その血は呪われている   作:海野波香

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 春薔薇の甘い香りがあたりに充満していた。

 剪定鋏には錆一つなく、水桶は清らかで、ブラック家の薔薇園は全く完璧な薔薇園だった。それはまさしく、ブラック家という王家の栄華そのものだった。少なくとも、かつての繁栄はこの薔薇園に相応しかった。

 

「その新芽は落としてよい」

「これかしら」

「そう、それだ。左方の芽は残せ」

 

 アークタルスの皺の寄った手に支えられながら、ダフネは薔薇の剪定をしていた。

 薔薇の剪定は本来であれば夏と冬に行う。しかし、ブラック家の薔薇は永遠に咲き誇るがゆえに、日々の剪定が欠かせない。放っておけば、たちまちのうちに茨が絡みあって花を枯らせてしまうだろう。

 それゆえに、芽を摘む。伸びるべきほうへと蔦の成長を促す。そうすることで花はいつまでも咲き続ける。

 それはどこか、政界の舵取りにも似ている。

 

「……一度だけ、戯れに孫たちとこうして薔薇の手入れをしたことがある」

「シリウス様と、レギュラス様とですか」

「左様。シリウスは花を愛でる気質ではなかったし、レギュラスは余の薔薇に鋏を入れることに怯えておった。今思えば、あの兄弟はそのとおりに育った」

 

 ぱつり、と鋏が新芽を切る。

 地面に落ちた芽は魔法によって甘い香りとともに朽ち、薔薇の根を癒やす養分となっていく。たとえ剪定した芽であろうとも、この薔薇園は無駄にはしない。

 

「その方は面白い娘だ。それに、良い目になった」

「少し、時間がかかってしまいましたわ。自分で気付けなかったのもお恥ずかしい限りです」

「人はひとりでは生きられん。ヴァルブルガが心を病んだのも孤独ゆえよな。人とのつながりを尊ぶ者こそが最も強い。かつてはブラック家もそうであった」

 

 そう、人はひとりでは生きられない。

 魔法族はなんでも魔法で解決できる。だから、集住する必要がないとすら言われる。事実、魔法族の中には自然を好みまるで隠修士のように孤独に暮らす者もいる。

 しかし、それでも結局魔法族は人とのつながりを求めた。

 13世紀、イグナチア・ワイルドスミスによる煙突飛行粉の発明により魔法族は暖炉を通していつでも人のぬくもりに接することができるようになった。ひとすくい2シックルの粉末で魔法族は永遠に孤独を失った。

 魔法族は集住しない。しかし、それは魔法族が人と人とのつながりを軽視していることを意味しない。

 シリウスとレギュラスの母、ヴァルブルガ・ブラックは孤独を選んだ。我が子を喪い、心を病み、聖マンゴ魔法疾患傷害病院で隔離されて孤独に逝ったという。

 

「魔法族は孤独や社会についてもっと考えるべきだったのかもしれませんわね。閣下は魔法族の社会理論についてどうお考えかしら」

「魔法族に人文学者はおらぬ。それが答えよな」

 

 先日、ダフネは魔法族の政治が野蛮だと考えた。

 実際のところ、その本質にあるのは純血の人文思想家の不在だ。魔法族はあらゆる哲学を神秘の名の下に魔法で弄び、ついには神秘部というブラックボックスに封印してしまった。

 とはいえ、これは魔法族の愚かさを示すものではない。

 魔法を生まれ持って育った以上、魔法族は魔法という尺度を捨てることができない。であれば、あらゆる理論が魔法を前提とするのは当然のことだ。それはアイデンティティというよりむしろ、本能の域に近い。

 魔法族とは、真理を言葉ではなく魔法で説く生き物なのだ。

 

「その方の挑戦は苦しい道となろう。先達のおらぬ道は険しい」

「人間の最大の美徳は忍耐なりと大カトーは言いました。茨の痛みに耐え、いつか薔薇が咲く日まで私は走り続けますわ」

「うむ。うむ、全く、よき覚悟ぞ」

 

 新芽をまたひとつ剪定してから、ダフネは静かに剪定鋏を置いた。

 

