その血は呪われている   作:海野波香

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 会場に広がったざわめきは、まだ恐慌には至っていなかった。

 大使が偽物だった。それは確かに恐ろしいことだ。しかし、大使に変装していたのが異国の子どもとなれば、単に稚気から大人をからかいたかったのだろうと頬を緩める緊張感の足りない者すらいる。

 その一瞬、弛緩した空気に乗じて先手を取ったのはハーポだった。

 

「吾の正体を暴いた。それはいい。実にいいぞ。それで……その先はどうする?」

 

 ハーポがゆるやかに腕を広げると、テーブルの上に置かれた食事が煙を上げはじめた。

 いや、煙ではない。それは胞子だった。急速に腐敗し、カビで覆われた食事。それはつまり、ハーポの菌が拡散の準備を終えたことを意味する。

 

「テーブルを覆え! 拡散を許すな!」

 

 スクリムジョールの指示に素早くガウェインが応え、テーブルの上に青白い魔法の膜を張った。その膜の内側は胞子で満たされていく。万が一この膜が破れれば、会場全体に菌が広がるだろう。

 激しい赤い閃光――失神呪文が迸る。しかし、ハーポはそれに動じず、顔面に放たれたそれを身動きすらせずに迎え入れる。失神呪文はハーポを貫き、しかし、彼に目まいすら与えない。

 

「……分霊箱の、護り」

 

 分霊箱は極めて高度な魔法によってしか傷つかない。

 意図せず作られた分霊箱(ハリー・ポッター)でもない限り、並大抵の呪いは分霊箱には通用しない。そして、たとえ相手が指名手配犯であろうと、闇祓い局という公務員は意思を持つヒト相手に高度な魔法を使うことを許されない。

 

「ほう、そこまでは覚えているか。それとも記憶を預けておきでもしたか? 賢明な判断だが、知っていることと対処できることは別だぞ?」

 

 どうするべきか。

 ダフネは思案を巡らせた。理想を言えば、この場で腐ったハーポを消滅せしめることが望ましい。しかし、闇祓い局には法が、ダフネには魔法の実力不足が立ちはだかっている。それがもし叶わないのなら、勝利条件は――

 

「ファッジ大臣、こちらへ!」

「ダフネ、一体何が起きているのかね……ハーポとは、あの腐ったハーポのことかね? しかし、彼は子どもで……」

「英国魔法界の有事です、御身に何かあっては大変ですわ。ここは闇祓いたちにお任せください」

 

 ファッジは躊躇いながらも頷き、ダフネに手を差し出した。

 

「大臣?」

「君も来るのだろう? この会場には魔法的に守られたセーフティールームがある、そこで応援を待てばいい。何、多少のトラブルには私も慣れている」

 

 改めて、ダフネはファッジを見上げた。

 この老人は、きっと今何が起きているのか少しも理解していないのだろう。それでも、ダフネ・グリーングラスを守るべき子どもと見てくれている。

 有能でないことと、善良でないことは同一ではない。

 ダフネは微笑んで、髪をひとつにまとめていた櫛――バジリスクの毒を吸わせたゴブリン銀の櫛を引き抜いた。この櫛が分霊箱を破壊できるのはハッフルパフのカップで証明済みだ。

 

「やつは私の敵です。私はやつと戦う義務があるのですわ、大臣」

「義務など……そんな馬鹿げた話があるものか! 周りの大人に何を吹き込まれたか知らないが、子どもに責任だの義務だの、そんなものは存在しないのだよ、ダフネ」

「ええ、それがあるべき世界であると私も思いますわ。だから、その世界を守るために御身には無事でいてもらわねばならないのです。ドーリッシュ、大臣をお連れくださるかしら?」

 

 ドーリッシュがファッジの腕を取った。

 ファッジは目を見開き、ダフネを連れて行こうと手を伸ばしたが、ダフネは彼に背を向けた。後で言い訳が面倒になりそうだが、仕方がない。

 闇祓いたちの杖から次々に放たれる閃光は確かにハーポを射止めていた。それは決して効果的ではなかったが、象もちらつく羽虫を追いやろうと藻掻く間は歩みを止める。その光がちらつく中、ダフネはハーポに立ち向かおうとしていた。

 

「さあ、見せてくれ鴉の子。我が最新の教え子よ。お前は欠けた記憶の中、何を掴んだ?」

「――浮遊せよ(レヴィオーソ)

 

 ダフネは杖を振るい、櫛を浮かせた。

 小娘の杖捌きに負けるハーポではないことは察しがついている。これからダフネがやることは威嚇か時間稼ぎにしかならないかもしれない。

 それでも、試してみる価値はある。

 

