ごう、と風が吹いた。
それは四方八方に吹き荒れる混沌の風ではなく、清らかに道を貫く秩序の風だった。それはつまり、アルバス・ダンブルドアが杖の一振りで道を築いたことを意味していた。
「細菌、という科学は実に興味深いのう。目に見えない世界にもわしらが気づきすらしなかった高度な法則があることを示してくれる。ホグワーツのカリキュラムで教える場合は、魔法生物飼育学の領域になるのじゃろうか」
ぱっ、と火花が散った。
連鎖するように広がっていく火花は、宙に散った胞子を次々に喰らい尽くしていった。それはつまり、ルシウス・マルフォイが杖の一振りで道を駆け抜けたことを意味していた。
「ホグワーツ理事として誓って申し上げるが、今生徒たちが必要としているのは飼育ではなく、防疫なのではありませんかな。記憶が正しければ、あなたは我々理事の反対を押し切って衛生観念の欠如した森番にその科目の教授職を与えたはずだが」
火花は風に巻かれて膨れ上がり、翼をつけ、嘴を生やし、やがて一体の大きなドラゴンとなった。
巨大な赤い炎のドラゴンが、ハーポに鋭い眼光を向けている。それは、ダンブルドアとルシウスの偽らざる本心であり、英国魔法界の総意だった。
「ハグリッドがこの新しい知識を広めるのに適しているかについては、後ほど議論が必要なようじゃのう。あるいはこのことを専門とした新しい教授を招聘することも考えるべきやもしれん」
「同意を示さざるを得ませんな。単なる知識の不足からこのような外患に英国魔法界がいいように操られるなど、まったくもって、馬鹿げている」
ダンブルドアとルシウスが、同時に杖を振り下ろした。
炎のドラゴン――悪霊の火がハーポに迫る。ダンブルドアの起こした風は赤い絨毯を巻き取り、ハーポの足元を捕らえて離さない。
「なるほど、面白い呪文だ。古い、とても古い炎の呪詛だな。確かにそれであればこの身にも届きうるだろう」
ハーポが両手を打ち鳴らすと、彼の足を捕らえていた絨毯は水に変化した。広い会場全体を覆っていた絨毯は濁流へと変化し、そして逆さの滝となって悪霊の火を阻もうとした。
両者が衝突した瞬間、蒸気が爆発した。
一瞬にして広がろうとした白い蒸気を、ダンブルドアが押し留める。そして、ルシウスが操る炎のドラゴンがその蒸気を食らいつくさんと顎を大きく広げた。
「貴様が水や湿り気を通して細菌を拡散させることはすでに把握している。そう簡単に見逃すと思わないでいただきたいものだ」
「ふむ、それは困った。なんともやりづらい」
ハーポがドラゴンを指さすと、蒸気は巨大な槍となってドラゴンを貫かんと放たれた。
しかし、ダンブルドアがドラゴンの背に光でできた騎士を生み出し、その騎士の盾が蒸気の槍を防ぐ。ぱっと散った熱い蒸気をドラゴンが食らい、その腹がでっぷりと膨らんだ。
次第にハーポを守る水は減りつつある。あと少しで、ハーポを殺すことができる。
「これは勝てんな。では、こうするか」
手を伸ばしたハーポが、何かを掴む仕草をした。
その途端、会場の隅で避難する隙を伺っていたひとりの魔女が崩れ落ちた。
「くっ……」
「ナルシッサ!」
艶のある黒髪にプラチナの走るその髪が乱れる。青褪めた顔で膝を屈したナルシッサを見たルシウスは表情を憤怒に変え、ナルシッサを救おうと杖を振り上げた。
ドラゴンの炎が吹き荒れ、ハーポの髪を揺らす。しかし、まだハーポが操る水は尽きてはいない。
「貴様……妻を呪ったな!」
胸中を支配したのは、憎悪の一色だった。
怒りに応えるようにドラゴンが吼え、歯を鳴らして水を操るハーポを噛み砕こうと迫る。その体表は激しく揺らめき、過剰なほど燃え盛っていた。
ダンブルドアが杖を鋭く突くと水が波打ち、ハーポを捕らえようと絡みついた。ハーポはくすぐったそうに笑い、舞うように両手を動かす。するとハーポの首を捕らえようとしていた水は彼の衣となり、ドラゴンから散る火の粉を阻んだ。
「お前が細君を愛していることはよく承知している。愛はいいものだ、とても尊い。人は尊いもののためならいくらでも判断を誤る。そら、そこだ」
水に包まれた指ですっと切るように線を描いたハーポが、炎のドラゴンを見上げた。
燃え盛っていた炎が次第に輪郭を失い、崩れはじめる。それと同時にルシウスの額に汗が伝いはじめた。それは、悪霊の火が制御から離れようとしている証だった。
「ッ、一体、何を」
「その呪文は荒れ狂う炎を生み出す魔法ではない。悪霊の洞から怨嗟に満ちた炎を呼び寄せる魔法だ。少しのほつれをつついてやれば、あとは絹を裂くように容易い」
