ニューイヤー・パーティーで発覚した、腐ったハーポの脱獄と暗躍。
その事実、そしてかの旧き暗黒に立ち向かった少女たちの存在は、魔法界の情勢を早々に一変させつつあった。それは英国魔法界に限った話ではない。国際魔法界全体の風向きが、確かに変わろうとしていた。
中でも、ハーポが操る細菌魔法の研究は日進月歩の速度で進みつつあった。そして、その最先端を突き進むのがロンドンの聖マンゴ魔法疾患傷害病院である。
なぜ、聖マンゴが最先端にいるのか。
「……まったく、なんてザマだ」
青い入院着の空っぽな袖が、頼りなく揺れた。
みっともなく折れ返って裏地の見えた袖先を正すための指は失われ、ガウェイン・ロバーズは本来闇祓いには許されない「ベッドでくつろぐ時間」を与えられていた。
腐ったハーポの呪いは強力だった。ダフネの櫛にかけられた呪いを受けたガウェインは、櫛を持った片腕を侵食された。担当の癒者によればこれでも奇跡的な回復で、腕の切除があと1分遅ければ死んでいたかもしれないらしい。
驚異的な回復力だと癒者は絶賛していた。ハーポが古代の闇の魔術師なら、ガウェインが古代に生まれていれば英雄的魔法戦士になっただろう、と。
その絶賛がお世辞であろうとなかろうと、ガウェインが片腕を失ったのは事実だ。
致命的だったのは、ハーポを仕留めるために杖を持ち替えて利き手で櫛を拾ったことだった。これでガウェインは杖腕を失ったということになる。鼻の利かなくなった猟犬のようなものだ。
几帳面で堅苦しいノックが響き、それにもかかわらず客人は返事を待たずに病室の扉を開いた。
「――入るぞ」
厳しい四角張った顎が、どこか重苦しい空気を纏ってガウェインを見下ろした。
ドーリッシュは見舞客らしからぬ臨戦用の革のローブを纏っていて、その埃臭さから察するにどこかの現場から帰ってきたばかりだというのは容易に察せられた。
今、英国魔法省魔法法執行部闇祓い局はこの世界で一番忙しい部署だ。国際社会で腐ったハーポ討滅の陣頭指揮を取っているのは他でもない、ルーファス・スクリムジョール局長その人なのだから。
「よう、局長はまだ生きてるだろうな?」
「俺がお側にいる限りは死なせん。……具合はどうだ」
「どうもこうもねえよ、暇だ。菌に食われた腕はもう切り取ったっていうのに、癒者の連中は検査が必要だの、経過観察が必要だのとうるさくてうるさくて」
「……そうか」
一瞬、ドーリッシュは視線をガウェインの失われた腕に這わせた。しかし、彼は慰めるでもなく、笑うでもなく、ただ黙ってガウェインを見下ろしていた。
「ただ見舞いに来たってんじゃないんだろ? 何の用だ」
「……局長から、伝言を預かっている。お前の……腕についてだ」
ガウェインは続きを促すように頷いたが、ドーリッシュはしばらく口を開かなかった。
雨が窓を打っている。1月のロンドンに降る雨はひどく冷たく、頑なに傘を持ちたがらないロンドン市民ですら傘を差す。そのためか、ガウェインが呪文学の授業で雨傘の呪文を仕込まれたのは2年生の12月のことだった。
当時から、ドーリッシュは秀才で通っていた。授業の最中、雨傘の呪文で中庭に降り注ぐ大粒の雨を防いでみせたのはドーリッシュが最初だった。しかし、この呪文に少し手を加えれば夏の日差しを春の木漏れ日に変えられると気づいたのはガウェインが最初だった。
そして、そのふたりは同期で闇祓いになった。
「何を……考えている?」
「大したことじゃない。しばらくは傘の呪文にも苦労しそうだと思っただけだ。それで?」
「……お前の奮戦と貢献に、ウィゼンガモットから勲章が授与されることになった。事態が解決していない以上マーリン勲章というわけにはいかなかったが、杖十字勲章が与えられる」
「そりゃありがたいね」
杖十字勲章はかつてホグワーツにあった杖十字会という決闘クラブの偉大な卒業生たち、そして彼らの魔法戦士としての功績を讃えて生み出された勲章だ。偉大な魔法戦士に授与されるこの勲章は名誉だけでなく、少額ながらも年金が付随している。
もちろん、闇祓いとしての給金と比べれば微々たるものでしかない。しかし、杖腕を失った闇祓いに与えられる温情の中では最大限のものと言っていい。
それにもかかわらず、この勲章はほとんどの場合歓迎されていない。
