「あなた、運命の音を知っていて?」
ダフネは戯れに問いかけた。
「運命なんてあるの?」
隣に座るブレーズは答えた。
デメテルの思惑はどうあれ、このコンサートの間ブレーズはダフネのエスコートをすると決まっている。コンサートやパーティーのエスコート役というものは、時に腕を貸す以上の意味合いを持つ。
きっとデメテルはブレーズがダフネのエスコートをすることを嫌がっただろう。ダフネは彼女にとって厄介な競合になりうる存在だ。本当の苦しみを知った本当の弱者。だからこそ、デメテルはダフネが弱者の紐帯として自らの地位を脅かすことを恐れた。
「神秘部には運命の予言がいくつも保管されているの。本物を聞いたことはないし、聞く予定もないけれど」
「そうなの? どうして?」
「だって、自分の未来が決まっていると他人に告げられるのは腹が立つでしょう?」
ブレーズは何か、眩しいものを見るように目を細めながら頷いた。
演奏は終わり、今は給仕の屋敷しもべ妖精が客たちに飲み物を配っているところだ。ここでの売上はデメテルが立ち上げた財団の売上であり、それはつまりデメテルが弱者に仕事をさせるための資金となる。
弱者に稼がせ、弱者で稼ぐ経済。
美しいと思う。その思想がどうあれ、デメテルは下層市民の救済に形の上では成功している。階級社会を逆手に取った福祉エコシステム。それはつまり、ノブレス・オブリージュの制度的実現である。
アフリカ系の女性であるデメテルが英国魔法界でその偉業を成し遂げたことは、賛美されて然るべきだ。それは間違いない。ただ、彼女は間違えた。暗い出自――鬼婆の一党とは手を切るべきだった。たとえ、便利な暴力装置が他になかったとしても。
「――皆様」
デメテルがカップを片手にステージ上に立った。
ヘルガ・ハッフルパフのカップ。かつてはヘプジバ・スミスが一族に伝わるコレクションとして保有していた、ハッフルパフの秘宝だ。それをデメテルは今や肌身離さず持ち歩いている。
なぜ手放さないのか。それはカップにたぐいまれな古美術的価値があるからではない。分霊箱――ヴォルデモートの魂が込められた、闇の魔術がかかったアイテムに呪われてしまったからだ。
隣でブレーズがぐっと拳を握りしめた。ダフネは彼の手を落ち着かせるように撫で、小さく首を振った。
今ではない。
「この記念すべき夜に、クリスマス・チャリティー・コンサートにお集まりいただけたことを、心から嬉しく思います。紳士淑女の皆様、この英国魔法界が負った深い傷を共有し、共に癒やすことを選んでくださった皆様!」
喝采が上がった。
デメテル・ザビニは篤志家であり、慈善家である。その名声はイギリス全土に轟いていると言っていいだろう。ステージの上、楽団の中央で指揮台に立ち、光と喝采を受けるに相応しい人物だと、誰もがそう思っている。
鬼婆を取り仕切る闇の一党、夜と影の国を差配する女王にして女主人。その暗く醜い貌は、まだ誰にも知られていない。
「かつてこの英国魔法界を襲った戦禍に、多くの人々が傷つきました。その傷は癒えきっていません。ええ、これほどの時が経ってもまだ、我々は戦後を生きているのですわ」
あちこちからため息が漏れる。
嘆いてみせるデメテルは本当に美しかった。スポットライトを浴びて、長く輝くまつげは黒曜石を削り出したかのようだった。
「闇は未だ晴れない。それでも、できることはありますわ。皆様にお知らせしたいことがあります。……我が友人、英国魔法省大臣室上級次官ドローレス・アンブリッジの協力によって、とある法案が現在ウィゼンガモットの審査を受けています」
デメテルは意味ありげに指を立ててみせた。
一瞬、ダフネとデメテルの視線が重なった。デメテルは挑発的にダフネを見ていた。これから踏み潰す相手の硬さを見積もるように、デメテルはかすかに顎を浮かせた。
「人狼、鬼婆、異種族とのハーフ、そして――マレディクタス。そういった、魔法界で共生するヒト以外の皆様の社会定着を支援するための名簿登録。今まで人狼のみが対象となっていたこれを拡張し、義務化することを魔法省は検討していますわ」
会場が騒然とした。
狼人間登録室という部局がある。表向きは人狼であることをオープンにして働いていくための支援室という扱いになっているが、実態は異なる。いつでも
