世界が色褪せている。
もうすぐ新学期が始まるというのに、ハリーにはもう何もかもがどうでもよく思えた。いっそ今夜寝ているうちに世界が滅んでしまえばいいのに。
この感情を絶望と呼ぶことを、ハリーは少しずつ理解していった。魔法薬でも、呪文でも、どんな力を使っても解決できない暗い渦。ハリーは少しずつその中心へと呑まれていくのを感じながら、それでも抗えずにいた。
「ハリー、ローズマリーポテトがあるぜ。君好きだっただろ?」
「……ほっといてよ、ロン」
ロンは返事も聞かず、ハリーの皿にポテトをよそった。
その優しさを心底鬱陶しいと思う一方で、その優しさがあるおかげでハリーはギリギリのところで立ち止まれていた。
「水と一緒に血管を吐き出してしまう呪いなんて、教科書には載ってなかったわ。だから、図書館でもう少しレベルの高い本を探したの。腐ったハーポは古代ギリシャの魔法使いだから、古代呪文史の本を中心にね」
どさり、とハーマイオニーがテーブルに本を積んだ。
目測が確かなら、11冊か12冊はあった。そのどれもが古びていて、羊皮紙はたわみ、背表紙は掠れている。食卓にふさわしくないカビのにおいに、ロンが口を曲げた。
「ハーマイオニー、ハリーに必要なのは食事だろ? 呪文の知識で腹が満ちるかい?」
「あら、私がハリーなら解決策を探すと思うわ。だって、その方が可能性が広がるじゃない。それで、調べてみたの。あったわ。とても古い闇の魔術よ」
ハーマイオニーが差し出した本を、ハリーは受け取らなかった。
もはやできることは何もないような気がしていた。あのダンブルドアやルシウス・マルフォイですらダフネを救えなかったのだ。一体ハリーに何ができるというのだろうか。
しかし、ハーマイオニーはめげることなく本を開き、ハリーの前でページを指さした。そこには、余計食事にふさわしくないグロテスクな人体図が載っていた。口の中に杖を差し込まれた男の絵だ。その男の絵は内側から水に変わり、臓器と一緒にそれを吐き出した。
「本来は、生きたミイラを作る時に内臓を取り除く魔法だったみたいね」
「生きたミイラ? それってなんか変だ……だって、生きたニシンの燻製みたいなもんだろ?」
「ロン、食欲のなくなることを言わないで。とにかく、ダフネの内側に水が留まっているということは、まだ術者は生きているということよ」
ありえないほど食欲の失せる本をパタリと閉じたハーマイオニーは、当たり前のような顔で自分の皿にニシンの燻製をよそった。
今のところ、それは嬉しい報せには思えなかった。ダンブルドアとルシウスを相手にして生き残った敵が、ハリーに倒せるとは思えない。
「参考までに聞かせてもらうけど、術者が死んじゃったらどうなるんだい?」
「わからないわ。でも、魔法理論から順当に考えるなら、肺から水に変身したわけだから肺に戻るはずよ。少なくとも、水が無に消えたり、残ってただの水になるよりは可能性が高いわね」
「そりゃいいや。そうだろ、ハリー。今にダンブルドアが腐ったハーポをボコボコにとっちめて、それでダフネは元通り! 君はキスでもなんでもすればいいさ」
それはあまりにも希望的観測に思えた。
ハリーが何も考えられずにフォークでポテトを潰していると、ハーマイオニーが大きく息を吐いた。
「ねえ、ハリー。私だってダフネに謝りたいのよ。呪いのせいだったとはいえ、彼女を信じてあげられなかった。そうでしょう? ……正直に言えば、今彼女に向けているこの嫌な気持ちが本当に呪いのせいなのか、まだ自信がないくらいなの」
そう、それが最大の問題だった。
細菌の呪いがダフネに対する疑念を膨らませた。しかし、それは元々あった疑念に目を向けさせただけで、疑念を生み出したわけではない。
魔クテリアが一掃されたあとになっても、まだ人々はダフネのことを疑うようなことを口にしている。何より悔しいのは、心のどこかでその疑念が妥当なのかもしれないと感じてしまう自分がいることだ。ハリーもまた、ダフネを信じきれていなかった。
口では好きだと言いながら、ダフネを信じきれていない。自分がとんでもない愚か者のクズに思えて、ハリーはもはや自分がダフネを支える資格すら失ったのではないかと考えていた。
「まあ、人間誰しもちょっと悪い噂くらいあるさ。フレッドとジョージだって、ちょっと前にヤバい薬を扱ってるんじゃないかって噂が立ってマクゴナガルに呼び出されただろ? そりゃ、ダフネの噂はちょっと度を越してるかもだけど……」
「どうかな。噂が大したものじゃなかったうちに、君たちはあっさり疑念に流された。一緒にヴォルデモートと戦いまでしたのに!」
