全員にオレンジジュースが行き渡ったことを確認して、ジャスティンは頷いた。
「みなさん、クリスマス休暇中にもかかわらずお呼び立てしたことをお詫び申し上げます。お伝えした通り、早急に確認すべき事項が生じました」
「それは構わないが……」
落ち着かない様子のアーニーは、オレンジジュースを一口飲んで眉を上げた。魔法界育ちの彼は濃縮還元のオレンジジュースなど耳にしたこともないだろう。
その時はそれほど遠くない。
かすかに高揚する自我をぐっと押し留めて、ジャスティンは立ち上がった。
「ある人物から手紙が届きました。魔法界にある病が蔓延しつつある可能性があるという告発です。しかし、その病の原因について魔法族の研究はあまり盛んとは言えない。そこで、我々の力を借りたいということでした」
「病? それってインフルエンザみたいな?」
ハンナの問いかけにジャスティンは頷いた。
ある意味ではインフルエンザにとても近いが、しかしこの病は告発の通りならとても邪悪で、悪趣味だ。ジャスティンは魔法族という種の歴史にここまで恐ろしい呪いを生み出した魔術師がいたことに驚愕した。
「でも、魔法族はマグルの病気にはかからないのよね? マダム・ポンフリーが言ってたわ」
「そうですね、ある意味では魔法族は魔法的な免疫を持っていると言える。だから、この病は魔法族独自の病です。……とても恐ろしい病だと手紙には書かれていました。自覚症状はないが、感染した者は宿主への猜疑心を抱えるようになる」
いまいちピンとこなかったのか、首を傾げたハンナにジャスティンは小さく笑ってみせた。
確かに、一見すると病らしい病とは言えない。ただ疑念を植え付けるだけなら魔法や魔法薬でもできるだろう。問題はここからだ。
「病そのものが自らを隠蔽する性質を持っています。力の強い有能な人物ほど、その呪いに気付けない。気付いても軽んじてしまう。それどころか、忘却すらしてしまう事例が確認されています」
「ま、待ってくれ。つまり、周囲に疑われて責められるのに、本人はそれを気にすることもできないということか?」
「その通り。そして宿主は、アーニー、君もよく知っている人物です。心当たりがありませんか。ある時期から急速に疑念を向けられ、それにもかかわらず噂を払拭することよりも活動を広げることを選んだ、そんな有能で力強い魔女を」
アーニーがはっと息を呑んだ。
これで全ての辻褄が合う。ホグワーツ内部で急速にダフネを疑う声が広がったことも、その噂にダフネが本気で向き合おうとしなかったことも、そして今、アーニーやジャスティン自身がダフネに対して疑念を向けていることも。
アステリアから届いた手紙を取り上げて、ジャスティンは真剣に頷いた。
「我々憲章団の手でダフネ・グリーングラスを助けましょう」
「でも、助けるって言ったって、どうやって? 魔法界の病気になんて誰も詳しくないわ」
「そこで、最初の話に立ち返ります。この病はただの病ではない。バクテリア性疾患なのではないか、という指摘がされています」
ジャスティンは今朝急いで取り寄せた『ザ・クィブラー』のバックナンバーをハンナに差し出した。ポックピックムラサキムシという目に見えない魔法生物についての特集号だ。
受け取ったハンナは、少し嫌そうな顔で雑誌を開いた。
「ねえ、ジャスティン……この雑誌って」
「あなたの言いたいことはわかります、ハンナ。『ザ・クィブラー』は『フォーティアン・タイムズ』のような信頼性の低いオカルト雑誌です。しかし、この号は違う。編集者の妻で魔法生物学者だったパンドラ・ラブグッドの論文に基づいているんですよ」
「ラブグッド……ルーナ・ラブグッドの?」
「ええ、彼女の母親です。ミス・ラブグッドは本件について告発者に直接の情報を提供したアドバイザーでもあります。僕はこの雑誌の情報を軽んじたくはない」
ハンナはまだ眉間に皺を寄せていたが、少なくとも雑誌を投げ捨てはしなかった。
「魔法細生物、魔クテリア、色々な言い方はされていますが僕たちは用語を統一して魔法細菌と呼ぶことにしましょう。魔法界独自の細菌です」
「魔法細菌か、わかった。それで、どうすれば解決できる? 魔法薬か?」
「そうですね。告発者によれば、すでに抗菌剤は開発されているそうです。しかし、魔法細菌についての啓発が十分でないため、魔法薬を市民に服用させることが難しくなっている」
啓発が十分でない。