デメテルはそれを義務化すると言った。
「……面白い手」
ダフネは小さく笑って、ステージの上に立つデメテルを見上げた。
これは攻撃であり、後片付けだ。
ダフネとアステリアに登録を義務づけ、同時に鬼婆という自らのバックグラウンドを処理する。これまで手駒として使ってきた人狼も片付けておきたい。そういうことだろう。
「ご心配なく、皆様! ご心配なく! 確かに今まで、魔法省は狼人間登録室を十分に運用できていませんでしたわ。しかし、これを機に私たちは――」
デメテルの演説に、人々は落ち着きを取り戻そうとしていた。
「でも……遅いわ」
誰かがデメテルに腐った卵を投げた。
銀色の美しいドレスに褐色の混じった黄色が飛び散る。その先にいる人影に、デメテルはありえないものを見る目で表情を強張らせた。
「裏切り者!」
叫んだのは、ミゼリコルディアの名で知られる鬼婆だった。
「ずっとあたしたちをこき使って、殺しや汚い仕事をさせて、最後はポイ! そうはさせるかい!」
デメテルが悲鳴を上げた。
皮肉にも、その悲鳴が答え合わせになってしまっていた。彼女にとっての明確な弱点が、今世間に露呈している。
「……だ、誰か! アズカバンから鬼婆が脱獄しているわ!」
そう、ミゼリコルディアは今アズカバンにいる。デメテルが命じた殺人がガウェインによって暴かれたからだ。
鬼婆であるミゼリコルディアに今の英国魔法界では証言能力は認められない。だから、デメテルは安心して彼女をアズカバンに預けておくことができた。
万が一にもミゼリコルディアが口を割ったところで、デメテルの信用は少しも傷つきはしない。逆恨みでなすりつけられたとでも言えば全てが片付くからだ。このコンサートも招待客だけで構成されていて、ミゼリコルディアが忍び込む余地はない。
しかし、そのような疑念を抱くのはデメテルだけだ。
「おい、鬼婆が紛れ込んでるぞ」
「警備は何をやってたんだ?」
ざわめきの中で、天井を覆うガラスが割れる音が響いた。
それは、
「
「
薄汚い身なりの、悪臭を放つ老婆たちが次々に降り立った。
パニックが始まった。
「鬼婆の群れだ!」
「逃げろ!」
「おい、それは私の杖だ、触るな!」
「ちょっと、裾を踏まないで!」
チャリティー・コンサートに似つかわしくない、自分勝手で保身的な怒号が響き渡った。人々は我先に逃げはじめた。もはや、デメテルのことなど見てもいなかった。
楽団の魔女たちも、状況こそ理解できないながらも危険を察したのか逃げはじめている。先の戦争で傷を負いながらも生き延びた人々の判断は迅速だ。
デメテルはにじり寄る鬼婆たちを恐怖の表情で見下ろしながら、頬を引きつらせて、ただ降り注ぐガラスから身を守るために杖を抜いた。
「あ……あなたたちなんて、知らないわ! 来ないで!」
デメテルは魔法を使おうとした。
使おうとしてしまった。
「――そして、全てが終わる」
デメテルが膝をついた。目を見開き、手を震えさせている。
魔法薬――ブレーズが飲ませた、あらゆる魔法を解除する魔法薬が起動したのだ。デメテルの中を支配し、デメテルに支配されていた無数の魔法が、今、解き放たれる。
「ぐ、お、え」
デメテルは口を開いた。
美しい声の代わりに響いたのは嗚咽と、そして黒く淀んだ水を吐き出す音だった。ごぽり、と喉が鳴る。そして、デメテルは濁流のように黒い水を吐き出した。
腐臭があたりに広がった。鬼婆たちの纏う生ゴミのような悪臭よりもなおひどかった。
次第にデメテルの肌からつやとハリが失われていった。カップを握りしめる指は節くれ立ち、髪は光沢を失って薄くなり、そしてパンプスを脱ぎ捨てた足から指が一本失われていく。本来の――鬼婆の姿へと変わっていく。
デメテルは犯人を捜すようにぎょろりと血走った目であたりを見渡し、そして座ったままのダフネに目を向けた。最前席、ブレーズの隣に座って、静かに微笑むダフネを。
「ご……小娘ぇ」
「お探しはこれかしら」
ダフネは手に持ったカップをデメテルに向かって放り投げた。
きっとデメテルはこう思うだろう。大切なカップを盗まれ、愛しい息子をすら略奪され、偽物で毒を盛られた。敵であるダフネが持っているものが本物に違いない。本物を取り返せば。
取り返せば。
