パーティーの招待客名簿を最終確認して、アステリアはため息をついた。
提供する料理も、飲み物も、デザートの配分まで決まっている。それなのに、なぜか不安で胸が疼く。これは昨日今日に始まったことではない。
「……お姉様」
ダフネの様子がおかしい。
アステリアはダフネに全幅の信頼を置いている。ダフネが死ねと命じれば死ぬだろう。それは、ダフネが「それがアステリアのためになる」と考えて言ってくれていて、その判断が間違いではないと確信しているからだ。
もちろん、ダフネはアステリアに死ねなどと言ったりはしない。ダフネはいつでもアステリアとふたりで生きていく手段を模索してくれている。ダフネがいなければ、今頃アステリアは孤児として飢えて死んでいただろう。
しかし。
「クリーチャー!」
「お呼びでしょうか、お嬢様」
腰の曲がったしもべが、アステリアの呼びかけに応えて姿を現した。
グリーングラス家に仕えるシミーのほうが料理は上手だったが、家具の手入れと本の整理にかけてはクリーチャーのほうが得意としているようだった。アステリアはすでにこの変わったしもべ妖精のことを好きになりはじめていた。
少なくとも、闇の魔法についての見識ではクリーチャーはアステリアより秀でていた。なぜなら、クリーチャーはブラック家で多くの闇を目撃してきたからだ。
「最近のお姉様のこと……あなたはどう思いますか」
「しもべに意見をせよと仰るのですか。そのような恐ろしいこと……どうぞお役に立てないしもべをお許しください」
「意見ではないのです。あなたから見て、お姉様の病状はどうですか?」
ダフネはあの夏、ギリシャで何かをした。
詳しいことは教えられていない。ダフネは必要だと思えば何でも話してくれるが、このことは決してアステリアに明かさなかった。それはつまり、アステリアが知るべきではないということだ。
アステリアはダフネの役に立ちたい。それは姉のやることを何でも詮索するということではない。意図を察して先回りし、手助けをする。それがアステリアの目標だ。だから、ギリシャでダフネが何をしたのかを根掘り葉掘り訊くつもりはない。
しかし、少しずつ状況は悪化している。
「もし、ルーナの言う細生物? 細菌? の呪いが本当だとして……お姉様は、まるで呪いのことを忘れたみたいに振る舞っています。それがいいこととは、私には思えないのです」
ダフネは呪いのことを忘れつつあるのではないか。
そう思ったのは、ダフネがデメテルを屈服させたころのことだ。その少し前までは、呪いの影響で人々から悪意を向けられることに苦しんでいた。アステリアもそのことにひどく胸を痛めた。
しかし、次第にダフネは呪いの影響を気にしなくなっていった。スペイン行きの列車でダフネが語った論理は決して間違いではないが、アステリアにはどこか違和感があった。以前のダフネなら、目に見えない細菌の呪いという脅威を軽視することはなかったはずだ。
「まるで、
あるいは、アステリアが怯えすぎなのだろうか。
本当に、心配しすぎなだけなのだろうか。
「ふむ……クリーチャーめも闇の魔術に侵されたご主人様の看病をしたことはございますが、呪われた血のダフネお嬢様を囚えた呪いはクリーチャーの力ではいかんともし難く」
「……そうですよね」
「ダフネお嬢様は強いお方でいらっしゃる。このグリモールド・プレイスに輝きを取り戻してくださった。そのお嬢様でも……呪いに蝕まれれば、危険なことになるでしょう」
クリーチャーは誰かを思い出すような遠い目でそう呟いた。
このままでは危険だ。それは間違いない。誰かに頼る必要がある。しかし、それは一体誰なのか。細菌の呪いなどという未知の概念に明るく、協力してくれる人物はどこにもいないのか?
