魔法族は基本的に自らの手で茶を淹れることがない。
屋敷しもべ妖精を従えるような家格であれば当然しもべに淹れさせるのが道理であるし、そうでなくともホグワーツをまともに出ていればティーポットを躾けるくらいのことは容易い。
だからこそ、特別な客のために魔法を使わず自らの手で完璧な一杯を注ぐことは、日本で言う茶道にも似たもてなしの形と言えた。杖の一振りで解決できることに労を割く、それはある種の誠意だった。
そして、在英ドイツ魔法大使エヴァルト・フォーゲルはその誠意を無下にしない男だった。
「ため息の出るような香りですな。やはり紅茶はイギリスに限ります」
「あら、お国にもロンネフェルトがあるでしょう?」
「確かにロンネフェルトの茶葉はドイツの誇りですが、イギリスの伝統と格式には及びません。なにより、我が国には紅茶を楽しむことに真剣になれる魔法使いが少なすぎる」
カップとソーサーを持ち上げて口元に運んだエヴァルトは、ダフネが用意したキーマンのオレンジペコーがもたらす豊かで爽やかな香りをじっくりと楽しんだ。少なくとも、ダフネには彼が本心からリラックスして紅茶を楽しんでいるように見えた。
整えられた口髭。潔癖なまでに撫でつけられたブロンド。カップを持つ手の甲には火傷のような跡があるが、その傷も彼の堂々とした態度においては勲章と言えた。
「こうして機会をいただけたことを大変嬉しく思います、ミス・グリーングラス」
「お礼を差し上げるのは私の方ですわ、フォーゲル大使。魔法技師の工房に便宜を図っていただいたおかげで、私は友人に報いることができました」
そう、他でもないこのエヴァルトこそが、ガウェインの失われた腕を取り戻すためのキーパーソンとして働いてくれた魔法使いだった。
借りを作ったダフネに対し、ドイツ魔法大使館からシンプルな要望が届いた。その要望とは、大使とダフネの非公式な会談だった。クラウチを通して了承の返事を送ったダフネは、久しぶりにグリーングラス邸の応接室の暖炉に火を入れた。
「いや、見事です。ありがたい一杯をいただきました」
「喜んでいただいてなによりですわ、大使」
「どうぞエヴァルトと。今やあなたと会って話をしたいと望む大使は私だけではないでしょうから」
その言葉は、エヴァルトの望みをよく表していた。
国際魔法社会で強い存在感を発揮するイギリスを相手に、ニューイヤー・パーティーのゲストとして外交官を送らないという選択を取る国はあまり多くはない。中でもドイツ魔法界はイギリス魔法界の一挙手一投足に注目し続けてきた。
より正確には、ドイツ魔法界はここ40年ほどダンブルドアのご機嫌伺いに人材と予算を投じ続けてきた。彼らはダンブルドアの関心を惹くためなら、誕生日にグーテンベルク写本を贈ることすら躊躇わなかった。
それはなぜか。
「あら、ヘル・フォーゲルと呼ばれるのはお嫌いかしら?」
「そうですな、仕事柄そう呼ばれることはもちろん多いですが、あまり好きではないというのが正直なところです」
「失礼ながら、それはお父上のことがあるから?」
「……なるほど、直截な方だ」
カップを静かに傾けながら、エヴァルト・フォーゲルはかすかに目を細めた。
フォーゲル。その名はドイツ魔法界にとって特別な意味を持つ。それは家格や伝統からくるものではない。フォーゲル家は純血の血筋だが、それがドイツの誇りというわけでもない。
「アントン・フォーゲル。1940年当時のドイツ魔法大臣であり、国際魔法使い連盟上級魔法使い。そして……指名手配中だったグリンデルバルドに赦免を与え、議長選への出馬を認め、グリンデルバルドに与して反発する市民を弾圧した魔法使い」
エヴァルトは応えなかった。ただ、彼はもう紅茶を楽しんではいなかった。
集住の伝統を持たない魔法族にとって、外交や国際協力は非日常の世界だ。必然的にどの国でも外務部門は出世の王道からは外れる。息子の逮捕という醜聞の後に国際魔法協力部長を任されたクラウチのように、ほとぼりを冷ます場として使われることも珍しくない。
しかし、グリンデルバルドの魔法大戦から50年が経った今、アントン・フォーゲルの息子が壮年となってなお外交官の枠に縛り付けられているのは、ほとぼりを冷ますと言うには少し長過ぎる。
「お父上の名は、ドイツ魔法省にお勤めになるにあたってやはり重いとお考えかしら」
「あなたがお抱えの病と似たようなものです。取り消すことはできないが、それは戦わない理由にならない」
「好みの考え方ですわね。……ええ、とても好み」
