アルバニア南部、今はブトリントと呼ばれる都市遺跡は、鬱蒼と茂る森によってその全貌が長らく隠されてきた。
開拓精神旺盛な非魔法族は幾度となくこの森に手をかけようとしたが、しかし、その試みは全て廃絶されてきた。現在ではユネスコの世界遺産にも登録されているこの地は、他の多くの世界遺産と同様、魔法的に守られている。
古くは『アエネーイス』にも登場し、トロイアの王プリアモスの息子ヘレノスがトロイア陥落後にこのブトリントに落ち延びたように、この森は多くの敗残者を受け入れてきた。それは淀み、歴史の澱とでも言うべきものだった。
その敗残者の澱に、鞭打つような激しい音が響いた。
「――参ったな、降参だ。現代の魔法使いは強い!」
腕があれば拍手喝采を送っていただろう、爽やかな声だった。
炭化した棒のようなものが右肩からぶら下がっている。その内側にはまだ赤い火が宿っていて、煙が立ち上っている。傷口を胞子が覆い、波打つように動いているが、その傷を癒すには至っていない。
彼が乾いた下草の上に寝転がると、水気を失ったはずの冬の下草はゆっくりと萎びて腐っていく。パーティー会場で食品を腐らせた瞬間と比べれば、あまりにも遅い変化。
ほとんど死にかけと言っていい。しかし、死んではない。分霊箱を生命と呼ぶのであれば、腐ったハーポはまだ生きている。
「耄碌したのではないか? 何千年も金庫にいたのだ、無理もあるまい」
声が響いた。
か細く、そしてかすれた声。しかし、その声もまた死んではいなかった。
蛇が落ち葉の上を這うかすかな音とともに、朝焼けのちらつく空が陰った。蛇は威嚇するようにハーポを見下ろしたが、捕食しようとはしなかった。その代わりに、宙を渦巻く黒い影――オブスキュラスがハーポの背を抱き上げ、立たせた。
その渦の中央に座る、蛇のような顔をした萎びた小人が敗北者を見下ろし、嘲るように笑った。
「古代ギリシャの古き悪ともあろうものが、情けない姿を見せたものだ」
「言い訳のしようもないし、言い訳する気もない。完敗だ。吾はこの時代を誇らしく思う。魔法族はとてもよく育った」
「ハ、自らの手でその多くを殺したやつの言葉とは思えん」
ハーポを見下ろして、彼――ヴォルデモートは小さく指を動かした。
すると、彼を抱えるオブスキュラスは内側に赤い雷鳴を宿しながら形を変え、彼が最も望む姿――玉座となった。細い腕でなんとかそれに腰掛けたヴォルデモートは、もう一度ハーポに向かって鼻を鳴らした。
「せっかく俺様が煙突飛行の使い方を教えてやったというのに、おめおめ負けて帰ってきたというわけか。ダンブルドアはおろか、俺の帰りを待たなかった不忠者どもを殺すことすらできずに?」
「そうとも、お前の配下だというルシウス・マルフォイという男は実に強かったぞ。この腕は彼の炎にしてやられたのだ」
「ルシウスが今もなお俺様に忠誠を向けているか、確かめねばなるまい……万が一にも裏切りが露見したのであれば、俺様はやつの死を心から嘆くことになるだろう」
大仰に腕を広げて見せると、土の上に腰掛けたハーポがクスクスと笑った。絵面のグロテスクさを除けば、まるで祖父にあやされる孫のようだった。
しかし、忘れてはならないのは、彼らが歴史に名を刻んだ巨悪であるということである。
何より、ふたりには共通の問題があった。分霊箱である。分霊箱の発明家と最新の呪文使用者。元々研究者としての気質が強いふたりが同じ地に流れ着いた以上、相手を見定めようとするのは当然のことだった。
「しかし、ルシウスはなぜ貴様を傷つける手段を知っていたのだ?」
「
「……確かに、あの男は悪霊の火を実戦で使うことができないか研究していた時期がある。俺様には不要な技術だと思ったが、意外なところで骨董品が光るものだ」
ヴォルデモートは内心でルシウスの評価を一段上げた。それは同時に、脅威度の評価でもあった。
もしルシウスが裏切っているのであれば、ヴォルデモートの分霊箱を破壊しうる魔術の研究成果を持っているということになる。それは看過できるリスクではない。
