その血は呪われている   作:海野波香

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 劇場が燃えている。

 ハリーは火の移った垂れ幕の煤が顔につくのも気にせず、息を吐いて柱に身をもたれた。どこかへ走り出したい気持ちもあるし、どこにも行きたくない気持ちもある。

 どうにかなってしまいそうだ。

 

「ダフネ……」

 

 見てしまった。

 ダフネ・グリーングラスは悪党であるデメテル・ザビニを屈服させ、支配下に引き入れていた。それは間違いなく、彼女が悪事をなしている証拠だった。

 信じたい。そう思ってここまできた。ここまできたのに、ハリーの気持ちはいとも簡単に裏切られてしまった。

 震える指先で傷跡をなぞる。

 

「どう、して」

 

 傷跡が痛んだ。

 ダフネが金のカップに髪飾りを刺した瞬間、ハリーの傷跡に割れるような激痛が走った。ヴォルデモートに関わった時にしか痛まなかったはずの傷が、なぜかダフネを前にして痛んだ。

 ありえない。そう思いたかった。それでも、残酷なほど現実は明確で、空っぽになったハリーの胸は隙間風が吹くように寒々しかった。

 全部嘘だったのだろうか。ハリーのそばにいたのも、手を引いてくれたのも、あの温もりと愛おしさも、頬は緩むのに胸は引きつるような不思議な感覚も、全てが。

 炎は柱を伝って梁に伸びている。頭上に広がったそれを、ハリーは何もせずに見上げた。もう、何もかもがどうでもよかった。

 燃えさかる垂れ幕が炎に焼き切られて降ってくるのを、ハリーは拒みすらしなかった。

 

「――危ない!」

 

 若い女性の声が響き、鋭く杖を振る音が聞こえた。

 火の移った垂れ幕が吹き飛び、柱に巻き付いた。その炎は他の垂れ幕へと移り、劇場の屋根へと伸びようとしている。呪文を放った魔女は「しまった」という顔をしたが、それを打ち消してハリーに駆け寄った。

 

「君、怪我は? 歩ける? ここはもう駄目だよ、脱出しないと」

「……放っておいて」

「馬鹿なことを言わないの! 民間人だね、ホグワーツ生? 君ひとり?」

 

 不思議な魔女だった。

 老婆が着るような花柄のワンピースの上に、それを隠すように黒いレザーのジャケットを羽織っている。髪は紫で、目には不思議と警戒心を和らげる明るさがあった。ハリーが彼女の着ているワンピースに視線を落としたのに気づくと、魔女の髪がかっと赤くなった。

 

「こ、これは違うからね、わたしのセンスじゃないから。仕事で着替えたの、仕事。もっとマシな服じゃ駄目なのかってマッド-アイには何度も言ったんだけど……とにかく! 民間人を放っておくわけにはいかないよ」

「でも、僕……もうどうでもいいんです」

 

 魔女はきっと鋭い目でハリーを睨んだ。そこに悪意は欠片もなく、彼女はまるで愚図る弟を急かすように軽く頬を打った。

 

「どうでもいいことなんかこの世にひとつもないんだから! 何があったのか知らないけど、世の中手遅れなことなんてなんにもないんだよ。百個ミスっても百一個挽回すれば、トータルはプラマイでプラスでしょ?」

「それは……」

 

 ダフネが見せた暗い側面が、挽回できるものとは思えなかった。

 あの美しかったデメテルがあっという間にくしゃくしゃの老婆に変わってしまった。皺だらけのいぼだらけで、新聞を丸めたような薄汚い老婆。それをダフネは当たり前のように操って、支配下に置いてしまったのだ。

 ハリーがなおも立ち上がろうとしないのを見て、魔女は困ったように腰に手を当てた。

 

「何があったわけ?」

「……好きな人が、いたんです。でも、その人は悪い人だった」

「それで? 君はその人のこと諦めるの?」

 

