何かがおかしい。
そう気づいたのは、午前1時半にベッドに入った時のことだった。朝起きたら手配した厨房に行ってニューイヤー・パーティーで提供する料理の最終確認をし、それから聖マンゴで貧困患者のための支援について基準設定の話し合いをしなければならない。
杖で時計を叩いて5時半に目覚ましをセットしたところで、ダフネは本に挟んであった一枚の羽根に気がついた。夏休みにギリシャでグリフィンに乗った時、記念でもらった羽根だ。
「……ギリシャ」
なぜギリシャに行ったのか。
日記帳についてルシウスとの賭けに勝ち、その報酬としてマルフォイ家とともにギリシャへ渡航した。アステリアがグリフィンの背に乗ってとても喜んでいたのを覚えている。
しかし、それはただの旅行ではなかったはずだ。あのルシウス・マルフォイを脅すという大胆な選択には、相応の目的がなければならない。
それが、思い出せない。
「疲れている……いや、違うわね」
ベッドから体を起こし、水差しの水をグラスに注ぎながら、ダフネは考えた。
何かが起きている。
思い出せないのはそれだけではない。アージニウス・ジガーと会った記憶はあるのに、彼に何を依頼したのかがわからない。魔法薬師ならスラグホーンがいる。それなのにわざわざヤックスリーの抱える債務者と取引をした理由は何だ?
ダンブルドアと湖に潜って水中人の長に会い、彼らの食生活に呆れた記憶はあるのに、水中人に何を求めていたかがわからない。魔法生物に会いたかっただけならアステリアを連れて行ったはずだ。なぜダンブルドアは険しい表情を浮かべていた?
おかしいの一言で済ませるには危険な予感がする。
「記憶……記憶ね」
魔法族は古くから記憶の操作に関しては卓越した技術を持ち合わせている。ロックハートのように記憶を消すだけではない。抽出し、加工し、やろうと思えばある人物の記憶を別の人物に植え付けることだってできるだろう。
ダフネもその初歩だけなら弁えている。記憶を隠す術、そして必要な記憶を取り出す術。
憂いの篩がなければ、取り出した記憶を閲覧することはできない。しかし、記憶を取り出してみれば、その記憶がダフネの脳内にあるかどうかを確認することだけはできる。
こめかみに杖を添え、強く念じる。
「……ッ!」
引き出された記憶を見て、ダフネは絶句した。
「記憶が……カビている?」
絹糸のように白く淡い記憶は、ところどころ湿ったように黒ずんでいた。
まるでカビたようになった記憶。これは疲労とストレスから来る健忘などではない。ダフネは今、誰かに呪われている。
「シミー!」
「お呼びでしょうか、お嬢様」
姿を現したしもべに、ダフネは問いかけた。
「夏に私はギリシャに行ったわね。あれは何の目的だったか、あなたに話したかしら」
「専門科の意見を乞うためと伺っております。魔法の深奥に関わる極めて複雑な秘術についてであると。当家の蔵書ではご不足ですか、補充をいたしましょうかとお伺いしたところ、その魔術についての本はご禁制であると仰せでした」
分霊箱だ。
ダフネは確信した。自分は今、何かの呪いに絡め取られようとしている。それは分霊箱について見識の深い、つまり闇の魔術師によるものだ。
攻撃を受けている。それも、気づかないうちに、気づかない形で。
「やられたわ……」
人差し指で枕を叩きながら、ダフネは呟いた。そう、厄介なことになっている。何者かがダフネの記憶を蝕もうとしているのだ。
当然、それは有効的な振る舞いではない。どこかにダフネの敵がいて、しかしダフネはその敵に気がつくことができない。先手を取られ、しかも取られっぱなしというわけだ。それはまったくもって不利な状況と言える。
しかし。
ダフネの
「……腐ったハーポ。私は腐ったハーポに会ったんだわ」
腐ったハーポ。
古代ギリシャの魔法使い。闇の魔術師。分霊箱とバジリスクの発明者。
今の今までなぜか思い出せずにいた。まるでその名前に蓋をされたような感覚。その事実がひどく不気味で、ダフネの眠気は一瞬で消し飛んだ。
冷静に思い返す。ここしばらく、妙にやりづらさを感じていた。動くたびに反発と疑念を向けられ、しかしその理由が掴めない。そして、かすかに
モリガンの言葉。ダフネは何かを見落としている。ダフネは魔法を軽視している。
もし、この反発と疑念それ自体が呪いによるものなのだとしたら、ダフネは腐ったハーポによって追い詰められつつあるのではないか?
