ギリシャ魔法界の旧き闇、腐食大公とも渾名された伝説――腐ったハーポ。その生存と脱獄の事実が英国魔法界で発覚したことで、英国魔法省はギリシャと連携して追跡及び討滅の旗手となっていた。
人員配置、補給計画、捜査網。それらの管轄については闇祓い局に特別編成された捜査室に任され、そこにギリシャ魔法省との調整役として国際魔法協力部の出張人員が置かれた。淀みない連携を日刊予言者新聞は持て囃し、「戦後最高の陣営」と讃える声が上がった。
魔法省が割く人員自体は多くない。闇祓いのジョン・ドーリッシュを監督とし、その下に有志の魔法戦士を配属する形となった。後々ここに各国の魔法戦士隊が加わる形になるだろう。
全隊指揮を執るルーファス・スクリムジョールに代わって闇祓い局副長パイアス・シックネスが後方を取り仕切り、国際魔法協力部部長バーテミウス・クラウチが国家間の調整を監督する。ギリシャ魔法界と親しいルシウス・マルフォイがそこに助言を与える。
よく完成された、隙のない陣営。
その紙面を静かに握り潰し、暖炉に焚べた魔女がいた。ピンクのカーディガンに散った火の粉は何も起こさず消えたが、彼女はその跡を太く短い指で神経質に払った。
「……ええ、認めましょう。大した政治家だわ、ダフネ・グリーングラスは」
補佐官や委員といった手下たちに調整業務を全て丸投げして、アンブリッジは今日一日ダフネのことだけを考えていた。
優秀な取引相手であるリータ・スキーターに集めさせた情報によって、今の情勢は違った見え方をしてくる。ダフネはとても上手に立ち回ったが、だからといって一切の足跡を残さなかったわけではなかった。
ダフネの旅路は極めて綿密に計画されていた。
「ディペット、グリンゴット、ロバーズ、ブラック、マルフォイ、シックネス、クラウチ、ザビニ……誰も取りたがらない駒から取っていき、誰も座りたがらない席につく。そのままなら、飼い殺してあげてもよかったのだけれど」
いつの間にか、英国魔法界にはグリーングラス閥と呼んで然るべき一大勢力が発生していた。
アンブリッジは無能ではない。職責に相応しいだけの視野は有している。しかし、それは一事務方の官僚としての視野だった。華やかなパーティーやノグテイル狩り、クィディッチ観戦のような社交界にまでは、アンブリッジの影響力は及んでいなかった。
あるいは、ダフネもそれを察していたのかもしれない。彼女は一貫して魔法省の外郭から攻めることを選んでいた。官僚と縁を作ったりファッジに媚びへつらうよりも、その周縁部にいる人々と繋がるように動き続けた。
まるで、誰かを避けているように。
「面白いわね」
紅茶をぐいと呷って、アンブリッジはテーブルの上に置かれたダフネ・グリーングラスの調査報告書、その表紙に貼られたダフネの写真を睨んだ。
端正な顔立ち。少女らしい甘さの中に覚悟と決意を思わせる凛々しい熱がある。アンブリッジが一番嫌いなタイプの女だ。能力があり、人望があり、魅力がある。この手の魔女は真っ先に潰すに限る。それなのに、アンブリッジは彼女を見落としていた。
なぜ見落としていたのか。ダフネは最近まで、取るに足らない弱者だった。多くの賢者たちに救いを求めてか細い息を喘がせる愚かな小娘でしかなかったのだ。
今や、ファッジですらダフネに個人的な好感を抱いている。厄介だ。ファッジの政策判断に関しては甘言を弄すれば容易く歪めることができる。しかし、彼個人の好悪を歪めるには、それこそ呪いを使うでもしなければ不可能だ。
「ダフネ・グリーングラス……いつから? いつからあなたは、私の敵だったの?」
カップを置くと、ソーサーに描かれた子猫がダフネの写真にちょっかいをかけようと前足を伸ばした。ダフネはそれを笑いながら躱した。アンブリッジにはない、優雅な身振りだった。
気に食わなくとも、優秀であれば手駒に置いてもいいと思っていた。嘘ではない。アンブリッジは使える手駒には寛容な主だ。
しかし、それは優秀さを発揮してからの話だった。だから、アンブリッジはグリーングラス姉妹を救わなかった。
かつてアンブリッジは孤児の保護事業を進めるデメテルから相談を受けていた。グリーングラス姉妹を保護下に置けないか、と。
アンブリッジはそれを止めた。大した理由ではない。グリーングラス家に眠ると噂される闇の魔術の研究、それが暗い過去を持つデメテルと結びつくのを恐れただけだ。単なる取引相手であるデメテルが必要以上に視線を集めるのは都合が悪かった。
