ダイニングで紅茶のカップを片手に新聞を開く。愛しの英国を離れたとはいえ、ロックハートは英国紳士としての矜持まで捨てたわけではなかった。
危険な魔法動物から金持ちのご婦人を助けたこと、その過程でチャーミングスマイルを大いに振りまいたことが幸いして、ロックハートはアメリカで早々に作家としてのパトロンと活動拠点を得た。
今どきらしい曲線的な家具と上等な蓄音機、もちろん暖炉もある。ワインセラーがないのは残念だが、アメリカの薄いビールの味にもそろそろ慣れてきたところだ。
「ほほう、ファッジ大臣国難を前にクラウチ氏と和解、シリウス・ブラック氏の再調査進む……時代が動きますねえ」
眉間に皺を寄せて杖で箒を動かしていた内弟子が、呆れたようにため息を吐いた。
「他所の国のニュースを読んでいる暇があったら手を動かしてください、先生。明日までにサイン本を100冊納入予定なんですから」
「わかっていますよ、ウーティス」
このウーティスという若者は、とてもいい内弟子だった。
家事魔法の腕は未熟だが、戦闘においては天賦の才がある。ロックハートは早々に作品のスタイルを切り替えた。愛読書、シャーロック・ホームズを参考に少しモダナイズする形で。
つまり、実際に杖を振るう粗野で頭の切れが悪い助手を主人公に据え、彼を導きながら事件を解決に導く名探偵、主役をロックハートにしたのだ。このバディシリーズはまたたく間にアメリカ魔法界全土で大ヒットとなった。
なにより、良心の呵責なく心から自分の創作物だと笑って誇れるのは、なかなかに清々しい気分だった。最初からこうしていればよかったとすら思う。
「しかし……今回の腐ったハーポに関する一件で英国魔法省は痛手を負いましたね」
「おやおや、ウーティス、いったい誰がそんなことを君に吹き込んだのかな」
「俺だって新聞くらい読みます。先生が読み終わって冷めた紅茶と一緒にほったらかしの日刊予言者新聞を片付けてるのは誰だと思ってるんですか?」
かすかに苛立った様子でウーティスがそう唸ると、制御されて床を掃いていた箒が唸るようなフルスイングを描いた。ウーティスの家事魔法は時折暴力的だ。
しかし、この若い男は向学心があり、独自の視点を持つことに関してはロックハートよりも長けていると言わざるを得ない。ロックハートは経験や知識の面でこそ勝っているが、それもいつか追いつかれるだろう。
それでも、考えの深さと広さだけは、当分追いつかれない自信がある。
「英国魔法界にとってはこの程度、痛手でもなんでもないのではないかな」
「そうなんですか、先生?」
「では、考えてみなさい――国際犯罪者、闇の魔法使い腐ったハーポの侵入に関して、誰の責任が問われるか」
ウーティスは端正な細身の顔をわずかにしかめ、しばし沈黙した。
その間にロックハートは羽根ペンを走らせ、アメリカ魔法界に増えたファンたちに届けるサイン本のサインに取り掛かった。最近は謎多き魔法戦士ウーティスのファンも増えてきたが、彼のサイン会は今のところ予定していない。
しばらくして、ウーティスはゆっくりと口を開いた。
「先生に教えられた通り、問題を分割して考えてみました」
「ほう、聞かせてもらいましょうか」
「まず、これは外交問題です。ギリシャ魔法省との連帯を密にしていれば、ハーポ侵入の速報を得られたかもしれない。だから、その点では国際魔法協力部に責任があります」
「なるほど、確かに世論はそのように動くかもしれない。しかし、私がファッジ大臣なら自国の部門ではなく相手国の部門を非難する方向に世論を誘導すると思うね」
そう、非難というものは、世論というものは合理では働かない。
問題には常に注目すべきポイントが複数あり、権力者はその中から都合のいいポイントを選んで大衆に提示する。嘘をついているわけではない。指摘すべきポイントのうち、一点を強調しているだけだ。
大手メディアは多くの場合その要請に従う。それはジャーナリズムの欠如というよりむしろ、醸成される世論に沿った記事を書くことによって読者の感情に協調する商業戦略だ。自分もそれが言いたかった、そう思わせる記事が一番売れる。
