衝撃に打ち震えたリーマス・ルーピンは、危うく膝から崩れ落ちそうになった。
「リーマス、気をしっかり持つのです」
リーマスを支えてくれたマクゴナガルの瞳にも、穏やかでない光が宿っている。これは緊急事態と言ってよかった。
父のライアルから「記者を名乗る不審な魔女が訪ねてきたから一応家に入れたが、失礼なことを言うので追い返した」という手紙が届いた、その翌日のことだった。たった1日で、リーマスが置かれる状況は最悪のものになった。
「……父がこんなことを言うわけがない。父はずっと、自分のせいだと責め続けていたのだから」
一目見て、嘘しか書かれていないとわかった。
かつて魔法生物規制管理部にいたライアルは、人狼を前に思わず否定的な発言をしてしまったことがきっかけで恨みを買った。恨みを抱えた人狼は満月の晩、ルーピン家を襲い、そしてそこに暮らす小さな男の子を噛んだ。
噛んだ人狼の名を、フェンリール・グレイバック。
そして、噛まれた男の子の名を、リーマス・ルーピン。
ライアルは己の迂闊さを心から悔み、仕事をやめて家族のために生きることを選んだ。その彼が今になって人狼を悪く言うはずがない。
「この記事は……この記事は、捏造です」
「ええ、わかっています。これから週刊魔女に抗議の吼えメールを送ります。何通だろうと、まともな返事を寄越すまでは送り続けます。しかし、この記事はもう世に出回ってしまった」
「……ええ、そうですね。つまり――」
マクゴナガルの執務室に、小さな影が駆け込んできた。
その影、フリットウィックは額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、甲高い声でふたりに告げた。その表情にははっきりとした焦りと、わずかな後悔が滲んでいた。
「まずいことになりましたぞ! 昨日、フェンリール・グレイバックを目撃した方がおりました。それほど遠くありません!」
父が危ない。
かつてグレイバックが襲撃した時のように、今度も誰かが犠牲になるかもしれない。そう思うと、リーマスはいてもたってもいられなかった。
こんな時、ジェームズがいてくれたら。
浮かんだ下らない妄想を、リーマスは頭を振って打ち消した。今は死人に頼っている場合ではない。なんとかしなくては。
「マクゴナガル先生、暖炉をお借りできますか」
「それは構いませんが、あなたひとりでは危険です。相手が徒党を組んでいないとも限らないし、もし襲撃が満月だったら……」
奥で沈黙していたスネイプが、ゆっくりと口を開いた。
「吾輩が思うに、連中はむしろ君を誘い出そうとしているのではありませんかな。吾輩であれば、父親を殺すよりも父親の前で息子を殺すことを選ぶ。そのほうが受けた屈辱を雪ぐのに相応しい血が流れるというものだ」
「セブルス!」
「感想を申し上げたまで。ただ、言っておくが、私用のために脱狼薬を煎じるつもりはありませんので、そのつもりで」
マクゴナガルがスネイプに厳しい視線を向けたが、彼の言葉が正しかった。
今のリーマスは教師だ。軽率にホグワーツを離れるわけにはいかない。たとえクリスマス休暇だったとしても、今は教師としての任期の最中にある。
一瞬、教室に沈黙が流れた。
辛い沈黙だった。誰も答えを見出だせずにいた。誰かに助けを乞うにしても、その人が人狼に噛まれないとは限らない。そうなれば、一生をかけても責任の取りようがない。
「誰か、頼れる相手はいないのですか」
マクゴナガルの問いかけに、リーマスの脳裏にひとりの魔女が浮かんだ。
頼っていいのかはわからない。しかし、その頼もしさと優しさ、活発そうな見た目に反してはにかんだような笑みは、リーマスの記憶にはっきりと残っていた。
「ニンファドーラ・トンクスという魔女をご存知ですか」
「トンクス? ええ、覚えています。私の教室では特に優秀な生徒のひとりでした。自己変容の天才と言っていいでしょう。彼女がどうかしたのですか?」
「以前、ちょっとした縁があって。彼女は闇祓いなのですよね?」
「私の記憶が正しければ、まだ訓練生のはずです。……この緊急時です、頼ってみる価値はあるでしょう。彼女ひとりならともかく、彼女の教官はあのアラスター・ムーディです。グレイバック相手に遅れを取る人ではありません」