その結果、グリーングラス姉妹は庇護者を失い、自ら藻掻くこととなった。ディペット前校長が応えなければ、姉妹はいずれ死んでいただろう。アンブリッジはそれを理解していて、救わなかった。
もし、この決定をどこかでダフネが知っていたのだとすれば。
この陣営の全てが、アンブリッジを追い詰めるための策なのではないか。これは復讐なのではないか。その危機感と焦燥感が、アンブリッジをじりじりと焼きつつあった。
なぜ、そう思うのか。
「魔法法執行部、国際魔法協力部、そしてマルフォイ家。ええ、いい構図だわ。どんな問題でも解決できることでしょう。……そう、どんな問題でも解決できる。大臣、そして大臣室の出る幕はないというわけね」
ダフネの組み上げた陣営は完成している。ウィゼンガモットをもってしても文句の付け所がなかった。アンブリッジは少なくない評議員を動員したが、協力者は揃ってこの盤面を覆せないと首を振った。
まるで、最初から大臣室の影響力を削ぐことを考えていたような流れだ。
そもそも、なぜ今の大臣室はここまでの影響力を有しているのか。それは例のあの人が猛威を振るった英国魔法戦争に由来している。万が一にも魔法大臣や各部の部長が服従の呪文の支配下に置かれた際に、大臣室が監視機関として機能することを想定されていたのだ。
加えて、各部の管轄にない業務、たとえば財務や教育、各部の調整などはしばしば大臣室が巻き取る形を取っていた。その結果として、大臣室には莫大な権力が集中することとなった。
だからこそ、アンブリッジは出世を目指すにあたって大臣室のルートを選んだのだ。
汚い手を躊躇わず使った。贈賄、脅迫、奪える手柄は全て奪い、押し付けられる失態は全て押し付けた。そうしてここまで上り詰めたのだ。並大抵の苦労ではなかった。
ようやく手に入れたその地位を、価値のないものにしようとしている小娘がいる。
ダフネは腐ったハーポ討滅の陣営を見事に描いた。描ききった。大臣室の干渉を拒み、ウィゼンガモットの介入を排除した。ファッジはそれでよいと言っている。美しい絆ではないか、と。
馬鹿げている。
「……いいでしょう。受けて立ちます」
アンブリッジの豪奢な指輪で飾られた指が、ダフネについての調査報告書を開いた。
汚い手の使い方は熟知している。この魔法界でアンブリッジの右に出る者はいないだろう。だから、ダフネの弱点も見通すことができる。
弱者が弱者でいるうちは、影響力を発揮するためには汚い手を使わざるをえない。アンブリッジの敵対者は常に清廉潔白だったわけではないのだ。アンブリッジは足の引っ張りあいで勝ち続けてきた。どうやれば政敵を蹴落とせるかなど、今更人に聞くまでもない。
しばらく報告書を読みふけってから、アンブリッジはおもむろに屋敷しもべ妖精を呼ぶ鈴を鳴らした。
「お呼びでございましょうか!」
「魔法生物規制管理部のエイモス・ディゴリーをここに」
「承知いたしましてございます!」
しもべはすぐさま姿を消し、10秒とかからずにエイモスを連れて姿を現した。禿げ上がった頭に汗をかいたエイモスはアンブリッジを前にぎょっとしたような顔をしたが、アンブリッジは構わず彼に告げた。
「レポートの進捗は?」
「は、はあ、レポートですか」
「血の呪いについてのレポート、任せていたわよね?」
「あー、あの、はい、進めております。ニュート・スキャマンダー先生のお知恵をお借りして随分進みまして、それからインド魔法省の友人が――」
エイモスは喋り続けようとしていたが、アンブリッジの冷たい視線に再びぎょっとした。
血の呪い。それはダフネ・グリーングラス最大の弱点だ。いつの時代も疾患を抱える政治家はその疾患を攻撃される。たとえ政治能力が劣っていなくとも、大衆が不安を抱けばそれだけで政治家としては不適格ということになる。
しかし、攻撃には根拠が必要だ。市民は愚かで、単なる妄想に由来する扇動でも気づかず流される。多くの凡俗はそれで満足するが、アンブリッジは中長期的にも勝利を収めたい。妥当な攻撃であったと周囲を頷かせる材料が必要だ。
そして、その材料はまさにこの無能なエイモス・ディゴリーという魔法使いが用意する。そのはずだった。
「それで?」
「ええ、まあ、その、まだお見せできるほどのものには仕上がっていないと申しますか」
「今まとまっている範囲でいいわ。待たされるのはあまり好きではないの、わかるでしょう? 意外かもしれないけれど、私、少しだけ忙しい身なの。来年度の予算編成も監督しなくちゃいけないものだから、ね?」
