英国魔法省大臣室上級次官という役職は、官僚社会における事実上の頂点を意味する。
こう書くと大げさだと笑う者は決して少なくない。己の業務に真面目で誠実な官僚ほどこの説を一笑に付すだろう。より正確には、己の業務に
魔法省会計責任者。
魔法省戦略的人事責任者。
首席政策顧問。
大臣室秘書統轄部長。
本来、マグル界の省庁であれば事務次官と首席秘書官に権力を分散させ、相互監視によって暴走を抑止することとなっているこの各種権限を、大臣室上級次官は一手に掌握している。
つまり、こう言えるのではないか。
「ごきげんよう、コーネリウス」
「ああ、ドローレス……ちょうど君の意見を聞きに行こうと思っていたところだ」
ドローレス・アンブリッジという官僚は金、ヒト、情報、時間、場所の全てを統御下に置くことに成功した。
レポートから目を上げて冷や汗を拭ったファッジを前に、アンブリッジはにんまりと笑った。笑顔とは統治者の義務である。そして、その笑顔から意味を汲み取って働くのは臣民の義務である。ファッジはアンブリッジにとって権力を与えてくれる存在だが、同時に臣民でもある。
間違っても、ファッジなどという凡夫がアンブリッジの主であるなどと勘違いしてはならない。ファッジはアンブリッジのご機嫌伺いをする側だ。
「まずいことになった。まさかデメテル・ザビニが鬼婆だったとは!」
「ええ、ええ、本当に恐ろしいことですわ。私たちに優しい顔を見せておきながら、裏では準ヒトが魔法界に侵略しつつあっただなんて」
今回、ファッジは失点した。
ウィゼンガモットは魔法界にはびこる思想の煮凝りだ。純血至上主義、ヒト至上主義、マグル排外主義、人種差別主義者、イギリス魔法界第一主義、世間に出れば厄介事を招くであろう極端な思想が高貴な顔を纏って鎮座している。
その中のヒト至上主義者たちが、ファッジの能力に疑問を呈している。
理由はいたってシンプルだ。デメテル・ザビニ、魔法で変化していた鬼婆の政治的伸長を見逃した。つい最近まで彼らは自分たちの仲間としてデメテルを迎え入れることを検討していたというのに、いつの時代も政界の人間は手のひら返しが早い。
もちろん、彼らを焚き付けているのはアンブリッジだ。鬼婆などという醜く穢らわしい種族に魔法界が牛耳られることなど、絶対にあってはならない。アンブリッジにできることはデメテルの屍を踏みにじってさらに高みを目指すこと、それだけだ。
しかし、そんなことはおくびにも出さず、アンブリッジはファッジを心配するように眉を曲げてみせた。まだファッジからは信頼されている必要がある。
アンブリッジの権力は絶大だが、それは魔法大臣という裏打ちがあってのことだ。そこを勘違いするほどアンブリッジは愚かではない。
「この記事が出たのはまずかった。世論はすでにデメテル・ザビニの擁護に流れている」
ファッジがデスクに置いた日刊予言者新聞を睨んだ。
今回失点したのはファッジだけではない。アンブリッジもまた、ウィゼンガモットのお友達からお叱りを頂戴している。
編集長バーナバス・カッフの肝いりで組まれた一面記事では、デメテルが何を思って魔法界の弱者救済に取り組んできたか、その過程で闇に飲まれ変貌した後に息子がどのように支えたかの全てが書かれていた。
準ヒトに過ぎない劣等種であるデメテルに全ての罪と問題を被せて話題を封殺する。お決まりの手段であるそれを、カッフは先手で封じてきた。
「刊行前に差し止めるわけにはいかなかったのかね」
「わたくしのもとに入ってきた情報では、デメテル・ザビニの息子を使った悲しくも退屈な記事という話でしたの。申し訳ありませんが」
「まんまと出し抜かれた。そういうことになるな」
そう口走ってから、ファッジは慌てたようにアンブリッジの顔色を窺った。
一見すればお涙頂戴の購読者数稼ぎでしかない。アンブリッジのもとに届いたリークもその方向性だった。だからアンブリッジはこの記事を見逃してしまった。
失態だ。
魔法省は鬼婆のデメテルに全ての罪を押し付けることができたはずだった。そうすれば福祉政策など考えずに済んだ。弱者が弱者たる最大の所以は無力さだ。彼らが主体的に声を上げるには、「鬼婆に扇動された」という醜聞は重すぎる。
そう、デメテルが鬼婆だったという点をあげつらえさえすれば、魔法省は福祉を必要とする人々を「鬼婆に扇動された衆愚」として切り捨てることができた。分断は統治の基本である。
しかし、今は違う。
異種族である鬼婆すら心を痛めて人々を救おうとしたのに、魔法省がそれを放置している。そのような糾弾の声が上がりつつある。
誰かが情報戦でアンブリッジに先んじた。それは認めざるをえないだろう。日刊予言者新聞、アンブリッジが飼い慣らそうと腐心している英国魔法界最大のメディアを誰かに奪われた。
その事実は、アンブリッジの小さな可愛らしいプライドを大いに傷つけた。
「……ええ、そうなりますわね。残念ですわ、カッフ編集長とはいいお友達になれると、わたくし信じていましたのに」
