福祉財団を立ち上げると決めてからのダフネの動きは早かった。
まず、デメテル主催のコンサートで演奏していた寡婦の魔女による楽団を訪ね、彼女らを慰める。そのうえで事業の承継がスムーズに済んだことを示し、今後も楽団としての活動を続けてほしいと訴えかける。
「ミセス・ファイジズ、あなたたちの力が必要なのですわ。暗い時代が終わろうとも光が差さないところはあるでしょう。でも、音楽であればそこに安らぎを運べるかもしれない」
楽団のリーダー、ミセス・ファイジズは涙を浮かべながらダフネの手を取り、これからもチャリティー楽団として活動を続けることを約束してくれた。
中核組織が味方になったことで
「こういう、靴底をすり減らす政治活動は初めてだわ」
12月末には似合わない汗をハンカチーフで拭って、ダフネはぽつりとこぼした。
今日はひとりでの訪問になる。アステリアはマルフォイ邸でナルシッサからニューイヤー・パーティーを主催するということについて引き継ぎを受けているし、カロー姉妹は実家の仕事でイングランドを離れている。
ガウェインを連れてくるという手もあったが、現役闇祓いはどうしても威圧的だし、何より戦災で家族や財産を失った人たちの中には闇祓いに逆恨みを向けている人もいる。
とはいえ、ノクターン横丁に行くわけでもない。聖マンゴで長期入院患者を慰めるのに護衛が必要とも思えず、ダフネはひとりロンドンの街を歩いていた。
「――順調だ、とでも言いたげだな」
空から舞い降りたカラスが、電灯の上で威圧的に鳴いた。
周囲に人影はない。ほとんどのイギリス人が過程で静かに過ごすニューイヤー休暇中の街角とはいえ、不自然な人気のなさは魔法によるものとしか説明がつかない。
「お人払い恐れ入りますわ」
「しばらくお前がどういう選択をするか見ていたぞ。お前は少し、魔法を軽く見すぎているな」
「あら、私のアイデンティティは英国魔法族ですわよ?」
カラス――モリガンは呆れたように嘴を鳴らし、アパートのベランダに飛び移った。カーテン越しにうっすら見えるマグルはモリガンに気づきすらしない。
魔法は認知を歪める。時には、致命的なほどに。
「お前のようなタイプの人間はいつもそうだ。森を見ることに囚われて、その森に棲む木々や獣には目がいかない」
「私が何かを見落としている、と?」
モリガンは答えず、翼に嘴を埋めた。
確かに、魔法界で魔法以外の手段を選んでいるダフネは見方によっては遠回りをしているとも言える。もっと手っ取り早いやり方だってあるのだ。それは本来ルシウスが得意とするやり方、服従の呪文と磔の呪文を駆使した改革になるだろう。
しかし、ダフネはそうしないことを選んだ。そもそも魔法族は人間であり、人間が長い歴史という営為の中で生み出してきた政治というツールは魔法ではない。魔法を以てその代替とするわけにはいかないだろう。
「ふん、気づいてない面だ」
「なら教えてくださってもよろしいのではなくて?」
「俺と契約するのなら、な」
そういうわけにはいかない。
モリガンに死後を委ねるということは、アステリアもハリーもいない永遠の虚無と冷たさに体を預けるということだ。その苦痛にダフネの精神は耐えきれないだろう。
ましてや、モリガンは闇の魔女として歴史に名を刻んだ人物だ。その彼女に頼りすぎるわけにはいかない。ダフネは頼るべき相手を見極めて頼っている。
「それより、お客さんだぞ。人払いの魔法は残しておいてやるから、有意義な時間にしてこい」
「客?」
「その疑問の答えは30秒後、躾のなっていない犬に吠えられることでわかるだろう。……お前を見ているぞ、ダフネ・グリーングラス。俺の可愛い子鴉」
翼を広げたモリガンの周囲に一瞬だけ夜空が広がり、そしてモリガンは消えた。
一体どのような魔法なのだろうか。不死鳥が瞬間移動するのと同じような動きに見えたが、彼女の言葉を信じるのならモリガンが使っている身体はダフネの先祖のものだったはずだ。
そんなことを考えてから、ダフネは小さく頭を振った。
旧き闇の魔女だ。ダフネの知らない手札をいくつ持っていても不思議ではない。むしろ、それを気にすること自体が彼女の術中に嵌っていると言えるのではないか。