一瞬、皆が朝食を取っていた大広間がしんと静まり返った。
ロンやハーマイオニーを責めたくはなかった。疑念に襲われたのはハリーも同じだ。どうすればいいかわからなくなって、大人を頼ろうとして、それでも心は晴れなかった。
苛立ちと、虚しさと、後悔と、その全てが煮詰まった脳はぐらぐらに沸き立って、まるで理性がすっかりなくなってしまったかのような気分だった。
「……ハリー、落ち着いて。確かにダフネは大切な友達よ。でも、心を操る呪いというものは、ずっと昔から魔法界にとっての困難だったの。私たちもダフネも、災害に遭ったようなものよ」
「その結果、僕たちはダフネの助けにもなれず、今ダフネは死にかけてる! 僕たちがもっと早く助けようとしていれば、なにかできたかもしれない!」
「そりゃ、助けられたらよかったけど……でもハリー、ダンブルドアですらそのパーティーの日まで動けなかったんだろ? 僕たちになにかできたとしたら、ダフネの悪い噂を言うやつをとっちめて回るとか、その程度のことだったんじゃないか?」
乱暴にフォークを置いたハリーは、立ち上がってテーブルを後にした。
ロンとハーマイオニーは追いかけてこなかった。それでいい。今のハリーにはふたりの優しさはむしろ毒だった。
大広間を出て、ハリーは石造りの壁に頭を叩きつけた。この壁の向こう側に這い回っていたバジリスクを一緒に退治してから、まだ一年と経っていない。あの戦いを共にしたハリーが、どうしてダフネを信じてあげられなかったのだろうか。
こみ上げてきた涙をローブの袖で拭って、ハリーは震える息を吐き出した。泣くことに価値はない。しかし、ダフネを助けられないのなら、自分に価値のある行為などできるのだろうか。
「僕なんか……!」
石造りの硬い壁を殴りつけようとした。手が切れようが、骨が割れようが構わなかった。この鬱憤を情けなくぶつけないと、ハリーはどうにかなってしまいそうだった。
「――そこまでにしておけ」
細い指がハリーの腕を掴んだ。
ハリーは苛立ちながら振り返り、腕を掴む何者かを振り払おうとした。しかし、振り返った時、その人物が自分と同じ表情を浮かべていることに気がついた。
「ドラコ……」
「少し、話さないか」
それだけ言って、ドラコはハリーに背を向け歩きはじめた。その足取りは城の外へ向かっている。ハリーは少し躊躇ってから、ドラコに追いついた。
ドラコはまだホグワーツのローブに着替えておらず、普段着ているのであろう品のいい立襟のシャツとスラックスに黒いコートという姿だった。靴にはわずかに泥がついていて、ホグズミード駅からホグワーツまで歩いてきたばかりだということがわかった。
ハリーの視線に気がついたのか、ドラコが薄く笑った。
「母上が検査のために入院することになってね、ひと足早くホグワーツに戻ることになった。癒者が言うには抗菌剤が間に合ったおかげでなんともないらしいが、父上は完璧に安全とわかるまで聖マンゴを出させないの一点張りでね」
「そう、なんだ」
奇妙な嫉妬が、ハリーの胸中にこみ上げた。
ナルシッサは無事だったのに、どうしてダフネは治らないのか。そんなことを恨んでもしょうがないのに、ハリーはこの世の理不尽さと不平等さが心底憎かった。
ふたりは正門を出て、谷にかけられた橋を渡った。新年の冷たい風が谷を吹き抜け、ふたりを足元から冷やした。ドラコは黒いコートの前を閉めたが、身震いはしなかった。不思議なことに、ドラコは少し大人びたように見えた。
「どこに向かってるの?」
「実を言うと、どこでもない。城から離れていればどこでもいい。今はあいつの話を君以外に聞かせたくないからな」
あいつ。
ドラコがその気安い言い方で呼ぶのは、もしかするとダフネだけだったかもしれない。ハリーの心臓は一瞬締め付けられたように縮こまった。
橋を抜け、かつてはモミの木が植わっていたのだろう大きな切り株を見つけると、ドラコはそこに腰掛けてハリーを見上げた。ハリーはドラコから少し離れた、それでも隣と言える範囲のところに座った。
「父上は詳しいことを何も話してくれないが、君が癒者に知らせてくれたということだけは教えてくれた。……君のおかげであいつは助かった」
「……別に、何かできたわけじゃない。ダフネがベッドの上で倒れて、水を吐いて、明らかに様子がおかしくて、急いで助けを呼んだ。それだけだよ」
「それでも、あいつは一命をとりとめた」
「それは助けになったうちに入らない。僕は何もできてない!」
ハリーの叫びを、ドラコは静かな表情で受け止めた。