その言葉が纏った明確な刃は、はっきりとエイモスを怯えさせた。
アンブリッジは気分ひとつで魔法生物規制管理部の予算を削ることができる。彼らが使う薄汚い台や壊れかけの椅子を買い替える予算など、当然つかない。閑職の首を絞めるのは、紅茶に砂糖を溶かすように容易い。
「さ、報告してくださるでしょう?」
「は! 血の呪いは古代ギリシャに端を発する古い呪いであり――」
「私は授業をしてほしいわけじゃないのよ、エイモス。結局のところ、血の呪いはどのように危険で、どうすれば管理できるのかしら」
エイモスは目を泳がせたが、この部屋に彼を助けるものは何一つなかった。
一瞬の沈黙を経て、アンブリッジは柔らかく微笑んだ。己の笑みが官僚たちにとってどのような意味を有しているかなど、とっくに自覚している。
「エイモス、息子さんは今年の秋からホグワーツの7年生だったわね。誇れる父親でいるべきだ、そうは思わない?」
震える手でずり落ちた眼鏡を戻したエイモスは、ゆっくりと口を開いた。
「ち、血の呪いは……症状の進行とともに人間の理性を失い、獣に堕ちていくことがその特徴として挙げられます。つまり、罹患者は症状が進行すれば獣になります」
「凶暴な獣、そうでしょう?」
「は、はい、そのとおりです。単なる獣ではなく、魔法生物的な特質のある獣になることがいくつかの事例から判明しております。一部の事例では、完全に獣化した罹患者を集落で飼い、魔法薬の材料として交易に使っていたという事実も確認されております」
アンブリッジの中で、ひとつのプランが組み上がった。いいだろう、ダフネがそこまで英国魔法界に奉仕したいのなら、全身をもって奉仕してもらおうではないか。
敵対者には容赦しない。その姿勢がアンブリッジにこの地位を与えてくれた。今度はダフネの番。それだけのことだ。
しかし、そのためにはまだ材料が足りない。アンブリッジは勝ちきらねばならないのだ。ダフネ・グリーングラスを屠畜場に送り込み、大臣室の権威を拡大し、その頂点として君臨し続けるためには、今の材料だけでは心もとない。
「管理する方法はもちろんあるのでしょう?」
「は……しかし、それは、血の呪いの罹患者は市民でもあるわけですから、管理というのは――」
「エイモス」
微笑みを向けると、エイモスは全身を強張らせた。
どうやら事の重大性をまだ理解していないらしい。これだから凡俗の相手は疲れるのだ。しかし、そこで手を抜くわけにはいかない。アンブリッジの盤石な体制は、こういった凡俗な奴隷の上に成り立っているのだから。
「私、魔法生物規制管理部にはより重要な仕事を任せるべきだと思っているの。でも、今までの部長たちはそれに相応しい人物ではなかった。あなたはどうかしらね?」
「そ、それは、つまり」
エイモスは目を見開いた。
今年56歳のエイモスにとって、リタイアはそう遠いことではない。その瞬間が訪れた時、どのような地位にあるかによって彼の年金と老後は決定する。それはつまり、妻や息子の生活が左右されるということだ。
エイモス・ディゴリー。平凡な一職員として長く魔法省に奉仕し、しかし魔法省に愛されなかった男。彼にとって次期部長という響きはあまりにも眩いことだろう。
彼の理性と善性、本来であればまさにそれこそが妻や息子に愛されていたであろう力は、容易く崩れ落ちる。これが政治、これが謀略だ。
そして、エイモスは屈した。
「……ふ、フランス農村部で用いられていたマレディクタスを飼うための魔法があるはずです。ある証言では、1920年代に蛇のマレディクタスがサーカスに飼われていて、おそらくその魔法を使っていたと」
「結構。あとはわかるわね?」
「調べます、最優先で!」
恐怖と興奮でエイモスの顔色は恐ろしいことになっていたが、アンブリッジはそれを気にはかけなかった。もし駄目なら他の職員を使うまでだ。
しもべにエイモスを送り返させて、アンブリッジは今度こそゆっくりと紅茶を楽しんだ。真っ向からアンブリッジに勝負を挑んできた魔術師は久しぶりかもしれない。あの可愛らしい顔が敗北の絶望と屈辱に染まるのが楽しみだ。
そうと決まれば怠惰ではいられない。ダフネに決定的な敗北を与えるための材料を集めなくては。
Twitterが凍結されたので更新をお知らせするツールを失いました。
しばらく休んで唐突に更新されることが続くと思うので、気が向いた時に読みに来てくださると嬉しいです。
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