「根拠。何か、根拠があれば……」
その時、ダフネの手に紙のようなものが当たった。
手繰り寄せると、それは読みかけの日刊予言者新聞だった。ダフネは国際欄を開き、ギリシャについてのニュースを探した。小さな、とても小さな記事が載っている。
「……グリンゴッツ魔法銀行アテナイ支店、営業を一部再開」
覚えている。
アテネの一部地域が今、光を通さない闇に包まれているというニュース。それはハロウィーン当日にホグワーツで知った。その後、ダフネは闇祓い局でスクリムジョールの尋問を受けた。
なんの尋問だったかが思い出せない。そして、何を答えたかも。しかし、覚えていることがある。ダフネはあの無機質な尋問室で――
「……羽根ペン。そう、羽根ペンを握ったわ。そして、その羽根ペンが誰かの人相書きを自動で羊皮紙に描いた」
ダフネは立ち上がった。
「シミー、出かける準備を」
「しかしお嬢様、昨日もお眠りになっていらっしゃらないのでは」
「元気爆発薬のストックはまだあるわ。今は寝ている場合ではないの。事は急を要するわ」
シルクのパジャマを脱いで訪問着に着替え、ガラスの小瓶の栓を抜く。
胡椒と生姜と唐辛子を煮詰めて液化した日光に浸したようなその魔法薬をぐいと呷ると、曖昧だったダフネの視界はぱっと開けた。
彼は、間違いなくダフネのことを疑っている。誰よりも疑い、誰よりも警戒しているからこそ、その人物は今だけならダフネの味方になりうる。
「シミー、闇祓い局のルーファス・スクリムジョール局長を訪ねて、明日のニューイヤー・パーティーにも関わる緊急性の高い用件でお目通り願いたいと伝えて。最悪の場合、人命がかかっていると」
ルーファス・スクリムジョール。
原作では後に魔法大臣となった彼であれば、本気でダフネのことを疑ってくれる。そして、彼はこの英国魔法界で法執行機関を束ねる者だ。魔法界に影響を与える脅威の存在を訴え、その根拠が確かにあれば、彼は動かざるをえない。
「かしこまりました、直ちに」
指を鳴らして姿を消したシミーは、5分とかからず戻ってきた。
「20分後に魔法省でお目にかかると仰せです」
「ありがとう。……迂闊だったわね。どうやら私は敵の術中にあって、しかもそのことに気づかせてすらもらえなかった。大間抜けだわ。顔から火が出そうな気分よ」
腐ったハーポの呪いがどのようなものだったか、過去のダフネは知っていたのだろうか。
原作の知識に腐ったハーポの情報はほぼ登場しない。分霊箱とバジリスクを生み出したことだけがわかっている。その点では、おそらくダフネのハーポに関する知識は彼と会う前の状態まで巻き戻されているのだろう。
考えろ。思考を止めるな。
過去のダフネはなにか目的があってハーポに会ったはずだ。それは分霊箱に関係しており、しかもダフネにとってこの無謀な行いを許容するだけの理由があるもの。
ひとつだけ、心当たりがある。分霊箱の知識がなければ解決不可能な問題で、しかもダフネに関係しており、ダフネが解決策を進んで求めようとするものが。
「……あーあ、こういうとき自分が馬鹿な小娘だって思い知らされるのだわ。恋は盲目だなんてレベルじゃないわね、まったく」
ダフネはハリーに秘められたヴォルデモートの魂について何かを知ろうとしていた。ダフネなら何を知りたがるか。それはおそらく、ハリーを生かしたままヴォルデモートの魂だけを破壊する方法だ。
この記憶は絶対に取り戻す必要がある。
すでにこの世界の道筋はダフネが大きく歪めてしまった。予言された運命はヴォルデモートとハリーの戦いを示しているが、それがいつになるかはわからないし、原作の通りに進むとも限らない。
ハリーを助けるためには、分霊箱の知識が必要だ。
「どうかそのようなことを仰らないでくださいませ、お嬢様。お役に立てなかったシミーはどうお詫びすればよいか見当もつきません」