そして、ぴったり30秒後、犬が吠えた。
「……あら、どこの飼い犬かと思えばお義兄様」
黒い大きな犬が不満げに鼻を鳴らした。
その毛並みは艷やかで、よくトリミングされていた。湿った鼻先には傷ひとつなく、品のいい家で飼われている愛犬と言われても納得するだろう。
しかし、目だけはまだ囚人の執念を爛々と輝かせている。
その犬――シリウスはダフネに背を向け、一度だけ大きく尻尾を振った。ついてこいとでも言いたげなその態度に従って、ダフネは彼の後を追った。
「それで? 清い乙女を裏路地に連れ込んで何をしたいのかしら」
「一応言っておくが、君が本当に清い乙女なんてたちなら犬に吠えられたからと追いかけるべきではない。たとえ、私がどれだけ立派な犬であったとしても」
シリウスは小さく鼻を鳴らして、ダフネを見上げた。
ウェーブのかかった髪はヘアオイルで手入れされ、爪はよく磨かれている。かつては幽鬼のように浮き上がっていた鎖骨もなんとか健康的と言える範囲まで肉がついた。
それでも、彼の纏う憂鬱感を
今ダフネが指先でも触れようとすれば、シリウスは杖を抜くだろう。それは彼の信念や善意とは関係なく、アズカバンの中で醸成された復讐鬼としてのシリウス・ブラックがそうさせるのだ。
しかし、シリウスは理性的な男だった。ダフネを疑いながら、それでも対話を選べるのだから。
「ご用なら早めに済ませていただけると助かりますわ。このあと聖マンゴで長期入院中の子どもたちと歌を歌う約束ですの」
「高尚なことだ。しかし、それはデメテル・ザビニの仕事だった」
「そう、そして今は私の仕事ですわ」
「君の仕事、ね」
不満げなシリウスは、剣呑に眉を曲げた。
「はっきりさせよう。ハリーに何を求めている?」
「名付け親として、彼が心配かしら」
「質問に答えろ。さもないと、聖マンゴには客としてではなく患者として運ばれる羽目になる」
「あら、怖い。では、お答えしておきましょう。――何も」
シリウスがダフネの首を掴んだ。
それは、殺そうと思えば殺せる勢いだった。もちろん殺す気はないだろう。彼はピーター・ペティグリューへの憎悪と自分が無実であるという信念だけを頼りに正気を保った男だ。それを水泡に帰すことができるほど、人間は強くない。
それでも、成人男性の太い指が喉に食い込めば、ダフネの細い首は気道が圧迫され、呼吸が難しくなる。酸素を求めて肺が震える。
次の瞬間にはその手は離されていた。シリウスは唖然とした表情で、自分がしたことを見つめていた。まるで、
「私は……」
「けほっ……ハリーから聞きませんでしたかしら。私、今厄介な呪いにかかっていますの。私に対する疑念は際限なく増幅する」
「……私の言動が、その呪いによるものだと言いたいのか? だが、事実君は怪しまれるに相応しい振る舞いをしている。マルフォイなんて最悪な連中と付き合い、鬼婆を手下に加え、私の一族を乗っ取って、次はどうする? 魔法大臣でも呪いにかけるか?」
目の前のシリウスは次々に疑念を吐き出しながらも、自らの振る舞いに困惑していた。それでもなお、彼が呪いから解放されることはなかった。
呪いを解かないことを選んだのはダフネだ。
これくらいのリスクは許容せざるを得なかった。今ルシウスを切り捨てるわけにはいかない。本当であればアブラクサスも救いたかった。マルフォイ家はダフネにとって心の支えだ。彼らを失って、戦い続けることはできない。
ダフネは呪いを解かないことを選んだ。しかし、それは呪いが無力であることを意味しない。
シリウスのことは好きだ。彼の執念と、それでも曇らなかった正義の心には圧倒される。その彼からこうして疑念を向けられると、少しだけ心が軋む。
「誓って申し上げますけれど、私、ハリーには何も望んでいませんわ。私はただ、彼が本来手に入れるべきだった全てを代わりに取り返しただけ」
「それは卑怯な言い方だ。君はハリーが自分にとって価値のある駒になるように育てている、違うか」
「ではもっと卑怯な言い方をしようかしら。私は、あなたがすべきことを代わりにしたのです。アズカバンにいたあなたの代わりに」
