夢を見ていた。
夢の中で、ダフネは一羽の鴉だった。翼を広げ、青空を自由に飛んでいた。そこにしがらみはなく、地に縛り付ける鎖の数々を巧みに掻い潜って、その鴉は風を追い続けた。
山を越え、谷を越え、海に至って、鴉は自分が一羽であることに気がついた。
誰かを置いてきてしまった気がする。
しかし、風はいつしか海へと鴉を押し出しはじめた。磯臭さに揉まれながら、鴉は海へと飛び立った。遠くに見たことのない島が見える。
一度そこで羽根を休めてから考えようか。
鴉はゆっくりと陸地を目指し、小屋の前にある小さな木に停まった。見たことのない果実がなっている。どこか月に似たその果実をつつこうとすると、小屋から声が聞こえた。
「――おや、珍しいお客さんだねえ」
小屋の中から、小柄な女性が姿を現した。
少し癖のある豊かな髪。顔立ちは美しいというより可愛らしく、どこかいたずらげな茶目っ気と見通せない神々しさの両方を秘めている。女神像が纏うようなキトンを身に着け、地中海の強い日差しに照らされてなお肌は清らかに白い。
彼女は指先を枝の上の鴉に向け、そっとその黒い羽根を撫でた。
「夢が繋がったのかな? ……なるほど、あいつの縁か。最近騒がしいと思ったら、あの牢から出たんだねえ。あいつに目をつけられたのなら、さぞ苦労していることだろう」
口ぶりに反して、あいつと呼ぶ時彼女は強い親しみを込めていた。
器用な指先で鴉の羽根を整えた彼女は、少し困ったように形のいい眉を曲げた。
「おや、思ったよりも深いところまで食らっているね。うーん、かといって僕には助けてあげられないんだ。あいつとはそういう契約になっているからね」
そう言われて初めて、鴉は自分の胸に傷があることに気がついた。傷は膿んでいて、ひどく痛む。思わず嘴でいじろうとすると、彼女は優しい手つきでそれを阻んだ。
それから、彼女は小屋に戻り、なにか金属をぶつけるような騒がしい音を立てた。しばらくして、小屋の外に戻ってきた彼女は手に石造りの椀を手にしていた。
「迷い子の傷を癒してやるくらいは契約違反にはならないだろう。少ししみるけど、じっとしておくんだよ。大丈夫、これでも薬に関しては世界一詳しいんだ、僕は」
彼女は優しい指先で椀を満たしていた白い軟膏を掬い取り、鴉の胸に塗った。
ひどくしみたが、鴉はじっとこらえた。それは、彼女の瞳が慈愛に満ちていたからだった。次第に疼く傷は楽になり、膿は綺麗に拭われた。
「これでよし。これでもう、意味もなくあいつが怖くなったりすることはないよ。安心して飛ぶといい。……あいつはまだ諦めてないんだね」
鴉は問いかけるように首を傾げた。
あいつと呼ばれているのは、あの恐ろしい魔法使いのことだろうか。鴉は彼に敗北した。あと一歩で魂を奪われるところだったのだ。
その問いかけに答えるように、彼女は柔らかく頷いた。
「あいつは死者を蘇らせようとしている。一番大切な人を、自分のせいで殺されたんだ。だから自分の力で蘇らせようと必死になった。でも、死体を永遠に完全な操り人形にすることまではできても、それに相応しい魂は帰ってこなかった」
その語り口はとても静かで、しかし雄弁だった。
目を伏せた彼女は、鴉を撫でながら海の遠くに見えるかすかな形に目をやった。あれは陸地だろうか。それとも、ただの蜃気楼だろうか。
「あいつは自分でも捨て去ろうとしていた禁術に手を出した。あの時、まだ分霊箱の術は未完成だった。そのせいで魂はめちゃくちゃになって、きっともう元々の目的なんてほとんど忘れてしまっているんじゃないかな。……友人として、君には詫びなくてはならないね」
鴉は悲しそうな瞳の彼女を慰めるように小さく鳴いた。
なんにせよ、鴉には仲間がいて、仲間のおかげで鴉は死なずに済んだ。それはつまり、鴉はギリギリのところでやつに負けずに済んだということだ。
仲間。鴉は首を傾げた。仲間とは誰のことだったか? 鴉はずっと一羽で飛んでいたのではなかったか? 鴉はどこに帰ればよいのだろうか?