一方で、ルシウスが今もヴォルデモートに忠誠を向けているのであれば、彼がいまだ没落せず、それどころかダンブルドアと対等にやりあえる地位を手にしているという点は高く評価すべきだ。多少の過ちを叱責する必要はあるだろうが、最終的には彼の帰参を歓迎することになるだろう。
「ともかく、実証実験は上手くいった。吾の菌たちは現代でも通用する。社会不安を引き起こし、統治者を市民自身の手によって引きずり出させ、処刑させる。対症療法は見つかっているようだが、根絶とまではいっていない」
「時間の問題、そうではないか? 貴様は結局のところ時代遅れの技術に縋り続けているだけだ。じきに細菌魔術は陳腐化する」
「お前たちが言うところのマグルですら細菌を根絶できていないというのに、魔法族が根絶できることがあるだろうか? そうであれば興味深いものだ。魔法族の免疫がどう進化していくか、吾はとても興味があるぞ」
ヴォルデモートは冷たい視線で、しかし興味を隠せずにハーポを見下ろした。
確かに、科学の発展著しいマグルですら有害な細菌を撲滅できてはいない。ハーポの魔法はいずれ陳腐化するが、それは失神呪文を防ぐ盾の呪文が発明されるのと同じ程度のことであって、細菌魔法そのものが無力化されるわけではない。
魔法研究者としての理性が、ヴォルデモートにこの技術を学ぶべきだと訴えかけていた。あのダンブルドアですら一度は罠に嵌った技術だ。しかも、ワクチンが発明されるまでは最低限の再現性がある。
「では、ハーポよ、俺様に教示することを許そう。細菌魔術が俺様の覇道を助けるというのなら、いいだろう、やがて過去に消え去る魔術であろうと頭を垂れて学ぼうではないか」
「どうやらお前は教え子としての愛嬌というものを分霊箱の中に置いてきたようだな。だが、いいぞ。授業は好きだ。吾はかつて愛すべき兄王の名の下にこの呪いを振りまき、戦を有利にしてきた。お前の戦いでもきっと役に立つだろう。だが」
ハーポは土の上に身を横たえ、大きく息を吐いた。未だ燻り続ける腕を菌が治しきるには短くない時間が必要になるだろう。悪霊の火を受けて生き残った人間というものをヴォルデモートは初めて見たが、その傷が浅くないことも容易く見抜くことができた。
煙を上げる腕に反対の腕で土をかけながら、ハーポは困ったように、しかし嬉しそうに笑った。
「あの炎は見事だった。長い牢での生活で少しずつ増やしていた菌の大半を焼かれてしまった。今の吾は無力な少年に過ぎん。この程度の傷でも見た目を治すのに半年はかかるであろうな」
「菌を増やすまでにはどれほどかかるのだ?」
「あれほどの大規模感染を起こすとなると、かなりの時間がほしいところだ。ましてや彼らは抗菌剤とやらを発明した。いずれ彼らは菌を食らって耐える力を獲得するだろう。そうなると……新しい株を作り、培養するのに2年はほしい」
「では、それまでの貴様は単なる俺様の家庭教師だ」
黒く渦巻く玉座の上からヴォルデモートは手を差し伸べ、まだ火を宿したままの指先を握った。ハーポはそれに痛みを浮かべることすらなく、笑顔で手を握り返した。炭化した指が砕ける音を立てながら曲がり、ヴォルデモートの細く筋張った手を包む。
玉座として振る舞うオブスキュラスは歓喜するように赤い稲妻をちらつかせ、その傍に寄り添う蛇は満足げに何度も頷いた。
「腐ったハーポ、旧きギリシャの魔術師よ。お前の望みは何だ?」
「ダフネ・グリーングラスの魂を、この器に注ぐこと。それをもって、この器は完璧な形で蘇る……。お前の望みはなんだ、ヴォルデモート。吾に何を望む?」
一瞬だけ、ヴォルデモートは思考した。
長い戦いの日々だった。クラウチ、ムーディ、ダンブルドア、そしてポッター。多くの敵対者がヴォルデモートの道を阻んできた。その全てを跳ねのけた先に待っているのは。
待っているのは、何だったか。
上手くまとまらない。何をしたかったのだろう。トム・リドルは何を願って魂を分け、永遠の命を手にして、戦いに明け暮れたのだろう。
かすかに残る記憶の中で、誰かが言っている。
トム、君が僕たちの