リーマスは頷いて、手紙の文面を考えはじめた。
あの鬼婆で満ちたコンサートホールから脱出した夜、リーマスは初めて彼女と出会った。その縁が今助けになるのなら、あの日コンサートホールに行った意味もあるというものだ。
「しかし、闇祓い候補生ひとりに任せていい問題とも思えません。リーマス、確かお母上はマグルでしたね。噛まれれば命はないでしょう。守れる環境を作る必要があります」
「そうですね……仰る通りです。でも、どうやって……」
その時、執務室のドアがノックされた。
マクゴナガルは全員と目配せしてから頷き、短く「お入りなさい」と告げた。ドアがゆっくりと開かれ、ハッフルパフの黄色いローブが隙間から見えた。
ハンサムで誠実そうな青年が、少し困ったような、緊張したような笑みを浮かべながら、そこに立っていた。
「すみません、マクゴナガル先生。ルーピン先生をお探ししていたのですが、サー・ニコラスからこちらにいらっしゃると教えられたもので」
青年――セドリック・ディゴリーは、穏やかな口調で丁寧にそう尋ねた。その態度はとても礼儀正しかったが、有無を言わせぬ圧があった。
その程度の圧に負けるマクゴナガルではないが、それでもいつものセドリックと雰囲気が違うことはわかったのだろう。マクゴナガルは少し戸惑いながら彼の問いかけに応答した。
「先生は確かにこちらにいらっしゃいますが、取り込み中です。授業の質問なら――」
「いえ、授業の質問ではありません。父からふくろう便が届いたんです。もしルーピン先生がお忙しいようなら、クリスマス休暇の間ご家族を我が家で歓迎したい、と。どんな状況であろうと最優先でお伝えしろと指示を受けています」
地獄にかすかな光が差した。
「そうか……そうか! 君のお父さんはエイモス、エイモス・ディゴリーだったね」
「はい。ライアル・ルーピン氏には在籍中とてもお世話になった、今でも足を向けて寝られないと父は申しています。……父の上司として、ニュート・スキャマンダー先生の意思を継いで人狼保護に携わった氏があのようなことをおっしゃるはずがありません」
セドリックはかすかに怒りを露わにした。
とても行儀のいい青年だった。授業でただの一生徒として触れ合っているだけではわからない、心の善良さを感じさせた。きっと両親のことを心から愛し、彼自身も両親から多くの愛情を受け取って育ったのだろうということが察せられる。
そして、その愛を惜しみなく振りまく父エイモス・ディゴリーは、リーマスの父ライアルのかつての部下でもある。
「ハッフルパフにはあの馬鹿げた雑誌を信じる生徒はひとりもいません。週刊魔女は信用に値しないゴシップ誌だと僕たちは思っています」
「……ありがとう。心強いよ、セドリック」
「はい。それでは、お伝えしたとおりですので、よろしくお願いいたします。僕は今年ホグワーツに留まるので、いらしていただければ父はとても喜ぶと思います」
「もしかすると、客が増えるかもしれないんだが……構わないかな」
「父は宴会好きですから、付き合っていただける方であればどなたでも大歓迎ですよ。それでは、失礼します」
最後に勇気づけるように小さく微笑んでから、目礼してセドリックは去っていった。
執務室の空気は一気に和らいだ。魔法使いの家に匿われるのであれば安心できる。ましてや家の主は魔法生物規制管理部でともに働いた元部下だ。あのスネイプですら、心なしか安堵したように息を吐いた。
「しかし、リータ・スキーターという記者はけしからんやつですな! 市民のことを何だと思っているのか! 週刊魔女もひどい雑誌だ!」
「食い物程度にしか思っていないのでしょう。マスメディアには時折、そういう方がいらっしゃいます。……とても残念です。スキーターは学生時代、とても優秀な生徒でした。確かにゴシップに弱く、素行に問題がある側面はありましたが」
憤慨するフリットウィックに、マクゴナガルが大きくため息をついた。
しかし、リーマスは別の見方をしていた。