ロックハート自身はジャーナリストではない。たかが作家、所詮詐欺師。
しかし、計算と予測だけでマーリン勲章を授与されるほどのベストセラー作家にのし上がった身として、その程度の予想はサインの片手間でもできることだった。
しばらく悩んだあと、ウーティスは再び口を開いた。
「では、国賓に危害を与えさせた警備の不十分さはどうでしょう。ルーファス・スクリムジョール局長やアメリア・ボーンズ部長の責任が問われるのでは?」
「いい指摘だ。例のあの人が消えて、かれこれ14年が経つ。そろそろ英国魔法族も闇祓いたちがどれだけ命がけで戦ったかを忘れているころでしょう。……そう、もう皆忘れつつある」
一瞬、ロックハートのサインを走らせる手が止まった。
ホグワーツで過ごした1年にも満たない日々の中で、ロックハートはヴォルデモートの断片に接触した。彼は聡明で、魅力的で、そして邪悪だった。
人形に変えられたロックハートの肉体は今でも芯のあたりが木のままで、湿度が高い日は骨が歪んでひどく痛む。その痛みを感じるたび、ロックハートは後悔と、そして妙に爽やかな気持ちに苛まれる。
最後の最後で、ロックハートは教師でいられた。
ハリー・ポッター。彼は魅力的な少年だった。もっと彼に多くを教えたかった。
そして、今話題のブレーズ・ザビニ。彼もまた、ロックハートの才能を引き継げる少年だった。女性という社会の半分に飛び込んでいく能力に関して、彼はいつかロックハートを上回るだろう。
ロックハートは教師としては失格だったかもしれないし、作家としてはひどい悪党だったが、生徒たちのために戦えた事実はいつまでも誇らしいものだった。
「先生?」
「……ああ、しかし、ウーティス。君はもうひとつ見逃しているのです。確かにその記事にはダンブルドアの活躍ばかりが書かれ、傷を負った闇祓いたちのことは書かれていない。ところが、ダンブルドアが到着するまで国賓たちを守ったのは他でもない、闇祓いだ」
「それはつまり……国賓たちが闇祓いへのバッシングを許さないということですか?」
ウーティスは本当に打てば響く若者だった。
彼を内弟子として迎えてから、ロックハートはますます知性に磨きがかかった。杖捌きにも乱れがなくなり、霞がかっていた呪文の知識も取り戻した。
今のロックハートなら、記憶を奪わずとも自らの足で冒険できる。実際にそうするかはともかく、そう思えることそれ自体が心地よい充足感をもたらす。
その相棒――ウーティスと名付けられた記憶喪失の若い男、失われた本名をバーテミウス・クラウチ・ジュニアというこの人物の秘密を守らなければならないことを除けば、実に満足のいく日々だった。
だから、この若々しい内弟子に講釈を垂れることすら、ロックハートにとっては気分のいい時間なのだ。
「つまり、ウーティス、この件で英国魔法省は損をしないどころか、ギリシャ魔法省から譲歩を引き出すいい口実を得られたということです。読者向けにわかりやすい言葉を使うのなら、そう……これは大きな貸しになったわけだ」
アメリア・ボーンズは今回の苦戦を大いに反省するだろう。鉄の規律は闇祓いたちの知を再び体系化し、再演を決して許さない。
そしてそれは現場を預かるスクリムジョールも同じだ。闇祓い局は早期のうちに呪文研究家や癒師を招聘し、腐ったハーポという古き悪の業を無力で陳腐化した技術にするための研究を開始するに違いない。
「先生、そうなると腐ったハーポが来たほうが英国魔法省にとっては都合がよかったのですか?」
「まさか! 今回は最悪も最悪の事態だよ、ウーティス。記事にある通り、グリンゴッツの陥落から先んじて動いていたというダフネ・グリーングラスが倒れた。この事実は市民にとって不安になるのに十分な事件だ」
ロックハートは顎を撫でながら、あの才気あふれる少女を思い出していた。
今回、ダフネはきっとよく頑張ったのだと思う。彼女の全力だったのだろう。それは褒め称えられるべきことだ。
しかし、ダフネは倒れてはならなかった。