これは一見簡単なことのように思えて、恐ろしい問題だった。力ある者ほどこの種の魔法細菌を軽んじる。それはつまり、啓発を行う側の立場に立つ者が真剣に取り組むことを魔法細菌自身が阻んでいるということに他ならない。
じりじりと、首の後ろが焼けるような焦燥感をジャスティンは抱いていた。それは単に感染が拡大しているからというだけではない。この先が危険であると感じるからだ。
「僕はこれがコレラと同じ道筋を辿るのではないかと思っています。状況はエルトール型コレラに酷似している」
エルトール型コレラ。
1905年、エジプトで発見されたコレラ菌の変異株だ。発見当初は毒性の低さから軽視されていたが、古典型よりも生存力が高く、無症状感染者によって世界中に感染を拡大した。
そう、細菌には変異株がある。すでにダフネを宿主として感染が拡大した以上、いつどこで変異するかわかったものではない。もしその変異株がより強力な毒性を持っていたら。たとえば精神的な症状だけではなく、肉体的な症状も伴うとしたら。
「状況は危機的です。最悪の場合、パンデミックによって魔法界は崩壊する」
ジャスティンの言葉に、ふたりは息を呑んだ。
「た、大変だ……ダンブルドア! ダンブルドア校長に相談しよう!」
「それじゃだめよ、だって強い人はこの菌を軽視するんでしょ? だから、えっと、えっと……マグル界の研究機関に通報しましょう!」
「そんなことをしたら、国際魔法使い機密保持法はどうなる! そうだ、スネイプ先生ならどうだ? 魔法薬を調合してもらって、まずはホグワーツの夕食に――」
紛糾しつつある議論を、ジャスティンは手を叩いて制止した。
確かに、状況は危機的だ。しかし、これは好機でもある。現状、魔法界でダフネが疑われている理由を真の意味で理解しているのはこの3人だけだ。意図せずして知の独占が成立した。
金をむしり取ろうとは思わない。ジャスティンはやろうと思えば英国魔法界の経済を不健全に傾けられる程度には個人口座に小遣いを入れてもらっている。ダフネに恩を売ることは、今のジャスティンにとって1億ガリオンにも勝る価値がある。
「問題を切り分け、目的を単純化しましょう。僕たちのゴールは魔法界の有力者に抗菌剤を服用させ、啓発の可能性を切り開くことです」
「でも、どうすると言うんだ? 魔法薬のレシピはないし、有力者への伝手もない」
「告発者と何度か手紙のやり取りをして、ある人物がすでに抗菌剤を服用していることがわかりました。魔法界の有力者です。彼に細菌についての情報を提供し、啓発の足がかりとして使ってもらいましょう」
「その有力者って?」
この名前を口にすることに、躊躇いがないとは言えない。
彼の息子には何度か失礼なことを言われたし、同級生が嫌がらせを受けたこともある。子どもを見れば、親がどのような思想の持ち主なのかはおおむね察しが付く。
しかし、彼がダフネの陣営にいること、そして抗菌剤を服用した唯一の人物であることを鑑みれば、現状この問題について窓口として機能するのはたったひとり、彼しかいない。
「――ルシウス・マルフォイ」
アーニーが憤慨したように立ち上がった。
「彼は! ……彼は、問題のある人物だ。元死喰い人で、純血至上主義で、排外主義で」
「そして、ミス・グリーングラスにとって最大の協力者でもある。アーニー、今回の件でルシウス・マルフォイが僕たちの提案を拒むことはできません。僕たちと彼は問題意識を共有していて、しかもミス・グリーングラスのために戦っている」
自分で言いながらも、ジャスティンはこれが詭弁であることに気がついていた。
共通の敵がいるというだけで団結できるなら、人類史はもっと平和な年表になっている。ルシウスがマグル界の知見を取り入れてまでダフネを救おうとするかどうかは、賭けでしかなかった。
そして、この賭けはラスベガスの三段クルーンだ。
まず、ルシウスが思想を捨ててまでダフネのためにマグル界の科学を受け入れること。
次に、その科学が本当に魔法細菌にも有効で、効果的な策として機能すること。
最後に、ジャスティンたちが情報を提供し提案を行ったことをルシウスが借りと感じ、相応の対応をしてくれること。
「無茶だし、無茶苦茶だ。ジャスティン、考えなおしたほうがいい。大体、本当に細菌のせいなのか? ミス・グリーングラスの瑕疵、それだけの話ではないのか?」