「閣下。1991年に私はホグワーツに参ります。そして、ホグワーツで仲間を集め、新時代の純血による結社を作ります。これをもって、純血という貴族階級の構築に挑戦いたします」

「うむ、励め。余の名を存分に使うがよい」

 

 アークタルスは1991年に死去する。

 であれば、ダフネはアークタルスの遺志を継いだと嘯こう。純血の正しい形を取り戻し、魔法界に純血の旧家たちを再び知らしめるのだと。彼の名を、ブラックの名を最大限に使って、天下に新たな風を吹かせよう。

 死にゆく者たちの力を借りて、ダフネは前に進み続ける。

 

「閣下にお力添えいただきたきことが、ふたつ」

「ふたつか。わがままよな。言うてみよ」

「は。では、おそれながら、檄をお飛ばしいただきたく。純血旧家よ、魔法界を支えよと。襟を正し、純血の名に恥じぬ振る舞いをせよと」

 

 もはやアークタルスの影響力などないに等しい。ブラック家は滅亡の手前に立っている枯れ木だ。

 しかし、それでも彼が動いたという記録が残ることに意味がある。その記録を壮大な物語として膨らませることで、ダフネは純血の人々を導くことができる。

 ダフネに足りない、旗頭としてのカリスマを補完することができるのだ。

 アークタルスは鷹揚に頷き、薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「せいぜい余の耄碌ぶりを世に知らしめるとしよう」

「閣下の文才に期待させていただきますわ」

「言いよるわ。もうひとつは」

「は。ここに、しもべのクリーチャーをお呼びいただきたく」

「ふむ……あれは気が触れておるが」

「狂者の言葉も、紐解けば裏に真実が隠れているものですわ」

 

 アークタルスが手を打ち鳴らすと、鞭で打つような音のあとにぼろを着た屋敷しもべ妖精が姿を現した。

 クリーチャー。

 レギュラス・ブラックに仕えた忠義のしもべだ。彼はレギュラスが奪取した分霊箱の破壊を試み続けた。気が狂っていてもなお、その試みは終わらなかった。

 

「お呼びでしょうか、旦那様」

「こちらのお客様がお前に用がある」

「呪われた血の小娘がクリーチャーを見下ろしている。汚れた足でブラック家の栄光ある薔薇園を汚している……」

「クリーチャー」

 

 老いたクリーチャーの背は曲がっていたが、それでも幼いダフネが視線を合わせるのはさほど難しいことではなかった。

 ついに、原作を大きく変える日が来た。

 

「レギュラス・ブラックから預かったロケットは破壊できて?」

「……な、なな、何を。そのようなものはございません」

「そう、壊せていないのね。クリーチャー、あなたのレギュラスはあなたに独力で破壊しろと命じたわけではなかった。違うかしら? このことを知っている者になら任せられるとは思わない?」

 

 クリーチャーは目を剥いてダフネを見つめた。そこには怒りと、畏怖と、そしてわずかな期待が隠れていた。

 そう、ダフネがブラック家に接触しようとした最大の理由はこれだ。

 今はまだ、ここに分霊箱がある。スリザリンのロケットがこの屋敷に眠っているのだ。マンダンガス・フレッチャーに盗まれることなく、破壊されるのを待ち続けているのだ。

 

「クリーチャー。私にならレギュラス・ブラックの名誉を取り戻すことができるわ。そして、ロケットを破壊することも」

「呪われた血のお嬢様、あなたは正気ではない! そんなことができるはずがない!」

「できるはずがない? どうしてそう言えるのかしら。死喰い人だったあなたのレギュラスがヴォルデモートを裏切ることだって、不可能だったはずではなくて?」

 

 クリーチャーはわなわなと震えて、アークタルスを見上げた。

 

「旦那様、この小娘は嘘を申しております!」

「そうかもしれん、クリーチャー。しかし、先に嘘をついたほうの負けよな」

「旦那様! あの……あのロケットは、レギュラス坊ちゃまの、たった、たったひとつの……!」

 

 きっと、クリーチャーの心理は言語化が困難なほど複雑だった。

 クリーチャーにとって、スリザリンのロケットはレギュラスの正義と偉業の象徴だ。しかし、それと同時に、レギュラスからの最後の命令を果たせなかった己の無能さの証明でもある。