ダフネは今や派閥の長だ。つまり、彼女の下に集う人々がいる。その大半はデメテル・ザビニの不在にあたって新たな長を求める凡俗だ。つまり、彼らは強いリーダーを求めている。
実際の戦闘がどのようなものだったかロックハートにはわからない。ダフネが最前線で動いたのだとすれば、それは本来避けるべきことだ。彼女は派閥の長、小国の王なのだ。ロックハートの論理では、ダフネは前線に立つべきではない。
いや、それは卑怯者の論理なのかもしれない。ロックハートは王の器ではない。ダフネはどこまで計算して戦ったのだろうか。
「難しいところだ。一番損をしたのはダフネだが、これから一番得をしうるのもダフネということになる」
「一番得をしうる?」
「わからないかな、ウーティス? 彼女は誰よりも犠牲になった。どこから情報を得たのか、ギリシャ最悪の醜聞が英国魔法界に牙を剥くことを想定していたわけだ。その彼女が先頭に立って戦い、傷つき、倒れながらも勝利を掴んだ」
ウーティスは息を呑んだ。
そう、ダフネは派閥への求心力についてはかすかに失敗したかもしれない。しかし、腐ったハーポという脅威が露見した今、それに対抗した彼女の名声はもはや並の魔女ではない。
旗印としての色が変わった。ダフネは覇道を歩むことを示した。自ら傷つき、自ら進むリーダーを好む魔術師は、決して少なくはないのだ。
「先生は……ダフネ・グリーングラスがグリンデルバルドに対するダンブルドアのような、英雄になるとお考えですか」
「さて、まだ結末は訪れていませんからね。でも、私が筋書きを任されたとするなら、同じ英雄の焼き直しというのはつまらない。ダフネは魔法学校に隠居するような退屈な主人公ではないはずだ。……そう、きっとそうだ」
ロックハートには確信があった。
ダフネは今、潮流の中心にいる。英国魔法界はこれから彼女の起こす渦潮に荒らされ、揉まれ、彼女の求める砂浜に整えられることになる。
それが風光明媚なリゾートビーチになるのか、立つ者を焼く厳しい浜辺になるのかはまだわからない。しかし、いつの時代も志のある若者は大人の予想を遥かに凌駕する結末をもたらしてくれる。
いや、もしかするとこれは贔屓目かもしれない。ロックハートはダフネとハリーに美しい物語を見出した。その思い出がロックハートの胸を焦がしている。
かつてホグワーツの教員だったころ、ロックハートはトム・リドルの日記帳に力を借りて授業をしていた。しかし、ふたりを見ているうちに自分が愚かで恥ずかしい者に思えたロックハートは、日記帳を捨て恩師フリットウィックに頭を下げたのだ。
ロックハートが思い出に浸っていると、箒を片付けたウーティスが意外そうな視線をロックハートに向けた。
「そのダフネ・グリーングラスという女の子とは親しいのですか? 先生が特定の魔女と距離を詰めているところを見たことがないのですが」
「ん……まあそんなところですよ。私の可愛いファンであり、教え子だ。今は遠くから見守るだけだがね」
「行かないのですか?」
その曖昧な呼びかけに、ロックハートは顔をしかめながらカップをソーサーに置いた。
目下、ふたりにとって最大の争点となっているその話題には、できればあまり触れたくなかった。裏のスポンサーであるルシウスとの契約もある。しかし、ウーティスの言う通りいつかは答えを出さねばならないことだった。
何の話か。
簡単に言えば、アメリカ合衆国魔法議会との傭兵契約、外部魔法戦士登録のことだ。
「腐ったハーポがアルバニアから来ていたことがわかった以上、アルバニアの調査は急務です。俺たちの出番ですよ、先生」
「それはまあ、そうかもしれません。しかし……気に入らないのはMACUSAの対応だ。これは国際魔法使い連盟からの要請だというのに、本国の闇祓いを使わずに外国魔法戦士を使うなどと、切り捨てるつもりしかない」
腐ったハーポが煙突飛行でアルバニアからイギリスに侵入したことがわかったことで、国際魔法使い連盟は動きを見せた。あまりに早いその動きは、事前に前議長ヴィセンシア・サントスによる根回しがあったためだとも言われている。