「確かにとんでもない記者ですが……不自然だと思いませんか? 日刊予言者新聞がデメテル・ザビニを擁護する記事を出したタイミングで、ここまで具体的に亜ヒトのイメージを落とす記事が出てくるなんて」
「それは君がデメテル・ザビニの支援を受けていたから生じる主観的な思い込みではないのかね。陰謀であったほうがまだ心が軽かろう」
「セブルス。……ともかく、あまり気にしないことです。授業で正しい知識を生徒たちに与えれば、次第に落ち着いていくことでしょう。今のあなたに必要なのは気晴らしです、リーマス。厨房に行って温かいものを出してもらいなさい」
「教師が勝手に厨房を利用してもよいものでしょうか」
「おや、あなたは使い慣れていると思っていましたよ。さ、お行きなさい。私はこれから吼えメールをたくさん書かなくてはいけませんからね」
マクゴナガルに送り出されたリーマスは、厨房には向かわず足の向くままにホグワーツを彷徨っていた。確かに温かいものが必要だったが、今は食べる気にならなかった。
デメテル・ザビニが鬼婆だと知った時、リーマスが受けたショックは並大抵ではなかった。
彼女の支援があったから、最低限の清潔な格好でホグワーツを訪れることができた。人間としての生活を取り戻すことができたのだ。息子の近況を手紙で送ってほしいという小さな願いを叶えるくらい、なんということはなかった。
素晴らしくいい人だと思っていた。その彼女が鬼婆で、魔法界の転覆を狙うテロを企てていたとは。
「……私は、何を見ていたのだろうな」
リーマスは世界を知らない。
ホグワーツにいた頃は、ジェームズたちと一緒に天下を取った気分でいた。しかし、卒業してからは不死鳥の騎士団の一員として北方で潜伏し、社会との接続がない日々を過ごした。戦争が終わってからは日雇いの底辺労働者だ。
こうして教師になるまで、新聞を読む余裕すらなかった。ともするとリーマスは生徒たちよりも世間知らずなのかもしれない。時折、そんな感覚に襲われる。
かといって、今から知ろうとするには世界は膨大すぎた。何から取りかかればいいのかもわからない。ただ、日々だけが急速に流れていき、その流れがリーマスを傷つけるのだ。
老いぼれになった気分だ。
「――せい。先生!」
いつの間にか大時計の振り子裏に来ていたリーマスは、呼び声にはっと意識を取り戻した。
そこに立っていたのは、ハリーだった。バタービールの瓶を抱えて、困ったように眉を曲げていた。両手が埋まっているせいでずり落ちた眼鏡を戻せずにいる。
リーマスは片手でハリーの眼鏡を戻してから、彼に微笑みかけた。
「大荷物だね」
「ハグリッドにもらったんです。ホグズミードに行けなくて可哀想だから、って。よければ先生も一本どうぞ」
「ありがとう、それじゃいただこうかな」
杖で栓を外し、ふたりは乾杯した。
甘みと炭酸がぐっと不安定な意識を固めてくれる。今まで思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。まるでティーンエイジャーのような悩み方をしていた。
「こうしてバタービールを飲んでいると、コンサートに行った夜を思い出すね。あれはひどい経験になった。魔法界のコンサートが全てああというわけではないということはわかってくれるね」
「はい。……先生、その」
「どうしたんだい、ハリー」
「……誰にも内緒で、聞いてほしいことがあるんです」
意を決した表情で、ハリーがリーマスを見上げた。
「ダフネのことなんです」
「ミス・グリーングラスの?」
リーマスはボトルを床に置き、ハリーに向き合った。
気になってはいた。日刊予言者新聞はさりげない形で彼女のことを宣伝している。今のところ、それは直接的な力になってはいない。しかし、日刊予言者新聞が大手であることはリーマスも知っている。その個人名を出すのに、何の意味も持たせないとは思えない。
そして、そのタイミングであの週刊魔女だ。
全ての裏にダフネがいるとまでは言わないが、何かしらの関わりがあるような気がしてならない。週刊魔女の記事を書いたリータ・スキーターという魔女は、明らかに知りすぎている。
「……デメテル・ザビニの正体を暴いたのは、ダフネなんです」
躊躇い、悩みながらも、ハリーはそう口にした。