そう考えて問題を放置するのは、確かに楽だ。
ジャスティン個人が今すぐどうにかなるわけではない。魔法細菌によるものだという確かな観測結果があるわけでもないし、仮にそうだとしても変異すると決まったわけではない。
今ならまだ、ダフネが疑われているだけという、本当にそれだけのことだ。彼女の信用が目減りすることはジャスティンたち憲章団にとってそれほど損なことではないだろう。
しかし。
「アーニー、どうか楽な方に流されないでください。僕たちは、マグルは多くの争いを経験してきました。僕はそれをよく知っているつもりだ。だからこそ、僕は隣人のために手を差し伸べるマグル生まれでいたい」
ダフネが苦しんでいて、彼女を助けるのにマグル界の知識が必要だと言うのなら、全力でそれを助ける。それだけのシンプルな目的。
「ジャスティン……」
「何より、僕は彼女に恩がありますから。彼女がハリー・ポッターと一緒にバジリスクを仕留めてくれなければ、石になった僕を両親が連れ帰ってイートン校に編入させていたかもしれない。イートン校の置き物になるのはごめんですよ」
そう言っておどけると、ハンナは小さく笑って頷いた。
「ママの友達に高校で生物を教えてる先生がいるの。彼女に本を借りてくるわ。子ども向けと大人向け、あと公衆衛生のパンフレットもあったほうがよさそうね」
「ありがとう、ハンナ。このお礼はいずれ」
「あなたがルシウス・マルフォイに盛大に恩を売ってくれればいいわ。マグル生まれに借りを作ったマルフォイ、中々いい見ものね」
皮肉だが、嫌な色は滲んでいなかった。
ハンナが立ち上がると、アーニーは躊躇ったようにオレンジジュースのグラスを伝う雫を撫でた。まだ彼の中にはダフネへの猜疑心が渦巻いているのだろう。
理解はできる。ダフネは疑いたくなるくらい優秀だ。成績の話だけではない。ホグワーツを揺るがす騒ぎが起こるたび、その裏にはいつも彼女がいると思いたくなる。
しかし、その疑念すらも魔法細菌の呪いによるものだとするのならば、病が彼女を助ける手を阻んでいるということになるのではないか。
それは、細菌による侵略だ。人類としてそれを見逃すわけにはいかない。
「アーニー、僕たちにできることをしましょう。ミス・グリーングラスが疑わしいかはさておき、魔法界が細菌学で遅れを取っているのは事実です。僕たちの提案によって、未来のパンデミックが回避できるかもしれない」
「……そうか、そうだな。僕は何をすればいい?」
「ハンナが借りてきた本を読んで、理解できないところを教えてくれると助かります。最終目的は純血の魔法族が読んで理解できる言葉に落とし込むことです」
アーニーは頷いて、オレンジジュースをぐいと呷った。
「……まったく、このオレンジジュースといい、僕たち魔法族はマグルのことを何も知らないらしい。君の友人でありながら、僕は何もわかっていなかった」
「それはお互い様です、アーニー。僕たちマグル生まれには純粋な魔法界生まれの人々に声を伝える手段がない。頼りにしていますよ」
「頼り、か。……そうだな。僕はミス・グリーングラスに頼られたかったのかもしれない」
そう呟いたアーニーは、ソファの背もたれに身体を沈めさせて呻いた。
「このソファ、柔らかすぎないか。これもマグルの技術か?」
「いい羽毛を使っているだけですよ。魔法界にだってクッション呪文を使った上等なソファはあるでしょう。お互いがお互いの領域で卓越している、それだけです」
「そうか。……よし、勘所を掴んでおきたいな。君の手持ちの本からスタートしないか?」
「もちろんです。プライマリースクールの教科書から始めましょうか。僕の記憶違いでなければ、部屋に残してあったはずです」
立ち上がってアーニーを私室に案内しながら、ジャスティンはまだ見ぬルシウス・マルフォイに思いを巡らせた。
排外的で、差別的で、傲慢。多くのマグルやマグル生まれを思想のもとに辱めた挙句殺害した嫌疑もかけられている。
話を聞く限りでは、ルシウスとジャスティンが手を取り合うことはありえない。ましてやルシウスは政界に影響力のある魔法使いだ。彼らにとってマグル生まれの子どもに助けられたなどという風聞は恥にあたるだろう。
彼がその恥を負ってでもダフネを助けることを選べるか。
魔法界の命運は、おそらくそこにかかっている。
「さて――始めましょうか」
そして、ジャスティンの命運もまた。