はらわたが煮えくり返る。
敗北感と屈辱を味わうのは久しぶりだった。大臣室上級次官に表立って逆らおうなどという愚か者は今までひとりとしていなかった。そう思うと、苛立ちと不快感の中にまだ見ぬ敵への嗜虐心もこみ上げてくる。
先手は取られた。いついかなる時代も政治は先手を取ったものが有利である。アンブリッジはここから不利を覆さなければならない。
その程度、アンブリッジ上級次官には容易いことだ。
「すでにお友だちの皆様にご相談差し上げて、魔法界福祉委員会の設立準備を進めていますわ。アドバイザーにはブラック家のアークタルス様をお招きしております。実績で皆様を納得させる必要があると判断いたしましたの」
「妥当なところだろうな。あの老人はマグル界の戦争の折も篤志家として活動していた。手綱は放すなよ? 君のほうがよく承知しているだろうが、弱者救済などというお題目に投じられるほど我々に無限の富があるわけではない」
「仰る通りですわ。責任は老人に、実権は我々に」
アンブリッジが落ち着かせるような笑みを浮かべると、ファッジは曖昧に口を歪めた。
見方を変えれば、これは好機だった。社会福祉などという曖昧で複雑な活動を愚かな魔法族の大半は理解できない。それはつまり、アンブリッジとその仲間たちにとっては財布がひとつ増えたようなものだ。
しかし、社会福祉の名のもとに予算を私物化し私腹を肥やすためには、まず競合を叩き潰さなければならない。
ましてや、アンブリッジたちと違って本気で社会福祉を実現しようなどと唱える馬鹿げた夢想家に実権が渡ることだけは、絶対に避ける必要がある。富は口を開けて恵みを乞う弱者のためにあるのではない。能力ある優秀な強者、つまりアンブリッジのためにあるのだ。
「それで? デメテル・ザビニの後釜には誰が座るのかね」
「関係者筋によりますと、ダフネ・グリーングラスという学生が表向きの代表となって福祉財団を立ち上げるようですわ」
「ダフネ? ……ああ、その子は知っている。真面目で聡明な子だ。正義感をくすぐられて誰かに担ぎ上げられたかな?」
「さて……」
ここがまだアンブリッジにも読み解けないところだった。
ダフネ・グリーングラス。純血旧家と言えば聞こえはいいが、いくつかの不動産とブランド農産物、研究による特許を除けば大した収入のない、儚く小さな家だ。
両親を早くに亡くし、才気あふれる長女のダフネが社交界での立ち回りでなんとか命を繋いできたが、次第に苦しくなり妹をブラック家に養子に出した。落ち目と噂する者もいるし、ブラック家の力を借りてのし上がろうとしていると煙たがる者もいる。
名声がないわけではないし、歴史と伝統も備えているが、名門というわけでもない。駒として使うにはやや重く、かといってすり寄るには旨味がない。
ダフネが自ら動いているのか、それとも裏に誰かがいるのか。それをまだアンブリッジは見抜けずにいた。
「ただの子どもにできることとは思えませんわ」
「そうだろうとも。14歳だろう? 馬鹿をやって楽しむ年頃だ。クィディッチに熱狂するもよし、クラブ活動をするもよし、勉学に励むもよし!」
「少なくとも、彼女がウィゼンガモットにとある論文を持ち込んだのは事実ですわ」
「論文?」
「ええ。わたくしも目を通しましたが、とても稚拙で、未熟で……」
罵倒の言葉が上手くまとまらなかったのは、アンブリッジがダフネの論文に一寸の理を見出しているからだ。
ダフネがウィゼンガモット評議会に持ち込んだ論文。それは魔法界の政治モデルに議会制を導入する功利について論じたものだ。
正直に言って、開明的だということは認めざるをえない。
伊達に上級次官を務めているわけではない。ホグワーツの学生程度よりははるかに長い間政財界を渡り歩いてきた。だからこそ、ダフネという新しい風に興味は湧いている。
ウィゼンガモットのお歴々は怠惰な老犬だ。伝統を盾に既得権益という骨をしゃぶり尽くしている。その老犬たちの一部が、かつて血統書付きの猟犬として売られたころの凛々しい忠誠心――魔法界への忠誠心を思い出しつつある。
ダフネの提案は魔法界をよりよくする可能性がある。その理論的で合理的な提案が示した可能性は、ゆるやかに魔法界全体へと広まりはじめた。
そして、それはつまり、アンブリッジが搾取できる利権が増える兆しが見えてきたということだ。
「まあいい。若いうちは政治に興味など持たんでいいのだ。彼女にはもっと解明的で、華やかな道があるだろう。ハリーもそれを望んでいるに違いない」
「ハリー・ポッターとダフネ・グリーングラスは親しいのでしたね」
「親しいとも! あれは卒業と同時に結婚するタイプだな、私はこの手の予想は外した試しがない。あの子達が幸せになるのに政治の世界が必要とは思えん。誰かが彼女を使って利権に食い込もうとしているに違いない。頼むぞ、ドローレス」
「仰せのままに」
大臣室を辞した後、エレベーターに乗りながらアンブリッジは思案していた。
本当にダフネ・グリーングラスは無力な少女なのか?