 壊さなければならない。しかし、失いたくない。

 ダフネはクリーチャーの節くれだった指にそっと触れた。原作で語られたレギュラス・ブラックなら、きっとこうするはずだと思いながら。

 

「クリーチャー。約束しますわ。私が必ずそれを破壊する。レギュラス・ブラックが正しく評価される時代を私が作る」

「馬鹿な……ずっと、クリーチャーは……」

「ええ、ずっとあなたは苦しんできた。その献身を認めましょう。そして、終わる時が来た。ロケットをここへ」

 

 クリーチャーは苦しむようにアークタルスとダフネを交互に見つめて、呻き声を何度もあげて、それから姿を消した。

 次にクリーチャーが姿を現した時、彼の手元にはロケットがあった。

 地金は金。重厚感のある作りだ。表面には時計回りにルーンが刻まれ、薄っすらとラテン語で何かしらの警句が刻まれているのも見て取れる。そして、中央には輝く緑の石で「S」と刻まれている。

 間違いなく本物だった。

 指先で触れると、胸が不快感にざわめいた。これが分霊箱である確かな証拠だ。

 

「呪われた血のお嬢様……もし、もし本当にあなたがこれをお壊しいただけるのなら……」

「ええ、必ず壊します」

「それなら……クリーチャーめは厚かましいお願いを申し上げます。どうか、少しでも残骸が残ったのなら……ほんの破片で構いませんから……」

 

 クリーチャーは地に伏した。嗚咽で背中が震える姿はあまりに惨めで、彼がこれまでレギュラスを思いながら過ごしてきた日々を感じさせた。

 魔法界において、屋敷しもべ妖精に人権らしい人権は認められていない。彼ら自身がそれをよしとしている以上、今のところ改善の可能性もない。

 だから、屋敷しもべ妖精が魔法族に何かを乞うということは、本当に稀なことなのだ。それは彼らの奉仕者としてのプライドを傷つける行いですらある。

 それでも、クリーチャーは涙をこぼしながら、ダフネに懇願した。

 

「クリーチャーにそれをお与えいただけませんか……レギュラス様の、たったひとつの形見を……」

「約束します、クリーチャー。少し時間はかかるけれど、必ずあなたの手元に返すわ」

 

 クリーチャーは鼻をすすったあと、何度も大きく頷いた。

 これで、ダフネは分霊箱を手に入れた。

 この分霊箱は特別だ。原作ではアルバス・ダンブルドアの間接的な死因とも言える。この分霊箱を早期に入手し、交渉の手段とすることこそがダフネの計画だった。

 

「閣下。火急の用につき、御前を失礼いたしますわ」

「よかろう。その方のなすべきことをなせ」

 

 モーク革の財布にスリザリンのロケットをしまう。この魔法生物の革で作られた財布は持ち主以外に中身を取り出せないという優れた特徴がある。まさに今必要なものだ。

 ダフネはアークタルスに深々と会釈したあと、震えるクリーチャーの手を取った。

 

「破壊の手段を手に入れるまで、これは安全な場所に保管しておくわ。グリンゴッツまで送ってくれるかしら」

「……ええ、はい、お嬢様。喜んでお送りいたします」

 

 これで計画は大きく進んだ。

 分霊箱は交渉の手段としてあまりにも有益だ。単にヴォルデモートの不死性を削る以上の価値がこの魔法具にはある。正真正銘、この分霊箱は()()()()()()()()()()()()()()でもあるのだから。

 カードを切るタイミングは絶対に間違えてはいけない。

 ダンブルドアに開心術を使われれば、物語はもはや予測できなくなる。原作知識というアドバンテージを失えば、ダフネはひ弱な小娘に過ぎない。

 しかし、それでも。

 

「お嬢様、グリンゴッツでございます」

「ええ、ありがとうクリーチャー。……失礼、金庫に預けたいものがあるのだけれど。それから、グリンゴット殿はご在室かしら? グリーングラス家のダフネが訪ねてきたと伝えてくださればわかるわ」

 

 ひとりずつ協力者を得て、ダフネの計画は前に進んでいる。

 時が近づきつつある。

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