その血は呪われている   作:海野波香

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「よろしかったのですか、お姉様」

 

 アージニウス・ジガーが煎じた魔法薬――腐ったハーポの魔法細菌を殺す薬を、ダフネはギリシャで戦うルシウスに託した。

 つまり、ダフネにかかった呪いはそのままだった。

 腐ったハーポへの恐怖心を膨らませ、関わった人々のダフネに対する猜疑心を膨らませる呪い。それはこれから政界で戦っていこうと考えるダフネにとって特に邪魔な障害だった。

 

「投資なのよ、これは」

「投資、ですか」

 

 一等客室のサービスとして提供されたノンアルコールのシャンパンを開けて、ダフネは最愛の妹に微笑んでみせた。列車の心地よい揺れがここしばらくの疲れを和らげ、眠気を呼び起こす。

 そう、確かに呪いは解けなかった。

 しかし、ダフネにとってこの一手は渾身の一手だった。

 

「私が提供した魔法薬によって隔離治療中の呪い破りが回復すれば、グリンゴットは大手を振って各国魔法省を突き上げることができるでしょう?」

「それは、確かにそうですが」

「各国魔法省は魔法の細菌が存在することを認めざるをえない。市井にパニックが広がらないようにするためには、公認された薬が必要よ。私が何もしなくとも、魔法省が魔法薬の権利を買い取ってくれるわ」

「つまり、お姉様はジガー様の魔法薬をヤックスリー様から引き剥がすことをお狙いなのですか」

 

 ヤックスリーはたった一度の処方に開心術を求めてきた。

 それはつまり、投薬が長期化すればするほどヤックスリーの利権が膨らむことを意味する。それを避けるためには、彼がジガーの魔法薬を手放すよう導かねばならない。

 しかし、金や脅しで手放してくれる相手ではない。では、どうするか。公権という強制力は、こういう時に使い勝手がいい。

 

「不安を煽るためのメディアは手に入れた。魔法省は大急ぎでジガーの魔法薬をヤックスリーから買い取らざるをえないでしょう。元死喰い人の金貸しに権利を握らせておいていいほど、つまらない魔法薬ではないのだから」

「しかし……魔法省が権利を買い取るまでの間にお姉様が呪いに苦しまれるのは……」

「呪いの力は恐ろしい。でも、理性を歪めるほどのものではなかったわ。バーナバス・カッフをこちらにつけることに成功したのが、その証拠」

 

 日刊予言者新聞編集長バーナバス・カッフ。彼を味方につけることができたのは、ダフネに実績があったからだ。呪いは猜疑心を膨らませるが、偽りを生むわけではない。

 ダフネは不利な状況に置かれたが、その不利は覆せないものではないとわかった。それならば、先に覆すべき戦場に着手すべきだ。たとえダフネが苦しさを感じようとも、それが覆せるものであるうちはダフネにとって不可能な困難ではない。

 その点において、ルシウスの不在はダフネにとって極めて危険な状況だった。

 

「現役の政界人であり、ファッジにも強い影響力を持つルシウスおじさまがいない。それはつまり、コーバン・ヤックスリーの伸長を妨げる手段がないということよ」

 

 シャンパングラスを傾けると、客室のシャンデリアが放つ柔らかい光に照らされてマホガニー製の窓枠に泡の影がきらめいた。

 政界に現れる人々はこの泡と同じだ。華やかに現れ、上り詰めんと足掻き、あっという間に消える。ダフネもそのひとりになりかねない。ルシウスのような基盤のしっかりとした後ろ盾を得ないことには、ダフネの立場はまだ脆い。

 一歩ずつ進んできた。ダフネは今やちっぽけな小娘とは言えない存在になりつつある。しかし、それでもまだ独り立ちするには足りないのだ。政界という恐ろしくも残酷な世界の篩は、見た目よりもはるかに目が粗い。

 

「ヤックスリー様はお姉様の敵ですか?」

「どうやらそのようね。彼はデメテルと通じていた。彼が追い込んだ債務者をデメテルが駒にするサイクルの中で、ふたりは富と権力を膨らませていた……その片割れを崩した以上、もう片方は黙っていないでしょうね」

 