そっくり(ジェミニオ)そっくり(ジェミニオ)そっくり(ジェミニオ)……」

 

 またたく間に膨れ上がった無数の櫛が、その鋭い切っ先をハーポに向けていた。

 額を汗が伝う。本来であれば最上級生が習う呪文だ。よく見ればひとつひとつの偽物には本物とは違う粗が見受けられるだろう。しかし、シャンデリアの光がそれをなんとか誤魔化してくれる。

 バジリスクの毒は分霊箱を破壊する。

 ダフネの記憶に刻まれた原作知識は、ハーポの菌に侵されてはいない。その確固たる事実を支えに、ダフネは杖を振り下ろした。

 

襲え(オパグノ)!」

 

 銀の雨が降り注いだ。

 無数の櫛が空中に軌跡を残し、ハーポへと殺到する。

 

「ほう、考えたな」

 

 銀色に染まった空間の中で、ハーポが愉しげに笑う声がした。

 ゴブリン銀の特別な力を持たない偽物は次々に腐食して消えていく。しかし、それを補って余りある櫛がハーポへと降り注ぐ。この中のたった一本、本物がハーポに当たりさえすれば――

 

「――しかし、この毒を生み出したのもまた吾だ」

 

 ハーポの細い指が、一本の櫛を掴んだ。

 それと同時に、残る全ての櫛が腐食し、消えていった。

 ダフネは一気に込み上げた疲労に膝から崩れ落ちた。全身から汗が吹き出る。早まる鼓動はまるで心臓が飛び出ようとしているかのようだ。無数の櫛を魔法で制御した反動が、今ダフネの全身に降りかかっている。

 消えない櫛――本物の櫛は、ハーポの手元にある。

 

「さあ、どうする。この毒は確かに吾にも効く。だが、それ以上に……生身の人間にもよく効く」

 

 ハーポはまるで短剣を構えるように櫛を手にし、笑みを深めた。

 咄嗟に杖を振り上げたスクリムジョールが、その動きを終えるより前に固まった。ハーポはただの一瞥で、それも目隠し越しの一瞥でスクリムジョールを硬直させてしまった。

 これが、腐ったハーポか。

 

「邪魔をするな。この子の魂に用がある……そう、ダフネ・グリーングラスは吾の試験に合格した。この魂であれば、器を満たすのにちょうどいい」

「なにをする……おつもりかしら」

 

 ハーポは答えず、ダフネの前に立った。

 心臓がうるさい。早く立ち上がらねばならない。ここで負けるわけにはいかないのだから。しかし、ダフネの膝は震え、上等な絨毯には汗が滴っていた。

 

「よい魂だ。向上心があり、理性的で、熱意を秘めている。そうでなければならない。お前の魂が必要だ。この瞬間をずっと楽しみにしていた、ダフネ・グリーングラス」

 

 差し伸べられた手が、ダフネの顎に触れた。

 強制的にハーポを見上げさせられたダフネは、ハーポが心から喜んでいることを痛感させられた。ダフネにとって命を削るレベルの大魔術は、ハーポにとって余興でしかない。

 この程度では、まだ足りない。

 

「お褒めに預かり恐縮ですけれど……まだ諦めたわけじゃありませんわよ!」

 

 ダフネは重い腕を上げ、ハーポの手を打ち払った。

 支えを失った身体がよろめく。しかし、倒れない。

 そして。

 

「――武装解除せよ(エクスペリアームス)!」

 

 若く、少し震えた声が3つ重なる。

 ヘスティア・カロー。

 フローラ・カロー。

 ドラコ・マルフォイ。

 三条の閃光はか弱く、儚く、しかし確かにハーポが握る櫛を捉えた。

 分霊箱に並大抵の呪いは通用しない。しかし、それは分霊箱自体にのみ施された護りであって、分霊箱の周辺にまで拡張はされない。

 くるくると回転しながら宙を舞った櫛を、ガウェインが掴んだ。

 

「要は、こいつをぶっ刺せばいいんだな! キングズリー!」

「ああ。閃光(フルガーリ)!」

 

 キングズリーが繊細な杖捌きで光の縄を放つと、その縄はハーポの体を縛り付けた。ハーポは光の縄をちぎるように腕を動かしたが、光は揺るがない。

 

「盾の呪文で防げるのであれば、魔法の光でできた縄を腐らせることはできない」

 

 杖を突きつけたキングズリーがハーポを睨むと、光の縄はより強くハーポのしなやかな腕に食い込んだ。

 満足げに笑ったハーポは抵抗をやめ、小さく頷いた。

 