 ハリーは魔女を見上げた。

 紫色の髪が、毛先にピンク色を宿している。瞳はまっすぐにハリーを見ていて、ハリーの言葉を疑いすらしていないようだ。

 

「だって、それは間違ってる」

「恋に正しいも間違ってるもないでしょ。その人が罪を償うのに君が付き合えるかどうかじゃない?」

 

 その言葉は、ハリーの胸に妙に響いた。

 

「さ、問答は終わり! 着いてきて!」

 

 魔女に腕を掴まれて、ハリーは半ば引きずられるように舞台袖を後にした。

 ハリーの頭は喪失感でいっぱいだったが、場内を埋め尽くす悲鳴と怒号を耳にして咄嗟に杖を抜いた。どうやらその判断は間違っていなかったようで、次の瞬間には鋭い何かがハリーの頬を掠めた。

 

「頭を低くして! 鬼婆の連中、骨のナイフと手斧を大量に持ち込んでるんだ。それによくわからないドロドロの魔法薬もね」

「鬼婆って?」

「おばあさんに似てる魔法生物だよ。割と話せるし、悪い奴ばかりじゃないと思ってたんだけど……とにかく、君を脱出させるのが最優先! わたしがいいって言うまで頭を上げないようにね」

 

 身を屈め、座席に隠れるようにして劇場を這い上がる。

 座席の間から見る限りでは、魔法使いたちと鬼婆の戦いは拮抗しつつも魔法使いたちがやや優勢なようだった。怪しげな魔法薬を振りまき、骨のナイフを投げ、手斧で殴りかかる鬼婆たちを相手に、彼らは杖を振り、鬼婆たちを一歩ずつ追い詰めつつあった。

 

「ジョン! ジョン・ドーリッシュ!」

 

 魔女にドーリッシュと呼ばれた男は、光る紐を放って鬼婆の腕を縛り上げながらこちらを振り向いた。几帳面に整えられた眉に強情そうな顎、いかにも厳しそうな眼光が魔女とハリーに向けられた。

 

「民間人を一名救助! 避難先は?」

「トンクスか! 予定していたホールを爆破された! 中央玄関へ向かえ!」

「了解!」

 

 ドーリッシュは3人同時に襲いかかってきた鬼婆を杖の一振りで吹き飛ばし、空中でひとつの団子に縛りあげた。どうやらかなりの腕前なようだった。

 

「あなたたちは何者?」

「闇祓いだよ、少年! 魔法界の悪しきを挫き、弱きを守る正義の味方! まあ、私はまだ見習いなんだけど……っと、危ない!」

 

 椅子の陰にうずくまっていた鬼婆が、手斧を投げようとしていた。ギザギザの刃先には緑色のぬめる液体が塗られている。

 トンクスが杖を振るよりも早く、ハリーが動いた。

 先ほどまで抱えていた激情と喪失感に、ハリーの杖は強く応えてくれた。鋭くしなり、杖先が空を切る音を奏でる。

 

武装解除せよ(エクスペリアームス)!」

 

 赤い閃光が手斧ごと鬼婆を貫き、吹き飛ばした。

 薄汚い服からボロボロとこぼれる黄ばんだ骨のナイフ。トンクスは小さく口笛を吹き、ハリーを賞賛するように手を叩いた。

 

「やるじゃん」

「トンクス! 民間人に杖を使わせるなどと……この件は報告しておくからな!」

「あーっ、ちょっと、それはないでしょ!」

「さっさと行け! 少年、その馬鹿から離れるんじゃないぞ!」

 

 ドーリッシュに怒鳴られて、トンクスはハリーの手を引いて駆けだした。

 一体何十人、いや、何百人の鬼婆が集まったのだろうか。闇祓いもそれなりの数がいるというのに、戦いは一向に終わりそうになかった。

 客席を駆け上がって扉の外れた門を潜ると、正面玄関の近くにバリケードが設けられていた。半透明の青白い光で包まれたその空間は、どうやら魔法的に守られているらしかった。脱出口だ。そして、何人かの魔法使いが杖を抜いてその空間をしっかりと守っていた。