国際魔法使い連盟は各国から魔法戦士の派遣を求めた。アメリカ合衆国魔法議会はそれに応えると表明しながら、闇祓いではなく在野の魔法戦士を編成することを選んだ。
この弱腰な選択には非難が殺到しているが、MACUSAは巧みな法解釈でこの選択を正当化し、現在も魔法戦士を募っている。
この弱腰な対応はMACUSAだけではない。手傷を負ったイギリスは言うに及ばず、フランス、ドイツ、イタリア、列強たちはそれぞれの理由をつけて闇祓いの派遣を渋っている。
当然だ。腐ったハーポの魔法にはまだ適切な対策が見つかっていない。どこの魔法省も自国の闇祓いが感染することで国内に被害が及ぶことを恐れている。
そのなかで白羽の矢が立ったのが、外国人魔法戦士としてMACUSAに市民権を発行してもらったロックハートとウーティスだというわけだ。
「先生、敵は手負いです。ここで手柄を挙げれば、先生も胸を張って本国に帰還できる。このことを本にしたっていいじゃないですか。読者は皆ハーポと先生の戦いに注目しますよ」
「それは……そうですが。しかしね、ウーティス。世の中には戦ってはいけない敵というものがいる。アルバス・ダンブルドアとルシウス・マルフォイが組んで殺しきれなかった敵だ。新作の取材旅行としては、いささか危険すぎると思いますがね」
いかにも不満といった顔で、ウーティスは眉をしかめた。
「先生はご自身の名声に付随する責任と向き合うべきです」
「君こそ、自分の不安から生じる癇癪を私に向けるのはやめていただきたいね。君の過去を辿る旅には興味があるが、それはハーポの足下には転がっていないはずだ」
「俺のことを勝手に語らないでくれ!」
声を荒げたウーティスを相手に、一瞬だけロックハートの意識は袖に隠した杖に向かった。彼がかつて凶悪な死喰い人バーテミウス・クラウチ・ジュニアだったことを忘れたわけではない。
若く、しかも記憶のないウーティスは焦っている。彼にはルーツがない。よくやったと褒めてくれる父親も、よく頑張ったと抱擁してくれる母親もいない。それが記憶を失う前から同じだったことすら彼は知らない。
「先生、俺知ってるんですよ。先生はルシウス・マルフォイに脅されてる。英国魔法界で一番力のある純血だ。先生がイギリスに帰れないのはルシウス・マルフォイに脅されてるからじゃないんですか?」
「なんのことやら……君、私の作品を読みすぎて妄想と現実の区別がつかなくなったのかな?」
反論としては少し弱かった。
一度だけルシウスあての書きかけの報告書を机に置いたままうたた寝してしまったことがある。それを見られたのだとすれば、ロックハートがあまりよくない立場にいることはわかってしまう。
正確に言えばロックハートは脅されているわけではない。飼い慣らされているのだ。ルシウスの飼い犬として記憶のないバーテミウス・クラウチ・ジュニアを見守って暮らすのは、正直に言ってかなり快適な仕事だった。
しかし、ルシウスに敵が現れたというのであれば、その快適さがいつ失われるかわかったものではない。
「先生、今こそ戦うべきです。ここでルシウス・マルフォイに恩を売れば、先生はもっと自由に作品を書ける! あんたの才能は合衆国に閉じこめられるべきじゃない!」
黙ったまま、ロックハートは素早く損得を勘定した。
確かに読者は喜ぶし、お役所仕事なMACUSAに大きな恩を売ることができる。それだけではない。ルシウス・マルフォイに借りを返し、国際社会に名を売ることもできる。
杖捌きには冴えが戻った。呪文の知識も十分にある。今なら、国際魔法使い連盟が求める調査員としての任程度なら果たせるだろう。
「……条件つきでイエスだ。今書いている作品を出版社に送ってから出発すること。交戦はせず、すぐに撤退すること。いいね?」
気合のこもった笑みで頷くウーティスに、ロックハートはため息をついた。どうやら、大冒険になりそうだ。
今日試験的に全部スマホで書いてるので、おかしなところあったらごめんなさい!