不思議なことに、今度は目を覚ましても身体が重くなかった。
それどころか、ダフネは自分の身体が少し軽くなったようにすら感じた。瞼を開いて見えた清潔感のある白い天井もはっきりと像を結んでいる。どうやら個室のままのようだ。
「目が覚めましたか」
声のする方に首をひねれば、そこにいたのは汚れひとつない白いローブを着た癒者だった。
胸につけた名札にはマックス・ピュシーと書かれている。壮年で、髭を気品よく整えたその癒者は、難しそうな表情でダフネを見下ろしていた。
「私がわかりますか?」
「……ええ、わかりますとも。毎年入院を勧めるお手紙をありがとうございます、ピュシー先生」
ピュシーはグリーングラス家、特にダフネとアステリアの主治医だ。
彼は癒者として変身術に類する呪いを専門としており、ふたりの母イオの主治医でもあった。血の呪いは彼にとって興味深い研究対象であり、同時にいつか必ず根治してみせるという悲願の矛先だった。
そのピュシーがダフネを見下ろして難しい顔をしているというのは、あまり嬉しいことではない。ダフネが身を起こそうとすると、ピュシーはそれを制止した。
「まだ動かないほうがいいでしょう。一命はとりとめましたが、一時は心臓が失われかけた」
「失われかけた?」
「……癒者として、私は患者に病状を詳しく説明する義務があります。しかし、正直に言えば、こんな話を君にする日が来るとは思っていませんでした」
ハリーが座っていた丸椅子を引いて腰掛けたピュシーは、カルテに何事かを書き添えてからもう一度ダフネを見つめた。その瞳にははっきりと、後悔の色が現れていた。
「目に見えない微細な魔法生物、私たちはそれをひとまず魔クテリアと命名しました。承認が下り次第、専門科を設立することになります。あなたは本院初の魔クテリア性疾患患者ということです」
「光栄ですわね」
「茶化さないで聞きなさい。……ルシウス・マルフォイ氏から提供された魔法薬で、魔クテリアは除去できました。しかし、あなたはとても深いところまで魔クテリアに侵されていた」
ピュシーはカルテのボードから一枚の薄い板のようなものを引き出した。
一見すると、それはマグル界のレントゲン写真に似ていた。白黒で、人体を写した陰影のようなもや。違うのは、それが今も動き続けているということだ。
杖を取り出したピュシーがそっとその板を叩くと、人体の胸部にあたる位置が拡大された。そこにはレントゲン写真であれば肺が写っているべきだったが、代わりに大きな白く渦巻くもやが写っている。
「魔クテリアは除去できましたが、特に肺が侵食されていました。水を吐いたのはそのせいです。この水はただの水ではなく、あなたの血管や内臓と癒着している。簡単に言えば、あなたの肺は一部が水に変わってしまった」
「水に、変わった……」
「感染中は魔クテリアのネットワークによって形が保持されていましたが、今はそうではない。激しい運動をしたり、あまり感情を高ぶらせたりすると、臓器や血管ごと水がこみ上げてくるでしょう」
実感がなかった。
身体の一部が水に変わってしまった。足をクラゲにしたり、肌をコーンフレークにしたりする呪いが子どもたちの間ではびこる魔法界においては、それほど深刻に思えない呪いだ。
しかし、ダフネは覚えている。激痛とともに吐き出された水は、赤く脈動する線を含んでいた。あれが血管だというのなら、吐き出してしまえばダフネはおしまいだ。
「魔法薬で骨を生やすように臓器を作るわけにはいかないのかしら」
「そういった治療法があるのは確かですが、今回は有効ではないと判断しました。あなたの胸を満たす水はすでに肺としての機能を果たしている。身体が新しい肺を作ろうとする可能性は極めて低いでしょう」
「水をすべて取り除いて、それから肺を作るのは?」
「吐いたあとも水は減っていませんでした。これはつまり、所定の手続き以外では減らない水ということになるでしょう。加えて、水が減るとはつまり肺の一部を失うということです。あなたの身体はそれに耐えられる作りではない」
ぼんやりと、ダフネの脳裏に原作の光景が浮かんだ。
偽物のロケットを覆う緑色の液体は、飲む以外の手段で減らすことはできなかった。あのダンブルドアですら、飲むというルールに従った。