「――今帰った」
暖炉の炎が緑色に揺らめき、その中からアークタルスが姿を現した。
「アークタルス様! おかえりなさいませ」
「うむ、留守番ご苦労であった」
「旦那様、コートをお預かりいたします」
鷹揚に頷いてクリーチャーにコートを預けながら、アークタルスは一瞬だけ険しい表情を浮かべた。
珍しいことだった。アークタルスはアステリアの前で表情を崩さない。叱責もしないし、怒鳴りもしない。常に静かで、どこか硬質で、しかしアステリアを拒まない。
そのアークタルスが、珍しく顔に悩みと疲労をにじませていた。
「アークタルス様、何かございましたか?」
「ん……うむ、少しな。その方にも関係のある話よ。クリーチャー、茶を」
「かしこまりました、書斎でよろしいでしょうか」
「よい。アステリア、ついて参れ」
居間から書斎に移り、クリーチャーの淹れた温かい紅茶を飲みながら、アークタルスはしばらく黙っていた。その視線は彼が魔法省から持ち帰ってきた資料に落とされていた。
福祉委員会。
元々は魔法省大臣室福祉課として設立するはずだったものを、一部官僚とウィゼンガモット評議員からの「常設すべきかも含めて検討すべきである」という主張から委員会に形を変えたものだ。
「……余が委員会に否定的な立場だったのは知っておろう」
「はい、存じております。期限つきの福祉制度では近視眼的で場当たり的な解決にしかならない、と以前仰せでした」
アークタルスは小さく頷いて、かすかに息を吐いた。
どうやら相当疲れているようだった。以前栄養の偏りから来る胃の不調で入院して以来、アークタルスの体力は少しずつ削られている。それでも彼の覇気と理性は陰ることなく、アステリアという継承者に注がれ続けた。
弟子に教えるように、アークタルスは語りはじめた。アステリアは一片も聞き逃さないようにしようとカップを置き、視線をアークタルスに向けた。
「弱者の救済とは、かつては高貴な者の義務だった。しかし、マグル界では次第に高貴な者の力が失われ、やがてその役目を政府が担うようになった」
「今の魔法界と同じですね」
「左様。問題は、公平性と妥当性にある。政府は民の税によって働く。税が公平であるのなら、福祉も公平でなければならない。税が妥当であるのなら、福祉も妥当でなければならない。税が公平で妥当であるという建前がある以上、福祉も同様だ」
アークタルスはかすかに皮肉をにじませ、眉を小さく曲げた。
彼の教え子として会計を学んだアステリアには、その皮肉が十分に理解できた。現実的には公平で妥当な税制など実現されていないが、その建前を捨てれば政府は機能を失う。
アステリアが頷くと、アークタルスは静かに続けた。
「問題は、福祉が必要な者ほど納める税が少ないことだ。誰しも払った分の対価を求める。ただ求めるのではない。適切よりも少し多い対価を求める。そして、己よりも得をしている人間のことは決して許せない」
「でも……福祉は税の対価じゃないですよね? 政府が高貴な人たちに代わって義務を代行するようになったのなら、納める税とは関係なく政府が遂行する義務のはずです」
「その通りだ。しかし、現実的な問題として福祉とは限られた財源を誰に振り分けるかのバランスゲームよな。畢竟、振り分ける者は『救う価値のある者』に振り分けたがる」
「救う価値のある者?」
アークタルスは小さく首を振って、葉巻を取り出した。
体に悪いからと医者に禁止されているのだが、疲労が溜まると吸いたがる。アステリアはその匂いが染み込んだアークタルスのことが嫌いではなかったが、それはそれとして長生きしてほしいことを思うと禁煙を勧めたかった。
「駄目ですよ、アークタルス様」
「一本だけだ、許せ」
杖先で火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ後、アークタルスは煙と一緒に腹立たしさを吐き出すように続きを語った。