理知的な青い瞳が本意を探るように揺れた。その揺らぎは本当にかすかで、しかもそれはおそらく
「不躾なことを聞いてしまいましたわね。お許しいただけるかしら」
「この名を背負っている以上、疑いの目を向けられるのは当たり前のことです。もし私が父の考えを継いでいるのであれば、間違いなく外交官には不適格ですからな」
アントン・フォーゲルという魔法使いは、単にグリンデルバルドの配下となったのではない。
当時、グリンデルバルドのカリスマは確かに魔法界全体を揺らがしていた。彼の暴力性ではなく、思想やカリスマに賛同する魔法族は決して少なくはなかった。つまり、民意の一部はグリンデルバルドを支持していたということだ。
ドイツ魔法大臣アントン・フォーゲルは悩んだ。市民はグリンデルバルドを支持している。彼を否定することは、果たしてドイツ魔法界の、より正確には自身の益となるのか。
さらに問題だったのは、当時唯一グリンデルバルドを倒せると目されていた魔法使いが頑なに自らの城を離れなかったということだ。アントン・フォーゲルは彼と旧知の仲だったが、彼がグリンデルバルドに対抗しないことに失望した。
倒せない。それならば、庇護下に入ってしまえばいい。
知恵の回る政治家だったアントン・フォーゲルは、国際魔法使い連盟上級魔法使いの権限を最大限に活用し、グリンデルバルドを赦免したうえで議長選への出馬を認めた。
議長選への出馬を認める。これはどういうことか。
アントン・フォーゲルは周囲にこう説明した。グリンデルバルド支持者による緊張は限界を迎えつつある。公平な選挙で市民が彼を否定したという事実が必要なのだ、と。
しかし、選挙は公平なものではなかった。細工されていることをアントン・フォーゲルは知っていた。グリンデルバルドが勝利するよう仕組まれていたのだ。
目的は責任のすり替えだった。ドイツ魔法大臣がグリンデルバルドの支配を認めたのではなく、市民がグリンデルバルドの支配を認めたのだと、そう主張するためにアントン・フォーゲルはグリンデルバルドの前に膝を屈した。
「民意を利用したうえ、民意に罪をなすりつけるなど、父は政治家の風上にも置けない魔法使いでした。私は違う。市民とともにあり、市民とともに杖を掲げる。それが私のあり方です」
エヴァルトは静かにカップとソーサーを机の上に戻した。
覚悟を感じさせる瞳が、じっとダフネを見つめている。ダフネはまだ、彼の望みを読み切れていなかった。この非公式な会談にあたって、彼から事前に送られてきた要望はたったひとつ。温かい紅茶を飲みたい。それだけだった。
エヴァルトは熟達した外交官だ。しかも、彼は必ずしもダフネの味方ではない。外交官は他国において自国の利益を最大化し、自国の損害を最小化する役割を果たす。ドイツ魔法界の国益とダフネ個人の利益が必ずしも一致するとは限らない。
しかし、ダフネはエヴァルトという個人には関心を向けていた。
「きっと共感いただけることでしょう。あのニューイヤー・パーティーでの戦いには心を打たれました。あなたは子女の鑑だ」
「子女の鑑とするには、少々やんちゃすぎる自覚がありますわ」
「そうかもしれません。しかし、今やイギリス魔法界において多くの若者はあなたを手本としている。あなたは時代を作られた。その自覚も、きっと持たれたほうがよろしいでしょう」
その言葉には、熱が滲んでいた。
確かに、ダフネの奮闘とそれを報じた新聞の影響は決して軽いものではなかった。しかし、エヴァルトの言葉ほどには、ダフネは現状を楽観視してはいなかった。
「市民の関心は移ろいゆくものですわ。その中で何を信じるかは、彼らが決めることです。かつてグリンデルバルドの出馬した議長選での不正が暴かれた際も、それでも人々が彼を支持したように。そして、いよいよという段になってその人々の多くが彼から離れたように」
議長選の不正は暴かれた。
選挙のために連れてこられた、最も善き指導者の魂を見抜く神聖な魔法動物である麒麟。それが魔法によって操られた死骸であったという事実は、魔法中継を通して世界中に報じられた。
しかし、それでも少なくない人々がグリンデルバルドを信じた。彼らは国際魔法使い連盟、とりわけ議長に選ばれたヴィセンシア・サントスを攻撃した。報じられた映像は捏造されたもので、グリンデルバルドを中傷する目的のものだったという陰謀論が声高に叫ばれた。
それにもかかわらず、グリンデルバルドがヌルメンガードに封じられた後、彼を支持していた市民は散り散りになった。当たり前のような顔をしてダンブルドアに鞍替えする者、姿を消して新たな主を探す者、過去を塗り替えて地位を得続ける者。
