クラウチはドアノブに指をかけて、小さく息を吐いた。
少し前の自分なら、ここで杖を構えていただろう。マルフォイと名のつく者がこの先にいる以上、警戒しないのは愚か者のそれだった。しかし、ゴーントの廃墟で不覚にもルシウスに背を預けて以来、クラウチは現在の彼について評価を保留としていた。
それに、今の状況でがみがみと噛みつくほどクラウチは残酷にはなれない。
「失礼」
「……クラウチか」
いついかなる時であっても貴人然とした態度を崩さなかったルシウスが、ベッドの隣に憔悴した顔で座っていた。
彼が私人としての表情をクラウチに見せることを躊躇わなくなったのも、あの鬱蒼と茂る森でゴーントの秘宝を探して以来のことだった。ふたりは依然として敵であり、ダフネを旗頭として連なる両極に過ぎないが、命を奪いあう仲ではなくなった。
もっとも、かつてのルシウスとクラウチであっても今戦闘になったかは定かではない。それは、ベッドに横たわる人物が原因だった。
「父君の容態は」
ルシウスは静かに首を横に振った。
英国魔法界に帰還しようと思えばいつでも帰ることができたはずの、ギリシャ渡航。それは腐ったハーポの脱獄という醜聞を封じ込め、早期に事態を解決することでギリシャ魔法界に対する英国魔法界の優位を確立するためのものだった。
しかし、事ここに至ってルシウスはギリシャに縫い止められ、クリスマスをギリシャで過ごすこととなった。それはアブラクサスが原因だった。
アブラクサスが倒れた。
その一報が届いて、クラウチは手早く仕事を片付けギリシャ行きの暖炉に飛び込んだ。国際魔法協力部の部長として、ギリシャ魔法界と英国魔法界を結ぶ紐帯であるアブラクサスの喪失は無視できない事態だった。
「コンモドゥス大臣の辞任はなんとか食い止めたが、内外からの視線は厳しいものがあるぞ」
「わかっている。……わかっているとも」
小さく吐き捨てたルシウスは、不安げにステッキを飾る銀の蛇に指を這わせた。ルシウスと戦ったことがある者なら誰しも、彼がそこに杖を収めていると承知している。しかし、今の彼にはその杖を抜くことはできない。
ベッドの上でアブラクサスが咳き込み、その口の端に鮮血を伝わせた。ルシウスは静かに布巾を手に取り、父の頬を垂れる血を拭った。
今のルシウスは死喰い人の指揮官でもなく、英国魔法界に巣食う邪悪な権威主義者でもない。ただ、父アブラクサスを案じる献身的な息子だった。
「呪い破りのチームにも犠牲者が出たと聞いているが」
「……テンプルという調査員が倒れた。現在は隔離され、治療を受けている」
「ハーポの金庫に同行した調査員か」
ルシウスは浅く頷いた。その瞳には、かすかに恐怖が宿っていた。
一体いかなる呪いを用いたのか、ハーポは自らを追う者に罰を下した。その呪いは目に見えず、金庫に行ってすらいないアブラクサスすらも捉えた。
「ギリシャ魔法界に混乱が広がりつつある。現地紙に氏の容態が漏れたのは致命的だった」
「打てる手は打った! だが……」
最後の最後で、ルシウスは躊躇っている。
冷たい風が窓を揺らした。ギリシャの冬はひどく冷え込む。魔法的に守られたこの隔離病棟でも冬の冷え込みを感じるように、ハーポの腕はどこまでも長く伸びているように感じられる。
ハーポの押さえ込みに失敗した以上、次の手を打つ必要がある。ギリシャ魔法界を一時的にでも安心させ、パニックを回避したうえで結束させる。ハーポという敵を前にギリシャ魔法界は団結しなければならない。
そのためには、犠牲が必要だ。
「マルフォイ家、特に父君はギリシャ魔法界の恩人だ。氏の命が奪われたとなれば、ギリシャ魔法界は――」
「そのようなことにはならない」
ルシウスはクラウチを睨んだが、その眼光にはいつもの冷徹さがなかった。
「父はこのようなところで死んでいい方ではない」
「私は死が相応しい時に来たことがあったとは思わない。お前もそうだと思っていたが」
しばらく、ふたりは沈黙の中で睨みあっていた。
お互いがお互いの部下を殺しあった仲だ。可愛がっていた者もいた。将来に期待していた者もいた。その全てを奪われた。死んで当然な部下などひとりもいなかったし、殺して当然な敵もまたひとりもいなかった。
ルシウス・マルフォイという敵将は、クラウチにとってそういう男だった。優雅な貴人然として、猛獣たちを躾け、狩りを覚えさせた獣の中の獣。たったひとり、闇の帝王を除いて殺すべき者がいるとすれば、それはルシウスだった。
今殺せるのなら、殺してやりたいとすら思う。