なぜならば、杖十字勲章が魔法戦士に授与される時とは、つまりその魔法戦士が勇気と奮戦によって貢献した時のことだ。大抵の場合それは死か、生きていても二度と戦士として戦えない程度の傷や呪いを負ったことを意味する。
「要するに、俺はお払い箱か」
闇祓いガウェイン・ロバーズは、ハーポの呪いによって杖腕を失った。
なぜ聖マンゴが細菌魔術研究の最先端にいるのか。それは、
これは偉業だった。功績と言っていい。もしガウェインが呪いで死んでいれば、ハーポの細菌魔法は目的を果たして消え去っていたかもしれない。細菌に蝕まれて、なお生きている強靭な生命力が必要だ。ガウェインでなければこれを果たすことはできなかった。
だから、スクリムジョールがガウェインに謝ることはできない。彼の指揮下でガウェインが腕を失ったとしても、それ自体が功績である以上、彼にはガウェインを讃えることしかできないのだ。それが、闇祓い局の局長という地位の重さだ。
「……お前が望むのなら、内勤の仕事を用意することもできると局長は仰っていた。信頼できる人員に後方を任せられるのは喜ばしいことだと」
「おいおい、俺が事務仕事からきしなのは知ってるだろ」
ドーリッシュは答えず、もう一度ガウェインを見下ろした。
失望。落胆。その瞳の色はひどく暗かった。ガウェインはあの優等生ジョン・ドーリッシュがこのような顔をしたところを見たことがなかった。
しばらくして、ドーリッシュはゆっくりと口を開いた。
「昔、お前が大イカを花火でおちょくった時のことを覚えているか。驚いた大イカが近くで読書していただけの俺を掴んで、脚を引きちぎろうとした」
「なんだ、人がベッドに拘束されてるのをいいことに恨み話か? あの時は悪かったよ」
「そうじゃない。……あの時、お前は器用にクッション呪文と潤滑呪文を使って俺を助け出した。俺は杖を持っていたのに、何もできず捕まっているだけだった。だから、お前みたいな器用でなんでも上手くこなすやつが……羨ましかった」
「そりゃ……初耳だな」
「誰にも言わなかったからな」
ドーリッシュはもう一度ガウェインのなくなった杖腕に視線を注いだ。
奇妙な表情だった。喪失感とも違う、敗北感のようなものがドーリッシュを満たしているように見えた。その瞳は静かだったが、傷を負った当人であるガウェイン以上に力を失っているようだった。
「勝ち逃げされた気分だ。腹立たしい」
「あー……まあ、そうかもな。お前がいたらもっと上手くやっただろうよ」
「違う。俺があの場に先遣隊として送り込まれていたら、もっとひどいことになっていただろう。俺は局長の命令を完璧にこなす。その自信はある。だが、俺にはそれしかできん。その予測があるから、俺は俺自身に腹を立てている」
普段から何かにつけて競り合ってくるドーリッシュらしからぬ発言に、ガウェインは小さく眉を上げた。これはまったく彼らしからぬ発言だった。
ジョン・ドーリッシュという男は、とにかく四角四面の規律に生きていた。
法令こそが彼の倫理であり、上官の命令こそが彼の道徳だった。そして、その形式張った秩序の中で自らの有能さを示し続けるのが彼の生きがいだと、ガウェインはそのように見立てていた。少なくとも、闇祓い局での仕事については彼はガウェインの見立て通りに働いていた。
決して悪い男ではないし、同期として最低限気にかける程度のことはしてきたが、それ以上のやり取りをしようとはガウェインには思えなかった。元々出世レースに関心のないガウェインにとってドーリッシュの視線は鬱陶しくすらあった。
そのドーリッシュが、こうしてガウェインを気遣っている。
奇妙なこの状況に、ガウェインはこみ上げる笑いを抑えきれなかった。ベッドの上でくつくつと喉を鳴らす。まだ声を上げて笑えるほど傷は癒えていないが、ガウェインが笑っているということはドーリッシュにも伝わったようだった。
「何を笑っている」
「いや……お前、俺がリタイアすると思ってるだろ」
確かに杖腕を失うというのは闇祓いにとって引退に値する失敗だろう。
少しだけ、そのことを考えたというのも事実だ。もはやガウェインは闇祓い局期待の若手というわけではない。それならばいっそ、身の丈に合った仕事をするのも悪くはない選択なのかもしれない。
しかし、ガウェインは頼りなく揺れる袖を旗のように振りながらにやりと笑ってみせた。ドーリッシュはぎょっとしたようにガウェインの、