一瞬、ハリーは凄まじい怒りに襲われた。ドラコはダフネの苦しみをなんとも思っていないのではないか、そんな思い込みが生じたからだ。
しかし、その妄想はドラコのきつく握りしめられた拳が視界に入って、一瞬で霧散した。白い絹の手袋を嵌めていなければ、今頃爪が食い込んで血が出ていただろう。それくらい強く握りしめられた拳は、静かに震えていた。
「僕もだ。僕も何もできていない。グリーングラス家が苦しかった時、僕は何もしなかった。あいつが少しずつ社交界で名を知られはじめた時、僕はただそれを見ていた。
その声は平坦で、だからこそ雄弁だった。
「あいつはいつも眩しい。ひとりでどんな問題も片付けてしまう。だから……僕たちはあいつの眩しさに目がくらんで、いつの間にか甘えるようになってしまった。あいつならなんとかするだろう、そう思ってしまった」
「……でも、君はダフネの役に立ってる」
「僕が? そうは思わないね。本当に僕があいつの役に立とうとしているなら、今頃アステリアのそばにいたはずだ。それなのに、僕はあいつの役に立てなかった自分に勝手に失望して、ホグワーツに逃げ帰ってきた」
ドラコは大きく息を吐いて、城のほうへ視線を投げた。
その横顔はハリーよりもよほど大人びていた。しかし、それがハリーにはよいことのようには思えなかった。ドラコを成長させたことがダフネの受けた呪いなのだとしたら、ドラコはきっとそれを誇りはしないだろう。
ぽつりと、ドラコがこぼした。
「ウィーズリーとグレンジャーの反応を当ててやろうか。ウィーズリーはひたすら君を励まして問題を矮小化し、グレンジャーはとにかく本を読んで問題が解決できると思い込もうとした」
「……正解だよ。でも、ふたりは僕を慰めようとしてくれたのはわかってるんだ」
「そうだろうな。……君は、あのふたりを大事にしたほうがいい。いざという時、一緒に杖を構えてくれる友達というものは得ようと思って得られるものじゃない」
意外な言葉だった。
血を裏切りし者と穢れた血。ドラコがふたりをそう呼んで嫌っているのはよく知っている。あわよくば、ハリーをふたりから引き離してポッター家当主として相応しい道を歩かせようとしていることも。
「君とダフネだってそうだったはずだよ」
「違う。……違うんだ。確かに、僕はあいつのことを友達だと思っているし、あいつもそうなんだろう。だが、本当にあいつの役に立てるのは、僕ではなく父上だ。もう、僕が役に立てる次元の話ではなくなってしまった」
その言葉は、ハリーにもひどく刺さった。
役に立てる次元の話ではない。それはそうだ。ダフネは日刊予言者新聞にも名が載る福祉財団を切り盛りして魔法省と政策についてのやり取りをしている。彼女は大人の世界で戦っていて、ハリーやドラコのような子どもはもう役に立てはしないのだ。
その実感を得た時、ハリーは寒さに震えた。心の底に宿っていた温もりがいつの間にかなくなっていたような、そんな心もとない気持ちになった。
「このままでいいと思うか?」
ドラコの問いかけに、ハリーは思わず立ち上がった。
そうだ、このままでは駄目だ。
ダフネが遠い存在になったからと寂しがっているような気弱な態度だから、ダフネの助けになれなかったのだ。本当にダフネを助けたいのなら、ダフネのそばにいたいのなら、ハリーは立ち上がらなければならない。
そのためのカードはもう配られている。ダフネが用意してくれた、スペードのエース。
「ドラコ。僕の……ポッター家の名前を使って目指せそうなところにはなにがあるの?」
ドラコはゆっくりと立ち上がり、しばらく品定めするようにハリーを見つめてから、手を差し出した。絹の手袋は握りしめすぎて皺が寄り、木屑がついていたが、それでも清らかだった。
「君の場合、まずは魔法界について知るところからだ。それから、そうだな……君に必要なのは、味方を作る技術だ。僕が教えられるのはせいぜいそれくらいだ」
「僕はかわりに何をあげればいい?」
「何かあった時、僕のために杖を振るってくれるか?」
ハリーはドラコの手を握り返した。家事仕事をしたこともなさそうな、箒たこだけがある薄い手。その手が、ハリーの手を強く握った。
曖昧な関係だったふたりは、今日こうして真の意味で友達となった。
「最初に味方にすべき人が、ホグワーツにいる。敵と戦いながら生き延び、政界を渡り抜くことにかけては父上と並ぶ専門家だ」
「誰、ダンブルドアのこと?」
「いいや、違う」
ドラコが指さしたのは、闇の魔術に対する防衛術の尖塔。
「ミリセント・バグノールド前魔法大臣。闇の帝王と敵対しながら自分の足で大臣室を去った女帝を、君の家庭教師にしよう」