汗がまぶたをなぞるのも気にせず、ルシウスは炎を睨んで杖を構え続けた。
しかし、その内側に爆ぜた小さな火花、蒸気を食らった腹から生じたわずかな欠片が、ドラゴンの腹を食い破った。それは次第に形を変え、膨らみ、巨大な蛇――バジリスクの姿を取った。
炎のバジリスクが炎のドラゴンに噛みつくと、吹き荒れた熱気が会場を焼かんと暴れた。ダンブルドアは杖を大きく振って空気を固め、バジリスクとドラゴンを封じ込めようとする。しかし、バジリスクはドラゴンの炎を吸って次第に大きくなっていき、見えない空気の檻はその巨体に軋んだ。
「さあ、どうする?」
両腕を広げたハーポが、薄く笑った。
指先からこみ上げる冷たさを理性で無視して、ルシウスは必死に思考した。
ナルシッサを助けねばならない。そのためには制御を奪われつつある悪霊の火を奪い返すか、せめて消滅させる必要がある。しかし、それをすればハーポを消滅させる決定打がなくなる。
分霊箱を破壊する手段として現時点でわかっているのは悪霊の火、バジリスクの毒、そして純粋な守護霊。今用意できるのは悪霊の火だけだ。そして、闇の魔術の深奥である悪霊の火は光の陣営の長であるダンブルドアには決して使えない。
ダンブルドアには手段がなく、ルシウスには技術が足りていない。どうするべきか。
その時だった。
「――
酒と煙草でしゃがれた声が、ハーポを守る水を完全に凍りつかせた。氷像と化したハーポは、驚いたように小さく口を開けた。
呪文の主――コーバン・ヤックスリーはぐったりと倒れ伏せたナルシッサに肩を貸して担ぎ上げながら、ルシウスに向かって怒鳴った。
「こんなガキに負けてる場合かよ、兄弟!」
その酒焼けした老人の声は耳障りで、そして、とても力強かった。
負けている場合ではない。ハーポの撃退などというものは過程に過ぎないのだ。これからルシウスはダフネの腹心として新しい英国魔法界の政界を駆け巡らなければならないのだから。
ルシウスは大きく杖を振った。
会場の天井を覆うほどまでに膨らんだ炎のバジリスクの内側を、青い炎が走った。かすかな、しかし尾から冠まで鋭く伸びた線は、炎の内側にあって揺らぐことなくひとつの道を描いていた。
「この魔法は……かつて私が闇に支配されていた時、対ダンブルドアを想定して構築したものだ。貴様の言う通り、悪霊の火は制御に困難を抱えている。それゆえに実戦で悪霊の火を差し向ける魔術師は滅多にいない。大抵の場合、制御を失った悪霊の火によって自爆することになるからだ」
青い炎は次第に膨らみ、バジリスクの太い身体を膨張させていく。炎でできた鱗がみしみしと音を立てて広がり、まるで苦痛に悶えるようにバジリスクが暴れる。
氷にヒビが入り、ハーポの両腕が露出した。
ハーポは両手を広げて風の檻に閉じ込められたバジリスクを解き放とうとしたが、片手で杖を構えたままのダンブルドアがもう片方の手で突き飛ばすように手を動かした。
「
今やヨーロッパではほとんど失伝されつつある、無杖呪文。杖による魔法と比べて無力で、不安定であり、ホグワーツでも教えはしない。
それでも子どもの腕を一瞬だけ縛る程度の魔法であれば、ダンブルドアにとっては不可能でもなんでもない。
光の帯に腕を縛られたハーポは、氷に閉じ込められたまま天を仰いだ。
そして、青い炎に満たされたバジリスクは――
「つまり、
弾けた。
炎は唸り、暴れ、しかしそれを青い炎が導いていく。次第に螺旋を描くようになったその炎は、今や入り混じって紫色に染まっていた。
そして、ダンブルドアが風の檻を解いた。
放たれた風は竜巻となってハーポを捕らえる。ハーポを封じ込める呪いの氷すら巻き上げ、風は冷たい牢となり、そして紫の炎を吸って膨れ上がる。
「……ハ、見事だ、魔術師たちよ!」
ハーポの笑い声が響き、そして、竜巻が炎によって紫に染まった。
火災旋風。
制御から解き放たれ、しかし完全に制御されたその炎は、決して会場を傷つけなかった。煤ひとつ残さず、ただ一点のみを焼き尽くす嵐。かすかな熱すら漏らさず、その渦はただ中心のみを攻め立てた。
そして、その旋風が燃え尽きた時、そこには何も残っていなかった。
杖を下ろしたふたりは、一瞬だけ視線を交わした。
「恐ろしい呪いじゃのう。君が服従の呪文の支配下に置かれながらこれほどまでの創意工夫を発揮しているとは、思いもよらなんだ」
「それはこちらの台詞ですな。あなたの前でこの呪いを使うのは初めてだというのに、完全に導かれてしまった。どうやらホグワーツの校長ではなおも役不足らしい。……仕留めたとお考えですかな」