それはつまり、この呪いを破ることはできないということだ。
「治療法は現在も模索しています。気持ちを強くもって、諦めないように」
「……先生、このことを知っているのは?」
「見舞客のミスター・ポッターが発作を起こしたあなたを発見して連絡してくれました。あとは関係者だけです」
「いいえ、先生。……このことは内緒にしてくださるかしら」
ピュシーは困ったように眉を曲げた。
「おすすめはできません。退院後に介助する人物が必要になると我々は考えています」
「それはできないわ、先生。私はこれでも政界の一翼を担う派閥の長なのだから、介助者を連れて回るわけにはいかない。ねえ、先生。他の手段があるのでしょう?」
まるでまだ夢を見ているような浮遊感の中で、それでもダフネは確信していた。
変身術治癒法の専門家であるピュシーがここにいるということは、治療は変身術的手法で進められたということだ。そして、ピュシーにはもうひとつ選択肢がある。選ぶべきではない選択肢を。
しかし、ピュシーは険しい表情で首を振った。
「……確かに、対策はあります。しかし、本当におすすめできない選択です」
「全て聞かせてくださるかしら、ピュシー先生。それから決めるべき、そうでしょう?」
「君の一族とは長い付き合いですから、聞いた後にどうするかは察しがつきます。私は患者を患者自身の手で死なせたくはない」
しばらく、ふたりは睨みあっていた。
ピュシーが口を開いたのは、実に5分もの沈黙が流れたあとのことだった。
「……マレディクタス、血の呪いの罹患者であれば、この症状を緩和する手段があると匿名の連絡を受けました。疑わしい連絡ですが、事実あなたは緊急手術の最中に変身し、それによって致命傷を避けることができた」
「変身すれば、発作を回避できる。そうなのでしょう?」
「ヒトに効果を発揮する魔クテリアは変身している動物もどきには効果を発揮しないことが検証で明らかになりました。おそらく、血の呪いも同じなのでしょう。魔クテリアは先にかかった呪いを上回るほどの力を持たない。……しかし!」
「わかっています」
変身すれば、後遺症の発作は誤魔化せる。
しかし、変身すれば、血の呪いは進行する。
ダフネは部屋にかかったカレンダーを見て、ハリーが見舞いに来てくれてから2日が経過していることを知った。英国魔法界最新鋭の医療技術を持ってしても、ダフネを治療するのに2日かかった。発作を起こすたびに入院するわけにはいかない。
致命傷ではない。ただ、時間制限ができただけだ。変身を繰り返せばダフネは理性を失い、獣になっていく。ただの鴉に成り果てるまでの間に、目的を成し遂げなければならない。
「先生の見立てでは、私はあとどれくらい持つのかしら?」
「……ニコラス・フラメル氏から提供された中和剤を使えるうちは、理性を損なわずに変身できるでしょう。しかし、氏はもうすぐ亡くなられる予定と伺いました。レシピは送っていただきましたが、入手の難しい材料もあります」
「中和剤がなくなるのは、いつごろ?」
「フラメル氏は決して少なくない量のストックを当院に預けてくださいました。それでも、月に一度発作を起こすと仮定して……成人を迎えるのは、難しいでしょう」
ダフネはそっと己の胸に手を当てた。
ここに収まっているはずの肺は失われ、かわりに呪われた水が渦巻いている。度々ダフネが感じた息苦しさと湿った吐き気の正体がこれなのだとすれば、ダフネはこれから一生この発作と戦っていかねばならないのかもしれない。
希望がないわけではない。術者の死とともに解かれる呪いというものは少なくない。腐ったハーポを本当の意味で殺すことができれば、ダフネの肺も元に戻る可能性はある。
しかし、17歳までにそれを成し遂げることができるだろうか。
「そう……それじゃあ、目標を少し変えなくちゃいけないわね」
ヒトとして成人できる可能性が少ないのなら、ダフネ・グリーングラスというヒトが最年少の英国魔法議会の議員になることは難しいだろう。
力が足りなかったとは思わない。道を間違えたとも思わない。ただ、計算外の要因によって計画が破綻した。それだけの話だ。議員になるというのは手段であって、目的ではない。期限内に達成できる形に計画を修正する。それだけだ。