そこから先の思考はきっと支離滅裂なものだっただろう。それでも、デメテルは投げられたカップをいぼだらけの手で掴んだ。直前まで握りしめていたカップを放り捨てて。
デメテルは自らの手でカップを放り捨てた。
「ブレーズ」
「……はい。
投げ縄はカップを捕らえた。
難しい問題だった。分霊箱とデメテルを完全に切り離すためには、デメテルが自らの手で分霊箱を捨てる必要がある。そのうえで、捨てる瞬間はダフネの目前でなければならない。
ダフネは髪を結わえていた銀の――ゴブリン銀の飾りを取り、そしてカップに突き立てた。デメテルが掴んだ偽物のカップではなく、今手放された本物のカップを。
ステージの上で悲鳴が聞こえた。あるいは、それは断末魔だった。デメテルは口から黒い水をなおも噴き出し、そのたびに彼女の身体は縮み、そして歪んでいった。
「――デメテル・ザビニ! ならびに鬼婆の一党! 現行犯逮捕だ!」
先頭に立ったスクリムジョールが吼え、そして次々に闇祓いたちが姿を現した。彼らはデメテルの状態に困惑しながらも、自らの職務を遂行しようと杖を構えていた。
鬼婆たちが牙を剥き、闇祓いを威嚇した。鬼婆のひとりが闇祓いに飛びかかると、次々と失神呪文の閃光が飛び立った。
無数に集まった鬼婆と、それを逮捕するために集まった闇祓い。生死を懸けた戦いが始まった。
そして、ステージの上には醜いデメテルが残された。
「先に行きなさい、ブレーズ」
「でも」
「大丈夫、約束は守るわ」
これで邪魔者はいない。
ダフネは席を立って進み、ステージに続く小さな階段を上った。いつもであればアーティストが客席まで降りて挨拶をするのに使う、小さな愛に溢れた階段。それをダフネは躊躇せず上って、デメテルの前に立った。
「デメテル・ザビニ」
「わ……私、一体何を」
老いた、醜いデメテルは震えていた。
察しはついている。原作でジニー・ウィーズリーが日記帳に魂を蝕まれた時にどうなったか。そのことを考えれば、デメテルがどのような状態だったかは十分に理解できる。
ダフネは膝をついて、彼女の汚れた手を取った。
「あなたの理想は潰えた。あなたが汚れた手段で構築したシステムは、今夜終わりを迎えたの」
「ち……違う、違うのよ。おかしいわ、だって、あんなに頑張って」
「ええ、あなたは頑張った。その偉業は尊敬に値しますわ。本当に、私はあなたを尊敬している。嘘偽りなく」
その濁った瞳が、罪過の重さに揺れていた。
きっと分霊箱は記憶を奪ってくれなかったのだろう。思考を汚染されたとはいえ、自らの手で多くの命を奪い、気高いシステムを搾取のために使った。その苦しみは、決して彼女を逃がしてはくれない。
「あなたはもう終わり。美貌も、名声も失って、アズカバンで冷たい余生を送るだけ」
「そんな、私、私はとんでもないことを」
「でも――チャンスをあげるわ」
ダフネは頭を抱えるデメテルの顔を覗き込んだ。
いぼだらけで、鼻が曲がって、唇の歪な、醜い顔。これがデメテル・ザビニの隠していた顔だ。本来の、鬼婆の子孫であるデメテルの顔。
デメテルは全てを失った。
だからこそ、今のデメテルにはいくらガリオン金貨を積んでも足りない価値がある。
「あなたが自らの手で壊した理想を、私が復活させてあげましょう。全ての苦しむ人々を拾い上げ、英国魔法界を、いいえ、全ての魔法界を救いましょう。あなたが夢見たであろう世界を、私が見せてさしあげますわ」
「あ、あなた、あなたは……本当に?」
「デメテル・ザビニ。私の下で働きなさい。あなたの理想が叶う瞬間を最前席で見たいでしょう?」
デメテルは皺の寄った頬に涙を伝わせて、ゆっくりと頷いた。
こうして、デメテル・ザビニのシステムは再誕する。
鬼婆による暗殺も人狼による暴力もない。弱者救済を名目とした、政治的にも経済的にも高度な救済構造。ダフネが思い描く純血社会の階級構造で、そのシステムは必ず生き続ける。
美しきイゾベル・ガウディ・ホールは血と汚物と悲鳴と呪いで汚れきった。
ダフネの手も今や潔白とは言えない。
「誕生日おめでとう、デメテル・ザビニ」
節くれだった手を撫でながら、ダフネは囁いた。
もはやこの手は誰も殺めない。殺める力も、心も失ったのだから。それなら、残った指はダフネのために使ってもらおうではないか。