ダンブルドアは竜巻の中心だった一点の焼け焦げに歩み寄り、複雑に杖を動かした。
焼け焦げから立ち上った煙が複雑な図形を示しながら宙に消えていく。しばらくそれを眺めていたダンブルドアは、やがて小さく首を振った。
「姿くらましを使ったようじゃ。追える距離ではなさそうじゃのう」
「国外まで逃げたと?」
「習いたての子どもが見様見真似でやるような拙い魔法で、はるか遠くまで跳んだということだけはわかる。それも杖なしで、じゃ。どこに跳んだにせよ、無事ではないじゃろう」
「吉報ですな。……この場はお任せしたい。妻の様子を見てこなくては」
「もちろんじゃとも、ルシウス」
鷹揚に頷いたダンブルドアは杖を振って煙を消し、それから会場の隅で縮こまっていた人々に柔らかな笑みを向けた。ダンブルドアが微笑んでいる、それだけで人々は勝利を理解し、喝采を上げはじめた。
「ダンブルドア! ダンブルドア! ダンブルドア!」
ルシウスは会場に背を向け、セーフティールームへと向かった。
そうだ。ダンブルドアは手を振らねばならない。微笑まねばならない。英雄という彼が積み上げてきた実績は、時には彼の枷となる。彼は恐怖に陥った民衆をそのまま捨て置くことができない立場にある。
魔法で隠された扉に杖を当て、現れたドアノブを捻った。
「ルシウス!」
憔悴した表情で座っていたファッジが、歓喜の声とともに立ち上がった。
「事態は収束しました。ご安心めされよ、大臣」
「おお、ルシウス、友よ……避難してきた客たちから君とアルバスが駆けつけたと聞いて、解決したことを確信してはいたのだが……こうして君の口から聞けたことを嬉しく思う。無事だね? どこも呪われていないだろうな?」
「無論、私は無事です。それより、妻を知りませんかな」
「案内しよう。運び込まれた時は意識がなかったのだが、先程目が覚めたようだ。ナルシッサも大事ないようでよかった」
ファッジ自らの先導に付き従いながら、ルシウスはそれとなくセーフティールームを見渡した。
英国魔法界のニューイヤー・パーティーには伝統的に各国の大使も参加する。それはつまり、今回の事件が各国に伝わるということだ。
これは英国魔法界の醜聞だが、ダフネにとっては好機と言える。彼女はルシウスとクラウチを使って早期のうちにハーポ対策のために動いていた。たとえ呪いによって記憶が蝕まれようとも、その行動理念は一貫していた。
年明けに派遣されるアルバニア調査団がなにかの痕跡を見つければ、ダフネはそれを足がかりに国際政治に足を踏み入れることが可能になる。国際政治で実績を積み、それを足がかりに国内の政界へと進出していけばいいだろう。
そのような計算は、簡易ベッドに横たわるナルシッサを目にした途端消し飛んだ。
「あなた」
「無事か」
抱擁を交わしたふたりは、しばらく黙って見つめあっていた。
ナルシッサがダフネに預けられた抗菌剤を持ってきてくれなければ、すべての計画は瓦解していた。ダフネが記憶を失う直前に抗菌剤をナルシッサに託し、それをナルシッサがルシウスに渡したことで抗菌剤の量産に繋がったのだ。
もちろん、これは法的にはまずいことをしている。
抗菌剤の権利者はヤックスリーだ。ルシウスはそれを無視してギリシャの魔法薬師に抗菌剤を量産させた。そうしなければこの戦いには間に合っていなかっただろう。
ここから先、再び戦いが始まる。
ヤックスリーは愚か者ではない。声高に権利を主張してルシウスを糾弾することはしないだろう。しかし、彼は強かに権利が侵害されたことを認めさせ、ルシウスに何かしらの要求をするに違いない。
「ドラコは勇敢に戦いましたよ」
「そうか。……ドラコにも、お前にも負担をかけたな」
「この程度のことは負担とも思いません。でも、ドラコを褒めてやってください」
愛する妻の髪を撫でながら、ルシウスはドラコにどんな褒美を買い与えるかばかりを考えていた。それが父の務めであり、夫の務めだと信じていた。
小さな咳払いが聞こえ、そこでようやくルシウスはファッジが一緒だったことを思い出した。気まずそうに、しかし妙に嬉しそうにファッジは頷き、そして口を開いた。
「聞かせてくれるかね、ルシウス。これは一体どういう騒ぎなのか」
「……もちろんですとも、コーネリウス。事の発端ははるか昔、古代ギリシャにまで遡りますが」
魔法大臣に都合のいい第一報を吹き込む権利を勝ち取ったルシウスは、杖を一振りしてチンツ張りの丸椅子を生み出し、小さく笑った。
魔法戦の勝利はアルバス・ダンブルドアのものだ。
しかし、政治戦の勝利はルシウス・マルフォイがいただく。