それだけなのに、ひどく虚しかった。
「先生、私、アステリアの花嫁衣装を選ぶのがとても楽しみだったのよ。あの子に似合う、世界一のドレスをどうやって仕立てるか。これが私の人生で最大の難題になるはずだったの」
「……治療法が見つかれば、実現できる夢です」
「そうね。……見つかれば、いいわね」
諦めたわけではない。
しかし、心のどこかで、道を間違えたのではないかという後悔がよぎる。ダンブルドアの言う通り、賢者の石の研究に専念していればよかったのではないか。そうすれば、腐ったハーポを訪ねようなどとは思わなかったのではないか。
もちろん、その道を選べばハリーが救われない可能性もある。ダフネにはそれを選ぶことはできない。だから、今こうして政治の道を進み、そして、呪われた。
「お世話になりました、先生」
「何を言っているのですか。まだ退院させるわけにはいきません。今月いっぱいは検査が必要です。退院してもホグワーツに戻るべきではないでしょう。自宅で静養し、週に一度は通院すべきです」
「……ふふ、そうね、治療を思えばそうするべきなのかもしれない。でもね、先生。この命はもう、私一人だけのものではないのよ」
外で騒がしい足音がする。
誰かがその足音を押し留めようとしたが、直後うめき声が聞こえた。誰かが誰かを殴ったらしい。その足音はダフネの病室へと近づき、そしてドアを破くように開いた。
蒼白な表情のルシウスが、ダフネを見下ろしていた。髪は振り乱し、ローブは襟が乱れていた。誰よりも美しく誰よりも邪悪な貴人が、喪失を恐怖する瞳でダフネを見ていた。
「サー・マルフォイ、患者はまだ面会謝絶で」
「私の養い子が人と会うかどうかは、私が決める。どいてもらおう」
「しかし、病状はまだ」
「今すぐどくか、呪われてどかされるかだ」
一瞬悩むようにダフネへと視線を落としたピュシーは、小さくため息をついて立ち上がった。
「10分だけです。それ以上は見逃せません」
「結構だ。……ダフネ」
部屋を出ていくピュシーを気にも留めず、ルシウスはダフネのそばへと歩み寄った。
白い絹の手袋をはめたルシウスの指が、ステッキの柄を握りながらそれでもなお震えていた。彼は理解していた。そのステッキに収められた杖が、ダフネを救う上でなんの役にも立たないということを。
ダフネが小さく微笑むと、ルシウスは立ったまま小さく呟いた。
「すまなかった、ダフネ」
「謝っていただくことはなにもありませんわ」
「私が……私が間違っていた。ハーポから君を守りきれたつもりだった。まさか、そこまで深い呪いを受けているとは」
どうやら、ピュシーが言うところの関係者にはルシウスも含まれていたらしかった。
ダフネはベッドから身を起こし、指を伸ばしてステッキを握るルシウスの手を握った。一度小さく跳ねた手に宿るのは、怯えだろうか、それとも後悔だろうか。
ルシウスを見上げたダフネは、彼の目をじっと見た。灰色の瞳。多くの闇を見てきた、昏い瞳。そこに満ちているのは悪意や敵意ではなく、ただ、後悔だけだった。
「ルシウス・マルフォイ。私が勝ち取った初めての臣下。どうやら私には限られた猶予しか残されていないようです。最も険しく、最も短い道を進まなくてはなりません。そのためには、あなたがいるの」
ダフネ・グリーングラスは諦めない。
アステリアに幸せな道を用意する。ハリーを運命から救う。そのための戦いがいかに過酷であろうとも、もはやダフネは立ち止まることができない。
全てを無駄にしないためには、覚悟が必要だ。
「みっともなくメソメソするのは今日だけにしましょう、おじさま。私たちは魔法界を変えるのだから、こんなつまらない結末で満足するわけにはいかないわ」
「……君は、よいのだな。本当にそれで、後悔しないのだな?」
「後悔はしますわ。それを最小限にするためには、前に進まなくては」
ハリーに奪ってもらえなかった唇を、かわりに笑みで彩って。
ベッドから抜け出したダフネは、少しよろめきながらもルシウスに寄り添った。後悔にうち震える彼を支えとして、なんとかダフネは自分の杖を拾い上げた。
「いきましょう、おじさま。帰らなくては」
戦い続けなくてはならない。
いつか、帰る場所を忘れるまでは。