しかし、今やふたりはダフネ・グリーングラスという旗頭の下に集った両極だ。ルシウスを排することはダフネの利益を損なう。クラウチはダフネに英国魔法界の未来を見た。その未来にルシウスが必要なら、死なせるわけにはいかない。
「暴動が起きれば、現政権を支持してきたお前の立場も危うくなる」
「父を置いて逃げろと?」
「ベッドのそばに座り込んで悲劇の主人公ぶるよりは、いくらかやるべき仕事があると思うが?」
クラウチは脇に抱えていた日刊予言者新聞をルシウスに放り投げた。
デメテル・ザビニの真実。
一面記事が全てを語っていた。呪いの魔法道具に縛られ、全てを狂わされた高潔な女性の末路。そしてその変貌を知りながらも献身的に支え続けた息子の愛。今や、魔法界はデメテル擁護の声に染まりつつある。
これはダフネが作った盤面だ。
「ニューイヤー・パーティーにダフネは新たな三大派閥の一頂点としてホストを務めることになる。ヤックスリー閥の伸張をなんとしてでも食い止める必要があるぞ」
「……わかっている。ああ、わかっているとも」
ルシウスは床に広がった新聞を拾うでもなく見下ろしながら呟いた。
あまりにも力ないその呟きに、とうとうクラウチは怒りを覚えた。歩み寄り、胸ぐらを掴むと、ルシウスはようやくクラウチを見上げた。
「何をめそめそしている」
「……私が父上を殺したようなものだ。たったひとり、私に尊敬すべき人がいるとすれば、それは父上だった」
「だから全てを諦めると? 馬鹿も休み休み言うのだな」
「お前には、わからないだろうな」
初めてルシウスが笑った。
それはいつもルシウスが浮かべている腹立たしい薄笑いではなく、弱々しい、本当に弱々しい笑みだった。その弱さはきっと、ルシウス自身に向けた嘲りがそうさせるのだろう。
クラウチは面食らって、思わず手を緩めた。ルシウス・マルフォイという男の弱さを初めて目にした気がした。ずっと弱みを握りたいと思っていたのに、いざ直面すると何も言えなかった。
「父上は私の目標だった……何かひとつでもいい、父上を超えたいと思って生きてきた。政治でもいい、社交でもいい、魔道でもいい、何かひとつ……この人を驚かせることができれば、私はきっと何者かになれたと、そう思っただろう」
「何を、寝ぼけたことを」
「お前にはわからないことだ、バーテミウス・クラウチ・シニア。お前の息子が抱えていた苦しみを理解できないお前には、一生わからんだろう」
クラウチが手を放して後ずさると、ルシウスは椅子の上に崩れ落ちてもう一度小さく笑った。
理解できないことが、理解できなかった。
聡明であるという自覚もある。部下と向き合ってきたという自負もある。しかし、クラウチにとってルシウスの抱える感情――憧れという感情は理解にはほど遠いところにあった。
その時だった。
「――失礼します」
病室の扉が開かれた。
そこに立っていたのは、ルシウスの妻ナルシッサだった。いつも通りの凜とした表情にどこか決意のような光をちらつかせて、何かの小瓶を手にしていた。
「……ナルシッサ」
「お義父様のご容態については癒者から聞きました。ダフネからこの魔法薬を預かっています」
「魔法薬?」
ナルシッサはクラウチに小さく会釈するとルシウスに小瓶を押しつけた。
何の変哲もない、シンプルな小瓶だった。飾り気もない、街の小さな魔法薬師が作るような、安っぽい魔法薬だ。
クラウチが視線で問うと、ナルシッサは頷いた。
「ハーポの呪いを解く魔法薬です」
「そんなものが!」
「あの子は独自に調査を進め、ハーポの呪いの原因を特定しました。その原因の専門家に調合させた魔法薬が、それです」
クラウチは目を剥いて、ルシウスが持つ魔法薬を見つめた。
この魔法薬があれば、英国魔法界はギリシャ魔法界を救うことができる。マルフォイ家という信頼のもとに、ダフネはギリシャ魔法界の恩人として君臨することができるのだ。
同時に少しずつ、ルシウスの瞳に生気が戻りつつあった。これでアブラクサスを助けることができる。
しかし、ナルシッサは言葉を続けた。
「その薬は呪い破りと、そしてあなたの分です」
「……私は呪いにかかってなどいない。父上に飲ませるべきだ」
「あの子の計画に必要なのはあなたです。お義父様ではありません」
小瓶を握るルシウスの指に力が入った。
「父上を見殺しにしろと言うのか」
「そうです」
「ナルシッサ!」
「お義父様から遺言を預かっています。お義父様は延命よりも、自らの死をあなたがうまく使うことを望んでおられました」
ここでアブラクサスが死ねば、ギリシャ魔法界は自らが生んだ過ちによって恩人の命を奪ったことになる。その負債はギリシャ魔法界の中枢を当面の間マルフォイ家に臣従させるのに十分だ。