 乾杯とともに、ダフネは爽やかな甘味と酸味で喉の渇きを潤した。この鉄道はマグル界の鉄道よりもよほど早く進むが、それでもドーヴァー海峡を渡る旅は短くはない。

 

「だから、ルシウスおじさまに帰ってきてもらう必要があった。アブラクサス様の死を旗印に、呪い破りの回復を以て魔法薬の効果を喧伝する。ギリシャ魔法省は協力せざるをえないでしょう。そして、国際魔法使い連盟に議題が持ち込まれる」

「それで、今日の訪問を?」

 

 アステリアの問いかけに、ダフネは頷いた。

 ちょうど列車が減速しはじめた。車内アナウンスが到着を示している。スペイン北部、ビスケー湾に面するアストゥリアスの森に、ダフネが訪ねたい人物が持つ別荘がある。

 手土産のアップルビネガーが入った籠を抱えるアステリアを引き連れて、ダフネは列車を降りた。森の冷たく湿った空気がふたりを迎え入れる。樫とブナ、そして多種多様な生き物に満ちた豊かな森だ。

 アステリアの吐いた白い息が、ふわりと空に消えていった。

 

「――このアストゥリアスの森は、古くから隠者を歓迎してきました。そして、その隠者に知恵を求める若者も」

 

 その声は、老いてなお凛々しさと柔らかさを兼ね備えていた。

 目尻に皺の寄った、それでもなお鋭い眼光。すらりと伸びた背筋は秩序を感じさせる。老いというよりは、熟練。アルバス・ダンブルドアが示さないタイプのまっすぐな強さ。

 

「突然の訪問をお許しください、マダム・サントス」

 

 ヴィセンシア・サントス。前国際魔法使い連盟上級魔法使い、すなわち議長職にあった人物だ。かつてはブラジルの魔法大臣も務めていた。

 グリンデルバルドの台頭に抵抗したリーダーとして、今も彼女の名声は語り継がれている。

 

「構いません。そろそろこちらの家も手入れしなければと思っていたところでした」

 

 サントスが杖を一振りすると、木々に絡む蔦が形を変え、アーチとなって主を出迎えた。アーチの向こう側には開けた土地と、瀟洒な屋敷が見える。

 導かれるままにダフネとアステリアはそのアーチを潜り、屋敷へと誘われた。

 別荘というよりは別邸という趣がある屋敷だった。屋根は赤茶色のスペイン瓦、白い塗り壁には汚れひとつなく、玄関先には濃い青で塗られたブリキの植木鉢が並んでいる。

 ブラジルの魔法大臣には似つかわしくない、スペインの色しか感じない屋敷だ。そこにはヴィセンシア・サントスという魔女の個性は少しも表れていなかった。

 ダフネの視線に気づいたのか、サントスが杖をしまいながら小さく肩をすくめた。

 

「国際魔法使い連盟の上級魔法使いになった折、スペイン魔法省から贈られたものです。ヨーロッパの友人を歓待するのに便利だろうと言われましたが、要はグリンデルバルドとの戦いの前線に立てということですね」

「スパニッシュ建築様式、乾きと熱から人々を守ってきた伝統ですわね。森の館に適した建築様式かと問われると、少し難しいですけれど」

「スペインの伝統、そして魔法の技巧を示す好機だと思ったのでしょう。お入りなさい、あなたが思っているよりは快適ですよ」

 

 サントスの言葉通り、中は快適だった。

 暖房で温めたような空気とは違う、まるで秋の過ごしやすさをそのまま持ってきたような居心地の良さ。暖炉に火は入っているが、乾燥は感じなかった。

 

「なるほど、これは確かに」

「好きにお座りなさい。飲み物の好みは?」

「もしお口に合うようでしたら、当家の林檎を使ったビネガーをお持ちしましたのでこちらを。アステリア」

「はい、お姉様!」

 

 アステリアからバスケットを受け取ったサントスは、青林檎を模った栓で封がされた茶色の瓶を手に取って小さく微笑んでから頷いた。

 

「可愛らしい瓶ですね。飲み方は?」

「水割りも香りがいいですが、ソーダで割るのがおすすめです! ミルクもよく合いますよ!」

「私はソーダにしましょう。あなたたちは?」

「ありがとうございます。私もソーダを。アステリア、あなたは?」

「同じものをいただきます。ありがとうございます!」

 