「……我が、君」
「そうだ、そう呼ばれるお前は何を望んでここに来た?」
ハーポの笑みが妙に腹立たしく、ヴォルデモートは小さく舌打ちした。その音とともに、懐かしい誰かの声はかき消えてしまった。
あれは誰の声だったか。
忘れるということは、大した記憶ではないということだ。ヴォルデモートは小さく頭を振ったが、その脳裏には我が君と呼ぶその声の輪郭だけが染み付いていた。
そうだった。ヴォルデモートは我が君と呼ばれる存在なのだ。誰からも敬われ、侮られず、皆がヴォルデモートの前では膝を屈する。そういった存在にならなければならない。
「……お前の求めるダフネ・グリーングラスは、英国魔法界に議会を導入していると、そう言ったな」
「いかにも、その通りだ。実に志の高い、立派な少女だ。吾はあの娘のそういうところが気に入っている」
「ああ……ああ、それはいいな。実にいいぞ。確かに英国には議会がなければならない。それはもちろんのことだ。この大前提を忘れていた英国魔法族どもはあまりにも愚かだと言える。いいとも、俺様が直々に後押ししてやろうではないか」
ヴォルデモートが玉座から身を起こすと、オブスキュラスの内側に激しい雷鳴が響いた。
議会。それは実に民主的で、合理的で、革新的な選択だ。一部の既得権益に縛られた純血魔法族を除いて、そのほとんどが賛同することだろう。
しかし、ダフネ・グリーングラスはある前提を忘れているか、意図的に無視している。
「英国議会とは、本質的には国王の諮問機関だ、そうだろう? 何事も始まりをおろそかにすべきではない……新しい議会には、新しい国王が必要だ」
我が君。
ヴォルデモート卿とは、そう呼ばれる中で最大にして最強の存在でなければならない。ダフネ・グリーングラスという小娘が議会を作るのであれば、ヴォルデモートは両手を挙げて歓迎しよう。しかし、その議会に伺候される立場は彼女のものではない。
いまだかつて、魔法界に王はいなかった。魔法族が魔法族のみで集住し、魔法族の自治体に魔法族の長が君臨したことなどないに等しかった。
だからこそ、魔法族の王として君臨するという願いは、このヴォルデモート卿、最も優秀で最も偉大なロードに相応しい。
「俺様が、王になろうではないか」
風が吹いた。
新しい時代が始まろうとしている。
「魔法族を連帯させ、結束させ、団結させよう。偉大な王の下、栄誉を持って戦わせよう。穢れたマグルどもの侵略を阻み、生存圏を拡大するのだ。マグルが成し遂げ得なかった千年帝国を、俺様が成し遂げようではないか」
不死の王、ヴォルデモート。
その響きはあまりにも魅力的だった。なぜ今まで目指そうともしなかったのか、理解できないほどだった。
「ハーポよ。ダフネ・グリーングラスの魂は貴様のものだ。だが、その魂を刈り取るのはその娘が覇道を歩み、その果てに願いを叶えた時でなければならない」
「もちろんだとも。吾は吾の教え子が自らの足で歩む限り、その歩みを見守ろう」
胸の奥に、久しく忘れていた感情が熱を帯びているのを感じる。
これが、野心か。
もう失ったものだと思っていた。永遠を手に入れ、戦いを終え、弱々しく逃げ延びながらも生き残り、あとはもう過去を繰り返す以外のことはできないものだと漠然と受け入れていた。
しかし、気づいたのだ。
ヴォルデモートはまだ死んでいない。それはつまり、敗北していないということだ。敗北していないのであれば、まだ挑戦できる。挑戦し続ければ、いつか夢は叶う。
夢。
その浅はかで幼稚な言葉の破片が、どうやらヴォルデモートの内側にかすかながら残っていた。もはや過去の自分が何に夢を抱いていたかなど思い出せもしないが、王というその一言にその破片は反応した。であれば、きっとこれがヴォルデモートの、トム・リドルの夢なのだろう。
立ち上がらなければならない。夢のために。
「かねてよりの計画を、進めねばなるまい」
「では、本格的に始めるのだな」
ヴォルデモートを覆うオブスキュラスが、興奮するようにうねった。
「ヴォルデモート卿は、ついに復活する」