ダフネの立場も同じだ。失脚すれば、明日にも市民はダフネのことを忘れる。
「今日私が得ている支持は、ひとつの失態で消し飛ぶような脆く儚いものですわ。なるほど、時代という見方もあるのでしょうね。しかし、それが一過性の流行となるか、歴史の一ページとなるかは、まだこれからわかることでしょう」
「……いやはや、驚かされました。想像していたよりもずっと現実的な、地に足のついたお考えをお持ちだ」
「そうもなりますわ。だって、こんなところで立ち止まってはいられませんもの」
ダフネが微笑みとともにスコーンを割ると、エヴァルトはかすかに驚きを露わにした。
「14歳でそれだけの権勢を得れば、大抵の人は舞い上がることかと思いますが」
「大使閣下は私を高く評価してくださっているのですね。でも、それはおかしいですわ。だって、本当に私がそれだけの権勢を得ているのなら、わざわざ外交官に借りを作ってまで魔法技師を手配することにはならないでしょう?」
その少しわざとらしい驚きは、すっとたち消えた。
代わりに現れたのは、紳士的で穏やかな同情に隠された好奇心だった。その感情はまだ政治家として未熟なダフネにも確かに読み取れた。グリーングラス家にとって好奇心という針の筵はベッドのように慣れ親しんだ感覚だった。
「支持する声以外もお耳に届いている、と?」
ダフネはあえて返事をせず、スコーンにクロテッドクリームを塗った。
ドイツ魔法大使のおかげでガウェインに腕を作ってやることができた。それは確かだ。しかし、本来であればそれは闇祓い局内で手配されて然るべきものだった。
なぜダフネはエヴァルトの申し出を受け入れたのか。それは、スクリムジョールがダフネに政治戦を仕掛けてきたことを察知したからだった。
「腕を失った闇祓いは、私にとって家族同然の男ですわ。彼は私のために戦ってくれた。もし私が彼に報いることができなければ、彼の上司はそれをどう思うかしら」
「スクリムジョール局長は公明正大な方と伺っていますが」
そう、スクリムジョールは公明正大だ。しかし、同時に大きな善のために小さな犠牲を切り捨てることができる冷徹な為政者でもある。
もしもダフネがガウェインの腕を手配できなければ、スクリムジョールはガウェインを喪失したことを嘆いただろう。その嘆きはたちまちのうちに魔法省全体に広がる。魔法法執行部にはそれだけの影響力がある。
それは何を意味するか。
ダフネ・グリーングラスは自らに献身した魔法戦士に報いない魔女である。その風聞が広がるのだ。その風聞はダフネが勢力を魔法省内に伸長する妨げとしては重すぎる。
ガウェインがダフネとともに過ごしてきたことは世間にとっても周知の事実だ。そのガウェインが戦いで使い捨てられたと世に報じられれば、ダフネの立場は一瞬にして危ういものとなるだろう。
これは明確な、スクリムジョールからのダフネに対する攻撃だった。
「もちろん、彼は立派な闇祓いですわ。私も彼には助けられました。だからこそ、これからを生きていくためには
「……ええ、そうですな。お互いにお立場のある方どうしでは難しいこともございましょうが、そこをすり合わせていくのが社会というものでしょう」
スコーンにかぶりついたダフネを見て、エヴァルトは小さく笑った。
国内の政治戦を回避するために、ダフネは国外に借りを作ることとなった。小さな借りだが、それを軽視するのはあまりにも愚かなことだ。
ダフネの立場は決して磐石などではない。ウィゼンガモットへの影響力ではヤックスリーに及ばず、省庁内を支配するアンブリッジにも怪しい動きがあり、実働部隊の長であるスクリムジョールにも警戒されている。
だからこそ、ダフネにはこの壮年の魔法使いと良好な関係を築く必要があった。
「一度割られたスコーンも、ジャムとクロテッドクリームがあればより完全なものになる。魔法界もそうであると私は信じていますわ、エヴァルト様」
ダフネの言葉に微笑みを見せるこのドイツ魔法大使が何を望んでいるのか。
それを読み解けない限り、ダフネの道はより細く険しい隘路となる。時には道を間違えることもありえるかもしれない。そして、一度道を間違えたことが露見すれば、指導者としてのダフネは地位を失う。
その程度のことは、ダフネ・グリーングラスが諦める理由にはならない。
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