「あなたは十分によくやってくれているわ」
申し訳なさそうに肩を落とすしもべを慰めながら、ダフネは考え続けた。
先手を取られた。致命的なまでに不利な状況にある。
しかし、今現在呪われているという事実は把握できた。ダフネはこれまであらゆる不利を挽回してきた。両親もなく、名ばかりの小さな純血旧家で、小さな妹だけを味方に戦ってきた呪われた血の女の子。この程度で諦めるほど、ダフネの戦いは簡単ではなかった。
それに、ダフネはひとりで戦っているわけではない。
嘴によって窓が叩かれた。シミーが窓を開けると、ブラック家のコノハズクが小包を落としていった。表には急いで書いたらしい掠れた文字でアステリアのサインがある。
紐を引き、小包を開く。
「これは……細菌学の入門書?」
分厚く、とても細かい入門書。出版年は今年のものだ。印刷も製本も、著者から出版社まで、全てが魔法界との関わりを感じさせない。
開くと中にはメモが挟まれていた。
表書きと同じ走り書きの文字でたった一言、こう書かれている。
「目に見えない脅威のために。……目に見えない、脅威」
一瞬、思考が明滅する。
何かを考えていたはずだ。細菌について、何かを調べていた。それをアステリアは知っている。
とても曖昧な書き方をしている。曖昧である必要があったのだ。具体的なことを書くと何か不利益や不都合が生じるということだ。それはたとえば、
細菌。
「
ダフネはその本を強く握りしめた。
尻尾を掴んだ。
かすかに残る記憶の点が、線になって繋がっていく。ギリシャ。取り調べ。魔法薬師。水源。じわじわと広がる疑念の輪と、カビて虫食いになった記憶。
かけているピースは、細菌。
この記憶がいつまで保つかはわからない。しかし、ダフネの手元にはアステリアが送ってくれた細菌学の本があり、ダフネの理性は腐ったハーポと腐敗、細菌を結びつけることができる。
「まだ全部がわかったわけじゃない。いつまで覚えていられるかもわからない。だいたい、細菌の魔法なんて見たことも聞いたこともないわ。私はこれからその未知に立ち向かわなければならないのね。どう思うかしら、シミー。私は勝てると思う? 諦めたほうがいいかしら?」
今夜はニューイヤー・パーティーだ。
猜疑心が細菌の呪いによって広がるのだとすれば、この夜はダフネへの悪意を拡大させる集団感染の会場となる。魔法界全体に猜疑心が広がってしまえば、そこから盤面を覆すことは極めて難しい。
しかし、シミーはダフネをじっと見上げ、そして皺の寄った顔に笑みを浮かべた。
「チェスでもカードでも、そう仰る時のお嬢様は勝つことだけを考えておいでです。そして、勝つことをお考えのお嬢様が負けたところをシミーは見たことがございません」
そうとも、諦めることなど微塵も考えていない。ハーポの狙いがなんであるにせよ、それが好意的なものであるはずがないのだ。その悪意がアステリアやハリーを絡め取ろうとするならば、ダフネは断固としてこれに立ち向かわなければならない。
髪を編む。
先端を飾るのは若葉の髪留め。アステリアとお揃いの、姉妹の証。この枯れない緑がダフネを勇気づけてくれる。古代ギリシャの魔法使いなど恐るるに足らず。こちらには世界一可愛くて世界一賢い妹がいるのだから。
「髪は整っていて?」
「大変艶のあるよい御髪でございます」
「靴は磨いてあって?」
「爪先の光沢で目が潰れそうなほどでございます」
「服に皺や汚れは?」
「世界一清らかな魔女でございます」
「暖炉の火は?」
「熱いほど盛んに熾ってございます」
「よろしい。出かけるわ、留守をお願いね」
「承知いたしました」
寝室を出て暗い廊下を抜け、暖炉のある居間へと向かう。アステリアがいないこの屋敷は思った以上に寒々しいが、ダフネの胸にはしばらく忘れていた熱が宿っていた。
まだ負けていない。
それならば、勝つことだってできるはずだ。