「俺達の教官はマッド・アイ・ムーディだろうが。あのばけもんに何個無事な部位があったか思い返してみろよ」
その言葉に、ドーリッシュは困ったように顔をしかめた。
確かに、杖腕を失ったというのは大きなハンデだ。魔法族の大半にとって杖を振るう技術とは経験の反復であり、それが蓄積された腕とはひとつの資産だと言っていい。あのムーディですら、杖腕だけは死守してきた。
闇祓いであるガウェインにとって杖腕とは仕事道具であり、相棒でもある。それを失ったガウェインは必然的に出世街道からは外れるだろう。出世にこだわるドーリッシュから見れば、死んだも同然なのかもしれない。
「うちのやんちゃなお嬢様はな、確かに出世しろと言っていた。俺に闇祓い局局長になれってな。まあ、この腕じゃ無理だろう。義手にするにせよ、右手で練習するにせよ、今からじゃお前に追いつけないのは確かだ」
「ッ、それは」
「ところが、こいつを見ろ」
ガウェインは右手でベッドのサイドボードから分厚い本を持ち上げた。華々しいカラー印刷と動く写真の数々で飾られたそれは、最新鋭の魔法道具を扱うカタログだった。
「今回、俺はなんの役にも立ってない。ヘマをやって片手をなくしただけだ。まったく、馬鹿だったよ。だが、あの子は俺に報いてくれた。魔法の義手だろうが補助具だろうが、何でもここから買えとのお達しだ。ドイツの魔法技師のオーダーメイドだぜ?」
「……今、ドイツの魔法技師は予約待ちがすごいことになっているそうだが」
「なんだ、お前も調べたのか? なんでも、あのパーティーにドイツ魔法界の大使が来てたらしくてな。あの子の奮戦にいたく感激して、工房に口利きしてくれるらしい。VIP待遇ってやつだ」
ドーリッシュは目を瞬かせた。まるで肩透かしに遭ったような顔だった。
その滑稽な顔にガウェインはもう一度笑って、片手で持つには少々重いカタログをサイドボードにそっと戻した。このカタログはガウェインのトロフィーだ。注文が終わった後も自宅に保管しておくつもりだから、他の本のように放り投げるわけにはいかない。
杖腕を失った。確かにそれは大きなハンデだ。決闘巧者で鳴らした、かつてのガウェイン・ロバーズはどれだけ頑張っても帰ってこない。
諦めてなどいない。腕の一本がなんだというのだ。ダフネが前に進み続けるのなら、その道を切り開くのがガウェインの仕事だ。たとえ政治ではダフネの役に立たずとも、杖を咥えてでも戦い続けなければならない。
「そういうわけだ。お前としちゃ競争相手がいなくなって肩透かしかもしれないが、あんま油断してると俺が足を掬っちまうかもな。マッド・アイだって片目が義眼になってから検挙件数を75%も増やしたって話だろ?」
「……そうか。それならいい。話はそれだけだ」
ぎこちなく頷いたドーリッシュは、そのまま振り返ってドアに手をかけた。
「なんだ、もう帰るのか?」
「局長にお前の選択をお伝えしなければならん。……明日にはリハビリが始まるだろう。1日の怠惰は1週間の錆と昔から言うからな、覚悟しておけ」
「そりゃ随分な励ましだことで。局長によろしく頼むよ」
返事をすることもなく、ドーリッシュは去っていった。
後から入ってきた看護魔女がドーリッシュの落とした土埃に癇癪を起こしながらモップをかける騒がしさに寝返りをして、ガウェインは小さくあくびをした。どうやらこの怠惰も今日で終わりらしい。
「……そうと決まれば、とびきりいい杖腕を作らないとな」
ガウェインは右腕を伸ばして、サイドボードからカタログを引き寄せた。何度も読みすぎてすでにくたびれつつあるそれには、いくつかの目星を示す付箋が貼ってある。そのページを開き、ガウェインは無数に書かれた追加機能のオプションに心を踊らせた。
義手を手に入れ、再びダフネの役に立つ。
今度は無様な敗北などしない。ダフネの隣に立つ第一の魔法戦士として、膝を屈することはガウェインには許されない。
持病の病状が不安定なため、しばらくは本当に不定期更新です。
最低でも月1回の更新を目標に執筆も治療も頑張ります。応援してくれると嬉しいです。
本作で実在の政治思想や史実の政治的事件について扱うことをどう思いますか?(詳細や具体例は活動報告に掲載します)
-
積極的賛成(それを読みたい)
-
消極的賛成(必要であれば扱ってよい)
-
消極的反対(可能であれば避けるべき)
-
積極的反対(それを読みたくない)