ハーポが行方知れずとなった今、国際的に表立って動かすことのできる駒は多ければ多いほどいい。アブラクサス・マルフォイという駒ひとつでそれだけの数を得られるのなら、利のある取引と言っていいだろう。
理解はできる。クラウチも同じ立場ならそうするだろう。
しかし、ルシウスは奥歯を噛みしめて苦しんでいた。その苦しみはきっと、クラウチに足りていない何かが生み出したものだ。
気づくと、クラウチは口を開いていた。
「失礼、ミセス・マルフォイ。そちらの魔法薬は量産するわけにはいかないのでしょうかな」
「この魔法薬を調合できる唯一の魔法薬師は、コーバン・ヤックスリーの支配下にいます。彼女はこの魔法薬を手に入れるために少なくない代償を支払ったそうです」
「それは……しかし、魔法省がライセンスを買い上げれば」
「その結果、ヤックスリー閥は魔法省に根を張る。そうですね? それを食い止めることができるのは、私の夫だけです」
ナルシッサは膝をつき、背を丸めたルシウスの顔を覗き込んだ。
そして、力一杯にその頬を張った。
ぱん、と乾いた音が響いた。ルシウスは信じられないといった様子で、頬を赤く腫れさせながらナルシッサを見上げた。ナルシッサは厳しい表情でルシウスを見下ろし、こう言い放った。
「実家に帰らせていただきます」
「な、ナルシッサ、何を」
「あなたが戦わないのなら、私が戦います。アステリアを擁立し、ブラック閥の再興を図るのです。……政治の世界が一秒を争うことを教えてくれたのは、あなたです。それなのに、いつまでそうしているつもりなのですか」
その言葉は静かで、しかし、力強かった。
「ミスター・クラウチ」
「なんでしょう、ミセス・マルフォイ」
「お義父様がこのまま亡くなった場合、魔法省は混乱を統御できるのですか」
「……氏がウィゼンガモットから退かれてかなりの年月が経ちました。往事の影響力には及ばないと見ています。必然的に、混乱も危険な規模にはならないかと」
「結構です。……もう一度聞きます、あなた。いつまでそうしているつもりなのですか?」
ルシウスは呻き、手の内に握った小瓶を見下ろした。
その瞳には葛藤が見えた。アブラクサスに投与すれば、あるいは彼の命を救うかもしれない。しかし、魔法薬の量は全員を救うには十分ではない。
その時、ベッドの上のアブラクサスが大きく咳き込んだ。
「父上!」
「……情けない、顔をするな」
アブラクサスの意識が戻った。
皺の寄った頬に人好きのする柔らかい笑みを浮かべている。多くの人々がその笑みに騙され、彼に籠絡されていったことをクラウチは思い出した。しかし、今はその笑みは打ちひしがれる息子に対してだけ向けられていた。
「私の死を使う、絵図はもう描けて、いるのだな」
「……はい、父上」
「それなら、そのように、しろ。……お前を、誇りに思っている、ルシウス」
骨張った手が、そっとルシウスの頬を撫でた。
まるで子どもをあやすように、その老人はルシウス・マルフォイをあやしていた。きっとアブラクサスにとってルシウスはいつまでも子どもだったのだろう。今際の際にあっても、それは変わらない。
美しい光景だった。老いた怪物が、死の間際に我が子を慰める。その姿はどこの家庭でも見られるような、当たり前でごく普通な姿だった。その瞬間に初めて、クラウチはルシウスが人の子であるということを強く実感させられた。
「ナルシッサ」
「お義父様」
「ありがとう……情けない倅だが、頼むぞ」
「できる限りのことをいたします」
「ああ。……ダフネに、礼を言いたかったがなあ。最後の最後で、楽しい仕事ができた」
もう一度大きく咳き込んだアブラクサスが、血の塊を吐き出した。
誰の目にもその灯火が消えようとしていることは明白だった。癒者を呼びに行こうとしたルシウスのシャツをアブラクサスの指が掴んだ。
「トムは……トム・リドルという男はな」
「ッ、父上、血が」
「聞け。トム・リドルという、男は……高いプライドを、やろうと思えばどこまでもひた隠しにできる。ダフネが、盤面を変えた。あいつは必ず、今までにない手を打ってくるぞ」
「父上!」
「負けるなよ、ルシウス。トムに伝えろ……一足先に、勝ち逃げさせてもらうと……」
ふ、と柔らかく笑い、そしてアブラクサスは目を閉じた。
ルシウスの慟哭を聞きながら、クラウチは胸が締め付けられるような感情に襲われていた。それはきっと、とうとうクラウチが知り得なかったもの――本物らしい家族愛への、強い羨望だった。