「マレディクタス。次第に人間性は失われていき、獣としての存在だけが残る。僕はその呪いについても謝らなければならないね。いつかきっと、君は僕に辿り着く。その時は、本当の意味で僕の力を貸そう。約束するよ」
誰かの呼び声が聞こえる。
切羽詰まった、焦るような声。とても恋しいあの声を辿れば、きっと鴉は巣に帰りつける。鴉は翼を広げ、再び空を目指した。
「いい子だ。きっとこれからもっと大変になるけれど、頑張るんだよ」
空へ。
風は激しく、翼が裂かれるようだった。鴉は必死になって海を越えた。見たこともない魚を食らい、見たこともない海獣に追われ、見たこともない星の間を抜けた。
そして、懐かしい風を感じた。ほのかに林檎の香りがする。そうだ。鴉はずっと林檎の木の下で育った。この香りが鴉を導いてくれる。
翼を打った。そうだ。鴉ではない。自分には名があるのだ。声は次第に近くなり、はっきりと聞こえるようになってきた。
「――ダフネ!」
そして、その声に目が覚めた。
全身が鉛のように重い。拘束具をつけられていると言われたほうがまだ納得できる。指先を動かすことすら難しい中、ダフネはベッドの上でゆっくりと軋む首を動かした。
清潔なリネン。カルテの挟まれたバインダーが置きっぱなしになっている。個室だ。窓の外は真っ暗だが、時折聞こえるクラクションから察するにまだ深夜というわけではないらしい。
ベッドのすぐ隣、見舞客用の丸椅子に腰掛けた青年――ハリー・ポッターが、壁に背を預けて居眠りしていた。彼の膝には歪に剥かれた林檎と、小さな果物ナイフがあった。
「……ずっと、声をかけていてくださったのね」
ダフネは軋む身体をなんとか動かしてハリーの顔からずり落ちた眼鏡を取り上げ、サイドボードの上に置いた。サイドボードに置かれた時計は1月3日の午後9時を示している。どうやら丸3日寝ていたらしい。身体も強張って当然だ。
シーツの上で足を軽く動かす。
人間の足だ。鴉の鋭い爪は生えていない。肩甲骨にも翼が生えたような違和感はないし、声帯も問題なさそうだ。
もう一度ハリーに目を向けて、ダフネは声をかけるべきかしばらく悩んだ。眉間に皺が寄っている。このまま寝かせておくよりは、彼の不安を解消したほうがいいかもしれない。
「……ハリー」
「ん……ロン、まだ練習の時間には早いよ……」
「あら、私をロナルド・ウィーズリーと間違えるだなんて、随分な方ね」
ハリーはゆっくりと瞼を開けた。
ダフネの瞳よりも柔らかく、まっすぐな緑。ふたりはしばらくじっと見つめあい、ややあってハリーが慌てたように立ち上がった。
床に果物ナイフが落ち、半端に剥いたままかじられもせずに萎びて黄色くなった林檎が転がっても、ハリーは気にもとめなかった。疑うように、確かめるように、ハリーは口を開いた。
「ダフネ!?」
「いかにも、ダフネ・グリーングラスその人ですわ」
「それじゃ、その……なんて言えばいいのかな、こういうとき。おはようって言うのも変でしょ? だって、君はもう3日も寝てて……」
尻すぼみな言葉のあと、ふたりはどちらからともなく笑いはじめた。静かな個室に、柔らかな笑いがふわりと熱を添えた。
「心配をかけましたわね、ハリー」
「本当にね。こんなに心配したのは初めてだよ」
「どんなお詫びがいいかしら」
「どんなお詫びだって足りない。……だけど、どんなお詫びもいらないよ」
ハリーは果物ナイフを拾い上げ、萎びた林檎を少し悩んでからくずかごに放り込んだ。
しばらく話していなかったのに、不思議なほどふたりの間にわだかまりはなかった。時間はふたりを少しも傷つけなかった。
「でも、ダフネはひどいよ。あんな恐ろしい敵と戦ってたっていうのなら、僕にも少しくらいは頼ってほしかった。一緒にヴォルデモートと戦った仲でしょ?」
「ええ、今回ばかりは私の悪い癖が災いして死ぬところでしたわね。もっと人を頼ることを覚えるべきなのだわ、私は」
「わかってくれればいいよ。君がひとりで戦ってるってことをダンブルドアに教えられた時……心臓が凍ったみたいな気分になった」
果物ナイフをサイドボードに置いて眼鏡をかけなおしたハリーは、もう一度丸椅子に座りなおした。
ふたりには話すべきことが沢山あった。どれから話せばいいかわからないほどだ。ハーポの呪いが解けた今、ふたりにはどんなことでも語りあうことができた。
少し悩んで、ダフネは一番気になっていたことを問いかけた。
「どうしてダンブルドア校長と一緒に?」
「マルフォイさんが暖炉でギリシャからホグワーツに帰ってきた時、僕ちょうど校長室にいたんだ。どうして呼ばれたのかわからないけど、ダンブルドアと呑気にお茶してたんだよ。そこにマルフォイさんが駆け込んできて、僕にこう言ったんだ」
「何をおっしゃったのかしら」