 

「ハリー!」

 

 バリケードの前に立っていたのはリーマスだった。

 リーマスは安心したように大きく息を吐き、ハリーを抱きしめた。力強い抱擁にハリーの肺から一気に空気が押し出され、ハリーは咳き込みそうになった。

 かすかに震えたリーマスの手が、確かめるようにハリーの背を撫でた。

 

「今探しに行くところだった。ひとりで行かせてすまなかった、ハリー」

「先生、僕」

「無事でよかった……本当に、無事でよかった!」

 

 トンクスが戸惑ったようにリーマスとハリーを交互に見て、それから嬉しそうに笑った。できれば助けてほしかったが、トンクスは割って入るつもりはないようだ。

 

「お子さんが無事でよかったですね、ミスター」

「いや、私の子ではないんだ。だが……それと同じくらい大切な子でね。ここまで連れてきてくれて本当にありがとう、闇祓いのお嬢さん」

「あー、いや、わたしはまだ闇祓いじゃなくて……」

「そうなのかい? だが、私にとって君は間違いなくヒーローだったよ」

「へへ、そうかな……じゃあ、もう少し頑張っちゃおうかな、なんて」

 

 ハリーはもがいてリーマスの腕から脱出し、改めてトンクスに頭を下げた。

 劇場の奥からはなおも激しい戦闘の音が聞こえる。とんでもない夜になってしまった。その時、ハリーはある問題に気がついた。

 いまだにこんなことを気にしている自分の女々しさが心底情けない。しかし、それでも結局ハリーはトンクスに問いかけた。

 

「あの……ダフネ・グリーングラスを見なかった? 黒髪で、小柄で、若草色のドレスを着た女の子」

「ダフネ? ダフネならもう脱出したはずだよ」

「そっか……ありがとう」

 

 ハリーは小さく息を吐いて、トンクスが戦場と化した劇場へと戻るのを見送った。

 リーマスに肩を抱かれて、ハリーは劇場の外郭に設けられた暖炉へと向かった。来たときと同じように、この暖炉でホグズミードの『三本の箒』へ帰るのだ。

 

「一体どこに行っていたのやら……お説教はしないよ、ハリー。だが、私の肝がどれだけ冷えたかについては理解してくれるものだと思っている」

「ごめんなさい、先生。僕、その……ずっと舞台袖にいたんです。迷子になっちゃって」

「舞台袖に? それはまた、随分な特等席だ。しかし、まさかこんなひどいことになるとは……ミセス・ザビニにも一体なにがあったのか、心配だよ。ハリー、先にどうぞ」

 

 ハリーは煙突飛行粉を掴み、炎の中で叫んだ。

 

「『三本の箒』へ!」

 

 炎の色が変わり、ハリーの視界は高速で回転しはじめた。いくつもの暖炉の前を通過し、ホグズミードの温かみのあるパブに着くころにはハリーの三半規管はヘロヘロだった。

 それでもまだ、ハリーの心は癒えていなかった。

 今すぐにでもロンとハーマイオニーに相談したかった。ダフネはデメテル・ザビニを魔法で醜い老婆に変えて屈服させただけでなく、もしかするとヴォルデモートと繋がっているのかもしれない。

 二階に借りた寝室で預けておいた荷物からパジャマを引っ張り出し、清潔な藁のベッドに転がってもなお、ハリーの思考はまとまらなかった。

 

「大丈夫かい、ハリー? 夕食を食べ損ねたことを伝えたら、マダム・ロスメルタが切りたてのローストビーフを用意してくれたよ。マッシュポテトはホグワーツのものもなかなかだが、ここの肉は絶品だ」

 

 リーマスから差し出された皿を受け取って、ハリーはしばらく彼を見上げた。

 全てを話すべきなのだろう。リーマスはホグワーツの教授で、両親の友達だ。ハリーよりよほど冷静に判断を下せるだろう。

 しかし、ハリーの理性がそれに待ったをかけていた。リーマスはまだ例の闇の細菌に感染したままに違いない。そこでダフネに不利な情報を与えてしまえば、もっと過激な選択をとってもおかしくはない。