アンブリッジの嗅覚はダフネが只者ではないと嗅ぎ分けつつあった。ブラック家、マルフォイ家、そしてハリー・ポッター。彼女の周囲には着実に権力が集まりつつある。ウィゼンガモット内にもダフネに興味を持つ者は増えてきた。
しかし、ただの権威主義者であればわざわざウィゼンガモットの基盤を揺るがすような論文を送り込んできたりはしないだろう。ダフネには間違いなく目的がある。
「……これだから子どもは嫌いよ」
頰が引きつるのを感じる。
子どもは無秩序で、不条理で、そして非道徳だ。秩序的で、合理的で、そして道徳的な政府の運営においては子どもが参画する余地など、ピクシー小妖精の参政権と同じ程度にない。
ダフネの目的がなんであるにせよ、その細く脆い首をアンブリッジの領域に突っ込んでこようとするのであれば、その首には首輪を填めねばならない。
アンブリッジはエレベーターを降り、魔法生物規制管理部に立ち寄った。
獣臭さと異音。徹底した秩序を愛するアンブリッジにとってこの部局はあまりにも美しくないが、畜生を痛めつけて躾けることに関しては共感できる。
本部執務室の扉を開くと、怒号がアンブリッジを出迎えた。
「――後ろ脚を掴め! 違う、下の方だ! いいか、せーの!」
ローブを脱ぎ捨て作業着を着た男たちが、大きな豚のような何かを作業台に載せようとしている。それは一見豚のようだが青から紫へグラデーションに染まっており、背中に二対の脚があった。
男たちは呻きながらなんとか豚を作業台に乗せようとしている。
「ェヘン、ェヘン」
アンブリッジが咳払いすると、男たちは苛立ったように顔を上げたが、慌てて豚を離し頭を下げた。落とされた豚が不満げに鳴いたが、誰もそれを気にしなかった。
「し、失礼しました、アンブリッジ上級次官」
「お忙しいところごめんなさいね、エイモス」
エイモス・ディゴリーは豚の尻を叩いてどかし、椅子を発掘しようとしたが、このような汚いところで椅子に座るほどアンブリッジは不潔ではなかった。アンブリッジの冷たい視線に気がつくと、エイモスは椅子を引っ張り出すのをやめて汗を拭った。
「すみません、上級次官。なにせこの豚が……いや、豚だと思うんですが、こいつは魔法を跳ね返すんで調査が難航しておりまして」
「そう。お願いしたいことがあるの」
「は、はあ。いや、構いませんが、何のお役に立てましょうか?」
確かに魔法生物規制管理部がアンブリッジの役に立ったことはない。政治的にもアンブリッジの支配下に置こうと思ったことはなかった。魔法生物など不潔で凶暴な畜生の集まりだ。関わりたいと考えるのも恐ろしい。
しかし、その不快感をこらえてでもアンブリッジは彼らに命ずる必要があった。
「血の呪いについて調べていただけますかしら?」
「血の呪い? いやあ、体系的な調査結果がまとまっている分野ではありませんよ」
「だから、調べてと言っているの」
エイモスは困ったように口を曲げたが、反論はしなかった。
「人狼と同じようなものでしょう? 危険性と、制御方法を調べてほしいの」
「それは、呪いの制御方法を?」
「呪いの対策については急務とは考えていないの。エイモス、必要なのは罹患者に適切なコントロールを行う方法、そうでしょう?」
「あー、つまり、その……狼人間捕獲部隊のようなものをお考えで?」
それも悪くはない、とアンブリッジは一瞬思考した。
部局として対処を構造化してしまえばいい。そうすれば、ダフネは常にその窓口のみを使うことになる。そして、その窓口を封殺すればそれは彼女を封殺したも同然だ。
しかし、冷静な官僚としてのアンブリッジがそれに否を唱えた。事実上の窓際職として知られるケンタウルス担当室にですら予算が配分されている。ダフネが本当に狡猾な敵なのだとすれば、制度を悪用しかねない。
もっとコアな対策、武器が必要だ。
「まだ組織化はしないわ。そのかわり、レポートを作ってほしいの」
笑顔を浮かべる。
笑顔から意味を汲み取って働くのは、臣民の義務である。
「危険な獣は、