「同情家はより不幸な境遇の者を救いたがる。帳簿係は納税者になりうる者を救いたがる。マキャベリストは国の盾となるような愛国者を救いたがるし、政治家は己の支持者となりうる者を救いたがる。それぞれが勝手に価値を割り振って、民を選別する」
「それは……難しいです。間違っているとは思います。でも、財源は無限じゃないんですよね」
「その通りだ。どこかで線を引かねばならぬ。余は今日一日、自分の都合のいいように線を引きたがる愚か者どもの議論を見ているだけだった。あれは実につまらん観劇だった」
もう一度大きく吸って煙を吐き出し、アークタルスはゴブリン銀の灰皿に葉巻を押し付けた。
難しい話だった。魔法省が手をこまねいている間に、ダフネはデメテルの影響圏にいた人々を吸収して派閥を拡大している。そういう意味ではダフネは支持層のために救済する政治家だ。
それを間違いとは思わない。その戦いが自分のためであることを理解できないほどアステリアは愚かではない。しかし、全ての苦しむ人々が救われてほしいという気持ちもアステリアの胸中には存在していて、それがたまらなく苦しかった。
「その方はどうだ、アステリア。何か悩んでいる顔をしておるな」
「……あっ、はい! あの、お姉様の件なのですが」
アークタルスは眉間に皺を寄せ、手の指を組んだ。
「順調ではある。しかし……何かを見落としているという予感がしてならん」
「お姉様は、その、ギリシャで受けた呪いのことを忘れているんじゃないかと思って……」
「呪い? ……ああ、言われてみればそのようなものもあった。しかし、
「そうでしょうか……」
多くの呪いを目にしてきたであろうアークタルスが言うのだから、そうなのかもしれない。
しかし、それでもアステリアの胸中には不安が煮凝っていた。
もし、もしもそれすらも呪いの効果なのだとしたら。
細菌の呪いなど、アステリアには少しもわからない。そう考えて、アステリアは閃いた。今までもそうだったではないか。わからないことしかないこの世界で、アステリアは本を読み、人に尋ね、学んで世界を知ってきたはずだ。
「アークタルス様、お願いがございます」
「言ってみよ」
「
アークタルスは一瞬面食らったように眉を上げたが、小さく頷いた。
「よかろう」
「ありがとうございます! 少し御前を失礼いたします、アステリアは手紙を書かねばなりません。クリーチャー! レターセットを用意してください!」
書斎を飛び出して、アステリアは自分の部屋として割り当てられた一室に駆け込んだ。
マグル生まれの知り合いに細菌学の専門家はいないし、頼れる相手もいない。しかし、誰かに頼らなければアステリアには問題を解決できない。
知恵を借りる必要がある。その人物は強くて偉大な魔法使いや魔女であってはならない。むしろ、アステリアと同じ違和感を、疑問を、恐怖を共有してくれる人物である必要がある。
そこで、アステリアは閃いた。
「あの方なら……お力添えを、いただけるかもしれません」
今のホグワーツにはマグル界の知識を集めて学ぶ勉強会が存在している。主宰である彼であれば、力を貸してくれるかもしれない。
羽根ペンを取り出してインク壺のインクを吸わせながら、アステリアは冷静に彼の名前を思い出していた。
「お嬢様、レターセットをお持ちしました。どちらにお届けでしょう、クリーチャーがお届けいたしましょうか」
「んーん、大丈夫です。相手はマグル生まれの方なので、クリーチャーが行ったらびっくりしちゃうと思います」
「穢れた血と文通をなさるおつもりですか! アステリアお嬢様……どうかそのようなおぞましいことをなさらないでくださいませ」
「これからのブラック家ではそういうことを言ってはだめだと約束したはずですよ、クリーチャー。さあ、レターセットを」
心底嫌だという顔をしながら、クリーチャーは渋々レターセットをアステリアに差し出した。
銀のトレイからそれを受け取り、封筒の表に宛先を記入する。羊皮紙の手紙をふくろうが運んできたら彼の家族は仰天するかもしれないが、アステリアはマグルのポストで郵便を出す方法を知らない。
「ええと、名前は――ジャスティン・フィンチ-フレッチリー様」