 サントスが杖を一振りすると、清潔なグラスが3つと炭酸水のボトルが姿を現した。ボトルは自ら栓を外し、グラスに炭酸水とアップルビネガーが注がれた。

 爽やかな香りが広がると、サントスは頷いてグラスを掲げた。

 

「あなたたちの旅程が価値あるものであることを願いましょう」

「ありがとうございます、マダム・サントス」

「ありがとうございます!」

 

 同じようにグラスを掲げたダフネは、ビネガーソーダを一口飲んで口を湿らせた。料理用のものとは違い、最初からシロップで割られているこのアップルビネガーは酢の酸味を和らげる甘味を帯びていて、香りにも華やかだ。

 しばらくその香りを楽しんでいたサントスは、グラスを置いてダフネに目を向けた。

 

「手紙は読みました。国際魔法使い連盟について私の力を借りたいと」

「はい。賢者集う国際魔法使い連盟に是非ともご相談させていただきたい問題が生じているのです。しかし、一介の学生に過ぎない私には力不足を感じまして、ご相談差し上げた次第ですわ」

「ダンブルドアでは駄目なのですか? あなた達の英雄であり、あなた達の校長。当然、あなたにも喜んで力を貸すでしょう」

 

 この返答は予想していた。

 現国際魔法使い連盟上級魔法使いであるダンブルドアは、サントスなど目ではないほど絶大な権力の持ち主だ。彼をホグワーツの校長としてしか見ない者は、彼の本当の実力、その影すらも見えていない。

 しかし、この件でダンブルドアを頼るわけにはいかなかった。

 

「アルバス・ダンブルドアは偉大な魔法使いですわ。しかし、私は英国魔法界がダンブルドアに依存していると感じているのです」

「そうでしょうか。彼は弁えた人です」

「上級魔法使い職をあなたに譲ったように?」

 

 サントスは応えず、指先でグラスの結露をなぞった。

 かつて、ドイツの魔法大臣アントン・フォーゲルが上級魔法使いを務めていた時代の話だ。フォーゲルはゲラート・グリンデルバルドの工作に協力し、彼が次の上級魔法使いとして当選するよう画策した。

 しかし、その工作はニュート・スキャマンダーの一派によって暴かれた。選別の手段として用意された麒麟、真の指導者に相応しい人物の前で跪く魔法生物は、本当に上級魔法使いに相応しい人物を選んだ。

 その時選ばれたのがアルバス・ダンブルドアだ。

 しかし、ダンブルドアは拒んだ。自分ではないリーダーを選べと麒麟に促した。その結果、サントスが選ばれた。サントスはダンブルドアから上級魔法使い職を譲られた。その瞬間を、全ての魔法族がリアルタイム中継で目撃したのだ。

 譲られた議長。その事実は、生涯に渡ってサントスを蝕んだ。

 

「譲られた議長であるあなたの支持率はとても不安定だった。だから、列強という基盤が必要だった。ブラジルの宗主国ポルトガルでは不足だったけれど、列強の大半はグリンデルバルドの軍勢を恐れて中立を示した。その中で唯一あなたに賭けたのが、スペイン魔法省」

「……ええ、認めましょう。私はスペインに身売りした。それは双方にとってあまりよくない結果を招きました」

 

 かつて、マグル界のスペインで凄惨な戦いが繰り広げられた。

 左派の人民戦線と右派の反乱軍が衝突し、そこに無数の義勇軍が双方の陣営を勝利させようとなだれ込んだ。単にイデオロギー的な衝突だけではない。この戦場は新兵器の実験場でもあった。

 その混乱を招いたのは、スペイン魔法界だった。

 伝統的に、国際魔法使い連盟上級魔法使いは魔法大臣が兼任することになっている。当然スペイン魔法省にも魔法大臣がいた。しかし、スペイン魔法省がサントスを擁立したことで、指示系統に混乱が生じた。