ぎり、とシリウスの奥歯が鳴った。
「ハリーに帰る家を取り返しました。親戚付き合いを蘇らせました。ポッター家を慕う人々を呼び戻しました。あなたが……あなたが! すべきことではなかったのかしら!」
気づくと、ダフネは声を荒げていた。
怒っている。
その事実が不思議で、ダフネは思わず笑いそうになった。笑いながら、それでも怒っていた。首に巻いたスカーフを整えて、ダフネはシリウスを見上げた。
思い出した。ダフネはずっと怒っていたのだ。それはあまりにも個人的で、どうしようもない八つ当たりだった。それが喉に走る痛みに負けて、露わになってしまった。
「あなたがたった一言でも自己弁護していれば、ピーター・ペティグリューが裏切って生きていることを残していれば、ハリーは苦しまずに済んだかもしれない! そのことを、あなたは考えたことがおありかしら!」
「考えた!」
シリウスが吼えた。
「ああ、考えたさ! 獄中で何度悔やんだことかわかったものじゃない! 小さな赤ん坊のハリーをただひとり残して、私はアズカバンの冷たさに封じ込められた。だから、だから帰ってきた!」
「あなたが帰ってきたのは復讐のためでしょう! ピーター・ペティグリューを正当な手段で逮捕すれば、ハリーは無罪を証明された名付け親を得ることができる。でも、あなたは自分の復讐心のためだけに、彼を殺そうとしている!」
「それが目的なんだな!」
その瞳が憎悪に染まる瞬間を、ダフネは目撃した。
ブラックの名に相応しい、暗い、とても暗い瞳だった。それでいてその暗さは喜びに満ちていた。復讐心は時に阿片よりも強い酩酊感をもたらす。
シリウスは酔ってなどいないだろう。ただ、その魂はアズカバンという冷たさの中で再び鍛えられたのだ。復讐心に染まり、歪みきった魂として。そして、その魂を人の形に戻してやれるのは、ダフネではなかった。
「ペティグリューを何に使う気か知らないが、やつは必ず裏切るぞ! そして、お前の細い首を噛み切る! その時が見ものだな、ダフネ・グリーングラス!」
「……いいでしょう、好きに仰るがいいわ。あなたを救えると、心を癒して差し上げられると思いこんだ私が傲慢でしたのね」
ダフネはシリウスに背を向け、元の道へと歩き出した。
追っては来なかった。
決して辛くはない。そう言い聞かせながらも、足取りは重かった。これから聖マンゴで歌を歌うということが信じられなかった。
シリウスを救いたかった。
そうすれば、ダフネがいなくともハリーは孤独を感じずに済む。彼に帰るべき場所で共に食卓を囲う家族を用意してあげたかった。
しかし、それはダフネがすべきことではないようだ。呪いを解かないことを選ぶということは、つまり彼のような執念に囚われた人々を切り捨てるということになる。全ての人々が常にダフネを理性で評価してくれるわけではない。
「……ハリーも」
呟きかけて、ダフネは口を閉ざした。
ハリーが自分を疑っているのではないかなどと、疑いたくはない。ハリーには自分を信じていてほしかった。
しかし、疑念が首をもたげる。
果たして、ダフネはそのための努力をしただろうか。ハリーなら信じていてくれると、そう言い聞かせて見ないふりをしてきたのではないだろうか。呪いがダフネを捕らえているにもかかわらず、その術中で呪いに気づいていないように振る舞っていたような気がする。
「きっと……すべてが終わったら」
ハリーとヴォルデモートを巡る運命の物語が終わり、ダフネが目的を達成したら。
そのときは、笑顔でハリーの隣にいられるだろうか。
遠くで、鴉が鳴いている。
お知らせ
拙作『その血は呪われている』の主人公ダフネ・グリーングラスをSkebで描いていただきました!
普段からファンアートは確認できる範囲で全て拝見して喜んでいたのですが、今回は自分のお金で依頼して描いてもらったものということもあり、皆さんにも共有させていただきたく……へへ……
https://x.com/OceanTide_Rite/status/2069722375500030410?s=20