

 

 会場の隅にブレーズがいた。

 目立たないようにタキシードの上から暗い色のローブを羽織っている。その動きがハリーにはすぐにわかった。透明マントで隠れているときの自分ならそう動くだろうという隠れ方をしていたからだ。

 ハリーは立ち上がり、グラスを返した。

 

「ハリー?」

「先生、僕その、ちょっとお手洗いに!」

 

 ハリーは駆け出した。

 同じ人が同時にふたりいる。そんなことが当たり前に起きていいはずがない。誰かが魔法を使ったのだ。

 そして、もしそうだとすれば、ダフネをエスコートしていたことにも何か意味があるのではないか?

 ダフネが危険なことに巻き込まれている予感がして、ハリーは周囲の目も気にせず走った。広いホールを横断し、袖のスタッフ控室まで。

 控室に待機していた楽団の魔女たちが、ハリーを目にして立ち上がった。

 

「まあ、もしかしてハリー・ポッター?」

「来てくださるなんて嬉しい!」

「握手して、握手!」

 

 わっと沸き立つ魔女たちになんとか会釈をして、ハリーは息も絶え絶えに問いかけた。

 

「今、ここに……ブレーズ・ザビニが」

「若様? ええ、来たわよ」

「どっちに行ったの!」

 

 魔女たちが指さす方向に進むと、ステージの袖に辿り着いた。

 飛び出しそうになったハリーは、慌てて黒い垂れ幕に隠れた。奥で誰かが話している。

 

「ブレーズ、いい子……今夜、お前の周りを飛び回る厄介な羽虫を片付けてあげるわ」

「ありがとう、母さん」

 

 ステージの袖で魔女と青年が何かを話していた。

 よく似た親子だった。どこか色気のある、人を惑わせるタイプの美貌。魔女はその美貌に相応しい黄金のカップをブレーズに差し出した。ブレーズはそれを受け取り、ポケットから取り出した布で磨きはじめた。

 

「あら、磨き布を変えたの?」

「そうだよ、母さん。ボージンさんのところで手入れに使っている業務用のいいものを分けてもらったんだ」

「私に似て人付き合いの上手な子ね」

 

 魔女――デメテル・ザビニが腰を曲げてブレーズの顎に手を添え、頬にキスを落とした。息子への愛情というより、まるで若い愛人を愛でるような振る舞いだった。

 ブレーズはそれを当たり前のように受け取った。カップを磨く手を止めすらしなかった。ハリーは見てはいけないものを見てしまった気持ちになって、背筋に嫌な汗をかきはじめた。

 

「はい、終わったよ。お水飲むよね?」

「ええ、もちろん。注いでちょうだい」

 

 ブレーズは磨いたばかりのカップにボトルから水を注いだ。一瞬、ボトルの中の水がおかしな動きをしたように見えてハリーは目を瞬かせたが、そのころにはもうブレーズはボトルをテーブルに戻していた。

 カップを受け取ったデメテルは注がれた水を呷り、喉を鳴らして飲み干した。その飲みっぷりはどこか官能的で、ハリーはここに来るべきではなかったのかもしれないという躊躇いを覚えはじめた。

 失礼なことをしてしまったのかもしれない、席に戻ろう。そう思いはじめたときだった。

 

「それじゃ、行ってくるわね。ダフネ・グリーングラスのことは任せなさい」

「はい、母さん。気をつけて」

 

 去り際、デメテルははっきりとその名を口にした。ダフネ・グリーングラスと、そう言った。

 ハリーの中で明確に何かが切り替わった。

 デメテル・ザビニはダフネを害そうとしている。

 ダフネを、害そうとしている。

 気がつけば、ハリーは垂れ幕の外に出ていた。

 

「あら、あなた……」

「聞いてました、全部。失礼かと思ったけど」

「何を? 大した話はしてないわ。それより! ハリー、ハリー・ポッター、本当にあなたが来てくれたのね! 嬉しいわ、ずっと会いたくて――」

「ダフネは入学すら待たずに会いに来てくれましたよ」

 

 思っていたよりもずっと冷たい声が出ていた。

 デメテルは静かにハリーを見下ろしていた。長身で、グラマラスで、きっとマグル界ならモデルか女優になっただろう美しい女は、まだハリーを敵とすら見ていなかった。

 

「あなたたち政治の世界の人たちは、みんな僕に会いたかったと言ってくれます。そのとおりなんでしょう。でも、本当に会いに来たのはダフネだけです。豚小屋の奴隷だった僕をポッター家の当主にしてくれたのは、ダフネ・グリーングラスです」

「……そう、そこまで聞いてたのね。それで?」

 

 それで。

 その問いかけが全てだった。ハリーには力がない。ハリーはまだポッター家の若き当主としてコネクションを得たわけでもないし、ポストを得たわけでもない。財力すら彼ら政財界の人々と比べてしまえばたかが知れている。

 それでも、ハリーはデメテルの正面に立った。

 

「覚えておきます。あなたがダフネの敵だということを。それはつまり、僕の敵だということだから」

「若いのね、ミスター・ポッター。この世界は敵だとか味方だとか、そんな簡単な枠組みでは動いてくれないのよ」

「僕には明確な敵がいます。ヴォルデモート」

 

 さすがにこの名前は効くらしかった。

 デメテルは静かに目を細めた。ハリーがやったことは単純だ。マグル界の政治家に「あなたはヒトラーだ」と言ったのと同じことをやった。

 ハリーは少しずつ、自分が持っている力を自覚しつつあった。ハリーは生き残った男の子だ。その言葉には、手には、力がある。それを振るいたいとは思わなかったが、それでも、ダフネのためなら。そう思えた。

 

「……そう、私も覚えておくわ。ポッター家の新しい当主とは仲良くできそうにないということを」

 

 それだけ言い残して、デメテルは控え室に消えていった。手に黄金のカップを携えたまま。

 ブレーズは困ったように眉を曲げて、ハリーの隣を通り過ぎようとした。行かせてもいいと思った。ハリーが今大した力を持たないのと同じように、ブレーズもまた母親の威を借る狐に過ぎないのだから。

 しかし、視界にちらついたそれを見て、ハリーはブレーズの手を掴んだ。

 

「それ、何」

 

 ブレーズの手には、先ほどまでカップを磨いていた灰色の布きれが握られていた。そして、その内側に金色の膨らみがあった。

 

「君には関係ないだろ」

「いいや、関係あるね」

 

 その膨らみはみるみるうちに大きくなって、先ほど磨いていたカップそっくりの金製品になった。アナグマの紋章がついているところまで完全に一致している。

 ブレーズはハリーから隠すように布でカップを覆い、ハリーの手を振り払った。そして、細く暗い通路の向こうへと駆けていった。

 舞台袖の暗幕のそばで、ハリーはしばらく佇んでいた。

 力が足りない。ダフネと正面から向き合う勇気。ポッター家当主として正しく立ち回るための知識。政財界に友達を作っていこうとする友愛心。そして、本当の意味での強さと、賢さ。

 

「……もし僕が、スリザリンに組み分けされていたら」

 

 ふと、そんなことを思った。

 今のハリーには何もかもが足りていない。それがたまらなくもどかしく、同時に腹立たしい。あと少し、あと少し何かがあれば、ハリーの世界は変わるはずなのだ。

 その時、開演のブザーが鳴った。ハリーは席に戻り損ねたことに気づいた。控え室が騒がしい。もうすぐコンサートが始まる。

 ハリーは垂れ幕をかき分け、舞台袖の目立たない場所にこっそり座り込んだ。

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