 いや、これは言い訳だった。

 この期に及んでなお、ハリーはダフネを善良だと思える言い訳を探していた。今のところその試みは成功していないが、リーマスに相談しないことでなんとか猶予を稼ごうという浅ましい努力がハリーの選択を妨げていた。

 

「どうしたんだい、ハリー。言ってごらん」

「先生……もし、好きな人が悪い人だったら、先生はどうしますか?」

 

 リーマスは薄く笑って自分の皿をテーブルに置き、木の椅子を足先で引いて腰掛けた。ホグワーツではあまり見せない、どこか野性的でだらしない仕草だった。

 

「こう見えても、恋愛相談は受け慣れていてね。ジェームズもシリウスもそれはもうモテたものだから、なんとか彼らと引き合わせてほしいという相談を受けるのはもっぱら私の仕事だった」

「でも、父さんやシリウスは悪い人じゃなかった」

「そうかな? まあ、結論としてはそうかもしれないが、ただのやんちゃで済まないことをしていた時期があったことも確かだ。だから、女の子たちには相談されたものだよ。好きになったけど、悪い人なんじゃないか……とね」

 

 リーマスはフォークでローストビーフを突き刺して頬張り、いかにもおいしそうに頷いた。

 

「さて、彼女たちに私はどう答えたか。ハリー、君ならどう答える?」

「どうって……心配しているほど悪いやつじゃないよ、とか?」

「ハリー、それは誤魔化しだ。私は彼女たちを傷つけたくなかったし、親友たちの手間を取らせたくもなかった。だから、はっきり言ったよ。あいつらは悪いやつだよ、とね」

 

 ハリーは驚いて目を見開いた。

 普通、友達についての恋愛相談なら友達をよく見せようとするものではないだろうか。それなのに、リーマスは自分の親友たちを悪いやつだと断じたのだ。

 リーマスはクスクス笑って、フォークでマッシュポテトを掬った。

 

「悪いやつだと聞いて離れていくような子は、そもそもふたりの顔しか見ていない。私はね、ジェームズやシリウスの悪行を諫めてくれる女の子が現れるのを期待していたんだ。悪さをするふたりの横っ面を張って叱ってくれるような女の子をね」

「先生は、その、咎めなかったんですか?」

「はは、そうだね。私がそうすべきだったのかもしれない。でも、私にはできなかった。難しい話だよ、まったく。……うん、マダム・ロスメルタのマッシュポテトもなかなかいけるな」

 

 そこで初めてハリーは自分が空腹なことに気がついて、皿に手を伸ばした。

 窓の外はすっかり暗くなり、もうすぐ日付が変わろうとしている。多くのことが変わった夜だった。ハリーはまだこれが現実なのか、クリスマスの夢なのかわからないでいた。

 

「少し休んだらホグワーツに朝帰りだ。店が開く前になってしまってすまないが、少しホグズミードを散策してから帰ろう」

「はい、先生。……先生、まだ質問に答えてませんよね。先生は好きな人が悪い人だったらどうするんですか?」

 

 リーマスはいたずらがばれたように目を瞑って笑い、皿に残ったグレービーソースとマッシュポテトをかき集めて流し込んだ。

 

「そうだね……案外、私は好きな人が悪い人だったら自分も悪人に染まってしまうタイプなのだと思う。それでいて、私はきっと悪人になることに耐えきれない。……君は私より強い男だから、そうならないだろうと思っているよ」

「僕は……僕は、強くないです」

「なら、強くあらねばならないね。おやすみ、ハリー」

 

 部屋を去っていくリーマスの背を視線で追いながら、ハリーはなおも考えた。

 もしダフネが悪人なら、自分はどうしたいのか。その答えを知るために、まず何よりダフネと向き合って話す必要がある。

 消えかけた勇気の火が、ゆっくりと煙を上げた。

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