「エレメンタリースクールレベルの衛生についての知識はあるか、って。だから僕答えたんだ。ちゃんと手洗いしたり、雑菌が繁殖してそうなものは食べなかったりくらいならわかりますってね。正直、ちょっと馬鹿にされてるのかなって思ったよ」
ハリーに衛生について問い詰めるルシウスを想像するとなんとも滑稽で、ダフネは思わずクスリと笑った。
どこかでナースコールが押された音がする。看護魔術師がスリッパをパタパタと鳴らして駆けていくのが聞こえる。今日も聖マンゴはひどく混み合っているようだ。
「マルフォイさんはダンブルドアに本を突きつけたんだ。よくわからないけど、ジャスティンの名前が書いてあった。ジャスティン・フィンチ-フレッチリーはわかるよね?」
「ええ、もちろんですわ」
「それで、ダンブルドアにガラス瓶を突きつけて『これをすぐ読んで、この抗菌剤を飲むかどうか決めてくれ』って言った。そしたらダンブルドアは本を軽くパラパラめくって、当たり前みたいにマルフォイさんから瓶を受け取ったんだ」
「それから?」
「あとは君も知っての通りだよ。ダンブルドアはマルフォイさんに『今すぐニューイヤーパーティーに出席せねばならん』って言って、僕についてくるように命じた。正直、なんで連れていかれたのかは僕にもわかってない」
どうやら、ルシウスだけでなく多くの人々がこの一件に関わっているようだ。
事態を片付けるための諸々に頭を抱えたい気分になりながら、それでもダフネは逃げ出すつもりはなかった。生きている。それならば、まだ戦える。
なにより、ハリーとこうして再び落ち着いて話せるということがダフネにとってこの上ない幸せだった。この時間を支えとすれば、まだダフネは前に進むことができる。
「ダンブルドア先生のやることに私たちのレベルで理屈を求めるのは、きっと難しいのでしょうね。私たちには理解できないレベルの理屈が働いているんだわ、きっと」
「君もそう思う? なら安心したよ。時々、僕ってすごい馬鹿なんじゃないかって心配になるんだ。ダンブルドアとか、君を見てるとね」
「知性の方向性の問題ですわね。ハリーにはハリーの、ダンブルドア先生にはダンブルドア先生の、そして私には私の方向性がある」
ダフネが微笑むと、ハリーは嬉しそうに頷いた。
身体はひどく重いが、少し休めば動けるようになるだろう。3日分の遅れを取り戻さなければならない。派閥のこと、福祉財団のこと、蒼の貴血のこと、目が回るようだ。
それでも時間は過ぎ去っていき、しかも有限である以上、できることしかこなすしかない。ダフネが計画の算段を立てようとしていると、ハリーが口を開いた。
「ねえ、ダフネ」
「はい、なんでしょう?」
「好きだよ」
その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。
「君が好き。君を失いたくないんだ。ずっとそばにいてほしいよ。僕は頭もよくないし、魔法で戦うのが強いわけでもない。家柄だって、君のと比べれば大したことないのかもしれない。でも……好きなんだ」
ダフネは、ただ静かにその言葉を受け止めた。
ついに言われてしまった。逃げ場のない場所で、正面から気持ちを伝えられてしまった。これに応えないことはできない。自分の気持ちに嘘をつきたくもない。
怖くはある。
ダフネはこれから、もっと後ろ暗い謀略に手を染めることになるだろう。それはきっとハリーの思う正義には反する行いだ。幻滅されたくない。ハリーが好きだと言ってくれる自分でいたい。しかし、それでは目的は果たせない。
震える唇が、応えようとした。ハリーが求めるのなら、この唇を捧げたっていい。その奥だってハリーのものだ。
「私――」
たとえいつか嫌われてしまうとしても、今ハリーがダフネを求めてくれるのなら。その手を取るのも悪いことではない。
ダフネは重い腕を上げ、ハリーに手を差し出した。求め方がわからなくて、あまりにもぎこちないその仕草を、ハリーは笑わないでいてくれた。
怖くて、恐ろしくて、情けなくて、幸せ。この時間が永遠に続けばいいと、ダフネはそう願った。
その時だった。
「ッ、ゴホッ」
激痛を伴って、ダフネの喉を何かがせり上がった。
視界が揺れる。こみ上げる水気を必死に堪えて、それでも耳鳴りは止まない。ハリーに伸ばしたかった指先から血の気が引き、背筋から内側に冷たさが這い寄る。
「ダフネ!」
ごぽ、と喉が鳴った。
吐瀉物ではない。もっと冷たく、澄んでいて、そして残酷な何か。それはダフネの全身から力を奪い、ベッドの上に倒れさせた。
ハリーが部屋を飛び出す音が聞こえる。ダフネは明滅する視界の中、必死に指を伸ばし、ベッドサイドに吊るされた真鍮製のナースコールを押そうとした。しかし、ボタンを押す前に力は尽きた。
清らかだったシーツの上にじわりと水が滲む。
その上に薄く這う脈打つ赤い何かの鮮烈な印象を最後に、ダフネの意識は途絶えた。
好きだと、伝えたかった。