「なるほど、吾の魔法をそう読み解いたか。優秀な魔法使いだ」

「古代ギリシャの闇の魔法使いだかなんだか知らんがな、俺達魔法族は日々進歩を重ねてんだ! いい加減ご退場願おうか!」

 

 櫛を構えたガウェインが、ハーポに向かって駆けた。

 たった10歩の距離だ。

 その距離を駆け抜け、ハーポに櫛を突き刺す。それでこの戦いは決着する。腐ったハーポという闇の魔法使いの永遠は、ついに失われる。

 

「なるほど」

 

 その、はずだった。

 

「その銀はいい銀だ。朽ちず、曲がらず、永遠に清らかで、己に利と見たものを全て取り入れる。たとえば――」

 

 5歩。

 道半ばで、ガウェインは前のめりに崩れ落ちた。

 櫛を握りしめたその指は、毒々しい紫に変色していた。

 

「――触れたものを腐らせる魔法、とかな」

 

 ごぽ、と嫌な音が鳴った。それは、ガウェインの口から血の塊が溢れ出す音だった。

 

「ッ、ガウェイン!」

 

 ダフネの叫びに、返事はなかった。

 術者の意識が失われたことで、胞子に満ちたテーブルを覆う魔法の膜が失われた。胞子が広がる。会場に集まった魔法族の避難は、まだ終わっていない。

 ニューイヤー・パーティーに集うのは英国魔法界の中枢たる政財界の人々だ。彼らの感染と死は、すなわち英国魔法界の崩壊、そして破滅を意味する。

 

「さあ、ダフネ・グリーングラス。吾の最新の教え子。忘れているかもしれないが、吾とお前は約束をしたのだ」

 

 重圧が、立ち上がろうとしたダフネを跪かせた。

 すべての空気がダフネを押し潰そうとしているかのような苦しさ。呼吸が浅くなり、脳と眼球の間に風船を膨らませられているかのような圧迫感で吐き気がこみ上げる。

 視界の端で、キングズリーが呻きながら膝をついた。杖先が逸れ、光の縄がほどける。ハーポは絨毯の上を悠々と歩き、ダフネの前に立った。

 

「最後の質問だ。この国全てを救ってやる代わりに、吾とともに来るか? その魂を差し出せば、吾はこの国を救ってやろう。そうとも、護ってやるぞ。どのような外憂も膝を屈し、どのような内患も首を差し出す世界を作ってやろう」

 

 指が、目が、心臓が震える。

 目の前に差し出された小さな手はとても清らかで、この会場を地獄に変えた闇の魔法使いとは思えない。柔らかく、しなやかな少年の手。

 この手を取れば、英国魔法界は救われる。

 アステリアも、ハリーも、大切な人々が皆救われるのだ。もう心配することは何もない。英国魔法界は安泰で、平和で、いつまでも幸せな物語が続く。

 ダフネは、力の入らない腕を必死に持ち上げ――

 

「――私を、なめるな!」

 

 ハーポの手を、弾いた。

 脳が脈打っている。ここからの勝ち筋など何も思いつかない。ハーポの侵入を許した時点で勝ち筋などなかったのかもしれない。しかし、それでも。

 ダフネ・グリーングラスは諦めてはならない。

 

「――炎の護りよ(プロテゴ・インセンディオ)!」

 

 ごう、と音を立てながら白い炎がダフネとハーポを隔てた。

 肩で息をしながら、スクリムジョールがハーポを睨みつけていた。その口の端には血が伝っていたが、それでもその眼光には闇祓い局局長としての矜持が宿っていた。

 

「……シャックルボルト、ロバーズを連れて脱出しろ。その銀の櫛には絶対に触るな」

「承知しました。局長は」

「できるだけ時間を稼ぐ。シックネスに応援を送るよう伝えろ。魔法警察も全員動員する」

「最速で伝えます」

 

 意識のないガウェインを抱き上げてキングズリーが姿くらましするのが、炎越しにダフネにも見えた。赤い絨毯に、ゴブリン銀の櫛だけが残された。

 白い炎に囲まれたハーポは興味深げに指先で炎をつつき、困ったように眉を曲げた。

 

「適応が早いな、魔法使い」

「炎による物理的殺菌だ……その炎を越えて細菌魔法を放つことはできまい」

「確かに、放つことはできない。だが、吾の魔法は放つことそのものではなく――」

 

 スクリムジョールが苦しそうに呻いた。

 見開いた目の縁から血が伝い、膝が震えている。それでも、スクリムジョールは杖を下ろさなかった。

 