 問題はサントスが左派で、当時の魔法大臣が右派だったことだ。

 スペイン魔法界の分断は各国の介入を許した。スペイン内戦を実験場としたのはマグル界の政府や軍だけではない。各国魔法省は非人道的な魔法や戦術を存分に試すことができた。

 

「しかし、それは私の愚かさが招いたことです。ダンブルドアの責ではない」

「かといって、ダンブルドアの功とするべきでもない。違いますかしら? 英国魔法界がダンブルドアという英雄に依存せず、グリンデルバルドとの対立姿勢を明確に示していればスペインの混乱は回避できたと私は思っていますの」

「興味深い指摘ですが、その手のシミュレーションは魔法史家に任せるべきでしょう」

「任せるわけにはいかないのです、マダム・サントス。また同じことが起きようとしているのですから」

 

 サントスは静かな表情で小さく眉を上げた。

 スペインの混乱は、本を正せばグリンデルバルドとの対立を避けた各国魔法省の責任だ。これと同じことが近いうちに起きると、ダフネはそう予想していた。

 

「ヴォルデモートが復活します。その時、国際魔法使い連盟の皆様はどうお考えかしら」

「……証拠はあるのかしら」

「すでにかの者の不死性については根源を暴きました。我が国の魔法法執行部はヴォルデモートを今度こそ完全に排除するために動きはじめていますわ」

「その根源とやらを示せば、連盟議員も納得して例のあの人の撃退に協力することでしょう」

「そうでしょうか。グリンデルバルドは不死でも不滅でもなかった。連盟議員たちがグリンデルバルドを恐れたのは彼の力、そしてカリスマに屈したからではありませんかしら?」

 

 グラスに、汗が伝った。

 原作通りに進むのなら、ダンブルドアはヴォルデモートが復活したと主張したことで国際魔法使い連盟上級魔法使いの職を失う。それは間違いなく、各国魔法省がヴォルデモートとの対立を恐れたためだ。

 最初から弱腰の人間に協力を求めたところで、その協力がヴォルデモートの復活後も持続する保証はない。力も、カリスマも、そして悪意もヴォルデモートは備えているのだから。

 しばしば、イギリス外の魔法史家はヴォルデモートをこう評価する。イギリスの外に出なかったという点でグリンデルバルドには劣る、と。

 その評価は誤りだ。ヴォルデモートは戦うまでもなく各国魔法省を屈服させていた。グリンデルバルドというトラウマを刺激し、ダンブルドアを孤立させ、イギリスを支援しようという声を挫き続けた。

 

「ヴォルデモートが復活する以上、ヴォルデモートと戦い続けられる人物を頼る必要がありましたの。でも、それは英雄であってはならない」

「それが、私だと?」

 

 最初から立ち向かった人物であれば。

 混乱を生むことも厭わず、グリンデルバルドと戦うために祖国を離れた魔女であれば、この戦いでステージに上がる権利を有している。

 

「マダム・サントス。あなたの力が必要なのですわ。ヴォルデモートの復活を主張すればダンブルドアの名声は必ず失墜する。その時に英国魔法界が混乱すれば、欧州各国も無事では済まないでしょう」

 

 サントスは静かにグラスの水面を見つめていた。

 炭酸の泡が立ち上っては消えていく。1932年の議長選以来、サントスは魔法界で戦い続けてきた。彼女が上級魔法使いとして対処した存在の中には、もしかすると後のヴォルデモート、後のグリンデルバルドといった負の可能性もあったのかもしれない。

 英雄が決闘で打ち負かさなければならない状況になる前に、その可能性を排除する。それが国際魔法使い連盟上級魔法使いの役目だ。

 そのサントスであれば、ヴォルデモートの復活とダンブルドアの失墜というシナリオを無視することはできない。

 

「……私に何を求めているのですか、ダフネ・グリーングラス」

 

 一瞬、ダフネはアステリアにちらりと目をやった。

 この策を通せば、ダフネはますます忙しくなる。最愛の妹と触れ合う時間も限られてくるだろう。それを望んでいるわけではない。みぞの鏡に見た、アステリアとともに林檎を収穫する穏やかな時間。その夢はまだダフネの胸中に眠ったままだ。

 それでも、ダフネは前に進む必要がある。

 

「アルバニアに、調査団を派遣したいのです」

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