「――放ったものを操るところにある」

「ッ、ぐ」

「吾は小さな杖(バクテリウム)を振るう者、腐食大公ハーポなれば」

 

 何かを言おうとしたスクリムジョールの口から、代わりに血と水の塊が噴き出した。それは明らかに、人の身体から出ていい量の液体ではなかった。

 死んでしまう。

 考えろ。なんでもいい。ハーポに細菌の操作をさせないための手段。スクリムジョールを生存させ、ダフネも生きて帰り、腐ったハーポを退散させる手段が必要だ。

 

「……質問」

 

 弱まりつつある炎の中で、ハーポが振り返った。

 なんでもいい。ハーポの気を引く。そのための質問だ。

 咄嗟に口をついて出たのは、たった一言。

 

()()()()()?」

 

 ハーポの顔から、笑みが消えた。

 欠けた曖昧な記憶の中で、ダフネの思考は激しい稲妻となって駆け上っていく。断片を繋ぎあわせ、言葉にして相手を揺さぶる。それは、ダフネがずっとやってきた戦術の、小さな一歩目。

 

「自らの魂を分けてまで、その器を護りたかった。あなたは本体ではない。だから、()()()()()()()()()()()()()()。でも、()()()()()()()()()()()

「吾は」

「あなたは、腐ったハーポではない。腐ったハーポから魂を分けられて器を護っている、あなたは誰?」

 

 トム・リドルの日記帳がヴォルデモートその人と同一ではないように。ヴォルデモートの魂が混ざっているからといってハリー・ポッターがヴォルデモートではないように。

 腐ったハーポの魂と、少年の肉体が合わさった分霊箱。

 彼は腐ったハーポでも、少年でもない。

 

「――そうとも」

 

 ハーポが発したその声は、ひどく平坦だった。

 

「吾の魂ではこの器にふさわしくない。必要なのだ。聡明で、勇敢で、向学心があり、可憐な魂が。ずっと探していた。器にふさわしい、本物の魂を」

「私の魂が、そうだと?」

「そうだ。吾は、この子を――」

 

 その時、突風が吹き抜けた。

 それは初夏の草原を思わせる、とても清らかな風だった。その風は会場の全ての窓に雨戸を落とし、その上から魔法で封をした。

 

「――実に興味深いお話じゃったが、彼女はもはやこの英国魔法界になくてはならない存在でのう。無論、ここに集う全ての魔法使いや魔女がわしにとっては同様に大切な友じゃ。よって、誰一人として欠かすわけにはいかんとお答えしようぞ」

 

 開かれた大扉の前に、ひとりの老人が立っていた。

 節くれだった指で杖を構えた彼――アルバス・ダンブルドアは、隣に立つ男に小さく頷いてみせた。そして、その隣に立つ男――ルシウス・マルフォイは手に持った瓶の栓を抜くと、大きく杖を振った。

 

霧よ(ネビュラス)

 

 会場をまたたく間に覆ったその霧は、独特の薬臭さを宿していた。

 ダフネはその香りに嗅ぎ覚えがあった。

 次第に記憶が戻っていく。グリンゴッツ魔法銀行ギリシャ支店での面会。恐怖心と猜疑心に追い詰められた日々。ずっと抱え続けていたハーポへの恐怖心。

 そして、アージニウス・ジガーに調合させた抗菌剤。

 

「どうやら、間に合ったようだ」

 

 ステッキを鳴らしながら歩み寄ったルシウスが、ダフネを抱き上げた。

 覚えている。ルシウスと一緒にハーポを訪ねたことも、ふたりで危うく死にかけたことも、最後の最後でルシウスに救われたことも。

 

「また……助けられましたわね、おじさま」

「遅れてすまない。すでにギリシャ魔法省直轄の魔法薬工房を総動員して抗菌剤の調合を進めている。輸入ルートの調整もクラウチが済ませた。第一陣はすでにホグワーツが管理する水源に運び込まれている」

 

 まだ体に力の入らないダフネを、ルシウスは優しい手つきで誰かに渡した。

 戸惑った、強張ったような手つきの誰か。

 緊張の糸が切れ、限界を迎えたダフネの視界は次第に暗くなっていく。身体を預けるように力を抜くと、その誰かは小さく息を呑んだ。

 

「ハリー、ダフネを聖マンゴ魔法疾患障害病院に運ぶのじゃ。煙突飛行の使い方は覚えておるな?」

「はい、先生」

 

 霞む視界、最後に見えたのは。

 

「……また、吾は失敗したのだな」

 

 無表情で佇む少年、腐ったハーポを名乗る分霊箱の姿だった。

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